【全文】「キリストへの信仰」ガラテヤ2章16節

 みなさん、おはようございます。今日も、みなさんと共に礼拝できること、主に感謝します。今日も一緒に礼拝をしましょう。今日は特に証しの時をいただきました。どなたの証からもいつもその信仰に触れることで励ましをいただきます。そして証しは私自身はどう生きようか、そんな問いかけにもつながるでしょう。今日の証しに感謝をします。

宣教では今月、一緒にガラテヤ書を読んでいます。2018年に新しい聖書の翻訳が出版されました。「協会共同訳」という翻訳です。聖書はもともとギリシャ語という言葉で書かれていますが、40年ごとに翻訳が更新されます。40年前から日本語が変わりました。また聖書の研究が進み、たくさんの発見がありました。これまでの研究成果が凝縮されて新しい翻訳が発行されました。今回の翻訳で一番大きな変更はガラテヤ書にあると言えます。今月紹介しているようなパウロ研究の成果、パウロへの新しい視点(NPP:New Perspective on Paul)が反映されています。

今日の個所2章16節はこれまで「キリストへの信仰」と翻訳されていました。しかし新しい翻訳では「キリストの真実」という翻訳に変更されました。今日はこの「キリストへの信仰」と「キリストの真実」ということを巡って話をしようと思います。

まず、聖書にある「信仰」という言葉から考えます。聖書の信仰という言葉はもともとピスティスという言葉です。このピスティスは信仰という意味に限らずもっと広い意味があります。もともとは「信頼する」という意味です。誰かを信頼するとは、きっとあの人なら約束を守ってくれるだろう思うことです。さらに、きっとあの人なら私の期待に応えてくれるだろうというのも信頼でしょう。あるいはあの人なら私が失敗してもそれを受けて止めてくれるだろうということ、それも信頼するということです。神様をそのように信頼することが信仰です。ですから信頼という言葉は信仰と翻訳されてきました。ピスティスはもともとの、信頼するという意味からさらに広がってゆきます。嘘や偽りがなく信頼できるということから「真実なもの」という意味も生まれました。このようにピスティスは広い意味を持ち「信頼・信仰・真実」と訳すことができる言葉です。どのように訳すかは文脈次第です。今回の翻訳では「真実」が採用されました。

もう一つ「キリストへの」という言葉も考えます。実はこちらの方が大きな変更です。これまで「キリストへの信仰(信頼)」だったものが、「キリストの真実(信頼)」に変わりました。「キリストへの」か「キリストの」か、この「へ」が一文字が含まれるかどうかの違いが、大きな変更です。

「キリストへの信仰」は文法上「キリストへの信仰」とも「キリストの信仰」とも、どちらにも訳すことができます。これまでは「キリストへの信仰」と訳されていました。しかし今回は「キリストの」が採用されています。「へ」が抜けました。

キリストへの信仰の方が意味が分かりやすかったでしょう。それは私たちの信仰の対象がイエス・キリストだからです。キリストへの信仰とは、イエス・キリストに向けた私たちの信仰という意味です。私たちは熱心にイエス・キリストを信仰しよう、信頼しようという意味です。信仰生活を守りましょうという意味となるでしょう。

16節は神様が何を義とするのか、神様は何を喜ぶのかが語られています。「キリストへの信仰」と翻訳するなら、神様が喜ぶのは私たちのイエス・キリストへの信仰だと考えることができます。この考え方は人間が主語となります。私たち人間がいかにキリストを信じるかが大事だという見方です。私たち人間がキリストへの信頼を持つことが、神様の喜びなのだという解釈です。それは私たちがイエスを救い主と信じる信仰が大事と言う視点、信仰義認とも共通する考えです。

一方、近年は「キリストの信仰」という翻訳を支持する人も増えてきています。いろいろな人がどちらかを議論しています。それはこれまでの信仰義認論とは違う考えにつながります。「キリストの信仰」という言葉について考えましょう。近年、キリストへの信仰ではなく、キリストの信仰と解釈する人が増えてきています。これは大きな解釈変更です。なぜかと言うと神様が良しとすることが変わってくるからです。

私たちはこれまでキリストへの信仰を大切にしてきました。一生懸命イエス様を信仰することを大切にしてきました。それがキリストへの信仰です。でももし、神様がよしとするのが「キリストの信仰」だとするなら、その解釈は変わります。神様がよしとするのは「キリストの信仰」だと解釈するなら何が起こるでしょうか。

 

イエス・キリストの信仰とするならば、それはイエス様の持っていた信仰のことを示します。イエス様の信仰とは、イエス様がどのように神様を信頼し、生きたのかということを示します。証しをした誰々さん「の」信仰はすごいと言った時は、その生き方をすごいといっているのと同じです。

「キリストの信仰」とはイエス様の生き方や生きる姿勢をあらわしています。それは「キリストへの信仰」とは意味が大きく違います。ここで語られていることは、イエス様を信じる「キリストへの信仰」が大事なのか、それともイエス様のように生きる「キリストの信仰」が大事なのかという大きな違いがあるのです。

たった一文字「へ」が抜けるだけで聖書全体の解釈が大きく変わります。これは信仰か、行動かという問題にもつながっています。信仰義認の枠組みを超えて、私たちの生き方、行動に迫る意味になります。ですからこの翻訳の違いは非常に重要で、議論がされています。パウロが本当に語ろうとしたのは信仰義認ではなく、私たちの行動や生き方だったのではないかという全体の理解の変更でもあるのです。

「キリストへの」でも「キリストの」でもどちらでもいいのではないか。信仰も行動もどちらも大事ではないかという意見はごもっともです。もしかするとパウロ自身、曖昧に語っているかもしれません。信仰も生き方も両方が大事と考えて曖昧に受け取ることができるような言葉にしたのかもしれません。まだまだこの議論は続いてゆくでしょう。

私自身がこの問題をどう考えているかを紹介します。ここまで何回か、新しい視点で語ってきました。信仰義認、行動よりも信仰が大事とされる、伝統的な解釈から離れて聖書を読んできました。私はパウロが語ったのは信仰義認ではなく、キリストの様な生き方の勧めだったと考えています。どう生きるかがパウロ書簡全体のテーマだと思います。その立場からは「キリストの信仰」を支持したいところです。しかし私としては今日の時点ではどちらを支持するか迷っています。

16節の律法と信仰が3回セットになってできている流れに注目しています。パウロは律法ではなく信仰、律法ではなく信仰、律法ではなく信仰と繰り返しています。パウロは律法の反対にあるものとして信仰を語っています。実行という言葉も3回登場しますが、実行ではなく信仰、実行よりも信仰と言っているのではありません。おそらくパウロはここで、共同体の特徴を語っています。ガラテヤの共同体は律法によって一つになっているのではなく、信仰によって、神様の約束を信頼することによって、ひとつになっているということを語ろうとしているのだと思います。

ガラテヤ書は全体を通じて、割礼が問題になっています。パウロは教会とは割礼による共同体ではなく、神様に信頼する共同体であるのだと伝えようとしているのではないでしょうか。考え方が違っても、共同体が一致していることは何か、それは神様を信頼すること事だと語ろうとしています。だとするなら、この個所はキリストへの信仰と訳されるべきだと思います。私たちは何よりキリストを信じる群れです。何をもって一致するのか、それは全員がキリストへ向かう信仰・信頼を持つからだといっているのではないかと思っています。

行動や生き方、律法を守るかどうかはそれぞれ違ってバラバラで良いのです。でもその中でキリストへの信仰・信頼が私たちを一つにするのです。パウロはそのような一致を語っているのではないでしょうか。今日の時点では私は「キリストへの信仰」を支持したいと思っています。

これらの議論はとても重要な議論だと思います。信じていればいいのではなく、信じた人がどう生きるが大事なのではないかという議論です。そして私たちは何において共通し、何において違っているのかという議論です。私たちはイエスを信じるだけではなく、信じて、どう生きるかが問われています。あのイエス様が歩んだ、分け隔てのない姿、小さく弱い者に特別な目を注いだ姿、みんなと一緒に食事をしたあのイエス様の信仰を私も持ちたいと思っています。

そして私たちはそれぞれ違う人生を歩み、違う考えを持ちますが、キリストの信頼においては一致できるのです。キリストへの信仰か、キリストの信仰か、どちらかに決めることはできないのは、信仰か生き方かどちらかを決めることができないこととつながっているでしょう。また生き方が一つに固定できないことともつながっているでしょう。

これを信じなさい、これが正解ですと言うことができません。私たちは何を信じているのでしょうか。私たちはどのように生きるのでしょうか。聖書から問いかけを受けながら歩みたいと思います。そしてお互いに何を信じているのか、お互いがどのように生きようとしているのかを聞きながら考えたいと思います。

ともにキリストへの信仰、キリストの信仰を持ち、それぞれの1週間を歩んでゆきましょう。お祈りいたします。