【全文】「わたしたちの神」マタイによる福音書6章9~13節

 

天にまします我らの父よ(マタイによる福音書6章9節)

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。6月までは地域協働というテーマでこひつじ食堂と私たちの教会、聖書について考えてきました。7月と8月は主の祈りをテーマに宣教をできればと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

「主の祈り」とは讃美歌の1ページ目に書いてある祈りです。主の祈りはイエス様が私たちに直接教えて下さった祈りとして、教会の中で特に大切に祈られています。今日も礼拝の中で祈りました。私たちはこの「主の祈り」を1年に何十回も祈ります。この祈りはキリスト教でもっとも親しまれ、大切にされている祈りです。

しかしある人が言います「この祈りは日々殉教している」と。殉教するとは死んでしまうということです。日々この祈りは殺されてしまっているということです。それが意味するのは、主の祈りが大切な意味や内容がよく考えられないままに祈られ、まるで呪文のようになってしまっているということです。私たちは繰り返し主の祈りを祈るのですが、私たちはまるで呪文のように意味を考えずに祈り、大切な中身を考えなくなってしまっています。

私たちは本当にこの主の祈りに、自分の心を寄せて祈ることができているでしょうか。この祈りは、ただ覚えればよい、唱えればよいのではありません。イエス様が教えた祈りを呪文としないで、祈りとすることが出来ているでしょうか。「主の祈り」を「私の祈り」とすることができているでしょうか。そのことを自分自身に問いかけながら「主の祈り」について考えてゆきたいと思います。

このように主の祈りについて7月8月にわたって考えたいと思います。そして主の祈りのすばらしさを語るだけにはしたくありません。もう一度私たちがこの祈りを自分の祈りとして受け止め直すことができるように考えたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

今日は主の祈りの「天にまします我らの父よ」について考えたいと思います。まず天にましますの「まします」とはどんな意味なのかが疑問でしょう。主の祈りは古語(昔使われた古い言葉)で祈られています。これも呪文になってしまう原因です。「まします」は「ある」や「居る」の尊敬語です。ですからこれは「天にいらっしゃるわたしたちの父よ」という意味です。

「父よ」という言葉もあります。父はイエス様の話したアラム語では「アッバ」という言葉です。以前にドイツの学者エレミアスという人が「アッバとは、こどもが父親のことを『おとうちゃん』と呼ぶ時に使う表現だ」と紹介をしました。そして私たちは身近な存在として神様に呼びかけてよいのだと紹介されました。この説は共感を持って瞬く間に世界に広がりました。しかし後の調査で「アッバ」にはそのような「おとうちゃん」といったような使われ方をしないことが判明しました。単純に父という意味だったのです。この説をとなえた学者エレミアスも今はおとうちゃん説を撤回しています。しかし、いまだに訂正の情報は広がっていません。一度浸透した情報・信仰の訂正・更新がいかに難しいかを表しています。このアッバとはおとうちゃんという親しみを込めた意味ですよというのは、少し古い話です。とらえ方としては共感できるのですが、今日はもうしません。そして何とかして、主の祈りを新しく受け止めたいと思います。

ひとつわかっていることは、当時、神様に向けて「父よ」という呼びかけをしたこと自体は特殊なことであったということです。当時ユダヤ教では神様にむけて「父よ」と呼びかけることはほとんどありませんでした。そのような中でイエス様が「父よ」と祈ったことは確かに特徴的なことです。

先日こどもに「パパ、神様って男なの?」と聞かれました。「父よ」と祈っているのですから、当然、男でしょうか。神様は母ではなく、父なのでしょうか。こどもに「神は男か?」と聞かれて、父・おとうちゃんであり牧師である私はどうこたえるべきか悩みました。神は男だったと明確に書いてある聖書箇所はありません。でも多くの人は神は男性であるというイメージもっているでしょう。こどもですら「神様は男か?」と聞いてくるほどです。ある調査によると、自分の思う神様のイメージを描いてみてと言うと、アメリカ人も日本人も多くの人が白人・高齢・男性の絵を書くそうです。

なぜ私たちは神様は男性だとイメージするのでしょうか。聖書には神様が女性のイメージで語られる箇所もあります。しかし私たちは神様の性別を考える時、いつのまにか男性をイメージするのです。

おそらく神様は男性でも女性でもありません。神様は性別を超えた存在です。私たちは大人もこどももすぐに、男なのか女なのか、どちらかを探り、決めようとします。そして私たちの大半は神様は男性であるとイメージします。しかしおそらく神様はどちらでもありません。私たちが「父よ」と祈る時、神様は男性であるとイメージする必要はありません。主の祈りは「我らの母よ」でもいいはずです。そのようなイメージも大事です。少しインパクトは弱いかもしれませんが性別を固定せず「我らの親よ」と祈ってはどうでしょうか。そもそも「我らの神よ」でもいいはずです。

神様が男であると強調することには別の課題もあります。なぜなら神は男であるというイメージが、支配者は男であるべき、人の上に立つのは男であるという発想につながるからです。神様は男、だからリーダーには男がふさわしいという発想になるからです。

神様は男でも女でもありません。神様は神様です。私たちは私たちの持っている、男女二分法に注意しながら「父よ」と祈る必要があります。またこれは呪文ではありません。「私の祈り」である必要があります。「我らの神よ」と変えて祈っても私は問題がないと思います。神様は性別を超えるお方です。ではなぜイエス様は「父よ」と祈ったのでしょうか。その理由が気になるところです。「父よ」と祈った理由は、イエス様が神様に「おとうちゃん」と親しみを込めたからではありません。なぜイエス様は「母よ」「母ちゃんよ」あるいは「神よ」と祈らずに「父よ」と祈ったのでしょうか?神様がまるで男性であるかのような祈りを教えたのでしょうか。

そのように祈った理由のひとつに、ローマ皇帝に対する抵抗が含まれていたという説があります。この祈りはローマ帝国の支配への抵抗が含まれているという説です。イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国という国が支配していました。この帝国は圧倒的な軍事力で世界を支配していました。ローマ帝国のトップはローマ皇帝です。そしてローマ皇帝は戦争の神様を熱心に拝みました。戦争に勝ちたいと戦争の神様に祈ったのです。

戦争に勝ち続け、世界帝国となるとローマ皇帝は自分のことを「神の子」だと言いはじめました。そしてローマ皇帝は「私はこの地上の国民の『父』である」と言いはじめました。そしてまたある時は自分のことをこの世界の「救世主」であると言いました。そして自分を神と等しいものとして拝むように、人々に強制をしたのです。イエス様やその後の時代の人々はそのことをよく知っていたはずです。そのような中でイエス様は神様に向けて「父よ」と祈るように教えました。イエス様はローマの皇帝とは違う対象に向かって「父よ」と祈るように教えたのです。

もしイエス様と弟子たちが神様に「父よ」と呼びかけるなら、それは私たち一人一人はローマ皇帝の奴隷、ローマ皇帝のこどもではなく、一人一人が神様のこどもであるということを意味することになります。

神様にむけて「父よ」と呼びかけることは、私たち一人一人は皇帝の奴隷ではないこと、一人一人に人権があり、自由があり、一人一人に尊ばれるべき命があることを意味しています。「我らの父よ」と呼びかけるのは、私の命は誰にも侵害されない命だ、私たち一人一人の命が大事にされるべき存在だということを表明する祈りなのです。

「我らの父よ」には、他者の命が自分のものであるかのように振る舞う独裁者の前で、すべての命が大切にされるべき命であること、私たち全員が神のこどもであることを訴えているのです。「天にまします我らの父よ」とはそのような抑圧の中で命の大切さ、自由さ、平等さを表明する祈りです。

「天にまします我らの父よ」について見て来ました。私たちはこのいつもの祈りをどのように祈るでしょうか。この祈りで示されているのは、私たち一人一人は直接神様から命をいただいている神の子だということです。私たちはお互いが、そしてすべての命が神の子であり、尊い存在であるというイメージを持って、この祈りを祈りましょう。世界には権利を奪われ、押し込められている人がいます。いじめられている人、ハラスメントを受けている人がいます。自由に生きることができない人がいます。その命が、すべて神のこどもとして大切にされるように、そう願って「天にまします我らの父よ」を祈りたいと思います。

私たち人間は全員が神の子です。だからもう誰にも抑えつけられる必要はありません。性別や年齢や職業やルーツによって抑えつけられる必要はありません。そのことを祈りたいのです。そして私たちは地上の支配者にも注意を向けつつ祈りたいと思います。私たちを本当に導くのは、愛の神、命の神、平和の神です。戦争へと導くリーダーは「我らの父」「我らの神」ではありません。私たちのリーダーではありません。私たちは私たちの神に向けて祈りましょう。最後に主の祈りをともに祈りましょう。