【全文】「食事に招かれた人」ルカ14章15~26節

みなさん、おようございます。今日もこうしてともに礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。7月8月と主の祈りをテーマに宣教をしてきました。今まで当たり前だった祈りを新しい祈りとして祈りたいと思わされました。今日から1ヶ月は礼典をテーマとして宣教をしてゆきたいと思います。特に今週と来週は主の晩餐について考えます。

私たちの教会では礼拝の順序や名称が少し変わったり、礼拝の司会者も分担ができないか試験的な取り組みを始めています。創立70年ぶりに変わることもあります。私たちは変わらずに神様を礼拝し続けますが、その礼拝は変わってゆくことがあります。大切なのは、主の祈りにしても礼拝にしても「今あるもの」をよく考えて、この先も続けるのか、変えてゆくのを決めてゆくことです。自分たちなりの結論をだしてゆくことです。私たちの信仰が「なんとなく」「ずっとこうしているから」にならないように考えてゆけたらと思います。

今日は主の晩餐について考えようと思います。主の晩餐とはこの後の礼拝の中で行われる小さな食パンを食べ、ブドウジュースを飲むという儀式です。私たちの教会では毎月第一日曜日にその主の晩餐を行っていいます。これは決して魔術的な事、何かのおまじないではありません。イエス様のことを思い出すために、この儀式を毎月繰り返しています。私たちの教会ではこれを食べることができるのはバプテスマ(洗礼)という入信の儀式を経たクリスチャンのみとしています。ただしこの主の晩餐という儀式は多様です。他の教会では様々な方法で持たれています。決して私たちの方法が当たり前ではありません。他の教会はどのようにそれを持っているのか、私たちバプテストというグループの多様さを手掛かりに考えたいと思います。

10年ほど前にバプテスト連盟の教会でアンケートが実施されました。どのように主の晩餐が行われているかという調査です。結果は週報にもあるとおりです。その教会の会員のみで行う教会が1つ、バプテスト教会に所属する人のみで行うが3教会1%、教派教会を問わないが62%(私たちの教会もこの6割にいます)、バプテスマの決心をしている人まで含める教会は10%、バプテスマの有無や予定を問わず「信じている人」が参加する教会は21%、礼拝参加者全員が参加する教会が6%という調査結果でした。誰が食べてよいのかということは、教会によって大きく違います。それは教会ごとに主の晩餐の理解が違うからです。

私たちの教会はクリスチャンのみで行う6割の多数派です。しかし逆に言うと4割とは違う判断をしています。6:4は決して大多数とは言えません。各教会はなぜそうしているのか様々な信仰理解や歴史があるはずです。私たちの教会はどうでしょうか。決してここに、正解と不正解があるのではありません。教会ごとに祈った選びに正解も不正解もないと思います。大事なのは、私たちの教会はなぜそのような選びをするのかを私たちが知っている事、考えている事、信仰を紹介できるようにしておく事です。そして良く考え話し合ったうえで変化してゆくこともあるでしょう。その変化も他の教会に否定されるものではありません。

私たちはなぜ自分たちの教会員だけではなく、他の教派、他の教会の人とも一緒に主の晩餐をするのでしょうか。なぜ私たちはすでに信仰の決心をしている人、信じていると自覚のある人を、主の晩餐に加えないのでしょうか。難しい質問です。でも私たちなりの答えが必要でしょう。

大変乱暴な分け方ですが、主の晩餐の起源は大きく2つに分けることができるでしょう。ひとつは最後の晩餐に起因する考え方です。そしてもうひとつはイエス様と人々の食事に起因する考え方です。最後の晩餐に起因するのはマタイ26章17節にある通りです。イエス様は十字架の苦難の前、12人の弟子たちを集めて食事をしました。弟子たちと主の晩餐を行い、弟子とイエス様の関係を確認しました。パウロも主の晩餐について、この最後の晩餐をベースに考えています。教会の主の晩餐の起源を最後の晩餐に置く場合、その参加にクリスチャンであるという条件が付く場合が多いと思います。一方で主の晩餐の起源を、イエス様と人々の食事に起因すると考えることもできます。福音書には多くのイエス様と人々との食事の風景があります。繰り返しもたれたイエス様との食事を、主の晩餐の起源とする場合、クリスチャンのみという条件を付けないことが多いと思います。

今日の聖書の食事の場面は、そんな2つの食事の中間にあると言えるでしょうか。特定の人が招かれていることと、すべての人が招かれていることとが、重なっている物語です。今日のこの食事の場面から、私たちの主の晩餐について、みなさんと一緒に考えてゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はルカによる福音書14章15節~24節です。その少し前の7節によればイエス様は食事会に招待されたのでしょう。そこでみんなと一緒に食事をしていたのです。イエス様はこのように人々を招いただけではなく、招かれた食事会にも参加したということも発見です。おそらくこの食事会は身分の高い人も低い人もいました。イエス様は本当にいろいろな人と分け隔てなく食べたのです。

そして一緒に食事をしていた人が言いました「ああ、おいしかった。ああ、なんて幸せなのだろう。ここでこんな幸せなんだから、神の国での食事はどれだけおいしいのかなぁ」みんなはおなか一杯になって笑ったでしょうか。ちなみに神の国とは死んでしまった後に行く場所ではなく、神様の愛の中にいるということです。つまり「この食事でこんなに幸せなのだから、神様に愛されている、大切にされているのを感じながら食事したら、どれだけ幸せなのだろう」と言ったのです。みんなそうだ、そうだと思ったでしょう。イエス様はそんな時、食事会のたとえ話を始めます。食事中に食事のたとえ話をします。

たとえ話はこうです。宴会には主人がいてあらかじめ「招かれた人」がいました。主人は盛大な宴会の準備を万全にして、僕まで送って丁寧に招待をしました。しかし突然断れてしまったのです。理由はいろいろです。相手にも事情があったのでしょうが、しかし当日キャンセルは残念です。仲が良いと思っていたはずの友人は、次々にパーティーの出席を断ります。主人はとても傷ついたはずです。せっかくの招待を無視されて、誰も来てくれなくて、悲しくなったでしょう。落ち込んだでしょう。食事が無駄になってしまうということも悲しかったでしょう。

落ち込んだ主人は気が付きました。そうだ、この食事、自分と同じように悲しい思いをしている人、傷ついている人、困っている人に食べてもらおう。主人は21節貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人、そんな人たちと一緒に食べようとしたのです。宴会はそのような人が呼び集められました。そしてそれでもまだ席が空いていました。主人はもう誰でもいいからと言います。とにかく誰でもいいから、無料だから、余ったらもったいないから、誰でも呼ぼうと考えました。

このたとえ話でイエス様が伝えようとしたことはどんなことだったでしょうか。それは、これが神の国だということです。神の国、神様の愛があふれる場所とは、このように誰にでも開かれている食事のようだと伝えようとしたのです。神様の愛、招きに無関心な人もいます。でも神様は特に傷ついた人、不自由な人、疲れている人を選び招くのです。そしてさらに神の愛はもうだれでも良いと無条件、無償で分かち合われるのです。神様の愛、神様の招きとは、あなたの席はすでにそこにある、誰でもいいこの席・この愛に加わって欲しい、それが神様の愛です。

主人は当初、限られたメンバーで食事をしようとしたとあります。私はそれは、それでよい部分があったのではないかと思います。当日急に参加した人は何のお祝いなのか、趣旨をよく理解していなかったでしょう。多くの人は「えっ何の集まりかよくわからないけど、私もいいの?」という状態でした。きっと主人は自分の喜びと気持ちを深く理解して、一緒に喜んでくれる仲間が欲しかったはずです。せっかくのごちそうだから、私の喜びをよく理解している人と食べたい、祝ってもらいたいと思ったのが主人の最初の気持ちでした。それも良くわかります。その気持ちには正解も、不正解もありません。

でもこのような結果になりました。このことをきっかけに、主人は変化したのでしょうか。次の食事会はどのようにもたれたでしょうか。食事会はどのように開かれていたのでしょうか?

私たちはこの食事のたとえから何を考えるでしょうか?私たちの主の晩餐の意味をどのように考えるでしょうか。喜びを分かち合うなら、その事情を良く知っている仲間と分かち合うのが一番だということが言えるでしょう。主人もそうでした。しかしそうでない正解もあると言えるでしょう。その食事の意味を分かっていなくても、とにかく一緒に食べるというあり方です。食べてからわかるというあり方です。食べたからこそ一緒に喜び合えるということです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのは、一緒に食べた人です。

イエス様を思い起こす主の晩餐に、どちらが正解か不正解かはありません。何を誰と食べるか、どちらの在り方も正解でしょう。私たちはどうして今の在り方なのか、これからどう進んでゆけば良いのか、来週も共に考えてゆきましょう。