【全文】「死に勝る、神の愛」ローマ8章35~39節

わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。       ローマの信徒への手紙8章39節

 

みなさん、おはようございます。今はようこそお集り下さいました。私たちはこどもから大人まですべての命と一緒に礼拝をしています。今日も共に礼拝できることを主に感謝します。今日は召天者記念礼拝です。私たちは毎年、天に召された方たちを覚えて礼拝を続けています。今年もこの写真の方々、そしてここに写真は無くても皆さんの心の中におられる方々の事を覚えて、礼拝を献げたいと思います。

日本に暮らしていれば牧師だとしても、キリスト教徒だとしても、仏教のご葬儀に出る機会があります。特に私の親族は熱心な仏教徒です。私はお焼香は控えることが多いのですが、許されれば仏教でも無宗教でもお葬式に出たいと思っています。多くの仏教のお葬式ではお坊さんがお経をあげます。唱えられているお経の意味は分かりません。仏教では死んだ後に、この世をさまよっていた霊は、お経を上げるによって仏へとなります。成仏をします。お経が終わると、お坊さんは「これで成仏をします」と言います。遺族にとって「これで成仏をします」という言葉は、大きな慰めです。遺族としてできることはした。しっかりとしたご葬儀を上げることができたと思えるのです。そして仏となった故人は、7日後に三途の川を渡り、49日後にあの世へと行きます。そして仏教ではその後、来世があると信じられています。生まれ変わってまた、別の時代を生きようになるのです。仏教はそのような死生観を持っており、成仏する、生まれ変わるということは、私たちの心にも深く根付いています。このように仏教では、死んだ後どのようになるのか、明確な順序があり、生まれ変わるという明確な行先が示されています。

ではキリスト教では死後をどのように考えるでしょうか。キリスト教の聖典・聖書によれば死んだ後の事について、様々なことが書いてあります。しかし聖書には死んだ後について、こうなって、こうなって、こうなるという順序が明確には示されていません。仏教ほど明確ではありません。聖書に書いていない以上、死んでしまった後ついては、私はわからないという他ありません。こうなりますとお伝えする方が安心できるかもしれません。しかしそうすると、聖書に記されている、様々な死への向き合い方を無視することにもなります。死後のことが聖書にどのように書かれているかという質問には、様々なことが書いてあるが、はっきりとしたことは書いていないというが正解です。

ときどき仏教がうらやましいとも感じます。お経が終わり「これで成仏します」と宣言ができたら、どれほど慰めになるでしょうか。でもキリスト教はそのようなことをしません。できません。この後どうなるのか、断片的にしか言えないのです。宗教者として無力さを感じます。

キリスト教には死後は天国行くという考えもあります。それもひとつの考えです。しかし天国があるなら、地獄もあるのでしょうか。天国に行く人がいれば、地獄に行く人がいるのでしょうか。善い事をしたら、あるいは神を信じたら天国に行き、悪い事をしたら、あるいは神を信じなかったら地獄に行くのでしょうか。そうように、ただ私たちの人生に白黒をつけるのが神様の仕事ならば、そこに慰めや励ましはありません。そこに希望はありません。そのような神を信じる事はできないでしょう。地上の生涯を終え、死ぬとその後どうなるのか、不安に思います。私やあの人は天国なのか、地獄なのか。成仏するのか、来世があるのでしょうか。それでも聖書は死んだ後のことについて断片的にしか答えてくれません。神様は死に向き合う私たちに何を語り掛けているのでしょうか。聖書に聞いてゆきたいと思います。

 

 

ローマ8章35~39節をお読みいただきました。今日の個所は、死後のことについては語っていませんが、死についてはっきりと宣言をしていることがあります。私は聖書に書いていない死後について、皆さんに語ることはできません。しかし聖書に書いてあることについては、自信をもってお伝えすることができます。今日皆さんと確認したいことはただひとつの言葉です。それは「死さえも神の愛と私たちを引き離すことができない」ということです。死んでも神の愛は私たちに続くということです。今日私が自信を持ってお伝えしたいのはこの1つです。私たちは死によって、すべてが終わるのではありません。死んでも続くものがあるのです。それは神様の愛です。

人間の死は多くの意味で節目です。地上での関わりや、働き、生涯は死によって終わります。死は家族との別れ、仲間との別れとなります。死はたくさんの事との別れをもたらします。だからこそ私たちは、死はすべての終わりだと思うのです。

 

でも聖書は死んでも終わらないものがある、終わらない関係があると言っています。それが神様の愛です。神様の愛は私たちに強く結びついています。死すらも神様の愛とも私たちを引き離すことができないのです。

神様の愛、キリストの愛は何があっても私たちから離れることがありません。神様の愛が私たちから離れてしまったと思うことはしばしばあるものです。私たちの人生には艱難があります。でもその時も神様の愛は離れていません。

私たちの人生には苦しみがあります。聖書の苦しみという言葉は元々、行き詰まっている様子を示す言葉です。そうです私たちには人生に行き詰まる時があります。人生に行き詰まり、もうこれ以上できることはない、できないと思う時があります。しかしその時も、神様の愛は私たちから離れません。何ものも私たちから神様の愛を引き離すことはできないのです。飢えも、貧しさも、裸も、危険も、暴力も、私たちを神様の愛から引き離すことができないのです。

私たちが何とか神様の愛にしがみつくのではありません。私たち人間は、忍耐力がなく、すぐにあきらめてしまう存在です。私たちのしがみつく力はとても弱いのです。すぐに手が離れてしまいます。しかし神様は違います。神様はどんな時も私たちを離さないお方です。神様の愛が私たちを離れないのです。神様が私たちをつかみ、神様の愛から離れないようにしてくださるのです。

神様はこのように、私たちを愛するということにおいて、輝かしい勝利を収めるお方です。輝かしい勝利とは圧倒的な勝利ということです。ぎりぎり何とか勝つ勝利ではありません。圧倒的に勝つのです。つまり、愛が勝つということです。神様は苦し紛れに何とか勝利する方ではありません。圧倒的な勝利を、圧倒的な愛を私たちに示してくださるお方です。

38~29節にあるとおり、死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません。天使のようなスピリチュアルな存在すらも、神様の愛を私たちから引き離すことはできません。支配する者とは権力者です。権力者はすべてのものを奪います。命すらも奪います。しかしどんな権力者も、神様の愛から私たちを引き離すことだけはできません。権力は死ねばその人から離れてゆくものです。でも神様の愛は死でも引き離れません。

現在も未来も、神様の愛を私たちから引き離すことはできません。人間同士の愛や慈しみや様々な関係は時間がたつと変わり、薄れていってしまうものです。でも神様の愛は違います。神様の愛は過去も、今も、未来も、ずっと私たちから、この天に召された人たちから引き離れることはありません。

ここに出てくる「高いところいるもの」とは夜空に広がる星々のことです。「低いところにいるもの」とは、地平線の下のことです。地平線の下から星や太陽が昇ってきます。ここにある高いところ、低いところとは、宇宙全体を意味する言葉です。宇宙全体よりも神様の愛が勝るということです。どんな被造物も、宇宙すらも、空間すらも神様の愛から私たちを引き離すことはできないということです。死んでしまった後、どのようなことが、どのような順番で起るのかはわかりません。でも今日、私が確信をもって言えることがあります。それは神様の愛は時間も、空間も超えて私たちから引き離れないということです。そしてたとえどれだけ時間がたっても、たとえどれだけ世界が変わっても、神様の愛は私たちから引き離れないということです。

そして神様の愛はたとえ死んでも、私たちに変わらずに注がれ続けます。神様の愛は死すらも私たちから引き離すことができないのです。私はそこに私の希望を置きたいと思います。神様の愛は永久に私たちから、この方たちから引き離れることはないのです。私はそこに希望を置きたいと思います。この写真の方たちは今日も神様に愛されています。地上の生涯を終えられ、死を迎えましたが、神様の愛はそのような死でも引き離れることは決してありません。今日も神様に愛され、大切にされています。この写真の中には時の経過とともに、この教会との関係が徐々に分からなくなってきている方もおられます。人間の関係とはそういうものです。でも神様の愛は引き離れません。どんなに長い時間も、空間も、死も神様の愛からこの方たち、私たちを引き離すことができないのです。

私たちとこの写真の方たちとの共通点は、変わらない神様の愛を、ずっと受け続けているということです。そして私たちとこの写真の方たちとの違いは、まだこの地上での生涯が残されているということです。

私たちは今この地上の生涯を一生懸命生きましょう。神様からの変わらぬ愛を受けて、精一杯を生きてゆきましょう。お祈りいたします。