【全文】「教会には夢がある」出エジプト記14章15~22節

 

イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。                    出エジプト記14章22節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

来週は臨時総会が開催されます。次の2年の執事を決める大切な選挙を行います。そしてその後、信徒会を開き、先日からの続き「地域協働計画」について、話を深めてゆきたいと思っています。ぜひご参加ください。教会員以外の方も臨時総会の選挙権はありませんが、ぜひお昼を一緒に食べて話を聞いていってくださるとうれしいです。

今のこの教会を見渡すと、こひつじ食堂、こひつじ広場は本当に教会に様々な変化と必要を起こしていると感じています。教会は礼拝する場所です。毎週クリスチャンが集う場所です。でも今平塚教会は、その枠組みに留まらなくなってきています。

平塚教会はみんなとワイワイ食事をするところです。近所の知り合いと久しぶりにのんびりおしゃべりをして、食事をできる場所になっています。教会は分かち合いを実現する場所になっています。余った食材、だれかに使って欲しい食材が教会に集まってきます。それをみんなで分かち合っています。教会はボランティアをする場所にもなっています。宗教に関わらず、何か人のためになることをしたいという思いをもった人が集まる場所になっています。

教会がそんな場所に変化してゆくのを見ていて、私たちには未来があると感じます。希望がある、「教会には夢がある」と感じるのです。キング牧師が「私には夢がある」と言ったように「教会には夢がある」と感じるのです。いつの日か地域の様々な人が集い、こども同士が仲良く食事をして、お年寄りがそれを見て笑う、そのような教会にすでになりつつあります。これをもっと広げてゆきたいと思うのです  。

その「教会の夢への道」は確かに開かれてきていると思います。こどもを大切にすること、地域と共に歩むこと、私たちの夢、願い、希望の道はすでに開かれつつあると思います。

そしてこの道を歩み出した教会は、必要な設備が変わってきています。140食を作るにはキッチンは狭すぎです。毎週のようにイスを動かしレイアウトを変える大変さがあります。

さらにそもそも教会には以前からすぐに手を加えなければいけないところが多くありました。コンクリートの塀はグラグラし、石垣が崩れています。教育館の東側は倒壊の危険が指摘されています。会堂は雨漏りし、漏電し、トイレがつまり、ドアは閉まりません。大雨や強風の度に会堂が壊れていないか心配になります。手を加えなければならないのは明確です。

私たちは礼拝を続けてゆくことこそが大事です。でもこのまま礼拝を続けていてよいのでしょうか。この先も、礼拝を続けて行けるのでしょうか。教会には夢があります。その道は開かれつつあると感じています。こどもを大切にする。地域と共に歩む。それが私たちの願い、希望、夢です。

でも会堂建築のことが後ろから迫って来るようにも感じています。日々壊れる箇所は増えてきています。もちろん建築献金がたくさん積み立ててあるわけではありません。自分達では修繕や建て替えもができるのかという現実があります。

前に希望が見えている、向こう岸に希望がある。「私たちには夢がある」と感じていても、八方ふさがりのような気がするのです。私たちの教会に新しい道は開けるのでしょうか。ただわかっているのは、私たちは待っていてはいけないということです。何かを選択し、歩みださなければいけないということです。

そんなことを考える時、私は今日の箇所、この出エジプトをした民が私たち一人一人、そして教会に重なるような気がするのです。今日の箇所を一緒に読みましょう。

 今日の箇所を見ましょう。今月の宣教は旧約聖書を読んでいます。旧約の時代イスラエル人々はエジプトで差別され、不自由、不平等な奴隷として、厳しい毎日を送っていました。人々はそのエジプトから逃れて、神様の約束の土地へと出発したのです。それが今日お読みした出エジプト記の物語です。

彼らは自由を求めて、夢を持って、約束の地へと出発をしました。しかし出エジプト記によれば、その希望への道は険しかったとあります。希望への道は困難な道だったのです。

自由や希望はただ待っていればやってくるものではありませんでした。人々は約束の場所に行くために、ファラオのかたくなな心に直面しなければならなりませんでした。繰り返し説得する必要があったのです。待っているだけでは、約束の場所にたどり着くことができなかったのです。待っているだけ、受け身ではいけないということです。何か行動を起こさなければ、自由と希望の場所にはたどり着けなかったということを示しています。

イスラエルの民は二つの困難にまさに板挟みでした。後ろからは軍隊が迫ってきています。前には進むことのできない海が広がっています。人々の道は閉ざされ、なすがままにされるしかないと思ったのです。

しかしそこに神様からの風が吹き、新しい道が開かれたのです。風が吹くと海の水が割れ、乾いた土地、道が造られたのです。それはモーセが造った道ではありませんでした。神様が開いた道でした。

イスラエルの民は海が割れて出てきた乾いた土地に、一歩を踏み出しました。民は喜んで渡ったのでしょうか。いえ、もうそれしか道がなかったのです。水が壁のよう押しのけられた乾いた土地を歩くのは恐ろしかったでしょう。もし途中で水が流れ込んできたらどうしようと考えたでしょう。危険だから渡らない方がよいと考えた人もいたでしょう。神様は渡りきるまで水をせき止め続けて下さるのかと心配したでしょう。でももう彼らには選択肢がありませんでした。

彼らは与えられたその一歩の道を歩みだすしかなかったのです。その一歩を勇気と信仰をもって歩みださざるを得なかったのです。道が造られ、さあ渡りなさい、もうそれしかないという神様の導きがあったからこそ、人々は応答し、信仰を持って一歩を踏み出すことができたのです。

私たち一人一人にもこのような出来事は起るでしょう。私たちは2つの問題で板挟みとなる時があります。行き詰ってしまう時があります。家族や友人や仕事の事、もうこのままがまんするしかないと思うことがあるでしょう。しかし今日の聖書箇所によれば、そのとき神様は新しい道を開いてくださるお方です。

私たち一人一人には、何か新しいことを始めるのには勇気がいるものです。自分は新しい仕事、新しいことを始めて本当に大丈夫だろうかと考えるでしょう。しかし今日の聖書箇所によれば、神様は不安の中で勇気を出して、信仰の一歩を踏み出しなさいと語っています。それが出エジプトの物語です。神様が造られた道を、神様に励まされて、私たちは歩むのです。

そして教会も歩み出す一人一人と同じです。教会には夢があります。その夢に向けて新しい一歩を踏み出そうとしています。その新しい一歩は信仰の一歩です。神様が道のない場所に道を作り、私たちを導いてくださっています。私たちは信仰をもってその道の一歩を踏み出してゆきたいのです。

建物はどうなるかまだまだ道がはっきりあるとは言えないでしょう。今の私たちは海の向こうに希望があることを見つつも、道のない海を前にして、どうすることもできずにいます。後ろからはすぐに対処しなければいけない軍が迫ってきているような感覚です。私たちは海と軍との間にいる出エジプトしようとしている民と言えるでしょう。

そんな私たちにも、神様は必ず道を造ってくださるでしょう。そしてもしその道を見つけたならば、待っていてはいけないのです。勇気と信仰をもって、一歩を踏み出さなくてはいけないのです。そのことを覚えて総会・信徒会、そしてそれぞれの生活を迎えてゆきましょう。

そしてもうひとつここから、非暴力ということも見ておきたいのです。自由、希望、未来、夢、約束は力によって得るものではないというメッセージもあります。この物語は非暴力のデモ行進の物語です。平和的な行進の物語です。非暴力によって夢が実現してゆく物語です。これは私たちの歩みもそうです。私たちは力・パワーで道を開くのではありません。誰かを傷つけて、押しのけ、抑えつけて解決するのではありません。むしろそこから出エジプトし、神様が用意してくださった道を、平和に歩むのです。神様は力の道ではなく、新しい非暴力の道を示してくださるお方です。

渡った後の人々の姿にも目を向けましょう。残念ながらモーセ自身は約束の地に入ることはかないませんでした。約束の地はこどもたちが見たのです。結果的に出エジプトは自分たちのためではなく、子どもたちのための出エジプトだったのです。

私たちもそうかもしれません。今していること、歩んでいることのゴールを私たちは見ることができないかもしれません。でもいま始めれば子どもたちが、次の世代が見ることができるのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。大切にするこどもたちが乳と蜜が流れる場所を見るために、私たちは出エジプトするのです。私たち自身はゴールにたどり着けるかどうかわかりません。でも今出発すれば、こどもたちがそれを見れるかもしれない。次の世代が見れるかもしれない。私たちにはそのような希望もあるのです。教会も一人一人もそのような信仰を持って新しい一歩、出エジプトを踏み出してゆきましょう。

そして今日は成人祝福祈祷の時も持ちます。成人となる仲間を覚えます。伝えたいことは聖書の物語です。出エジプトです。新しい希望へと出発する時です。その先には困難があるでしょう。板挟みになることがあるでしょう。でも必ず神様は新しい道を下さるはずです。勇気と信仰を持ってその道を歩みましょう。私たちも若い人、こどもたちが希望をもって歩むことができるように、一歩を踏みだしたいと願っています。お祈りします。