【全文】「私たちを派遣する神」マタイによる福音書10章16節~25節

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。マタイ10章16節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。先週はお休みをいただきました。信徒の方に宣教のご奉仕をお願いいたしました。生まれて初めての宣教の奉仕だったそうです。どのようにみなさんに響いたでしょうか。

宣教はどのような内容が語られたのかといこうことと同時に、どのようにそれが受け止められたのかが重要です。皆さん自身はどう聞いたでしょうか。

今日の聖書の箇所の19節~20節には語るべきことは、神様が示してくださるとあります。宣教あるいは証しもそうですが、祈りながら、神様の示しを聞きながら、語ることが大事です。まずよく聞くこと、そこから語ることが大事です。

この聖書箇所をもとに、宣教の準備はいらない、講壇に立って示されたことを語ればよいと解釈する人もいます。私自身は聖書にこう書いてあったとしても、誠実な準備と、祈りの中で、神様の声を聞くことが大事だと思います。時間をかけて宣教の言葉を紡ぎ、煩って、煩って証しと宣教の言葉となってゆきます。よく聞き、よく語ってくださったことに感謝します。そして何より、神様の言葉に感謝します。ありがとうございました。

8月は礼拝というテーマで宣教を続けています。合計3回の最後の1回です。これまで、礼拝は変わり続けること、礼拝はすべての人が招きを受けていることを見てきました。今日は最後ですが、礼拝は派遣されることだということを聞きたいと思います。神様は礼拝から私たちを派遣されるお方です。私たちは神様から礼拝に招かれる、そして礼拝からまたそれぞれへの場所へと派遣されます。私たちはこの招きと派遣の循環の中で生きているのです。

それは礼拝の中でもよく表されています。礼拝の最後の方には祝祷があります。これは私が神に成り代わって皆さんに特殊な能力を与える儀式ではありません。祝祷は祝福と派遣の祈りです。神様が1週間、私たちと共にいていくださるという喜びの宣言と、神様が私たちをそれぞれの場所に派遣されることの宣言です。私たちの礼拝は毎回、この祝祷で終わります。この祝祷によって、私たちは神様によって礼拝からそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。

神様はそれぞれの場所で、神様を愛し、隣人を愛し、神様に仕え隣人に仕えるように私たちを派遣されます。神様はこのように招き、派遣されるお方です。

この1週間はどんな1週間になるでしょうか。小学校は明日から始まります。一番こどもたちにとってはしんどい1週間かもしれません。夏休みが終わる、新しい学期が始まる1週間です。緊張や大変なことがたくさんあるでしょう。でも大丈夫です。神様はみんなにいってらっしゃいと言っています。そして一緒にいるよと言っています。でももししんどかったら教会に逃げてきてもいいです。

大人にとってもこの1週間はどんな1週間でしょうか。大人だってうれしい事ばかりの1週間ではないでしょう。しなければならないことがたくさんあるでしょう。なんだか忙しい1週間でしょう。うれしいこともきっとたくさんあるけれど、いろいろなストレスを感じることもある1週間でしょう。

私たちの決心や忍耐は弱いものです。でも神様が背中を押して行ってらっしゃいと言ってくれるから、私たちは1歩目を歩み出すことができます。神様から派遣される、神様から力をいただき歩む、その1週間を始めましょう。そしてまた来週の日曜日の礼拝に集いましょう。

今日は弟子たちが派遣される話を福音書から聞きます。この個所から1週間の希望をいただきましょう。弟子たちもまた、決して楽しいだけではない時を過ごすことが予告されています。弟子たちもしんどい1週間になりそうです。喜びと栄光が待っているだけではなさそうです。でも神様は、弱い弟子たちを派遣します。その物語を聞いてゆきましょう。

 

 

今日の場面、イエス様が12人の弟子たちを派遣するという場面です。しかし、派遣される先はかなりしんどい状況です。17節、とらえられて、裁判所に連れてゆかれます。不当な裁判を受けるということです。そして会堂で鞭を打たれます。18節、総督や王の前に引き出されるとあります。22節、あなた方はすべての人に憎まれるとあります。

こんな場所には絶対派遣されたくありません。弟子たちは考えるだけで悲しい、苦しい現実に派遣されるのです。21節そこにはきょうだいが殺し合うような現実があります。親子が殺し合う現実の中に弟子は派遣されるのです。

こんな場所には絶対派遣されたくありません。弟子たちにとって、行けばどうなにかなる、楽しもう、きっと大丈夫という状況ではありません。どれだけ楽しもうとしても、やはり苦しい現実が待っているのです。

イエス様は厳しい現実を前にする時、どのように生きてゆけばよいかを教えて下さるお方です。イエス様は弟子に、そのような苦しみにあったときどう対処すべきかを今日教えています。

まずそれは18節「彼らや異邦人に証しをする」ということです。12人の弟子たちは派遣された場所で、証しをするように勧められています。証しをするということは喜びの中だけではなく、苦しみや悲しみ、痛みの中で、神様を周囲へと表してゆくことです。喜びや苦しみがあるさ中にあって、弟子たち自身の態度と言葉で神様の愛を表現すること、それが証しをするということです。

証しをするとは、弟子たちが困難に出会う時どんな態度をとるかということです。弟子たちは困難にある時、相手を傷つけて、誰かを犠牲にしてそれを解決するのではありません。苦しいときこそ、傷付けあうのではなく、愛し合うということを選びます。それが愛の神を証しするということです。

19節、その時12人の弟子がどんな態度で、どんな言葉を語るべきかは聖書が教えてくれるとあります。どのような態度をとるべきか、それは神様が教えてくださることです。弟子たちに必要なこと、それはよく聞くことです。そして最後まであきらめないことです。愛し続けることです。弟子は聞き、耐え、愛するのです。

もちろん、弟子たちはもうこれ以上無理と思うこともあるでしょう。しかし神様はあなたがたはそこに派遣されたのだから、絶対に持ち場を離れるなとは言わないお方です。23節を見るとイエス様は「他の町へ逃げなさい」と言っています。そうです。最後まで愛し続けることが、どうしてもうまくいかない時があります。その時の神様の命令は「逃げなさい」です。他の町に逃げるのです。逃げることも大事です。学校や職場、家庭、絶対そこから逃げちゃいけない場所なんてありません。生きるために逃げることも、時には大事です。

弟子たちはだめなら次の町へ逃げるように言われます。そしてそこもまただめなら、また次の町へと逃げるように言われます。逃げて逃げて逃げるのです。そして逃げる場所がなくなることはありません。イスラエルの町に逃げ場所が無くなる前に、イエス様が来てくださるのです。

その苦難には必ず終わりがあるということも示されているでしょう。いつまでも苦しみが続くのではないのです。イエス様が来られ、それが終わる時が必ず来るのです。

ここまででイエス様が12人の弟子に言われていることは、苦難の中にあっても愛し続けなさいということです。そして時には逃げることもあるということです。

そして24節、弟子たちの目指すのは、師に勝ることではないともあります。師とはイエス様のことです。弟子たちの目指すのはイエス様を超えることではありません。

25節、弟子は「ようになれば十分」なのです。イエス様のようになることはハードルが高いことのように聞こえます。でもそれは弟子はイエス様になれと言っているのとは大きな違いがあります。弟子は師になる必要はありません。弟子は弟子のままでいいのです。弟子は弟子として、イエス様の「ように」なれば十分なのです。それはいわばイエス様を真似するということです。できるだけイエス様に近づいてゆくことです。精一杯の愛を示すことです。弟子はそれで十分なのです。

このようにイエス様によって弟子たちは派遣されます。苦しみの中に派遣されます。そこで証しをするように、愛し仕えるように派遣されます。どうしてもだめなら逃げてもいいと派遣されます。そしてできるだけイエス様の真似をして生きてごらんそうやって、12人の弟子たちは派遣されていったのです。

ここに出てくる12人の弟子、私たち一人一人もこのようにイエス様から派遣される者です。私たちはこの礼拝から派遣されます。しんどい1週間かもしれないけれど、その時こそあなたの態度が問われるよ、その時こそ証しする時だよ、愛し、仕える時だよ。イエス様はそう声をかけてから私たちを今日、派遣されます。

そしてもし私たちが超えられない壁に出会う時、乗り越えられない時、その時は逃げなさい、何度でも逃げなさいとイエス様は私たちを派遣されます。その苦しみは必ず終わる、神様が私たちに必ず来る、そう語って派遣します。イエス様のように、イエス様の真似をして、できるだけイエス様に近づけて1週間やってごらん。それであなたの1週間は十分だよ、そう今日の箇所は語っています。

私たちの1週間はこのようにはじまります。今日この礼拝から派遣され1週間が始まります。皆さんは神様からそれぞれの場所に派遣されてゆきます。それぞれが派遣された場所で神に仕え、隣人に仕えましょう。神様を愛し、隣人を愛しましょう。そしてダメな時は逃げましょう。できる限りイエス様を真似して、生きてみましょう。

私たちは今日もそのような1週間に派遣されます。そしてまた来週集い、神様から力をいただきましょう。礼拝はすべての人を招かれています。そして礼拝から派遣されます。神様のみ言葉を胸に、今週も歩みましょう。お祈りをいたします。