【全文】「信教の自由の種」マルコ4章31~32節

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。

マルコによる福音書4章31~32節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声や足音も礼拝の一部として、声を聞きながら礼拝しています。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。

1月は旧約聖書をテーマとして取り上げてきました。2月は信教の自由をテーマとして宣教をしてゆきたいと思います。また聖書は引き続きマルコ福音書から読んでゆきます。

信教の自由というテーマで2月4回の宣教する予定なのですが、なぜこのようなテーマを教会で扱うのか疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、バプテストと信教の自由はとても関係が深いのです。私たちバプテストが信教の自由について考え、語っていくことはとても大切な責任です。ですから4回の宣教で考えたいと思っています。

今日はこの信教の自由について、特に17世紀のアメリカから考えます。私たちバプテストはイギリスで生まれたグループです。そのグループは自由を求めてアメリカに渡ったのです。しかし当時のイギリスもアメリカも信教の自由はまったく存在しませんでした。

自由の国アメリカが当時、宗教に対してどのような姿勢だったかということが記録にあります。例えば選挙権があるのは、教会籍のある人のみとされていました。もちろん先住民やキリスト教徒以外は、どんなにそこに長く住んでいても、選挙権はありませんでした。クリスチャンは国民ではないという考えです。

驚くことに、自分が通う教会は自分で決めるのではありませんでした。通う教会は政府が指定し、その教会に通わなければなりませんでした。「あなたはこの教会に毎週通いなさい」と政府に決められた教会に通うのです。それ以外の教会の礼拝出席は禁止され、違反者は処罰されました。

そして教会では政府が公認した牧師が説教するということが法律で定められていました。政府に公認されていない人、資格のない人が礼拝で説教をした場合、死刑にされることもあったそうです  。

そんな時代にバプテストというグループが、極めて少数ですが存在しました。自由と自覚的な信仰をかたくなに守ろうとするグループです。バプテストの彼らは本人の自覚のない幼児洗礼はしないと言いました。これは出生届を出さないようなものです。国の公認のない、無資格な牧師を自分たちで立てて、礼拝を行うと主張しました。バプテストは周囲から、死刑覚悟の危険なグループとみられました。当然政府は社会秩序を乱す集団として、バプテストを厳しい監視と取り締まり対象としました。

バプテストはこのような時代の中で、宗教と政治が一体となったこと、信教の自由がないことに反対をした小さなグループでした。バプテストは信じる宗派・宗教によって行政が迫害し、処罰し、差別をすることに反対したのです。政治が個々人の内面、宗教に介入してくることに反対したのです。行政の権力は市民の生活を守るため“のみ”に使われるべきだと主張したのです。これがアメリカの信教の自由の始まりです。

そしてこのようなバプテストの活動は当初はごく少人数でしたが、少しずつ広がってゆきます。バプテストの訴えた信教の自由がアメリカに広がっていったのです。そしてやがてアメリカには憲法が制定されます。その憲法第一条にはこのように書かれました。「この国では国教〔国が支援する特定の宗教〕を定めてはならない」「自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」そう第一条に書かれたのです。バプテストの主張が憲法に反映されたと言えるでしょう 。

このようにバプテストは信教の自由を大切に守ってきたグループです。誰にも強制されない信仰を持つことを大切に守ってきたグループです。今はもちろんかつてより圧倒的に自由です。しかし私たちバプテストには責任があります。本当に信教の自由があるか、制限されていないか、そのことをバプテストは見守り続けてゆく責任があるのです。これから1ヶ月、信教の自由について一緒に考えてゆきたいと思います。今日も私たちは聖書から信教の自由について聞いてゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を読みます。今日の箇所は、イエス様は神の国とはどんな所なのかを、たとえ話で教えている箇所です。まず神の国あるいは天の国とも言いますが、これは死んだ後に行く場所ではありません。この地上で起こることなのです。主の祈りで御国が来ますように、天においても地においてもと祈っている通り、地上のことです。

そしてこの地上で神の国が起こるということとは、キリスト教が国教、国が支援する特定の宗教になるということではありません。神の国とは牧師が総理大臣になって、法律でキリスト教を信じるように強制することではありません。神の国とは全員が生まれてすぐに洗礼を受けさせられることでもありません。神の国とは世界中の人が全員クリスチャンになることではないのです。では神の国とは何か。それが今日のたとえで説明されています。

イエス様に従い、話を聞いた人々の多くは貧しい農民だったと言われます。ですからイエス様の話は農業や自然についてのたとえが多く出てきます。今日の箇所、前半の26節~29節では神の国が種まきにたとえられています。

農民にとって種まきとは希望を持って行うことでした。たくさんの収穫を願いながら、土に種をまいたのです。豊かな実りを期待すること、希望があるということ、それが土に種をまくということです。やがてそれは29節「収穫の時を迎える」のです。

神の国とは花や作物の種を植えて、収穫をすることに似ているのです。希望の種、期待の種があり、豊かな恵みがある場所、それが神の国なのです。小さくても希望があるところ、種をまくことができる希望、それが神の国です。神の国とは、希望の種をまき、収穫することのようだと言われているのです。

畑には様々な種がまかれます。30節~32節にある、からし種もそうです。からし種は特に小さな種ですが、それは大きく豊かに茂ります。小さな希望でも、大きな実りを生むということもここで伝えられているでしょう。神の国とはものすごく小さな希望が大きく広げられるところだということです。たとえどんなに小さな希望、小さな群れでも、大きくなってゆくということです。

私は信教の自由を訴えた少数派、バプテストをこのからし種に重ね合わせます。からし種が大きく茂るということはまさに、非常識なごく少数の集団が訴えた信教の自由がやがて一つの国の基礎となったことに重なるでしょう。私たちバプテストはからし種だったのです。神様がバプテストを信教の自由のからし種とし、豊かなものとしてくださったのです。様々な種が実る場所としてくださったのです。

神の国とは全員クリスチャンになるということではありません。神の国は、信教の自由が守られるところと言えるでしょう。神の国とは、それぞれの自由が、それぞれの希望が大切にされる場所です。バプテストはその信教の自由のからし種です。神様はそれが最も小さい種だとしても大きくし、茂らしてくださいます。神様はからし種のように信教の自由を広げて下さるお方なのです。

そしてこのからし種にはもうひとつの意味があると言われます。からし種は農民にとってはやっかいな存在だったということです。からしの草は生命力が強く、一度生えると抜いても抜いてもまた生えてきて、除去するのが難しい、危険な草でした。駆除できない草、危険な草がからし種でした。農家の人にとっては生命力が強すぎて、迷惑な存在でもありました。たった一粒でも、自分の畑に入るとなかなか駆除できず、大きくなってしまうからです。

神の国はまた、そのようなものだとも言えるでしょう。神の国、その種とはどんなに小さな始まりでも、踏みつけられても、引っこ抜かれても、また生えてくるのです。どんなに駆除しようとしても無くならないのが神の国の種なのです。どんな困難な時も無くならない希望が神の国の種なのです。

雑草魂とでも言えるでしょうか。神の国とはからし種のようなものだと聞いたとき、農民はそれを聞いて笑ったのではないでしょうか。「ああそうか。あれは小さい種のくせに、抜いても、踏んでも、しつこく生えてきて無くならない。あれが神の国か。それが神様の希望なのか。そうかそれならきっと無くならないだろう。どんなに小さくても、どんな目にあっても、きっと大きくなる、それが神の国だ」そう受け止められたのです。

神の国とは小さくても無くならない希望のある場所です。神の国はからし種のようなものです。そしてバプテストもからし種のような存在でした。そしてバプテストの訴えた信教の自由も神の国の種だったのです。

私たちもこの種をいただいてゆきましょう。小さくても豊かに広がる希望、踏みつけられても決して無くならない希望をいただきましょう。そして私たち自身も種になってゆきましょう。信教の自由の種になってゆきましょう。当時のアメリカで信教の自由が広がったように、私たち自身も小さくても信教の自由を訴えてゆきましょう。

日本にもアメリカにも信教の自由はまだたくさんの問題を抱えています。そして信教の自由の問題を日本で訴える人はごく限られた少数派です。

でもバプテストは信教の自由をずっと訴えてきました。私たちは小さくてもこの信教の自由を大切に守ってゆきたいのです。そして私たちはなくならないのです。雑草のように、抜いても抜いても生えてくる草のように、私たちは希望をあきらめないでいたいのです。お祈りします。