【全文】「神の不服従運動」マタイによる福音書7章15節~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子供たちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。この後の水遊び会も楽しみにしています。

私たちは今、平和というテーマで聖書を読んでいます。ここまで沖縄の戦争のこと、基地の事、キリスト教の戦争責任のこと、前回は平塚大空襲のことを聖書から聞いてきました。どのようにお感じでしょうか。いずれにしても「神様は暴力・軍事力によらずに平和を実現しなさい。平和を神様からいただきなさい。」そう語っていると感じています。今日も神様からの平和をいただいてゆきましょう。

今世界を見渡して、一番平和について考えたいのはミャンマーの問題についてです。ミャンマーは近年民主化を進めていましたが、2月に軍によるクーデターが起きました。それ以来、民主化を求める人々への弾圧が続いています。軍事政権はデモ隊へ発砲し、逮捕し、拷問をしています。デモの参加者、数百人が亡くなったと言われています。

ミャンマーは第二次世界大戦後にイギリスの植民地から独立をした国です。独立には軍の影響力が大きかったといいます。中でも軍のリーダーだったアウンサンスー・チー氏の父親は英雄とされました。そしてそれ以降、長く軍による支配、軍事政権が続いたのです。軍によってイギリスからの独立にはうまくいったのかもしれませんが、軍によって成立した国は結局、軍によって支配されました。まだ平和は訪れていません。

ミャンマーでは特に少数民族の人々が軍の弾圧に苦しめられてきました。軍は独立以来、ずっと少数民族を力で弾圧してきたのです。ロヒンギャ問題が有名ですが、それ以外の少数民族もずっと弾圧を受けていました。

例えば弾圧されていたカチン族という人々は、私たちと同じバプテストの仲間です。日本でも教会に集い、礼拝を持っています。バプテストとして様々な交流を持っていた関係で、毎週金曜日オンラインで、平和のための祈り会が持たれています。私も先日参加をしました。

祈り会では「軍の国民に対する暴力はこのデモ以前からずっと行われてきた。軍は少数民族をずっと抑圧し続けてきた。だから国民に暴力をふるうことにもう慣れてしまっている。軍の抑圧の対象が、少数民族から、民主化を求める人々に変わっただけなのだ」そのようなことが分かち合われました。

軍による独立、それは一度は、平和のように見えたかもしれません。でもそれは本当の平和ではありませんでした。暴力はずっと続いていたのです。力で勝ち取ったものは、力で維持しようとされます。ミャンマーでは何度も民主化運動が起きていますが、その運動の度に軍によって力で抑え込まれています。少数民族はずっと力で押させつけられていました。

しかし、このような状況の中でもミャンマーには希望の光があります。それはミャンマーの人々が平和をあきらめていないということです。そして、非暴力運動によって、民主政権を造ろうとしているこということです。暴力ではなく、力ではなく、CDM(Civil Disobedience Movement)市民的不服従運動、非暴力による不服従という運動で新しい国を作ろうとしていることです。

人々は軍の支配に対して服従しないということを例えばデモ行進をすることによって、例えば職場をボイコットすることによって、例えば毎晩夜8時に鍋をたたくという活動によって、例えば指を三本立てるということによって表明しています。それがCDM市民的不服従運動と呼ばれます。

この活動、デモ参加者の多くは仏教を信仰している人々ですが、私はキリストの平和と多くの共通点を感じています。イエス様はどんなに危機的な状況においても、十字架においても、決して暴力によって問題を解決しようとしなったお方だったからです。イエス様は非暴力による平和を求め続けたお方だったのです。そして、それこそが私たちの幸いにつながることをよくご存じでした。十字架によって示されたこと、それはどんな暴力も神の愛を揺るがすことはないということだったのです。CDM市民的不服従運動に重なります。

始めは軍の力によって独立したミャンマーです。しかし、結局今、軍は人々を苦しめています。ミャンマーの人々は今度こそ、平和的な運動によって国を造ろうとしています。私はそれを応援したいと思います。軍に対して、より大きな力ではなく、平和的な活動によって、軍と軍事力への不服従によって、国を造ろうとすることを応援したい。それはイエス様と同じ非暴力運動だったのです。だからミャンマーの平和のために活動する人々を祈りたいと思っています。

今日の聖書箇所を読みましょう。15節には「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とあります。

聖書の書かれた当時、イエス様とは異なる教えを広める人々がいました。その人々をさして偽預言者と言っています。そして偽預言者はその共同体全体を間違った方向に導こうとしました。偽預言者は人々の心を神に向けさせようとしませんでした。人々の心を、自分に向けようとしたのです。そして神の共同体を自分の物にしようと、支配しよう、貪ろうとしたのです。そして偽預言者は偽りの平和を語りました。そこには平和がないのに、平和、平和と語ったのです。

17節~20節には、私たちはその実によって見極めることができるとあります。その実とは何でしょうか。私はその実とは、命ともいえると思います。命が守られ、命がはぐくまれているかどうかによって、偽物を見極めることができるのです。

あるいはその実とは人間の尊厳とも言えるでしょう。人間の命、尊厳、権利が守られているかどうかによって、偽物かどうかを見極めることができるのです。人気があるとか、共同体が成長するか、勢力が拡大しているかなどではありません。小さくても、弱くても、命が、尊厳が守られていることが大事です。よい木、よい共同体は人を生かすのです。

一方、軍は悪い木です。命を壊し、殺しています。人々の尊厳を奪っています。軍から良いものは出てきていません。「悪い木はよい実を結ぶことがない」とは、まさしく軍事力について言っています。軍事力によっては、よい実、命が守られる平和は生まれないのです。力によってでは、平和は生まれないのです。悪い木からは悪い実が生まれ、よい木かからはよい実がうまれます。軍事力から平和は生まれません。平和から軍事力は生まれません。

私たちは人々の命が守られているかどうかによって、人の権利と尊厳において、よい実かどうかを見極めることができるのです。

軍の姿ははじめは良いものに見えたかもしれません。独立した時、軍の将軍を英雄としてかもしれません。平和の象徴である羊のように見えたかもしれません。しかしそれは後々、本当は狼だったということがわかります。狼は命を奪う者の象徴です

人の権利と尊厳という視点からミャンマーの軍事政権を見る時、それはずっと悪い木だったのではないでしょうか。軍は人の命、少数民族の命を奪い続け、尊厳を奪い続けてきた。悪い木だったのではないでしょうか。私たちはそれを見極めたいのです。そして平和的な運動によって、命を守りながら、新しい国へ、命を守る国へと変わっていってほしいと願います。

イエス・キリストを覚えます。イエス様は神の子羊と言われたお方です。イエス様は羊と呼ばれたお方でした。平和の象徴であるお方でした。イエス様は私たちのリーダーですが、軍隊を率いなかったリーダーでした。イエス様は軍事革命、クーデターのためにエルサレムに来たお方ではありません。イエス様は愛によって世界を変えようとエルサレムに来たお方でした。平和的な運動によって人々を従えた人でした。私たちもこの羊につらなりたいと思います。偽預言者に、羊の皮をかぶった狼に従うのではなく、羊に従う者、神に従う者、平和に連なる者でありたいと思うのです。

そしてミャンマーの人々もいまそれを必死に行っているのでしょう。彼らも市民的不服従運動によって非暴力平和運動によって歩んでいます。私はその実現も祈っています。

23節には「不法を働くものども、私から離れされ」とあります。実はイエス様こそ不法を働く者といって、十字架にかけられ、殺されたお方です。私たちは主イエスからいただく命の尊厳に立つとき、時に国の決定に逆らう者、反対する者、不法を働く者と呼ばれることがあります。なによりイエス様がそうだったのです。そしてデモ参加者の多くも不法な者といわれて逮捕されています。

しかしそこで私たちは本当の不法な者が誰であるのかを見極めたいのです。何かに反対をする時、不法と呼ばれることがあるかもしれません、最初は向こうの方が正しいように見えるものもあるでしょう。でも本当の不法は何かを見極めたいのです。神はそれを見極め、本当の不法を犯すものに離れされと語ります。

私たちの教会にも当てはめます。私たちの教会は偽預言者に騙されてないように気を付けましょう。それを命と尊厳が守られているかどうかによって判断してゆきましょう。牧師が間違えるときがあるでしょう。教会が間違える時があるでしょう。世界が間違える時があるでしょう。羊の皮をかぶった狼に気を付けたいのです。よい実、命からそれを見極めてゆきたいのです。

私たちは世界の平和を覚えます。平和が訪れるように祈りましょう。それは軍事力ではなく非暴力の運動によって実現されるはずです。神様にある、本当の不法への不服従運動によって実現されるはずです。それは神様からいただいたよい実、命と命の尊厳によって見極めることができるはずです。

教会で、そしてミャンマーで、世界で、非暴力による平和、不法への不服従、軍事力への不服従が起きるように共に祈りましょう。お祈りをします。