【全文】「『なぜ』と共にいる神」マタイ27章45節~47節

イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイ27章46節

 

みなさん、おはようございます。今日は12月最後の礼拝から、3カ月ぶりに皆さんと集うことができました。本当にうれしく思います。様々な顔を見る事ができ、本当にうれしいです。お互いを感じながら礼拝をすること、一緒に集まって礼拝できることはなんと素晴らしい事でしょうか。「わたしたちがここにいるは、すばらしい」と今日は大声で言いたいと思っています。一緒に喜びましょう。

私たちはこどもをたいせつにする教会です。こども達の声を聞きながら礼拝するのも久しぶりです。子ども達の声をまた聞きながら礼拝をしましょう。こどもの声を聴いて、今この礼拝はひとりではないと感ながら礼拝をしましょう。

久しぶりに集えたことは本当にうれしいことです。会えない期間、寂しいことはたくさんありました。それぞれによくみなさん頑張っておられたと思います。

苦しい時期でしたが、その中にも、前向きにとらえることのできたこともあるでしょうか。このときだからこそ、感じることが出来た事、考えることができたことがあるのではないでしょうか。一緒に礼拝することの恵みと大切さを知りました。集うかけがえの無さを知りました。家族の大切さを知りました。オンラインでの可能性を知りました。

コロナの出来事はただの絶望ではないし、もちろん希望でもありません。私たちは明るさと暗さ、その間で、何をこの期間から受け取ったら良いのか、まだ神様への問いが続いてゆきます。

この後どのように社会は変わり、教会は変わるのでしょうか、あるいは変わらないのでしょうか。私たちの信仰はどのように変わってゆくのか様々な問いが生まれています。

コロナの時期とはこのように、ずっと神様に問い続けている時期でもあるでしょう。神様、どうやってこの状況を生きてゆけばよいでしょうか。なぜこんなことが起こってつらい目にあうのですか。私はどこに向かってゆけば良いのでしょうか。それを神様に問い続ける時期となっているのではないでしょうか。そしてその中に、神様との出会いが隠されているという時期ではないでしょうか。

その中の問いを大切にしたいのです。過ぎ去ったこととするのではなく、この期間に問われたこと、「なぜ」と思ったことを大切にしてゆきたいのです。ただ以前のように戻る、戻れたという希望ではなく、問われた「なぜ」ということを大切にしたいのです。

私たちは集えた喜びをもっと分かち合いたいと思う一方で、今日集ったのが受難週ということも覚えておきたいことです。イエス様の十字架を特に覚える1週間を持ちます。4月2日(金)10 時30分から受難日祈祷会を持ちます。そちらもどうぞ参加されてください。

集った今日は、十字架について考えたいと思います。せっかく集えたので、本当はもっと明るい話をしたいのですが、来週のイースターを前に十字架にしっかりと目を向けてゆきましょう。

今日は集えた喜びを味わうと同時に、イエス・キリストの十字架を覚えましょう。いま私たちは苦難の中に、希望がある。希望の中に苦難がある。そのような時です。喜びの日に十字架を覚えましょう。十字架の下で、この集えた喜びを覚えてゆきましょう。

私たちはコロナの中苦難と希望の間にいます。そしてその間で様々な問い「なぜ」が起こっています。そしてその問いの中に神様との出会いが隠れています。同じ様に、十字架も絶望と希望の間の問いの中にあります。その問いの中に神様の出会いが描かれています。

今日は、その苦難の中、絶望と希望の間にあった「なぜ」という問いに、神様との出会いが隠されていた。それが今日示されている十字架という出来事だったのではないかということを見てゆきたいと思います。今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 

今日の聖書個所は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉が出てきます。この言葉をどう受け取るかは難しい問題です。イエス様が受けた最後の誘惑だった。いや神様への堅い信頼だった。両方のとらえ方があります。十字架の下でこの言葉を聞いた人々も困惑をしたでしょう。十字架の下で聴いた人々にとっては、47節にもあるとおり、イエス様が預言者エリヤを呼んでいると思ったとあります。

この十字架上での「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」をどのようにとらえ、受け取って行くかは、キリスト教にとってとても難しい問題です。

この十字架の叫びには大きく分けると3つのとらえ方、解釈があります。ひとつは絶望と受け取る解釈、もうひとつは希望と受け取る解釈、そして3つ目はその間と受け取る解釈です。

まず叫びを絶望と取る解釈を見てゆきたいと思います。この言葉どおり、イエス様は神様に「見捨てられた」という絶望を味わっています。希望が無いと感じています。神様は私たちと同じ苦痛を味わうお方なのです。この十字架にイエス様が人間として地上に生まれてきた姿が現されています。苦難の時に人間が絶望してしまうこと、それを神様は身をもってよくご存じです。人が絶望を感じるのは、たとえば自分や、身近な人の死です。戦争や災害や病気、コロナ。その中で死を迎えるとき、美しい死ばかりではありません。絶望しながら、苦痛の中で死を迎えてゆくということは確かにあります。

神様を信じられなくなるような出来事、死は確かにあります。その無惨な死を味わったのがイエス様だったのです。ある人は「神は俺を見捨てやがった。そう言って叫び、無残に死んだ」と解釈をします。この解釈、とらえ方は暗い解釈ですけれども、それほど私たちの死の苦しみを知って下さっているイエス様、神様の姿ととらえることもできます。

2つ目の解釈はこの叫びは希望だという、まったく正反対の解釈です。特に日本では遠藤周作の「イエスの生涯」という小説によって広がっています。その解釈によれば、このイエス様の最期の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22篇の冒頭の個所であり、22篇全体を読むと苦難から希望へと変わっていく詩になっている。だからイエス様は十字架でこの詩の冒頭部分を述べる事で22編全体が表している「絶望の中でも神様を堅く信頼し続ける」ということを言い表そうとしたという解釈です。イエス様はやっぱり苦難の中でも揺るがずに、神様を堅く信頼し続けたのだという解釈です。

広く浸透している解釈なのですが、古代も今も「詩編の冒頭の言葉を言えば全体を示す」という習慣は見当たりません。どうもこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が22編全体を表現したとは言えそうにありません。この叫びは十字架上での信頼と希望の言葉だったというのは、美しい解釈、理想的な解釈なのですが、可能性は低いと思います。

3つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。この解釈が広がりつつあり、私もそのような叫びだったのではないかと思っています。全くの絶望、全くの希望どちらでもない、中間、第三の道となる解釈です。この解釈では叫びの中の「レマ」という言葉に注目をします。「レマ」それは「なぜ」という意味の言葉です。特に目的や理由を尋ねる時に使われる言葉です。

新たに広がりつつあるのはイエス様の叫びは絶望と希望の中間にある「なぜ」を問い続けた叫びだったという受け止め方です。イエス様の最期の叫びは、「なぜ」という神様への懸命な問いだったのです。

神様を信頼していたのに「なぜ」このような苦痛があるのか、神様を信頼して来たのに「なぜ」このような死を迎えるのかと疑問をぶつけながら死んでいったのがイエス様の死だったのです。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と神様にその苦難の理由と目的を問いながら、死んでいったのがイエス様の死です。

この受け止め方では、イエス様は確かに苦難の、絶望の中にいます。しかしその一方でイエス様は神様に呼び掛け続け、理由を尋ね続け、神様との関係を諦めてはいません。最後の最後まで神様に呼びかけ、絶望しきらずに「わが神」「なぜ」と呼びかけ続けているのです。

私もイエス・キリストの十字架はそのような出来事だったのではないかと思います。まったく絶望しきっていたわけではないでしょう。またこのような苦痛の中でも神を信頼し続けるといった、単純な事柄ではなかったと思います。

苦難の中でイエス様は懸命に「なぜ」と神様に向けて問い続けたのです。そしてその叫びの先にこそ神様がおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神様だったのではないでしょうか。イエス様が「なぜ」と叫ぶ、そのただなかに神様と出会いがあったのではないでしょうか。

私たちは今日集うことができ、希望の中にいます。でもやはりまだコロナの収束しない絶望の中にいます。その間にいます。それは十字架の上と同じ状況でしょう。神様への信頼を持ちつつも、なぜと問う私たちです。

苦難の中で神様に呼びかけ、「なぜ」を問い続ける私たちです。イエス様にも私たちにもその答えは簡単に与えられません。でも今日の十字架のイエス様の姿から、その問いの先に、その中に神様がきっとおられるのだと思います。そのような「なぜ」という叫びの中で、私たちも神様に出会うことになるのだと思います。

いま私たちは絶望と希望、暗さと明るさ、悲しみと喜び、それらの間に置かれています。しばらくはそれが続くでしょう。私たちはそこで神様に「なぜ」と問いかけを続けます。何に向かってゆけばよいのか、何のためにこの苦難があるのかを問います。その問いと共に、問いの中にきっと神様がおられます。これからも私たちには様々な問いは続くでしょう。でも必ずそこに、神様との出会いがあるはずです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今週、その問いの中で、神様とまた出会ってゆきましょう。お祈りいたします。