【全文】「礼拝に招かれたこどもたち」 マルコ10章13~16節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聴きながら礼拝をしましょう。そして今日から1ヶ月間「礼拝」をテーマとして宣教をします。私たちが変わらずに一番大切にしてきたのは礼拝です。私たちはこの礼拝にどのように向き合うべきなのか共に聖書から見てゆきましょう。

こどもと一緒に礼拝をすることについて、どのようにお感じでしょうか?やはり静かに礼拝したいと思う人もいるでしょう。み言葉を求めて教会に来たら、こどもの声がして集中できなかったという人もいるでしょう。あるいは子育てに疲れた人が、礼拝くらいはこどもに邪魔されず、ちゃんと話を聞きたいのにと思うこともあるでしょう。もちろん、こどもの元気な声が聞こえてうれしいという人もいるでしょう。

実は私は落ち着いて座っているのが苦手なタイプです。同じ場所にずっといることが苦手なのです。本当は私も席を立ったり座ったり、落ち着きがありません。すぐにスマホが気になってしまします。皆さんの前ではなんとか我慢していますが、私も落ち着きのないこどもの一人かもしれません。

そんなこどもたちとどのように礼拝を共にするかは教会の難しいテーマです。教会のレイアウトや歴史、考え方が違うので、それぞれの教会でこどもたちとの礼拝し方は違います。また集っているこどもの年齢や特徴も考慮されて、それぞれの教会の在り方が決められています。教会にこどもがいる限り、どのように一緒に礼拝するかという問いはずっと続きます。でも教会ににぎやかなこどもがいることは贅沢な悩みかしれません。感謝できる事かもしれません。こどもたちと礼拝できることに感謝です。こどもがいない教会では、どのように一緒に礼拝するかは問いにならないのです。

私は休暇中、いろいろな教会に行くようにしています。他の教会で礼拝を受けることは、自分にとっても大きな刺激になるからです。しかし、こどもと一緒に礼拝に出ることは実はなかなか難しいことです。親としてはせっかく一緒に教会に来たのだから、できれば一緒に礼拝に出たいと思って向かいます。多くの教会では、受付の方に一緒でもいいかと尋ねると「歓迎しますよ」と言われます。

しかし注意が必要です。いざ礼拝堂に入ると他のこどもは別の部屋で遊んでいて、礼拝堂がとても静かなのです。私はこどもたちを、きっとおとなしくさせていられないと思って、慌ててこども部屋に連れてゆきます。そしてこども部屋で一緒に礼拝をするのですが、あまり礼拝をした気分にはならなかったりします。そもそも音声が聞こえなかったりもします。

少数ですが、一緒に礼拝をできる教会もあります。こどもの声も別に構わないという教会もごくまれにあるものです。そのような教会はこどもの様子を見れて安心ですが、他のこどもが気になったり、礼拝に集中できなかったりもします。うまくメッセージに集中できないことがあるのです。他にも、教会によっては礼拝の最後、祝祷の時間になるとこどもたちが前に出てきて、牧師が一人ずつに手を置くという教会もありました。

それぞれの教会が、それぞれの方法でこどもを大切にしようとしています。その正解はひとつではないと思います。こどもといっしょに礼拝できる喜びと、礼拝に集中できることはどちらも大切だと思います。親でさえ一緒に礼拝したい気持ちと、礼拝に集中したい両方の気持ちがあるものです。ただ願うのは、大人によってこどもが教会から排除されず、受け入れられることです。「歓迎します」「大切にします」というのが、言葉だけではなく、具体的な形になってゆくことが大事です。

私たちの教会はこどもプロジェクトから「こどもを大切にする教会」を始めました。私たちはこどもをどのように受け止めてゆくでしょうか。正解は一つではありませんし、こども自身が成長し大人になります。そして新しい命も生まれます。大人もこどもも変わるのです。私たちなりにどのようにこどもを受け止めてゆくか。今の子どもたちとどのように礼拝するか、いつも考え続けてゆきたいのです。聖書からこのことを読み、考えてゆきましょう。聖書を読みましょう。

 

 

 

今日お読みするのはマルコ10章13節~16節です。ルカ福音書で並行する箇所が、昨年度までの主題聖句でしたので、何回か似た場所から宣教をしている箇所です。13節、人々はイエス様に触れていただくために、こどもを連れてきました。人々と書いてあるだけで、親とは限定されていません。近所の人か、親戚の人か、おじいちゃんおばあちゃんかわかりません。とにかく人々はこどもに、イエス様に近づいて欲しいと願い、連れてきたのです。あなたにも信仰を持って欲しい、そう願って連れてきたのです。しかし弟子たちはこどもたちを叱りました。なぜ叱ったのかという理由も、どのように叱られたのかということも書かれていません。あるいは誰が叱られたのかも書いていません。人々は誰なのか、どのような理由で怒られたのかは私たちの想像力にゆだねられています。

怒られたのは、連れてきた人々だったとも読めます。こどもを連れてくるな、静かにさせなさいと怒られたのでしょうか。もちろんこどもが怒られたとも読めます。こどもが怒られている姿はすぐに想像がつきます。ふざけない、おしゃべりしない、落ち着きがない・・・。

そのような態度は礼拝者としてふさわしくないと怒られたのでしょうか。怒る気持ちも怒られる気持ちも、どちらもわかるような気がします。落ち着いていられない私。ちゃんと集中できない私。他のことにすぐ気が行ってしまう私。眠くなってしまう私。礼拝者としてもとても不十分な私。おそらく私もこの場所にいたなら、イエス様に近づいて怒られた一人だったでしょう。この話は礼拝にふさわしいのは誰かということが投げかけられています。

この話は「金持ちの男」の話の前にあります。実は次の話も、誰がふさわしいかというテーマで展開します。当時は、たくさんの財産を持っている人こそ、神様に祝福された人で、救われる人と考えられていました。金持ちこそ神の国に入ると信じられていたのです。社会で成功するような人間こそ、豊かさを受け継いだ人間こそ、神の前にふさわしいと考えられていたのです。逆に子どもや貧しい者は神の国入れないと信じられていました。ですからイエス様に近づく、礼拝者にふさわしくないとされたのです。不十分な者は、じゃまにならないように、近づかないで遠くから礼拝するように言われたのです。

しかしイエス様は23節「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しい事か」と言っています。それは今日の14節「神の国はこのような者たちのものである」と対比される言葉です。金持ちの男の話と、こどもたちの話、この二つの共通するテーマは人の目にはふさわしくないと思えるような人が神の国に入るということです。私たちがふさわしいと思う人こそ、神の国に入るのが難しいということです。

むしろ私たちから見て、不完全な者、不十分な者こそ、神の国に入るのだということです。イエス様はこの不十分と思われている人が、礼拝に来るのを妨げてはならないと言います。むしろそういう人を連れてきなさいと言うのです。イエス様は不十分と思える人こそ神の国に入る、礼拝に招かれていると言うのです。

この招きは私たちの礼拝にもつながっています。ここは礼拝するには不十分な者が集められている場所です。本当は私なんか、神様の前に立つ資格なんてないと思う人が招かれている場所です。ちゃんとできない人こそ招かれています。こどもこそ招かれているのです。すべての人が招かれていると言えるでしょう。大事なのは14節「連れてくること」と「妨げとならないこと」です。神の国はいつも叱られっぱなし、失敗ばかり、不十分で、とても神様には近づけないように思われる人たちのものです。神様はこのような人が神の国に入ると言うのです。

私は自分をこのこどもに重ねます。私にはいろいろな不十分や力不足があります。神様の前に出るにはとても自信がありません。私はきっと神の国には入れないと思います。でも神様はそのような私を招いてくださいます。不十分な私を神の国に招き、礼拝に招き、そして手を置いて祈ってくださるのです。

きっとみなさんもこのこどもの一人でしょう。それぞれには不十分や力不足があるでしょう。神様の前に胸を張ることができない部分があるでしょう。誰もが、自分は神の前にふさわしいという自信を持つことはできません。でもそんなあなたを、イエス様は神の国に招き、礼拝に招き、手を置いて祈ってくださるのです。

もちろん教会に集うこどもたちも、同じです。神様の前にふさわしいとは思えないかもしれません。でも神様は、こどもたちこそ神の国に招き、礼拝に招き、抱き上げて、手を置いて祈ってくださるお方です。

今日集った私たちは、大人もこどもも皆、この物語にでてくるこどもです。ほんとうは不十分だけど、神様に招かれて集いました。年齢も考え方も違う私たちの共通点、それは互いに不十分だということです。そしてこのような者こそ神様に招かれているのです。

イエス様はこのように、こどもを、私たちを招き、抱き上げて、喜んでくださるお方です。私たちはこの仲間と共に礼拝をしてゆきましょう。神様に招かれた者として、礼拝を共にしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。私たちは不十分なお互いを大切にする教会です。そこに神様の招きがあると信じ、共に礼拝をしましょう。そしてどのようにすれば、よりよく共に礼拝できるかを考え続けてゆきましょう。イエス様が集まった人を喜び祈ったように、私たちも集えたことを喜び互いに祈りましょう。お祈りいたします。