【全文】「立ち止まって聞く神」マルコ10章46節~52節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に集えたこと、またYouTubeでも共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝しましょう。

また、コロナでなかなかできなかった「証し」を聞くことができ、本当に感謝です。互いの声に足を止め、聞いてゆくことは、大切なことです。私たちは互いの言葉を聞くことによって互いを知るだけではなく、お互いの言葉を通じても神様に出会うことができるからです。特に沖縄からの声は私たちの耳にはあまり届いていないでしょう。私たちは沖縄からの声を聞き逃しているでしょう。私たちが今日、仲間の言葉と沖縄からの声に耳を傾け、立ち止まって考えることができたことに感謝します。

今日は平和祈念礼拝です。これまで平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。息子の病からの癒しを願う父親のように、「救ってください」と叫ぶように、平和を叫び求めてゆきたいと聖書を読みました。今日聖書から見ることは、それとは反対のことかもしれません。平和とは、小さな声に耳を傾けてゆくことなのだということを見ます。平和とは声にならない叫びを聞いてゆくことです。平和を願っていても、言葉を取り上げられている人がいます。平和を願っていても声を出せないでいる人がいます。平和を願っていても声を出しづらい人がいます。周りの大きな声に遮られている人がいます。

私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。そして新しい道を示して下さるイエス様をみてゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。

今日はマルコ10章46節~52節の物語を読みました。バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。当時は(今も)障がいを持っていると激しい差別を受けました。そして必要な福祉は提供されず、経済的にも困窮をしていたのです。バルティマイもそうでした。46節彼は道端に座って物乞いをしなければ生きてゆけなかったのです。彼の居場所はどこにもありませんでした。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができなかったのです。道端へと追いやられていたのです。社会からはじき出されていました。彼がすぐに必要としていたのは何より、今日寝る場所、今日の食べる物だったでしょう。そのために物乞いをせざるを得ませんでした。

バルティマイはイエス様がこの道を通る聞きました。そしてある言葉を叫んだのです。イエス様に一番初めにしてほしい、具体的な行動として求めたことを叫びました。しかし彼の叫びは「施しをください」や「治してください」という叫びではありませんでした。彼は「わたしを憐れんでください」という叫びだったのです。これは驚くべきことではないでしょうか?彼はイエス様に呼びかける時、何よりもまず「憐れんでください」と叫んだのです。

憐れむというのは難しい言葉ですが、聖書の元の言葉では「憐れむ」という意味以外にも、同情する、慈しむという意味があります。それは具体的に「私に同情し、憐れみ、慈しんでくれ」という叫びです。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉に置き換えるとするなら「自分の気持ちを分かってもらう」それが憐れんでもらうという意味でしょう。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください。どうか私が、今までどんな気持ちで生きて来たのか、聞いてください、分かってください」そんな叫び声だったのではないでしょうか。誰もが彼を無視し、通りすぎ、彼が声を上げてもかき消されてしまったのです。彼はそのすべての気持ちを「憐れんでください」という言葉に込めて叫んだのです。

聖書にはその時、周囲がどのように反応したかも残しています。48節「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」とあります。なんと群衆は黙らせようとしたのです。障がいをもった人、弱さを持った人、道端に追いやられている人が救いを求めて叫んでいる状況です。それを叱りつけ、黙らせようとする、冷徹な反応です。

「気持ちを分かってほしい」と言う叫びは群衆には、全く聞こえていませんでした。群衆は聞こうとしていませんでした。周囲の人々、それは社会と言い換えてもいいかもしれません。この目の見えない人は、社会から無視され、社会の隅に追いやられていたのです。そして彼は社会に必死に声を上げました。しかし社会はそれを聞こうといませんでした。それどころか社会から黙れと恫喝さえされたのです。この場面はそのような冷たい社会が描かれています。小さな声を聞かない社会が描かれています。そのたびに彼は「だれも聞いてくれない」「だれも分かってくれない」と孤立感を味わったでしょう。でもだからこそ彼はもっと大きな声で叫びます。「今度こそ、今度こそ、きっと分かってくれる人が来る」「私の前を通る」そう期待して彼は叫んだのです。

そして多くの人が通りすぎる場所でイエス様は立ち止りました。49節「イエスは立ち止まって」とあります。イエス様はそこに足を止めたのです。誰も足を止めなかった場所でイエス様は足を止めるお方です。そしてイエス様が黙らせたのは、バルティマイではなく、その叫びを遮ろうとする群衆でした。そして道端から、社会の隅から、彼を自分の前に連れてこさせました。神の前に呼び出すのです。そしてイエス様は51節「何をしてほしいか」と尋ねます。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。

彼はようやく本当の願いを口にすることができました。本当はずっと願っていたことがあったのです。彼は51節「目が見えるようになりたいのです」と言いました。重い一言です。「目がみえるようになりたい」それは今までの彼の人生の苦労が凝縮された言葉です。障がいをもち、困窮し、無視され、黙らされていた、彼は本当の願いをようやく言葉にすることができました。それこそがもうすでにイエス様が起こした奇跡と言えるでしょう。聖書によれば、52節彼はすぐに見えるようになり、イエス様に従ったとあります。

この物語をどのよう理解しましょうか。私はただの奇跡物語としてだけではなく、イエス様の生き方をここから学びます。私たちは誰かに「わかってほしい」そう思うことがあるものです。本当は今こんな気持ちでいる。こんな出来事があった。誰かにそれを「わかってほしい」という叫びは私たち一人一人の中にもあるのではないでしょうか。

そして本当は私たちの周りにも「わかって欲しい」と叫んでいる人がいるのではないでしょうか?彼らはきっと私たちに、何かをすることよりも、まず先に「憐れんで欲しい」「わかって欲しい」そう思っているのではないでしょうか?

私たちは、それを今日の個所のような無視をする群衆となっていないでしょうか?どなって声をかき消す群衆の一人となってはいないでしょうか。私はもう一度苦しみの声を聞こう、そのために立ち止まりたいと願います。かき消されてゆくその声に耳を傾け、足を止めて、共感し、突き動かされて、行動する。イエス様のようなそんな人間になりたいと思うのです。

私たちにとって今日の個所から知る希望とは何でしょうか?それは、私たちの神様は苦しみに足を止めて、共感し、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。私たちには人生の中で傷つき、誰にも理解されないことがあります。でも私たちは神様に「憐れんでくれ」「わかってください」と祈ることができるのです。それが今日の個所の希望、福音ではないでしょうか。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?イエス様のように生きるとはどんなことでしょうか。それは多くの仲間が持つ、社会の中にある「憐れんでください」「わかってほしい」という叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくことではないでしょうか?

個人個人の願いがあるでしょう。それに足を止め、互いの言葉を聞いてゆきましょう。そして平和を求める声があるでしょう。平和を求める声は小さくさせられています。どこの国が危ない、どこの国が攻めてくるという大きな声に、日本人は平和ボケしているという大きな声があります。しかし私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声に耳を傾けたいのです。小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。