【全文】「共に生きる」ルカ10章25~37節

半年間、大変お世話になりました。あっという間にすぎてしまったように思えて、とても寂しい気持ちですが、本当にありがとうございました。

私は、4月に妻を主の元に送りました。最後の2か月は、彼女は、まったく体を動かせず、寝たままで、上しか見ることができませんでした。3食を食べさせたり、いろいろと介護をしていましたが、夕食の後に私が目を離した間に、食べた物を吐いてしまい、上しか向けなかったので、それが肺に入ってしまい肺炎を起こし、翌朝早くに息を引き取りました。朝まで苦しそうなのになかなか寝ないので私が、「もう寝るように」と言って、寝る前のお祈りをしたところ、目をつむってそのまま息を引き取りました。うまくいけば半年から1年は生きることができると思っていたのでショックでした。

そして6月から神学校の実習でお世話になることになりました。この半年、毎週、皆さんにお会いし、礼拝を共にすることでだんだん癒されてきたと思います。皆さんに心から感謝しています。横須賀長沢教会に帰りますが、私は、親しい親戚ができたと思っております。同じ神奈川連合の仲間ですのでこれからもよろしくお願いします。また、もし機会がありましたら、横須賀長沢教会にも来てください。三浦半島に観光で来られるようであれば、私が案内をしますのでぜひ連絡をください。

では、今日の箇所をご一緒に見ていきましょう。72人の弟子が、福音を伝えて帰って来て報告している場面です。その時に律法の専門家がイエス様に質問をしました。そのため、イエス様と律法の専門家の会話を聞いたのは、72人の弟子たちでした。広く言えば、この聖書の箇所を読む弟子たち、私たちにも語られているといっても良いと思います。

律法の専門家が、イエス様を試そうとして質問をしました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と、イエス様自身は、何か行うことと引き換えに永遠の命をいただけるのではなく、永遠の命は神様の恵の賜物であることはわかっていましたが、あえて、律法の専門家の専門にしたがって応答をしました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか?」と。そうすると彼はこう答えました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。イエス様は、こう言われました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」すると、律法の専門家がこう言いました。「では、わたしの隣人とは誰ですか」と。これは、イエス様を試してそう言ったのかも知れません。律法の専門家なので律法の中身を詳しく知っていて民に教えていたので知っていて当然です。しかし、あえて、イエス様に再度の質問を投げかけたのです。

ユダヤの律法では、隣人はイスラエル人の同胞という解釈があります。もし、イエス様が、「隣人はイスラエルの同胞だ、あなたはイスラエルの同胞を自分のように愛しなさい。」と答えれば、彼は、イエス様が神の愛を説いているのに矛盾していると責めたかもしれません。

しかし、イエス様はそれに答えないで、次の話をしました。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。そこに、ある祭司が、たまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。次に、レビ人がその場所にやって来ましたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱してあげました。そして次の日になったら、彼は出発しないとならないので、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、「この人の面倒を見てあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と。イエス様は、こう話されました。

次の箇所を見る前にここまでを振り返ってみたいと思います。この場所はどういう場所なのでしょうか。エルサレムは、海抜700mの高い場所にあり、一方、エリコは、死海という湖の近くにあり、海面よりも400mの低いところにありました。エルサレムからエリコまでは、約30kmあり、高さの差も1kmあまりもありました。そして、この道は狭い道でおまけに曲がりくねっていて、先が良く見えない場所で、盗賊が隠れていて、良く人々が襲われるところで有名でした。そのため、普通は一人では通らずに多くの人で隊を組んでとおったり、護衛を付けて通るようにしていたそうです。そういう場所でした。襲われた人は、そういう場所で追いはぎにあって、半殺しにされてしまったのです。

そういうところに祭司が通りかかりました。彼は、その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしましました。その後、レビ人も同じ場所にやって来ましたが、やはり、その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまいました。祭司は、見て、すぐに行ってしまったように思いますが、レビ人は、その場所まで来て、半殺しにされた人を見たように見えます。けれども、何もせずに行ってしまいました。これを読むと私たちは、祭司もレビ人もひどい人たちだと思います。それもユダヤ教の祭司とレビ人で人々の模範になるべき人たちです。祭司とレビ人がひどい人だと考えることもできますが、事情があったかもしれないとも考えることもできます。

当時、エルサレム神殿で働く祭司は、約8千人、祭司よりも位が低いレビ人は、約1万人が働いていたと言われています。その内、8千人のレビ人は、年に1~2か月だけ、神殿で奉仕し、多くは地方に住んで労働者として生活していました。レビ人はとても貧乏で農民に雇ってもらったり、羊の番をしていたと言われています。また、民数記19:11には、「 どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。」とあり、祭司は、その人に触れることで神殿での働きができなくなることを考えて、助けることをしないで通り過ぎたのかもしれません。また、レビ人は、祭司よりも位が低かったので神殿での仕事が七日間できなくなるだけでなく、首になってしまって仕事を失うことを恐れた可能性もあります。レビ人は、とても貧乏だったので、仕事を失って家族を養うことができなくなる恐れの方が強かったかもしれません。また、襲われたふりをした人をおとりにして、その人を助けようとした人を盗賊が襲うということもあったので、自分が襲われるのを恐れて、急いでそこを立ち去った可能性もあります。そう考えると、単純に祭司とレビ人は、ひどい人だとも決めつけられません。

次にその場所に来たのは、旅をしていたサマリア人でした。彼は、そばに来ると、その人を見て可哀そうに思って、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って、介抱をしました。そして次の日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出して、宿屋の主人に渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と。サマリア人はそう言って宿屋を出発したわけです。

イエス様は、律法の専門家に言いました。あなたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。そうすると律法の専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」そこでイエス様は、言いました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。

律法の専門家の質問は、「隣人とはだれですか?」でした。これに対して、イエス様はサマリヤ人が半殺しになっている人を助けた話をしました。ユダヤの律法の解釈には、隣人はイスラエルの同胞という考え方があるそうです。そのため、サマリア人は、隣人には当たらない。それだけでなく、サマリア人は、ユダヤの人たちにとって敵だし、忌み嫌う人たちでした。他でもない、そのサマリア人がユダヤの人を助けたのです。それに助け方は、ふつうの助け方ではない。徹底した最後まで半殺しになった人を助けようとしました。イエス様は、律法の解釈、律法の実行の仕方の誤りを痛烈に非難したのだと思います。自分の都合の良いように律法を解釈して行う。主なる神様はそんな律法を与えたのではない。どんな人であっても、あなたの隣人になり得るし、あなたがおこなう大切なことは、自分を愛するように隣人を愛することであると。

そして、私たちに言われているのは、私たちは、祭司のようにもなるし、しレビ人のようにもなる。しかし、大切なのは、踏みとどまって、向こう側を通りすぎるのではなく、戻ってきて、傷ついた人の隣人になることだと。

私たちは、サマリア人のようにできないかもしれません。けれども、立ち止まって一緒にいて誰かの助けが来るのを待つことができるかもしれません。もし、その人がそこで息を引き取ることがあっても、彼は独りぼっちではなく、彼のことを思ってくれる方の傍らで神の身元に召されることができるかもしれません。

私は、10年以上前、出張で大阪のお客様の工場に行ったのに1年半帰って来れなかったことがあります。開発して納入したばかりの機械の完成度が悪く、お客様の工場の生産中に故障してしまうことがありました。そのため、私と数人が24時間交代で機械の面倒を見ながら改善改良を続けました。24時間対応するには、人数が足りなくて、私は管理職だったので何か月も休日が取れずに作業をしました。体も心もくたくたに疲れて、すごく弱気になっていました。私は、見た目、いつも元気なので教会のみんなは、私のことは心配していないだろうと思っていました。けれども数か月振りに休みが取れて、横須賀に帰り、教会に行った時、年配のご婦人でいつも辛口で厳しいことを言う方が、「根塚君、大丈夫?体に気をつけてね。お祈りしているからね。」と言われました。私は、この言葉が、涙が出るほどうれしかった。それで心配して祈ってくれている方がいるんだということが分かって、頑張ろうと大阪のお客様に戻ったのでした。

わたしたちには、サマリア人のようにはできないかもしれません。しかし、隣人となって自分のことのように心配したり祈ったりすることはできるかもしれません。何もしなくても隣人となり、隣人の平和と幸せを祈るなら、皆が幸せになれるのではないかと思います。それが国レベルでも隣人にもしなるなら、だんだん戦争も紛争もなくなるし、いろんな事件も減っていくのではないかと私は思います。

私たちは、自分だけの力や思いで、隣人にはなれないかもしれません。しかし、いつも一緒にいてくださるイエス様が、私たちを愛して、そのように導いてくださると信じます。今日は、私のつたないメッセージを聞いてくださりありがとうございました。来週からは、横須賀長沢教会で礼拝を守りますが、場所は違っても主なる神様によって、同じキリストの体の一部ですからこれからもよろしくお願いいたします。平塚教会のために、横須賀長沢教会の皆と一緒にお祈りしています。(根塚幸雄)