【全文】「福音のためのバザー」マルコ10章18節~31節

「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  マルコ福音書10章34~35節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

今日の聖書箇所を読んで、どうお感じになったでしょうか?キリスト教は全財産を教会に寄付しないと、本当の信者とはいえないのでしょうか?キリスト教は全財産を寄付するように私たちに求めているのでしょうか?もちろん私はそうではないと思います。あなたの全財産を寄付しないと、イエス様に従うことができないということではありません。ご自分の財産はご自身や家族の生活のためにどうぞ使ってください。

みなさんは様々な苦労を乗り越えてその収入や、その財産を築かれたことでしょう。それは一番には本人の努力によって、築き上げた財産です。一生懸命働き、一生懸命節約し、蓄えてきたものでしょう。そしてもし今は多少の余裕があるとしても、それは将来をために、少しでもとっておかなければならいないものでしょう。ですから、ご自分の財産はご自分のために使ってください。その使い道は、皆さんが決めるものです。

しかし、立ち止まって考えたいのは、その財産は本当に自分だけのものかどうかということです。その財産は本当にあなただけの力によって築いたものでしょうか?その財産は様々な影響のもとにつくられてきたはずです。学校を卒業してたくさんの奨学金という借金を抱えてスタートする人がいます。一方、借金なしにスタートする人もいます。親の都合によって左右されるでしょう。就職する時の景気によって、安定した就職が叶わない人々、専門的な訓練を受けることができなかった人がいます。一方、景気の良い時期には多くの人が職に就き、自然に賃金が上がりました。いろいろな環境のもとで築いた財産は、決して自分だけの努力で作ってきた財産ではないはずです。

私たちの持つ財産、あるいはちょっとした貯金や、ちょっとした収入は、どこかで誰かに支えられて、受け取ることができたものでしょう。もしそうだとしたら、それを自分のためだけではなく、誰かのために、何かのために献げたい、返したいと思うものではないでしょうか。

その収入の一部はきっと、もともと私のものではなかったからです。私のものだったら私が自由にします。でもそれは元々私のものではなかったのでしょう。それはきっと誰かに返さなければならないものなのです。だから私の財産であっても、私のためだけに使うのではないのです。それは最近よく話題になる所得の再分配ということとも通じていると思います。

今日はこのあと私たちはバザーの準備を予定していします。バザーで販売するのは、中古の衣料品や物品です。商品を買って仕入れたものではありません。教会員や、近所の方々や、様々な人たちが持ち寄って、下さったものです。まさしく、もともと私たちのものではなかった物がそこで売られます。もともと私たちのものではなかったので、この収益は私たちのものとはしません。これらの収益は世界や地域の人たちのために、困窮している人たちのためにすべて寄付されます。あるいは寄付というよりもそれを「返す」といった方が近いでしょうか。これは再分配の交わりです。この交わりを準備と当日、一緒に楽しみながら、やってゆけたらと思っています。

バザーの収益はペシャワール会、日本飢餓対策機構、フードバンク湘南などに送られます。ペシャワール会はアフガニスタンで灌漑用水路を作り、農地回復の取り組みを続けてきた団体です。中村哲さんが有名です。日本飢餓対策機構は世界の食糧問題に取り組む団体です世界中で毎年9万人を支援しています。フードバンク湘南は企業や個人から食材を譲り受け、平塚市内を中心に生活に困窮する人々約2000世帯へ食料を届けている団体です。どれくらいの売り上げになるか、決して大きな金額ではありませんが、売り上げをそれぞれの団体に再分配する予定です。私たちはそのようにそれを返します。

教会はなぜこれに取り組むのか、それは福音のためです。持っているものを売り払って、貧しい人と分かち合い、従いなさいという福音のために、このバザーをしています。受け取ったものを自分のものにするのではなく、分かち合います。今日はそのことを聖書から聞いてゆければと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

 今日の聖書箇所を読みましょう。あるところに金持ちの男がいました。当時の金持ちとはどんな存在でしょうか。一生懸命頑張って金持ちになった人もいたでしょう。しかし当時は身分や格差が固定されていた時代です。ほとんどの金持ちは自分の努力ではなく、もともと豊かな家に生まれ、親の財産を相続することで、金持ちになりました。

この金持ちは、どのように金持ちであり続けたのでしょうか。それは多くの場合、貧しい農民からの搾取によってでした。大きな土地を持ち、そこで農民を不当に安く働かせ、大きな利益を得たのです。金持ちといっても本当は貧しい人々から労働力を奪って得たお金でした。その蓄えとは本来、金持ちのお金ではなかったはずのものです。本当は今、貧しく暮らしている人に返さなければいけないものでした。

そんな金持ちの彼がイエス様を訪ね、求めたものは17節「永遠の命」でした。1日のパン、1日1日の命を守るのがやっとという人々がいる一方、金持ちは永遠の命を求めたのです。そしてイエス様はその金持ちに言います。21節「従う前にまず、すべての財産を売り払い、貧しい人々に与えるように 」と命令したのです。

イエス様は金持ちに、貧しい人々から巻き上げた財産を返すように命令をしました。そのすべての財産が、人々から搾取したものであれば、そのすべてを返すように命令したのです。永遠の命を受け取ろうとする前に、まず自分の財産をよく見て、返すように、再分配するようにと命令をしたのです。それが貧しい人々と分かち合うようにという命令でした。

しかしこの金持ちにはそれができませんでした。イエス様の前から悲しみながら立ち去ってしまったのです。イエス様に従うことができませんでした。イエス様に出会っても、従えずに去ってゆく人、聖書にはとても少ないのですが、金持ちは従うことができませんでした。

金持ちは貧しい人々にその財産を返すことができませんでした。自分が持っている財産、自分が受け継いできたものは、どこまでいっても自分の物だと考えたのです。彼は返すこと、再分配を拒否したのです。金持ちは分かち合えない自分の弱さ、それを返すことのできない弱さをよく理解していたでしょうか。悲しみながら、葛藤しながら、自分の家へと帰ってゆきました。

私はこの話を、富を独占する者に向けた話と聞きました。すべての人が全財産を貧しい人に分かち合わなければ、従うことにはならないとは思いません。聖書は、自らの財産は自らの力によってのみで作られ、自分のためだけに使うものだという考えを批判しているのでしょう。聖書はその財産の中の大部分は本当は分かち合わなければいけない、返さなくてはいけないものだと語っているのです。

そしてイエス様はそれをできない人間の弱さ、罪もよくご存じでしょう。私たちの社会でそれを実現することはとても難しいことです。イエス様はこの出来事に驚いている弟子たちに向けて語ります。25節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。ラクダとはイスラエルでもっとも身近で、大きな動物です。その大きな動物が針の穴を通るほど、金持ちが神の国に入るのは難しいと言うのです。

つまり自分の持っているものを十分に分かち合うことはとても難しいものだということです。どうしてもその財産を自分のものだとしか考えられないということです。悲しいほどにそれを痛感しても、分かち合うことができないということです。

でも私たちのバザーがまったく人々から持ち寄られたものであるように、自分のもののように感じていても、本当はそうではないものがたくさんあるのでしょう。

イエス様は財産を手放すことの難しさ、分かち合うことの難しさ、富を独占する人の罪、搾取を生む世界の罪を鋭く語っておられるのではないでしょうか。いかにそれが人間にとって難しい問題であるかを示しているのでしょう。

私のものは私のもの。私の自由にします。でも聖書を通じ、それは本当に私のものかを問い直します。イエス様は財産をすべて売り払って、貧しい人と分かち合ってから従えと命令します。

きっと私のものと思っている多くのものが、私たち自身も、誰かから受け取ったものなのでしょう。そしてそれは持っている人から、必要としている人に、返すべきものであるのでしょう。それは本当に難しいことです。27節「人間にできることではない」のでしょう。しかし同時に27節「神にはできる。神はなんでもできる」お方なのです。その福音を聞いた私たちは、きっと何かを分かち合うことができるはずです。

私たちがイエス様に従うことを妨げるのは、自分ががんばった、自分だけの成果、すべて自分の財産という驕りです。イエス様の福音はそこから私たちを解放してくださる、良い知らせです。福音は私たちの財産も命も、誰かからいただいたものだと語ります。それを返し、従う。それが私たちの聞いている福音ではないでしょうか。バザーをそのような分かち合い、福音のためのバザーとしたいと願います。

イエス様の命令は、21節に3つあります。売り払いなさい、与えなさい(施しなさい)、従いなさいです。ともに売り、与え、イエス様に従ってゆきましょう。お祈りいたします。