「最後じゃない晩餐」ルカによる福音書24章28節~36節

 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。             ルカによる福音書24章30~31節

 

主の晩餐式について一緒に考えています。1回目は主の晩餐とは十字架を覚えて持つと言うこと、前回は主の晩餐は誰かを置き去りにしていなかを吟味するものだということを見ました。今日は3回目です。最後の晩餐という言葉がありますが、今日の箇所によれば実はあれは最後ではありません。復活後も主の晩餐は繰り返し続くのです。今日はその、エマオの途上という物語の後半部分です。

二人は失意のうちに、そして不思議な出来事への疑問のうちに家へと向かっていました。そこには、一人寄り添って歩く人が与えられました。そしてこの人との食事が始まったというのが今日の場面です。30節には「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これはイエス様の過越の食事、いわゆる最後の晩餐の際とまったく同じ言い回しです。明らかにこの食事では主の晩餐が行われました。ここでの主の晩餐にはどんな特徴や意味があるでしょうか。主の晩餐は様々な場面で行われますが強調点がそれぞれ違うのです。

今日の主の晩餐の場面では「イエス様は死んでもなお、私たちと共にいる」ということが強調されています。イエス様は十字架にかかられ、その後、復活をされました。そのイエス様は気づかれないほどにそっと寄り添い、聖書を解き明かして下さるお方でした。それに気づくのが主の晩餐の時なのです。そこで示されるのは、主イエスが私たちの気づかない場所で、私たちと共におられ、私たちは主の晩餐でそれに気づくということです。今日の物語がまさにそうです。このことを二人は主の晩餐によってはじめて実感することができました。

イエス様はいろいろなメッセージを主の晩餐に込めています。私たちそれを豊かに受け取ってゆきたいのです。私たちは毎月主の晩餐を持っています。そこでイエス様の十字架を覚えます。でも主の晩餐の意味はそれだけではないでしょう。イエス様が復活してもなお、私たちと伴い、私たちに教え、目を開かせ、信仰へと導いてくれる、そのことも主の晩餐で覚えましょう。

そして神様はそこから信仰の仲間を与えてくれるのです。互いに出会ったイエス様を証しあう仲間です。イエス様の主の晩餐とは失意や疑問を持った人々を結び付けるのです。そしてその分かち合いをしている時、36節「こういうことを話していると、再びイエス様が真ん中に現れた」とあります。イエス様は集められた人々の真ん中に、現れて下さるのです。

私たちはこの主の晩餐を大事に守ってゆきましょう。私たちは主の晩餐で主イエスの十字架を覚えます。私たちの共同体を吟味します。そして主イエスが復活し私たちと共にいるこのことを覚え、次の主の晩餐をいただきましょう。