「みんな礼拝しようよ」イザヤ書25章6節~10節

 

万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒          イザヤ書25章6節

 

先週から礼拝というテーマで宣教を続けています。コロナの中、この会堂に集まって礼拝するかどうかを決断することに対して「人間が決めることなのだろうか?人間にそんな権利があるのだろうか?」という葛藤がありました。しかしコロナを通じてより明確になったことは、礼拝に集まるか、集まらないかは人間、私たち一人一人が決めることなのだということです。

礼拝は私たち人間が勝手にしているのではありません。そこには先立って神様の「招き」があるのです。礼拝するかどうかを決めるのは自分ですが、でも私たちは何よりまず先に神様から招かれています。すべての人が神様から礼拝へと招かれています。私たちが礼拝している事、それは神様の「招き」への「応答」と言えるでしょう。礼拝堂で一緒に礼拝できなくとも、どこで礼拝をしていても招きは同じです。神様はすべての人を礼拝に招いています。そして集うことができたとき、豊かに神様の招きと応答を感じることができます。慌てて会堂に来る人を見て、神様の招きと、精一杯の応答を感じるのです。

今日の箇所をお読みしましょう。神様は礼拝へと招くお方です。聖書の中で神様の招きは、よく食事会の招きに例えられます。6節の山は礼拝する場所をさすことが多い言葉です。主はこの山で祝宴を開くとは、神様が礼拝に人々を招くということを示します。そこでは受け取ると力が湧いてくる食べ物が用意されているのです。礼拝し、み言葉が、私たちの生きる力の源となります。生きる糧となるのです。

すべてという言葉が繰り返されています。神様の招きはすべてに対してなのです。

国籍も、人種も、信仰も関係ありません。すべての人とは、すべての人です。神様はその礼拝で涙も失敗も失望もぬぐってくださるお方です。私たちは涙を流した姿のままで招かれているのだから、そのまま礼拝すればよいのです。神様が涙と失望をぬぐってくださるからこそ、礼拝から新しい1週間のスタートをきることができるのです。神様の手はその山にとどまるとあります。神様は必ずそれぞれの礼拝の場所に、私たちの礼拝する場所に共にいて、とどまってくださるお方です。

今日ここに集っている方は、この招きをよく実感できるでしょう。みなさんもこの平塚バプテスト教会の礼拝という山に招かれ、そしてご自身で決断し登ってこられたお方です。そこでみ言葉をいただき、涙をぬぐわれ、喜び歌います。前後左右には同じように招かれた仲間を感じることができます。礼拝とはそのような招きです。集うことができない方も、同じようにそれぞれの場所での礼拝に招かれています。集えずとも一緒にその招きを感じ、礼拝をしましょう。

礼拝は神様の招きです。神様は「みんな礼拝しようよ」そのように、みんなを招いておられるお方です。その招きに応えて一緒にみんなで礼拝をしてゆきましょう。