【全文】「権力を監視する教会」 マルコ6:14~29

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集えたこと、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの平和の声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。先週まで長く、こひつじ食堂と福音というテーマで聖書から聞いてゆきました。たくさんの恵みに感謝します。今日からは8月14日の平和祈念礼拝まで「平和」をテーマに聖書を見てゆきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

平和というテーマでまず思い浮かぶのは、ロシアのウクライナ侵攻についてでしょう。一日も早くこの暴力が終わることを祈っています。特に私が心を痛めているのは、キリスト教のひとつであるロシア正教の最高指導者がこの侵攻を支持していることです。ロシア正教の最高指導者・総主教キリル1世は、この侵攻を正義と悪の黙示録的戦いだ、神の加護があると積極的に支持しています 。また総主教はウクライナの人々が同性愛を認めつつあることも侵攻の理由にしています。ロシアでは現在、司祭がウクライナに出征する兵士や戦車、ミサイルに聖水をふりかけ、祝福の祈りをし、軍隊を鼓舞しています。これは聖なる戦争だ、魂の救済だと語っています。EUではこの最高指導者は経済制裁の対象にもなっています。これがロシアのキリスト教の姿です。私たちもキリスト者としてこの戦争に対し無関係ではありません。宗教が戦争・平和にどのように関わるべきかをこの戦争からも痛感しています。ロシア正教のウクライナへの侵攻の支持はこの戦争に、宗教的お墨付きを与えるという役割を持っています。戦争が宗教上、善い事だと支持された時、戦争は「聖戦」とされ、激しさを増します。そしてロシアとロシア正教の場合もそうですが、多くの場合、国家と宗教が深く結びつくことによって、宗教が国家の戦争を支持するようになります。腐敗した権力と宗教が結びつくことによって、宗教も腐敗し、平和について妥協するようになるのです。まさしくロシアで起きていることでしょう。

権力は必ず腐敗します。どんなに素晴らしい人でも権力を手にすると、変わってしまいます。その権力は、監視され続けなくてはいけません。宗教は、権力と一体になるのではなく、誤った判断をするとき、違うと大きな声で反対しなければいけないのです。そのように宗教は政治に関わらないのではなく、監視し続ける必要があるのです。宗教の本来の役割は戦争の芽に誰よりも早く気づき、平和を訴えることです。どんな戦争も支持せず、毅然と反対をし続けることです。どんなに国家・国民が熱狂的に戦争を支持しようとも、宗教は最後まで戦争に反対することが役割です。そのために宗教は国家・行政と結びつくのではなく、監視を続けることが大事です。国家が平和に反する方向に進んでいないかを監視し、訴えてゆくことが教会の大切な役割です。

だからこそ、私たちがこの礼拝の中で平和について考えることは大事なことです。宗教が戦争に反対することは、戦争を未然に防ぐことに大きな効果があるのです。戦争を防ぐための非常に効果的な方法なのです。だからこそ一緒に礼拝で、平和を願ってゆきましょう。

私たちの国でも今日は参議院選の投票日です。ぜひそれぞれの1票を平和のために投じてゆきましょう。今回の選挙では、軍事費の倍増(GDPの2%)、敵基地攻撃能力の保有を公約として堂々と挙げている政党があります。私たちは軍事力による平和を求めません。私たちは剣ではなく、鍬を選ぶのです。私たちは戦うことではなく、命をはぐくむことを選んでゆきたいのです。それぞれの大切な1票を祈り、投じてゆきましょう。

私たちは平和に関わる責任があります。平和への大きな影響力があります。政治に目を向け、今平和が実現されようとしているのか、それとも戦争が開始されようとしているのかを見極めなくてはいけません。私たちの教会は、平和について日本・世界の中で果たす大切な役割があります。

私たちの信仰告白にもこうあります「教会は地上の権威、権力に常に目を注」ぐ。今日は地上の権力に目を注ぐこと、平和を求めてゆくことを、聖書から聞いてゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日の聖書箇所はマルコ6章14節~29節です。バプテスマのヨハネが殺されるいきさつが書いてあります。ある日、ヘロデはお友達を読んで、誕生日パーティーをしていました。国民から吸い上げられた税金は、国民の福祉のために使われたのではありません。誕生日パーティーのために使われたのです。パーティーには21節「高官や将校、ガリラヤの有力者」が集まりました。そこではコンサートとダンスショーが持たれています。権力の腐敗がよく表れている箇所です。蒸し返すのも嫌ですが、これはユダヤ版の「桜を見る会」です。税金で持たれた「桜を見る会」のように、権力者のパーティーに、お友達、その利権に群がる者どもが集まったのです。

腐敗した権力者はパーティーでも、失言をします。みんなの前で気持ちよくなった権力者が、自らの権力を見せつけるために口がすべったのです。ダンサーに23節「なんでもかなえてやる」と言ってしまったのです。腐敗した権力者は自分の発言が間違っているとわかっていても、取りけすことができません。自分の権力が失墜することを恐れ、決定を覆すことができません。自分の間違えを認めれば、自分の失敗を認めることになるからです。プーチン大統領が想定以上の犠牲がでても戦争をやめないのも同じでしょうか。腐敗した権力者は自分の発言や行動の誤りを認めることができないのです。ヘロデは、本当はヨハネのことを尊敬すべき宗教者だとわかっていたにも関わらず、パーティーを盛り上げるため、ダンスのご褒美とするため、そして自分の失言・失敗を隠すため、自分の権力を守るためにヨハネを殺しました。

一方のヨハネは権力者にも間違いをはっきりと指摘できる、宗教者のモデルです。彼が殺されたのは、権力者の近親婚に反対をしていたからです。彼は権力者の間違えを告発し、民衆にそれを訴えていたのです。だからヨハネは権力者たちにとって都合が悪く、殺されたのです。これも蒸し返したくありませんが、近畿財務局の赤木さんを思い出します。彼は権力の腐敗に抵抗しようとしました。命令された公文書改ざんを拒否し、抵抗をしました。しかし権力に都合の悪い者は、追い詰められ死を選ばされたのです。

この誕生日パーティーも同じです。権力者はお友達を優遇します。権力者は間違えを認めません。権力者は都合の悪い者を殺すのです。権力者にもヨハネを敬う善意があったかもしれません。しかしそれは野心と利権への妥協に飲み込まれました。権力はこのように腐敗をしてゆくのです。

今日の話はヘロデが、16節「首をはねたヨハネが復活したのではないか」とイエス様の事を恐れることから始まっています。イエス様はヘロデに、ヨハネの生き返りだと思われたのです。ヘロデはイエス様の姿にヨハネと同じものを見たのでしょう。権力者である自分を躊躇なく告発し、民衆に訴え、人々に大きな力を与えるのではないかと恐ろしくなったのです。自分の権力への危険を敏感に感じたのです。ヘロデにとってイエス様の奇跡とは、自分の権力を危険にさらすものでした。権力者にとってイエス様の奇跡はとても危険なものだったのです。その奇跡は権力への抵抗を含むものだったのです。その奇跡は人々に勇気を与えるものでした。人々を目覚めさせ、権力に変革を起こすものだったのです。

イエス様が具体的にヘロデにしたことは書かれていません。イエス様はこの後、十字架によって殺されてゆきます。イエス様は扇動された民衆とピラトによって殺されてゆきます。人々の目にさらされるように十字架にかけられてゆきます。ここでもヨハネとイエス様は重なります。

ヨハネもイエス様も権力に躊躇せず抵抗したことが重なります。そして殺されて首をさらされたように、イエス様は十字架に架けられ殺されてゆくのです。そして16節、イエス様はまさに復活したお方なのです。この16節はヨハネとイエス様の共通点が挙げられています。

私たちは今日の個所で、権力は必ず腐敗すること、権力は必ず人の命を踏みつけにしてゆくこと、どんな人間でも権力をもてば、そのようにふるまうことを学びます。そしてそれに反対をするのは、宗教の大切な役割だということを学びます。権力者がもっとも好むのは利害を共にするお友達です。そして権力者がもっとも嫌がるのは、声を上げる宗教者なのです。権力者がもっとも嫌がるのは宗教に監視されることです。権力者は宗教に口出しされるのが本当に嫌いです。ヨハネもイエス様も殺すほど、口出しされるのが嫌なのです。だからこそ私たちの教会は平和への監視を続けてゆきたいのです。それはもっとも権力者が恐れ、平和に向けて効果のあることなのです。

神様はこのようにヨハネを地上に遣わしました。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣したのです。そしてイエス様もそのように遣わしました。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣したのです。私たちもそのように遣わされています。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣されているのです。

私たちは平和を大切にしましょう。この礼拝で平和を考え、訴えてゆきましょう。常に権力が平和の実現に向かっているかどうか目を注ぎ続けてゆきましょう。お祈りいたします。