【全文】「礼拝説教って何?」使徒言行録17章22~34節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。9月は宣教のなかで、礼拝について考えています。これまで主の晩餐について、教会の境界線について、礼拝から派遣されることについて考えてきました。今日は礼拝の説教について考えたいと思います。

この説教(私たちの教会では宣教と呼んでいます)は私たちの礼拝プログラムの中で一番長く時間取っていますからメインイベントのように聞こえるかもしれません。でも礼拝の中で一番大事なのは「聖書朗読」です。礼拝の中でもっとも大事なのは、聖書そのものを読むというプログラムです。キリスト教の中には説教のない礼拝をするグループもありますが、礼拝で聖書を読まないというグループはありません。礼拝は第一に聖書・み言葉を中心とした集まりなのです。時間的には説教が長いのですが、礼拝の中心は間違えなく聖書・神の言葉です。キリスト教系のカルト教団は聖書よりも創設者や代表者の話が中心に置かれるケースが見受けられます。私たちの礼拝も話し手が中心ではなく、聖書中心でありたいと思います。

聖書は一人で読んでいてもわからないことが多いものです。そもそも人間が神様の事聖書の事すべてを理解する、すべてを悟ることは不可能です。人間には限界があります。人間はその限界の中で、どうこの聖書を受け止めるべきか精一杯考えます。でも一人ではなかなかわからないものです。教会では毎週、その手助けとして誰かの体験や、誰かの受け止め方を聞いてゆきます。説教とはそのような位置づけにあるかもしれません。誰かの話を聞くと、わからなかった聖書の個所に、何か自分の生きるヒントがあるような気がしてくるのです。自分のことが語られているように感じるのです。

説教は、誰と一緒に聞くのかも大事な要素です。同じ言葉でも、誰と共に聞くかで受け止め方は変わります。そのように説教は個人で聞くものではなく、共同体の中で聞かれる言葉です。一人一人が聞くと同時に、みんなで聞くものなのです。そして忘れてはいけないのは、聞いているのは私たち人間だけでは無いという事です。神様は私たちお互いの間におられます。説教は神様も聞いています。説教は神様に向けて語られている言葉でもあります。神様に信仰を告白していることでもあります。

説教とは私たちにとって何でしょうか。難しい質問です。毎週している私も正確に答えることができません。説教は聖書の解説、聖書の勉強ではありません。もしそうならばたくさんの解説書があり、それを読めばいいはずです。

説教とはおそらく、聖書の言葉を私たちの現実の中でどう聞くのかという取り組みです。テキストは2000年以上前の出来事や手紙です。説教とはそのテキストを読んで、今の私たち、今週の私たちがどう生きるべきかを考える取り組みです。説教とは私たちの生活の中において、神様はこのような方だと理解してゆく取り組みです。きっと説教は聞くという一方的な行為ではないでしょう。聖書があって、現実があって、人生の問いがあって、それを一緒に考える取り組みです。説教とは私たちの現実の中でどのような生き方ができるかを聖書からみんなで考えることです。この私たちにとって神様はどんな方かを考えること、それが説教の時間ではないでしょうか。

私たちは今日このような礼拝と説教の時に呼び集められています。神様が教会に行き、仲間と会い、聖書を分かち合う様に促しています。神様が教会でどう生きるか考えてくるようにと促しているのです。そのような場所を神様が整えて下さっています。今日この説教の時間、聖書からどう生きるか一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日の聖書箇所は使徒言行録17章22節~34節です。イエス様の弟子パウロという人の説教が記録されています。パウロはイエス様が十字架にかかり、復活をした後、世界にイエス様の教えを広める活動をしていました。今日の場面ではギリシャのアテネでキリスト教を広めようして、説教をしています。この説教を一緒に聞きたいと思います。

アレオパゴスとはギリシャで刑事裁判を行う場所だったと言われます。被告人、弁護人、裁判官、裁判を見に来た人が集まる場所でした。パウロはその真ん中に出て説教を始めました。聖書の神様について語り出したのです。パウロのこの説教は凝縮された説教ですが、4つの事を語っていると思います。

1つ目は25節です。神はすべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださったとあります。パウロは神様はすべての命を作った方だと伝えています。だから命が大事である、だから命は尊ばれるものであるということを語っています。互いの命を、魂を傷つけあうことのない様にと語っています。語っているのはアレオパゴス、刑事裁判の会場です。そこは人々の憎しみが明らかにされ、暴力や加害の事実を明らかにする場所です。パウロは命を傷つけあう現実が明らかにされる、そのただなかで語っています。神様がすべての命を作った。神様の似姿として人がいる。だからその命を傷つけてはいけない、命を大切にしなければならないということを語っています。その生き方を聴衆に問いかけています。

2つ目に語っていることは、27節です。神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられませんと語っています。神様は私たちの身近に、すぐそばにいるということです。神様はどこにいるのだと探したくなる災害や戦争や犯罪があります。神様なんて存在しないと感じる現実があります。でもパウロははっきりと語ります。神様は一人一人に遠く離れていない。あなたの近くにいると言います。神様はこんな場所にはいないと思える場所にこそいる、そんな時にこそ一人一人の近くにいるということです。だから希望を失う必要がないという宣言です。こんな現実だけど、神様はいない、神が遠くに行ってしまったと思う現実だけれども、そう思う必要はありません。神様は近くにいるのです。それを信じる人はどんなときも希望をもって生きることができます。ここでは神様からの希望を持つ生き方をしようということが語られています。

3つ目は、30節で、悔い改めるようにと言っています。悔い改めるとは、うなだれて反省することだけではありません。悔い改めとは生き方の方向転換をすることです。1つ目にあったように命を傷つけあうことを止めること、2つ目にあったように希望を持って生きること、そのように方向転換することが悔い改めるということです。私たちの知識が増えたり、反省をしたりすることではなく、まさしく私たちの生き方を変えるようにと語っています。これが3つ目です。

4つ目は31節です。パウロは、神様はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったと語っています。この方とはイエス・キリストのことです。イエス様が確証を与えてくれると言っています。命の大切さ、希望を持つことの大切さ、生き方の方向転換、それをイエス様が教えているということです。神様はイエス様の生き方、死と復活を通じて、私たちに1つ目から3つ目までの確証を与えようとしています。イエス様がいるから、私たちは確証をもって、確信することができます。イエス様いるから、神様の創った命の大切さ、希望も持って生きる事の大切さを知り、方向転換することができるのです。

パウロはアレオパゴスでこのように説教をしました。人々は難しい言葉でしたけれども、どう生きるかを問いかけられて、それを一緒に考えるように問われたのです。聞いた人々はどうしたでしょうか?32節多くの人は聞く耳を持たなかったとあります。多くの人はあざ笑いました。人々を感動させる説教ではありませんでした。実りの少ない説教でした。しかし一部の人はそれを信じるようになったとあります。様々な反応があったこと自体は大事なことです。聞いた後で一人一人感想が違ったということです。みな自分で考えたのです。神様とはどんな方なのか、それを聞いて私はどう思うか、どう生きるかを、みんなが考えたのです。その中から少数ですが従って生きる人が起こされたのです。

これがパウロの説教です。私たちの礼拝でもこのような時が持たれています。アレオパゴスでの現実があったように、私たちには置かれた現実があります。その中で聖書の言葉が響き、説教が語られます。それはある人が聖書を読んで感じた、生き方への問いです。聞く人々の反応はそれぞれ違うものです。大事なことは、感動したか感動しなかったか、わかりやすかったかわかりづらかったかではありません。大切なのはそれぞれがどう受け止めて、どう生きるのかということです。互いの理解を聞いて、私はどう生きるのかを考えるのです。そして、大事なのはいつもと違った生き方を、いつもより愛のある1週間を送ろうとすることです。

私たちはその生き方の確証、確信を得るために今日集まっています。イエス・キリストが私たちに新しい命、新しい歩みを与えてくれる、それに期待して集まっています。私たちはイエス・キリストの確証を与えられるために、今日神様に集められています。礼拝の中心に聖書があります。そして礼拝の中に説教があります。今週も聖書の言葉を聞き、互いの言葉を聞きました。イエス様からの確証をいただきました。さて私たちは今週をどのように生きてゆけば良いでしょうか?それぞれの1週間が豊かな愛にあふれた1週間であるように、それぞれの1週間が命の豊かさを感じることができる1週間であるように願います。お祈りします。