【全文】「パン種に気をつけなさい」マルコ8:14~21

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝します。また今日はこのあと、水遊び会も予定しています。たくさんのこどもたちが来てくれるように祈っています。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもに一番必要な平和を大切にする教会です。今日もこの礼拝で、こどもたちと共に平和を覚えてゆきましょう。この1ヶ月は平和をテーマに宣教をしています。

77年前の7月16日の夜、平塚大空襲がありました。72年前の今日は、空襲が終わり、一面が焼け野原になり、空襲の被害が明らかになってきた時間でしょうか。この中にもその空襲を経験された方、その話をよく聞いた方がいらっしゃると思います。多くの人の命が奪われたことと平和の大切さを覚えて礼拝をしましょう。

戦争は、小さなことがきっかけで起こります。小さなことに対しての気持ちが、どんどんエスカレートしていって、大きくなってゆくことで戦争は始まります。戦争は私たちの中にある小さな気持ちから始まるのです。そしてだんだん「自分たちを守るためだ」「戦争もしょうがない」そのような思いへと高まって戦争が始まってゆきます。戦争は誰か一人が始めるものではありません。一人一人の小さな思いから始まってゆくものです。小さな思いが大きくなって戦争になります。戦争は悲惨です。戦争こそもっとも大きな「罪」と言えるでしょう。

そして小さなことが大きくなってゆくのは、平和も同じです。平和もだれか一人が実現させるものではありません。平和はみんなの小さな「平和は大切」「戦争は嫌だ」という気持ちから、どんどん広がってゆきます。平和は大事さを確認しあうことで、広がってゆきます。そのように小さな平和の気持ちがどんどん大きくなって、広がって、世界の平和が実現してゆきます。だからこそ小さくても、私たちが平和を求める気持ちを持っていることが大切です。

私たちは小さな平和を持ち寄って、大きな平和を実現させてゆきましょう。すぐに世界の平和を実現させることはできないかもしれません。でも何かお互いの平和につながることはできないでしょうか?小さなことが大事です。ちゃんと挨拶をする、いつもしてもらっていることに感謝を伝える、落ち込んでいる人に励ましの言葉をかける、困っている人と分かち合う、ゆっくりと話を聞く、こどもを大切にする・・・。私たち一人一人の生活の中で、お互いの中で、どのような平和を造り出すことができるでしょうか?大きなことでなくて構いません。小さなことが大事です。神様は平和への気持ちをきっと大きくしてくださるお方です。そして神様は全員が満たされるような平和を下さるはずです。神様は平和を実現するものとして、私たちを用いて下さるはずです。自分ができる平和に思いを巡らせて、祈ってゆきましょう。

今日は聖書から、イエス様は「戦争はしょうがない」そういう気持ち、罪を小さくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。イエス様はそういう気持ちに気を付けなさいと、私たちに注意をしてくださいます。そしてイエス様は「平和は大切」そう思う小さな気持ちを大きくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。イエス様は私たちの心にある小さな平和の思いを大きくしてくださるお方です。聖書を読んでゆきましょう。

 

今日はマルコによる福音書8章14節~21節をお読みしました。今日の個所では14節、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れています。そして16節では何かを論じ合っています。パンを忘れたというほほえましい小さな出来事が、弟子たちの間で大きなイライラに発展してゆきます。パンを忘れた責任はだれにあるのか、誰が食べて、誰が食べないのかを議論していたのでしょうか?

イエス様は15節で「パン種によく気をつけなさい」と言います。パン種とは、パンを膨らませるための、パンのひとかけらです。当時は、前に食べたパンのかけらを取っておいて新しく作るパンに混ぜ、パンを膨らませました。パン種とはどんな意味でしょうか?

聖書においてパン種は善いたとえにも、悪いたとえにも使われます。善いたとえの例は、ルカ13章21節にあります。神の国はパン種のようなものだ。パン種は一度生地の中に入り込むと、その影響を止めることはできません。どんどん膨らんでゆきます。このようにパン種は、神の国がイエス様という一人の人から、大きく広がってゆくのだというイメージで使われています。

そしてパン種は悪いイメージにも使われます。パン種は腐敗すること、罪の象徴です。ひとたびパン種がパンの中に入り込むと、小さくてもその人全体、その社会全体に影響し、全体の性質を変えてしまうというイメージです。罪や汚れが入り込むと、人間全体に影響するという意味です。

今日、パン種が具体的に何のことを言っているのかわかりませんが、悪いイメージの方で使われているのは確かでしょう。何か小さな悪いものが、自分たちに入ると、大きく広がっていくということに注意を促しています。他人を責める思いが知らぬ間に自分たちの中に入ってきて、大きくなって、私たちの自身の考え方、そしてメンバー全員の気持ちが変わってしまうことに注意しなさいと言っています。

おそらくイエス様はパンを忘れたときの、弟子たちの反応を見て、この言葉を語ったのでしょう。ほほえましい小さな出来事から誰が食べるのか、誰の責任か、そのような大きな思いへと広がっていることを見抜いたのでしょう。今、自分の中にある悪い思い、パン種、罪に気をつけなさいと言ったのです。

パン種は罪とも言い換えることができるでしょう。罪とは人を傷つけたり、人から奪ったり、人を利用したり、怖がらせたり、独占しようとすることです。そのようなことが小さくてもお互いの中で大きくなり、いつのまにかそれが当然のことになってゆくのです。

小さなパン種がパン全体を変えるように、自分たちの罪が、周囲の人々も変えてしまうのです。周囲の人を巻き込んで本当は間違っていることを、正しいこと、しょうがないことと思うようになってしまうのです。他の人もやっているし、このくらいいいやと思ってしまうのです。今日の場面で言うなら、自分がファリサイ派やヘロデ派の考え方と同じなってしまうということが起こるのです。小さくても間違った事を繰り返し見ていると、いつのまにか正しいように感じ、自分もそれをしていいと思ってしまうのです。イエス様はそのことに注意を向けています。

イエス様は自分の身近に起きている罪、人を傷つけている事に注意するようにと言っています。そしてそれがパン種のように自分の中に入ってこないように気をつけなさいと言っているのです。困った時にふと思う悪い思い、一人一人の中にあるパン種、罪に気を付けなさいと言っているのです。

ではイエス様が目を向けさせようとしているのは何でしょうか?イエス様が目を向けて欲しいのは19節「あの時パンが増えたではないか」ということです。イエス様はパンの奇跡のことを思い出させようと繰り返し問いかけています。5000人に配った時はいくつ余ったのか、4000人の時はいくつ余ったのかと聞いています。これは何を意味するのでしょうか?みなさんもパンの奇跡を思い出してください。あの奇跡は圧倒的に足りなかったもの(5つのパンと2匹の魚)が、不思議と増えて、満たされて、余るほどになったという奇跡でした。イエス様は今度は、善いものが増えるイメージを語っています。圧倒的に不足しているもの、小さな善いものが増えてゆくイメージを思い出させているのです。イエス様はここで2つのイメージを語っています。悪いものが増えることへの注意と、良いものを増やす神様の働きです。

イエス様はここで2つのイメージを語っています。1つはパン種が全体に影響するように罪が大きくならないように、気をつけなさいというイメージです。そしてもう1つは5000人の食事のように、イエス様はこれしかないと思うような小さな思いを大きくしてくださるというイメージです。ここでは神様は小さくても、少なくても良いものを大きく広がるようにしてくださると伝えているのです。

平和への思いも同じです。それぞれが持っている平和への思いはすごく小さいかもしれません。みんなを平和にするには本当に小さいかもしれません。できることは目の前の人との平和だけかもしれないけれども、でもイエス様はその本当に小さな平和を大きくしてくださるお方です。

今日私たちは小さな平和を大切にしたいのです。イエス様は「あまったパンはカゴいくつだったか」そう呼びかけ、私たちの小さな思いを大きくしてくださること、小さな平和への思いを大きくしてくださることを約束してくださっています。そして私たちは小さくても悪・罪に注意をしたいのです。イエス様は今日私たちに「パン種に気を付けなさい」と呼びかけているからです。

この世界でもっとも大きな悪、罪は戦争をすることです。戦争も小さな、戦争を容認する気持ちから始まります。私たちはそのパン種、自分の中の気持ちに気を付けてゆきましょう。

平和をもっと願ってゆきましょう。小さくてもいいのです。自分たちの目の前のことでもいいのです。平和を願って隣人と接してゆきたいのです。イエス様がきっとそれを大きくして、世界にありあまるほどにしてくれるのです。今日それを悟りたいのです。

イエス様は私たちに「悟りなさい」と呼びかけています。小さくても悪いものが大きくならないように、そして小さくても良いもがは大きくなるように、イエス様が導いてくださいます。私たちはその希望を持って、歩んでゆきたいのです。イエス様の声を聞き続けたいのです。そのように共に平和を祈って、イエス様に従って歩んでゆきましょう。お祈りします。