【全文】「みんな神の子」ローマ8章14~17節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。今日はうれしいことが重なります。礼拝の前半では一人の仲間が新しくクリスチャンになりました。そしてこの礼拝の後半では、こども祝福祈祷があります。大人とこどもの祝福を今日、一度に詰め込むことが出来た礼拝に、感謝しています。

今日のバプテスマ式をたくさんの人が喜んでいます。YouTubeではオーストラリアのご家族も見ているそうです。バプテスマはこのように、本人だけの喜びだけではないものです。本人と同じかそれ以上に、周囲の人々の喜びです。どうして周りの人にとっても喜びなのでしょうか?おそらく神様の前でまっすぐに、誠実に生きようとする信仰の告白を聞いたからでしょう。誠実に生きることの決心を心強く聞き、安心し、うれしく思うのでしょう。私はジェイソンさんの信仰生活のために、これからも祈ってゆきたいと思います。ジェイソンさんに神様の導きがありますように。今日も神様からの喜びを聖書から聞いてゆきましょう。今日は「みんな神の子」というテーマでお話をします。

 

今日はローマの信徒への手紙8章14節~17節までをお読みいただきました。14節には「神の霊によって導かれる者」という言葉があります。私たちは神の霊によって導かれている存在です。私たちはいつもいろいろな決断をして生きています。信仰の事柄においても、生活の事柄おいても、いつも自分で自分のことを決めて生きています。しかし今日の個所によればそれらは、すべてが自分の決断で行われるわけではありません。人生は一人一人の決断次第、人生は私の決断次第ではないのです。人生とは私や一人一人の頑張り次第ではないのです。人生は神の霊によって導かれるものです。私たちはなんでも個人で決断する時代に生きています。家族や周囲、社会がどう思うかよりも、個人の決断が尊重される時代に生きています。なんでも個人個人が決める時代にあって、聖書は「神様があなたを導く」と言っています。

私たちは今日、素晴らしい信仰告白を聞きました。しかしそれも個人の信仰の決断であると同時に、神の霊の導きの結果でもあります。そのことは良く信仰告白の中に語られていました。神が私たちの人生を主導するのです。私たちは自分の力と決断だけで生きるのではありません。私たちは神様に導かれていきます。私たちは神様からの力を受けて生きます。私たちは神の霊に導かれる者です。

14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあります。神の霊に導かれる人は、みんな神の子だという意味です。私たちはみんな神様に導かれています。だから私たちはみんな神の子です。私たちは全員神の子です。あの人は導かれている、私は導かれていないということはありません。神様の愛がすべての人に等しく注がれているのと同じ様に、神様はすべての人を導きます。だからみんな神の子です。みんな神の子です。バプテスマを受ける前から、その後もずっと神様は人生を導き、私を愛して下さっています。そのようにして、神様は私たちをこどもとしてくださる、神の子としてくださるのです。

私たちは15節、奴隷ではありません。奴隷は何らかの恐怖や抑圧によって従わざるを得ない人のことです。個人の思いとは違っても、恐れによって行動をせざるをえない人です。私たちは神様の奴隷ではありません。私たちは神様が怖くて従うのではありません。神の導きに従わないと、悪いことが起きたり、罰が当たるかもしれないという恐怖から、神様に従うのではありません。私たちは恐れの奴隷ではなく、神の子とされています。神の子とはこのような奴隷ではないという意味です。私たちは神の愛を受けて、従う存在になります。私たちは神の子です。愛されている実感を持って生きることができる、神の子です。何も心配せずに、神様に守られると信じて生きることができる、神の子です。神の愛を誰より知って生きるのが、神の子です。神の子は恐怖よりも愛を選びます。

15節を見ましょう。「神の子とする」という言葉があります。「子とする」という言葉は養子縁組をするという意味の言葉です。人々は昔から養子縁組をしました。今も昔も、養子縁組は慎重に進められました。養子になると養父・養母の愛情を十分に受けて育ちます。特に古代で重要とされたのは、その名前を引継ぎ守ること、財産を相続し守ることでした。そして養子となると、実の子と同じように惜しみなく財産が分配されました。養子は実の子の身分に少しも劣らなかったのです。神様はそのように私たちを、自分のこどもと何一つ変わらずに愛してくださっているのです。私たちはこのように愛され、神の子とされているのです。

17節を見ましょう。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」とあります。もし私たちが神の子であれば、キリストと共に苦しむことになります。神の子にとって人生は楽しいことだけではありません。私たちの人生には神様なんていないと思う時があります。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と思うことがあるかもしれません。たとえ神の子であっても、そのような苦しみの時があります。あのイエス・キリストがそうでした。彼は神の子であるにもかかわらず、十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と叫びました。神の子にも苦しい時があるのです。しかしそれでも私たちはすべて神の子です。神様は私たちを見捨てたのではありません。神の子だとしても、神に見捨てたられた思う場所や時があります。しかし神は決して、子を見捨てません。神は苦しみの時も、叫ぶ時も、私たちと共におられます。

私たちが十字架の姿を苦しいと思う様に、私たちの苦しみをイエス様が共に苦しんでいます。そして苦しみで終わりではないと教えてくれます。イエス・キリストに復活があったように、私たちの苦しみの後にも、必ず希望が準備されています。神様はイエス様の苦しみで、その希望を教えて下さっています。神様と私たちは親子です。だからどんな苦しみも神と私を切り離すことができないのです。

神の子という言葉を聞くと、もともとそれはイエス・キリストの称号だったはずだと思います。イエス・キリストこそ神の子です。しかし今日の個所には私たちも神の子なのだとあります。そうなのでしょうか?そうです。今日の個所によれば、神の子イエス・キリストと同じように、私たちも神の子です。私もあなたもみんな神の子です。そしてイエス様も神の子です。みんなイエス様と同じ神の子です。

私たちの生活を見れば、とても自分のことを神の子だとは言えないでしょう。人を傷つけてばかりの人生です。イエス様とはまったく違う人間です。到底、神の子にはふさわしくないことばかりしている存在です。しかしそれでも神様はそんな私たちを神様は神の子としてくださいます。私たちは神様に愛され、神様の愛を受け継ぐ者として、特別に役割を与えています。神様は私たちに、神の子として地上にこられ、イエス・キリストとして歩まれたあの方と同じ役割を与えて下さっているのです。私たちはイエス・キリストと同じ役割をこの地上でするように求められています。私たちはイエス・キリストのように、神の子として、隣人を愛するように私たちに求めておられるのです。私たちはこのようにして、みんな神の子です。

17節には、私たちが神の相続人だともあります。私たちは神の子であり、神様の名前、神様の財産を引き継ぐ者となりました。神様の看板を引き継ぐことになったと言ったらわかりやすいでしょうか。神様の相続人になるとは、神様の愛するということを引き継ぐものとなったという意味です。私たち神の子には神様の愛が惜しみなく豊かに注がれています。私たちはそのような、愛することを相続します。私たち神の子はその愛を次の誰かに惜しみなく渡そうとして生きるのです。それが神の相続人です。私たちは神から受けたものを、また次の人へと途絶えることが無い様に、受け渡してゆきます。愛を受け、渡してゆくこと、それが神の子の役割、相続人の役割です。

16節には「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。これは「私たちが神の子であると、神様の霊が証明している。そして私たちお互いに神の子であることを証明している」という意味です。私たちは確かに神の子であると、神様が証明をしてくださっています。そして同時に私たちはお互いが、神の子であることを証明しているのです。つまり私たちはお互いを神の子として愛し合おうということです。神のみを愛するのではありません。同じ神の子である隣人を愛し、神を愛すのです。私たちは同じ神の似姿である、神の子です。私たちは神の子として愛し合いましょう。私たちはお互いをイエス・キリストと同じ、神の子として大切にしましょう。恐れや苦しみを超えて、愛に生きましょう。私たちはみんな神の子だからです。

今日、新しく従う命が与えられました。私たちにも神の子の命が今日も与えられています。私たちは愛する1週間を、愛する人生を歩んでゆきましょう。お祈りします。