【全文】「救い出したまえ」マタイ6章9~13節

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音は私たちの礼拝の一部です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。

7月8月と主の祈りを宣教のテーマとしてきました。今日が6回目となり、最後です。この祈りをただ呪文のように唱えるものとしてしまわずに、もう一度この祈りの中にある豊かなイメージを確認してきました。いままでより少し、この祈りをお腹に力を入れて祈るようになったでしょうか。今日はこの主の祈りの「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」について考えたいと思います。

教会ではクリスチャンになる、洗礼を受ける事を「救われる」と表現する場合があります。「〇〇さんは救われた」という会話は「〇〇さんは洗礼を受けた」という意味です。しかしこの洗礼を受けたことを「救われた」と表現する方は減少傾向にあると思います。それは、では洗礼を受けていない人は救われない人なのかという疑問と、洗礼を受けることがすなわち救われるということなのかという2つの疑問があるからです。救われるとはどんな意味かという疑問や考え方の発展から「洗礼を受けた=救われた」と表現する方が少なくなっています。

ではキリスト教の「救われる」とはどんな意味でしょうか。ご存じのとおり、キリスト教を信じれば悪いことが起きないわけではありません。クリスチャンになれば願いが叶うわけでもありません。クリスチャンになると、生活が安定し、心が安定するわけでもありません。

それは私たちがいろいろと苦労している姿を見てもわかると思いますし、私たちが祈っている姿からもわかると思います。今日の私たちの主の祈りには「救いたまえ」とあります。これは「救ってください」という意味です。この祈りを祈っている人はまだ救われていない人です。まだ救われず、いま試練と誘惑と悪の真っただ中にいる人です。この祈りを祈っている人は、自分の願いが叶わず、神様にすがっている人です。

当然ですがクリスチャンにも、他の人と同じように人生に試練や誘惑と思えるようなことがあります。悪とも思えるようなこともあります。あるいはクリスチャンだからこその試練もあります。クリスチャンがイエス様のように愛に生きようとすれば、余分に苦労があります。毎週の礼拝を守ろうとすれば、様々な苦労があります。残念ながらクリスチャンは他の人以上に試練と誘惑があると言えるでしょう。私たちは試練に合わせないでくださいと祈っていますが、それはかなえられない祈りのようです。

私たちに様々な問題があることからわかるように、私たちは洗礼と同時に救われ終わったのではありません。洗礼を受けたか、受けていないかに関わらず試練は訪れます。だからこそ私たちはすべての人が一緒に祈ります。全員が、今日、神様に救って欲しいと思って集まり、祈ります。私たちは今日、全員、まだ救われ終わっていません。私たちは全員、今なお試練の中にいます。私たちは試練があり、救って欲しいと思っている仲間です。私たちは主の祈りを祈っている仲間です。

聖書のもともとの言葉で「救う」とは、戦場から脱出する時に使う言葉です。敵に囲まれて八方ふさがりの状況に、援軍が来て、戦場から引っ張り出されることが「救われる」ことです。そのままでは死んでしまうという状況に置かれている人が「救ってくれ」と叫び、助けられる、それが救いです。絶体絶命の私を助けて欲しい、救いたまえという叫びがこの祈りです。

キリスト教を信じていても試練や誘惑が起き、悪に囲まれる時がありますが、ではキリスト教を信じるメリットは何でしょうか。キリスト教では信じても信じなくても、試練があります。苦しいことがあります。救って欲しいことに遭遇します。では信じることに何の意味があるのでしょうか。なぜそのような信仰を持つのでしょうか。もしキリスト教のメリットを挙げるなら、祈ることができるということでしょう。キリスト教には祈ることができるというメリットがあります。どんな人も同じ試練に遭遇します。しかしその時、キリスト教には「救ってくれ」と祈る先があります。私たちには必ず援軍が来て、私たちをここから救い出してくれると思える人がいます。その人に向けて祈ることができます。それがキリスト教のメリットと言えるでしょう。それは事態を変えない、ただの気休めのように感じるかもしれませんが、そうではありません。誰かに祈ることができること、それは私たちを変えます。その時、私たちは一人ではないのです。私たちは孤立無援で試練に囲まれているのではないのです。

私たちが試練にあう時、神様は私たちと共にそこに立っています。試練のただなかにあって私は一人ではないのです。共にいる存在がいるのです。私たちはその方に救ってくれと祈ることができるのです。そしてそこからもう一度力が与えられます。その心強さは私たちを確かに変えます。神様の存在が私たちを絶望させず、私たちに力を与えるのです。

クリスチャンは強い人間ではありません。クリスチャンはいつも神様に弱々しく「救ってください」と祈っています。その祈りをする人は、私は自分だけでは抜け出すことができない弱さがあるとわかっているから祈ります。自分の弱さを良く知っているから祈るのです。人生には自分の思いや力だけではどうにもならないことがあります。誰かが働いてくれないと、神様が私たちに働いてくれないと、力をくれないと、抜け出すことができない試練があります。この祈りは強い人の祈りではなく、自分の弱さを知っているからこそ祈ることができます。

このように自分の弱さを知って、祈るのがクリスチャンといえるでしょう。私たちは弱さと欠けを持った等身大の私として神に祈るのです。救ってくださいと祈るのです。私たちはこの祈りを自分の弱さの中で、そしてそこに一緒に立つ神様を感じながら祈りたい、そう思います。

「救い」についてもう少し考えましょう。私たちが救われたいのは何から救われたいと願うのでしょうか。今抱えているひどい人間関係の中から、ひどい経済状態から、ひどい病気の中から、思う様に活躍できない場所から、私たちは救いを求めています。私の今のこの状況から、どうか私を救ってくださいと祈ります。

そしてもうひとつ大事なことがあります。これは私の救いではなく、私たちの救いを求める祈りだということです。個人的な祈りではなく、私たちみんなの祈り、世界の救いを求める祈りでもあるということです。私たちの世界には大きな試練、悪と不正がたくさんあります。この祈りはそのような世界からの救いを求める祈りでもあります。どんな試練と悪があるでしょうか。例えば私たちの世界には同調圧力があります。

周りと同じにならなくてはいけない、少し違う人は他の人に合わせなければいけない、我慢しなくてはいけないという力が働きます。それも試みのひとつでしょう。本当は一人一人が周囲を気にせずに、その人らしくあることできる世界が来て欲しいです。私の救いだけではなく、私たちの救いを求めるとは、このような同調圧力から解放されること、不自由な世界からの救いを求めることでもあります。

他にも今の日本は親の経済力で、子どもの人生が決まってしまうと言われています。いわゆる親ガチャと言われます。私たちの世界にはそのような悪と不平等があります。そしてそれはガチャガチャやくじ引きと同じように、格差はしょうがないと受け止められる風潮があります。私たちの救いをもとめる祈りはこのことにも向けられてゆくでしょう。このような不平等なシステムから、それをしょうがないと思わせる悪の力から私たちを救って欲しいという願いです。主の祈りの他の個所と同様に、これは個人の祈りというだけではなく、世界に向けられている祈りでもあります。

「救い出したまえ」それは試練にあう私たち、すべての人の祈りです。そこからの脱出を求める祈りです。この祈りは、神は私たちと共にいると感じさせ、力を与える祈りです。そしてこれは世界の救いを求める祈りだということを見て来ました。

さて6回にわたって主の祈りを見てきました。今日が最後です。この6回を通じて私はいつも祈っている祈りにも、よく見ると様々な葛藤と、願いが織り交ぜられているということに気づかされました。

私たちのいつものお決まりの祈りは、私たちの知らないところで豊かな意味を持ってることを知りました。きっと信仰にはこのようなことがまだまだたくさんあるのだと思います。私たちが知っているつもり、覚えている、いつも祈っているものにも私たちのまだ知らない恵みがたくさんあるのです。そのようなことをこの祈りから教えられます。

信仰を持つ、キリスト教を信じるとはいったいどんなことでしょうか。それはきっと何かの教理を信じること、洗礼を受けることだけを指すのではありません。きっとそれよりも神様に向けて祈るということが信じるということではないでしょうか。救って欲しいと神様に願うことがキリスト教を信じるということではないでしょうか。私たちは今日、誰が洗礼を受けたクリスチャンで誰がクリスチャンでないかということを超えて、一緒に礼拝し、一緒に祈っています。

私は誰がクリスチャンかよりも、誰が私たちと一緒に主の祈りを祈っているかが大事だと思います。大事なのは洗礼を受けたかどうかではなく、この主の祈りを一緒に祈っているかどうかではないでしょうか。私はこの祈りを祈る者、この祈りを生きる者になりたいと思います。私たちはそのようにして、主の祈りを私たちの祈りとしてゆきましょう。一緒にこの主の祈りを祈りましょう。