【全文】「折れた心を献げる礼拝」詩編51篇12~19節

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。詩編51篇19節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。そして今日もこどもたちが集っています。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝しましょう。

もうすぐ牧師を始めてまる3年となります。本当に未熟な私を祈り支えて下さっていることに感謝します。私は神学生の時、ある教会の牧師に言われた言葉を大切にしています。それは「教会がうまくいっていると感じる時こそ、注意が必要だよ」という言葉です。その言葉は、教会で何かがうまくいっていると思う時、喜びの出来事がある時にも、教会の中には痛みや、傷ついている人が必ずいることを忘れないように注意をしなさいという意味だと受け取っています。

私たちは何かがうまくいっている時こそ、お互いのこともうまくいっている、そう思い込んでしまうものです。そしてうまくいっている時こそ、神様の恵みを忘れ、自分や自分たちががんばった、自分たちは正しかったと思ってしまうものです。私たちはうまくいっていると感じる時にこそ、緊張感が大事です。

自分たちの力でうまくいっていると思えること、そのすべてが神様の導きにあったと感謝することが大事です。そしてうまくいっていると思う時にこそ、お互いの痛みを祈りあうことが大事です。うまくいっていると感じる時こそ、前だけを向いて生きるのではなく、前後左右、周りを見渡しながら歩むことが必要なのです。

たとえば教会に新来者がたくさん来られる時、それはうれしい時です。新しい方との関わりを大事にしたいものです。しかし同時に、今までずっと一緒に礼拝してきた方との関わりも忘れずに大事にしたいのです。教会全体の中でそのような気持ちがないと、寂しい思いをする人が出てきてしまうでしょう。うまくいっていると感じている時こそ、もう一度お互いのことを祈りあってゆくことを大切にしてゆきましょう。

実は本当に祈れない時、神様にゆだねることができない時、それは物事がうまくいっている時かもしれません。「つらいことがあって、私は祈れないのです」そう言っている時はまだましかもしれません。うまくいっている時こそ「祈っていない時」かもしれません。うまくっている時も、そうでない時も、私たちは互いに祈りあってゆきましょう。励まし合う交わりを大切にしましょう。先輩牧師のアドバイスはこう続いたのです。「注意をしないと、うまくいっていたはずの教会が、あっという間にばらばらになってしまう時があるよ」と。

これは牧師だけではなく、この教会全体への大切なアドバイスだと思います。今の私たちはどうでしょうか。礼拝出席者数はすこしずつ増えてきています。いろいろな方が集うようになっています。子どもも楽しそうです。先日の信徒会ではみんなで希望を持って前に進む話し合いができました。他の教会もきっと私たちの在り方を応援してくれるはずと思っています。そんな希望がたくさんあります。でもそんな時こそ、私たちは忘れないでいましょう。互いに祈りあう事、互いに起きている様々な変化に気を付けたいのです。今、私たちの教会、交わり、祈りあいの中にはきっと、今までずっとあった欠けと共に、新しい欠けと、新しいほころびがきっと生まれているはずです。そこに目を注いでゆきましょう。

今日も様々な人が教会に集っています。しんどいと思う方、今あなたはきっと深い祈りが与えられる時です。主にゆだね、一緒に祈りましょう。そしてまあまあうまくいっていると思う方、今あなたはきっと注意が必要な時です。きっともっと深い祈りが必要な時です。主にゆだね、一緒に祈りましょう。

今日は聖書から、うまくいっている時こそ祈るということを見ます。そして神様は私たちの中にある欠けやほころびを、神様の前に献げ、礼拝をしなさいといっていることを一緒に見てゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今月は5回にわたって、旧約聖書から福音を聞いています。今日はその最後です。これまでゼカリア書・出エジプト記・エレミヤ書・申命記から見てきました。今日は詩編をみます。今日この詩編51篇はダビデが歌った歌として伝えられています。51篇の1節の小さい見出しには「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンが来た時の詩」とあります。

ダビデ王とはイスラエルで最も成功した王様です。彼は貧しい羊飼いの家に生まれた8番目の男の子でした。しかしその彼が、ある日突然油を注がれ、巨人のゴリアテを倒します。今度はサウル王から追われながらも、彼は必死に生き延びました。やがて彼はイスラエルの全土を統一し、近隣諸国も支配下に置きました。

ダビデはイスラエルの歴史上の中で最も大きな成功を収めた人です。最も成功を収めた王様でした。様々な困難を乗り越えた王様でした。しかしその時、彼の心には緩みがありました。うまくいっていると感じた時こそ、自分と他者に注意が必要だったのに、彼はそれをすることができませんでした。彼はバト・シェバという美しい女性を自分のものとするために、その夫ウリヤを戦場の最前線に送りだし、殺してしまったのです。

ダビデはうまくいっている時に、卑劣な罪を犯しました。そこから最高の王だった彼は最悪の王へと転落してゆきます。そしてバト・シェバとのこどもソロモンが王になる過程では、多くの血が流れ、混乱が生まれました。今日の詩編51篇前半で彼はそれを後悔しています。

そして今日の箇所に続きます。12節以降は、ダビデはもう一度、神様のもとに戻り、より頼もうしている祈りが記されています。うまくいっていると思っていたあの時期は、祈ることができなかった時期だったのです。彼は今もう一度、神様に祈っています。

12節でダビデが祈っている内容に目を向けましょう。彼は新しく確かな霊・心が授けられることを求めて祈っています。彼は今までの心が回復することを求めたのではありません。今までの自信とやる気に満ちた心や権力を取り戻すことを求めたのではなかったのです。

彼が求めているのは新しく、確かで、清い心です。それを創造してくださいと神様に祈っています。12節にある「創造する」という言葉、これは聖書の中では神様の働きにだけ使われる言葉です。天地創造において使われている言葉です。天地創造において神様が混沌の中から光を創造したように、私の中にあなたが清い心を創造してくださいという願いが書かれています。

その創造は神様にしかできないことなのです。神様にのみ、私たちに清い心を創造し、新しい確かな霊を授けることができるのです。私たちの中に神様が新しい心を創造し、授けて下さるのです。ダビデはそれを祈っているのです。

私たちもそう祈りたいのです。私が創り出すのではなく、神様だけが創造できる、その清い心、新しい霊、新しい心を受け取りたいと祈るのです。

そして続く18節を見ましょう。神様は私たちが礼拝するとき、祈る時どんなことを求めているのでしょうか。それはいけにえではないとあります。18節には「焼き尽くす献げ物」とあります。「焼き尽くす献げ物」とは、動物を丸ごと1匹、真っ黒になるまで焼いて献げる献げ物のことです。傷のない最上の動物を焼いて献げつくすことです。でも今日の箇所に書かれているのは、神様が喜ばれるのは、そのようないけにえではないということです。

神様が求めるものが19節にこう書かれています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」とあります。神様が献げるように求めるもの、それは「打ち砕かれた霊」です。打ち砕かれるとは、折れてしまうことや、粉々になってしまうこと、引き裂かれることです。

神様は成功や、成果、大金を献げてほしいと願っているのではありません。神様は折れてしまった心、粉々になってしまった心、引き裂かれた心、それを持って神様の前に来るようにと招いているのです。神様にささげるのは良いものばかりではなくていいのです。むしろ苦しい思いをもって、痛みを持って、神様の前に来るようにと招かれているのです。

神様はそのような打ち砕かれた心をささげる時、喜んでくださるお方です。神様は打ち砕かれた心こそ献げ物にふさわしいと言います。そして神様がそこに新しい心を創造してくださるのです。ダビデの本当の祈りと献げ物は、そのような打ち砕かれた霊の中に起きたのです。

うまくいくということはいい事です。でも教会のすべてや、それぞれの生活がすべてうまくいっているわけではないはずです。私たちが大切にしたいのは、うまくいってそうな教会の中で、あるいはそれぞれの生活の中でも、互いの傷ついた心、しんどい思い、それをこの礼拝にもって来て、献げようということです。

うまくいく時も、そうでない時も必ずそのような打ち砕かれた霊は自分や他者の中にあるものです。それを一緒にこの礼拝で、祈りの中でささげてゆきたいのです。

そこそこうまくいっていると感じた時は注意が必要です。ダビデのような失敗をしてしまう時だからです。自分は正しかった、自分の思い通りになると思ってしまう時です。私たちが礼拝でささげるのは、そのような思いではありません。私たちが礼拝で献げるのはひたすら打ち砕かれた霊なのです。

私たちはその打ち砕かれた霊の中に、神様が清い心を創造してくださることを、祈り求めてゆきましょう。そして新しく確かな霊・心が授けられるように祈ってゆきましょう。私たちは毎週、互いの中にある痛みや欠けを持ち寄って、神様に献げてゆきましょう。折れた心、引き裂かれた自分を献げてゆきましょう。

神様はそこから、そこにこそ新しい心、新しい霊、新しい道を創造してくださるお方です。お祈りをいたします。