【全文】「シャロームは丸」マタイによる福音書5章1節~11節

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

マタイによる福音書5章6節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。今日はこの礼拝を平和祈念礼拝として持っています。平和を覚えて共に礼拝をしてゆきましょう。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもと一緒に平和に思いをめぐらせる、子どもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。

 

今日は8月15日終戦記念日でもあります。私たちの祈る平和とは何でしょうか。私たちはどんな平和を祈るのでしょうか。日本語で平和と言えば、一番は戦争が無い事を指すでしょう。日本語で平和といえば、戦争がない状態を指す言葉です。

 

そしてだからこそ日本において平和という言葉は「安全保障」という言葉と混同されています。自分たちが戦争に巻き込まれないことを平和というのです。その意味において、日本は平和と言えるでしょう。直接戦争をしていませんし、侵略もされていません。巻き込まれていません。日本は平和です。

 

一方、聖書の「平和」にはもっと広い意味があります。聖書の「平和」はヘブライ語でシャロームという言葉です。ヘブライ語の平和・シャロームにはいろいろな意味があって、単に戦争がない状態を指すだけではありません。もちろんシャロームには戦争がない平和という意味もありますが、この言葉はもっとダイナミックな動き、動作を現す言葉です。波が立たない、何も起きない、なぎの状態を言うのではなく、激しい動きを示す言葉です。

 

さらにこの言葉には平等という意味があります。格差や社会の不公平、不当な差別が正しくされ、平等になるという意味です。いままでの上下がひっくり返るような激しい平等・公平への動きがシャロームです。シャロームとは何もない、穏やかな様子ではなく、動作、動き、プロセス、逆転現象、ダイナミズムです。それがシャロームです。

 

聖書の平和・シャロームとは例えるなら丸です。週報にも図を載せています。でもこの丸は歪んでいます。飛び出している個所と、押し込められている個所があります。シャロームとは、このゆがみがなくなり、完全な丸になる動作のことです。完全な丸になろうとするその矢印の力がシャロームです。きれいな丸になっていくプロセスがシャロームです。ちょうど風船から手を離すと丸くなる様子に似ています。

 

全員が満たされること、抑えつけられる人がいないこと、人権が侵害される人がいないこと、それが回復されてゆくことも含めて、平和なのです。それがシャローム、聖書の平和です。人を見下す人が同じ目線に、低い目線に立たされていくこと、それがシャローム、聖書の平和です。格差や差別や、偏見や暴力、抑圧に抵抗すること、丸になってゆくこと、それが聖書の平和、シャロームなのです。

 

日本は平和かもしれません。でも、聖書に立って日本や世界が平和か、シャロームかを見るならば、全くそうではないでしょう。戦争はしていないけれども、日本の社会を見れば、シャロームではありません。

 

格差、偏見、暴力、ハラスメント、無責任があふれています。私たちは真の平和、シャロームを求めます。戦争しないだけではありません。それ以上に公正で平等な社会、あらゆる暴力の無い社会を求めていく、いつもその動きがある、それがシャロームなのです。

 

そして、その時に大切にしたいことがあります。私たちがこの丸のゆがみを見る時、どこからゆがみを見るかということです。この丸には十字架があります。イエス様の十字架、それは最も低い場所に起きた出来事です。暴力と偏見に満ちた、もっとも低い場所で起きた出来事、それがイエス・キリストの十字架でした。

 

この丸の最もへこんだ部分にあったのが、十字架なのです。私たちはこの丸をどこから見るか、中立的にみるのではありません。私たちは十字架のある場所から見るのです。弱くされ、小さくされている人々のいる場所から見るのです。十字架がある、そこから私たちはこの世界が丸いかどうかを見てゆきたいのです。

 

イエス様はこのシャロームを繰り返し語ったお方です。今日の箇所からイエス様の語る平和、シャロームを見てゆきましょう。 

今日の場面はイエス様の山上の垂訓と呼ばれる何度も読んできたお決まりの箇所かもしれません。しかし、平和・シャロームの中でこの話を聞いてゆきましょう。

 

当時、山上の垂訓を直接聞いていた人、イエス様に従っていた人々は、貧しい人々だったと言われます。極貧の人だったと言われます。もともとみんな激しい税金の中で暮らしていました。自分の土地がある人は、そこから離れることはしません。イエス様に従った人とは、自分の土地がない人、あるいは土地をもっていたが借金の代わりに奪われてしまった人、財産を失った人、そのような人が多くイエス様に従っていました。

 

イエス様に従うということは、住み慣れた地域を離れるということも含みます。それを選択した人の中には、病気などからおこる差別に悩んでいた人もいたでしょう。差別に苦しみ、場所を変え、イエス様に従った人々がいました。

 

この1節にある「群衆」とはそのような人々です。イエス様の魅力に感動して従った人だけではありません。搾取され、傷つき、失意の中にいた人々がたくさんいました。社会の中の最下層、底辺、いわば谷の底の部分にいた人々が従っていたのです。

 

3節からのイエス様の視点は、その丸の底からの視点です。十字架の視点です。山の上から語っていますが、その視点は谷の底にあります。イエス様はこの谷は起こされ、山は平坦にされる、きれいな丸になる、そのように平和が起こるとここで語っています。

 

3節には心の貧しい人は幸いだとあります。心が貧しいとは、心が狭いとはすこし違うと思います。心の貧しい人とは今まさに、へこまされている心のことです。貧しさや困難で、心が疲れ切った人です。イエス様はその疲れた人々に、幸いだと語り掛けています。

 

イエス様が幸いだと言っているのは、その谷は必ず満たされ、回復するからです。そこにこそ神様の力が働くから、シャロームの力が働くから、幸いだと言うのです。天の国とは、今へこんでいる、へこまされている、困難がある、あなたたちのものになるのだと言うのです。

 

イエス様は疲れた心は必ず、シャロームになると、そう希望を語っています。4節も同様です。悲しむ者は必ず慰められるとあります。回復され、丸になるというイメージです。悲しみは必ず、神様によって、励ましと回復をいただく、シャロームになるということです。

 

5節にある「柔和」とは難しい言葉ですが、謙遜と同じ意味です。つまり上から目線にならないで、自分を低い場所に置き、相手の話をよく聞くことを意味します。上から物を言うのではなく、下から聞く人、それが柔和な人です。イエス様は谷の底の声をよく聞くお方でした。神様は、そのような柔和・謙遜な人に祝福を与えるお方です。

 

6節には「義に飢え渇く者」とあります。それは不公平、不平等、差別にあえぐ人たちのことです。正義が欲しい、平等と公平が欲しいと、水を求める人のように、願う人です。イエス様はそのような人に言います。必ずあなたにシャロームが起こる、その渇きは満たされる、丸くなると言うのです。7節、そのシャロームの実現のために、憐み深さを出す人々も、神様は幸いだと宣言をしています。

 

9節には平和という言葉そのものがあります。シャロームを実現する者こそが、神の子なのです。10節、義のために迫害されている人とあります。それはシャロームのために働くけれど、なかなかうまくゆかないという人です。でもその人にも必ず幸いが訪れるというのです。そこに神様の力が与えられ、丸にもどす力が与えられるのです。

 

シャロームは戦争がなくなるということだけではありません。社会の中の様々なでっこみ引っ込みに、公平、平等が実現する、それがシャロームです。そしてイエス様はそれが必ず起こると約束をしています。そしてそのための力を私たちに与え、そのために働く者を神の子と呼ぶのです。

 

大事なことは、イエス様の視点が丸の底からみていることです。貧しい人、悲しむ人、義に飢え渇く人。谷の底にいる人たちの視点で見ていることです。そして必ずそれが回復すると約束をされています。平等になっていく、満たされてゆく、その力が人に与えられてゆくということを約束している、それがイエス様の言葉です。私たちはシャロームを約束されているものです。そしてシャロームのために力をいただいている者です。

 

そして私はイエス様こそシャロームであるお方だったといえると思います。まさにイエス様の歩みが十字架と復活がシャロームという動的な、ダイナミックな動きの中にある出来事だったと言えるでしょう。イエス様は神の身分でありながら、地上に生まれ、もっとも低い場所、十字架に行かれました。そして復活をされたお方です。

 

このイエス様はへこんだ場所に、へこんだ時にそこにおられるお方です。そしてそれを押し戻し、どのような悲しみも、不平等もすべて丸くする、その力を私たちに与えて下さるお方です。イエス様はシャロームであるお方なのです。

 

私たちは、イエス様からシャロームの希望をいただきましょう。戦争しないだけではない、私たちの社会の中で苦しむ人が回復されていく希望です。そのための力です。私の苦しみの底に、共におられ、回復の力を与えて下さるという希望です。その力、シャロームを神様は約束をしてくださっています。

 

私たちは神様からシャロームのための力をいただきましょう。そしてそのために繰り返し、イエス様の十字架と復活に目を向けたいのです。シャロームの物語を聞いてゆきたいのです。そのシャロームである方を覚えましょう、そしてそのシャロームを今日も祈り、礼拝をしましょう。その約束を喜ぶ礼拝を今日も持ちましょう。お祈りします。