みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。子どもたちも一緒に礼拝しているでしょうか。今はこどもや互いの声を聞くことはできませんが、共に礼拝していることを覚えながら礼拝をしましょう。
私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んでいます。私たちの教会は全国300以上の教会と協力し、バプテスト連盟というグループを作っています。このバプテスト連盟ですが今、曲がり角を迎えています。
これまで連盟は、戦後アメリカから莫大な支援を受けてきました。その支援を基金として現在まで様々な活動を行ってきました。しかしあと数年で、その基金が枯渇する見込みとなりました。教会ごとにささげられる協力伝道献金のみで活動する、新しい体制が求められています。一方で、変化が求められているのは何もお金が無いということだけではありません。
近年の教会の状況は大きく変化してきています。多くの教会で、少子高齢化や財政の縮小などが起こり、これまでの教会の方針の転換が迫られています。さらにコロナ禍もこのような時に起こりました。今、各教会はどのような未来を目指してゆけば良いのかを必死に模索しています。
各教会が、どのような姿を目指してゆけばよいのか模索をしていますが、この問いに答えてゆくためには、自分の教会だけを見ていては答えがでないでしょう。各教会が互いの取り組みを学びあい、祈りあって、共に考え続けることによって、それぞれの教会に答えが出てゆくのでしょう。
そして連盟から送られてきた総会資料にはこのように書かれていました。「『キリストを証しする』とは『持っている者が持っていない者へ』という一方通行の証しではなく、教会自らが出て行って他者と共にキリストと出会い直し、共に福音にあずかってゆくこと」そのように書いてありました。
これからの連盟・教会は支援する側とされる側に分かれるのではないということです。連盟が教会を支援する、大きい教会が小さい教会を支援するという関係ではないということです。これから連盟・教会の姿を考える時、教会同士の相互の協力関係を築いてゆくことが大事だということです。
「支援する側とされる側が分かれてしまう」という事柄は各教会の中でも起きていることかもしれません。教会の中で、牧師と信徒の関係でサービスする側とされる側に分かれてしまうことがあるでしょうか。教会員同士で奉仕する人、される人に分かれてしまっていたかもしれません。あるいは教会と地域も支援する側とされる側に分けてしまっていたかもしれません。
これから私たちの教会の姿を考えてゆくうえで、ますます相互関係は大事になってくるでしょう。教会は助ける側、教える側、救う側だけにいるのではないのです。教会は地域の人々と、助け合い、互いに学びあい、祈り会う相互関係になってゆくでしょう。
私たちはこのように協力伝道から気づかされることがあります。私たちは助ける側にいるだけではないということです。私たちが救いを独占しているのではないのです。教会も助けられ、教会も共に救いを探している一人なのだということに気づかされるのです。
私たちは、共に学び、共に探す群れです。牧師と信徒が、昔からの信徒と最近信徒になった人が、教会と地域が、教会と連盟が相互に関係をしながら互いに探しあう、助け合う群れなのです。
そしてその時大事にしたいのは、小さいものからよく学ぶということです。社会で痛んでいる人々からよく学ぶということです。その人と出会い、協力し、その人から学ぶということを大切にしたいのです。そのことから私たちは福音とは何かを知ることができる、主イエスに出会うことができるのです。
神様は私たちを、そのような相互関係に招いてくださるお方です。神様は「あなたの正しさを世に知らせなさい」と言うお方ではありません。神様はあなたの弱さ、人々の弱さを、互いに知りながら、共に歩みなさいと言うお方です。そして神様は共に礼拝しなさいと招いておられます。そのように、神様は小さな私たちを相互関係、協力関係に招いてくださっているのです。小さき者との出会いに招いておられるのです。今日の聖書の個所もそのようなことが語られていると思います。
今日の聖書の個所を見てゆきましょう。今日の個所にある「人間を取る漁師にしよう」という言葉、実は私は少しこの言葉が怖いのです。この言葉はもしかすると、信者獲得の合言葉として理解されてきたかもしれません。教会が網を投げて信者を強引に獲得する姿も想像してしまいます。それはまるで、とる側、取られる側に人を分ける言葉のように聞こえます。
しかしマタイ福音書を読んでゆけばわかりますが、人を魚のように捕まえ、引き連れていくペテロ姿はどこにも見つかりません。むしろ、マタイ福音書の中で見つけるのは、主イエスにとらえ続けられるペテロの姿です。
「人間を取る漁師にする」と言われて、実はずっとペテロ自身がイエスにとらえ続けられていたのです。ペテロはイエスの愛の網から抜けようとしても、逃げることができませんでした。この言葉は拡大・成長・信徒獲得の合言葉ではありません。この言葉はイエスの「招き」を表している言葉です。
ここで現れていることはペテロの歩みが、このイエスの招きによって始まったということです。ペテロがイエスを選んだのではありません。イエスが一方的にペテロを選んだのです。ペテロの新しい人生が始まった場面、それはイエスに一方的に指名され、呼び出され、それに従ったことがスタートだったのです。
これが神様の招きです。私たち弟子のすべての始まりは招きです。神様は私たちを一方的に従いなさいと招いておられます。その招きからすべてが始まるのです。私たちの努力や決心が始まりではありません。まず初めて神の招きがあるのです。
そしてペテロは一人でイエスに従ったのではないということも見ておきたいことです。ペテロには仲間が与えられました。同じようにイエスに招かれた仲間です。ここでは3人が登場します。一人は兄弟アンデレ、さらにもう二人、イエス様は一緒に従う仲間を与えてくださるお方です。
この後、4人は共にイエスの歩みに従うことになります。共にイエスの話を聞き、共にイエスから逃げ出し、そして共に十字架を見ることになるのです。共に復活を見るのです。
一人で従ったのではありませんでした。一人で見たのではありませんでした。そして弟子たちの関係は、誰かが教え、誰かが助けるという一方的な関係ではありませんでした。
主にある相互関係がここからスタートしたのです。共に招かれた仲間、共に逃げ出した仲間、共に十字架を見た仲間、共に復活を見た仲間が与えられたのです。その主にある相互関係がここから生まれたのです。その関係は共に助け合い、共に学びあい、共に祈り会う関係でした。そのような仲間が主によって与えられたのです。
そしてそれは私たちも同じです。私たちにも主によって仲間が与えられています。主の招きによる仲間には上下はありません。する側、される側の分け隔てはありません。私たちには相互関係が与えられたのです。
イエス様に目を向けましょう。イエス様はどのように人々と関わったのかが書かれています。23節には、「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と書かれています。イエス様の活動は福音を宣べ伝えること、そして苦しみと思い煩いを持つ人々に会いにでかける活動だったのです。
それはガリラヤ中を回ったとあります。ただ待っていたのではありません。イエス様から出会いに出かけて行ったのです。困っている人が来てくださいというのではなく、どんどん出かけていったというのです。
そして人々の反応も書かれています。遠く離れた場所にまでその噂は広まりました。そして苦しみや痛みを持った人々が、互いに誘いあって、近くから遠くから、さらにイエス様の下に集まって来たのです。
これが教会の在り方ではないでしょうか。私たちはイエス様に招かれ従います。そして神様は仲間を与えられます。私たちは様々な苦しみをもった人々に出会いにでかけます。そして共にイエス様に出会い、ともに礼拝をするのです。
ここから私は教会に信者が多く与えられ、維持・成長してゆくことを読み取るのではありません。ここから私が読み取るのは、主イエス・キリストの招き、主イエス・キリストが仲間を与えられること、主イエスが苦しみのただ中に向かわれること、そしてその中からこそ礼拝する人が越されるということです。そこから福音が広がっていったのです。
私たちの連盟も、教会も、一人一人もそのようにありたいと願います。私たちは主イエスに招かれています。その招きに従いましょう。私たちには主イエスによって、仲間が与えられています。助け合い、学びあい、祈り会う仲間となってゆきましょう。私たちは福音を聞きながら、苦しむ人、患いを覚える人に出会いに行きましょう。そして癒しを共に主の前に祈りましょう。
私たちはそのような相互関係を教会の中で作りたいのです。そして他の教会ともそのような相互関係を作りたいです。そして地域ともそのような相互関係でありたいのです。お祈りいたしましょう。