【全文】「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もいっしょにこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

私たちは今月と来月、こひつじ食堂と福音について考えています。こひつじ食堂は毎月第三と第四金曜日にこの会堂で開催している、だれでも来てよい食堂です。1人200円でおなか一杯の食事ができます。いろいろな人と食事をするのは、本当に楽しいことです。まだ来たことのない方はぜひ食べに来て下さい。お弁当も販売をしています。また今日の礼拝後の信徒会ではこの活動についても皆さんと相談をさせていただきます。

全国でこども食堂の活動は広がっています。先日あるインターネットの記事に目が留まりました。記事のタイトルは『独身の86歳男性は「死ぬまでひとり飯」なのか…SNS以上、しがらみ未満でつながれる「こども食堂」の魅力 』 というものです。

記事よれば、あるこども食堂では86歳おじいちゃんが1人で食堂を利用しているそうです。このように私たちの食堂も含め、ほとんどのこども食堂はどんな年齢の人も歓迎しています。この男性はお連れ合いに先立たれて一人暮らしです。自分で料理もするし、一人でしっかりと生活をされています。にもかかわらず、地域のこども食堂に顔を出しています。

おじいちゃんはこども食堂でたくさんの方の顔を見ながら食べることを、言葉ではいえなくらい楽しい、最高だと語ります。やはり、一人で食べるのと、誰かと一緒に食べるというのは、ぜんぜん違うのです。記事にはさらにこう続きます。高齢化とともに交友関係は減るということ、コロナ禍でさらに交友は狭まっていること、コロナの影響で多くの地域交流が停滞していること、そこにこども食堂のニーズがあると書かれていました。さらに高齢の方々の子どもたちも「親が地元で、話をする人はいるのか」を心配している。それは政府の現金給付でどうにかできるものない。高齢の方々にも、自分には関係ない場所だと思わずに、ぜひ近所の「こども食堂」=「地域食堂」のドアを叩いてみてほしい。そのように記事には書いてありました。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが、貧しい人だけが対象ではありません。どんな人も、どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたい、そう思っています。

しかし振り返ると教会はずっと昔から「一人ではない」と思える場所だったのではないでしょうか。礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。2000年間、あるいは私たちの教会の70年間、毎週礼拝し、一人ではないと確認をしてきました。神様が共にいる、仲間が共にいる、それを毎週礼拝で確認してきたのです。互いの声を聞き、一緒に賛美をしてきたのです。

私たちは寂しいと思っている人や、人生に困っている人に出会ったとき、一緒に教会に行きませんかと誘ってきました。もちろん困っていない人も、どなたでもどうぞと教会にお誘いしてきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は食堂にしろ、礼拝にしろ、その他のことにしろ、誰かの居場所になるのが得意です。

教会はいつもあなたと一緒にいたいと伝え続けてきました。困っていても、困っていなくても、一緒にいようと誘って来ました。そのようにして少しずつ礼拝の輪が広がってきました。そしてそれと同じように、今食堂の輪が広がってきています。

食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは教会で起きていることです。神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。その延長線上に食堂があります。私はそのように感じています。

今日は私たちは、こひつじ食堂や礼拝で起きていることを聖書から見てゆきたいと思います。食堂や礼拝は、神様のもとで集い、仲間になってゆくこと、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書個所を見ましょう。まず目に留まるのはイエス様と家族の関係の難しさです。少し前の21節には身内の人々がイエス様のもとに来て「あの男は気が変になっている」と言って、取り押さえようとしたとあります。イエス様の活動は血縁関係のある家族に、まったく理解されなかったのです。イエス様の行動は家族にとっては迷惑で、気持ちの悪いことだったのです。家族だから理解し合える、信仰を分かち合えるというわけではなかったのです。

家族に理解されないということが、私たちにもあるでしょうか。自分の行動や信仰が家族に理解されないということが、あるものです。あるいは逆に、私たち自身が家族の行動や信仰を、理解できないと思うことも、あるものです。信仰を家族と分かち合うこと、家族と理解しあうことはとても難しいことです。家族と理解し合えないのは寂しいものです。イエス様も寂しさを感じたはずです。33節に「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とあります。私はそこにイエス様の寂しさを感じます。

そして従った人々の多くも家族のいない人、家族と離れている人だったと言われています。従った人の多くは干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族とばらばらになってしまった人々だったと言われます。家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。自分はこの後どうなるのだろうと不安に思っていた人々がイエス様に従ったのです。家族がいないことの寂しさは、家族と分かり合えない寂しさよりも、もっと大きいものでしょう。喧嘩する相手も、わがままを言う相手もいないことは寂しい事です。

この物語の登場人物は家族と分かり合えない寂しさを持つイエス様と、家族とばらばらになってしまって寂しさを持つ民衆です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族とも思えるような、不思議な集まりになっていったのです。

この集まりは、いろいろな家族関係を持った人、家族を持たない人が、寂しいと感じた人が、親戚の集まりの様に集い、祈りあう集まりでした。自分は一人ではない、共に生きていると実感できる集まりでした。そのような集いがイエス様を中心に生まれたのです。本当の家族と同じくらい大切な仲間ができたのです。

34節でイエス様は『周りに座っている人々を見回して言われた「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」』と言います。イエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。この集まりは私たちの教会と似た集まりです。私たち一人一人もいろいろな家族関係をもっていますが、毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。

イエス様の様に、周りに座っている人々を見回して思うのです。教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会は2000年前からずっとこのような集まりを続けてきました。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。この礼拝の雰囲気が、食堂の雰囲気につながっているでしょう。ここに来ればたとえ家族と離れていても、家族がいなくても、寂しく思っていても、誰かとつながれるような気がするのです。一人ではないと感じることができるのです。それが教会の食堂の特徴です。

教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。そこで共に食事をすることは、誰かとつながるには最高の場所といえるでしょう。礼拝も食堂も、誰かとつながっていたいと思う人に最高の場所です。

友達や家族と疎遠になりがちな高齢の方々に最高の場所です。ぜひこの輪に入って欲しいのです。若者はSNS、インターネット、YouTubeでつながっています。でもそれ以上のつながりを持ちたい若者に、最高の場所です。ぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。一緒に礼拝をしたい、一緒に食事をしたいのです。

34節には「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とあります。神の御心を行う、それは今私たちの教会にとってはこひつじ食堂を続けてゆくというでしょう。教会はこひつじ食堂を通じて、地域とつながりを持ってきています。誰かと一緒にいるということを、これからも続けてゆきましょう。きっとそれが御心です。あなたは一人ではないということを私たちは伝えてゆきましょう。礼拝と食堂の御心を続けてゆきましょう。

私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。御心を行う人が神様とつながっている人です。誰かとつながろうとするとき、神様とつながっているとも言えるでしょう。

私はこの食堂のような、たくさんの人が集まり、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。いろいろな人が来て、一人ではないと思える礼拝がしたいと思っています。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。