【全文】「そばにいる神」ヨハネ7章25~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。今日もこどもたちと共に、こどもたちをそばに感じながら礼拝をしましょう。

2週間続けて宣教の奉仕を他の方に変わっていただきました。ここに立つのが、久しぶりのような気がしています。犬塚先生と根塚さんにお話をいただきました。それぞれの方の話を聞いて、いつもとは違う、神様の恵みがあったと思います。そのことに感謝です。

ふじみ教会の宣教奉仕の後にある方が「最近、平塚教会を身近に感じる」とおっしゃってくださいました。うれしかったです。ふじみ教会とは地域協働プロジェクトがきっかけで、交流が増え、今回の牧師が交換で宣教をするということになりました。おそらくふじみ教会と平塚教会の間で歴史上、初めてのことです。ずっと昔から平塚市内には、2つのバプテスト連盟の教会があったのに、あまりお互いの行き来は無く、近くに感じることが無かったかもしれません。でも最近とても身近に感じるようになりました。これもこひつじ食堂のおかげ、神様のめぐり合わせかもしれません。みなさんは、そんな風にいままで遠くにあると思っていて、あまり関係がないと思っていたけれども、最近になって身近に感じると思ったことはあるでしょうか?

根塚さんのこともそうでしょうか。先週は根塚さんを見送りました。たった半年間ですけれども、とても寂しい気持ちでいます。私たち今まであまり関わりのなかった根塚さんをとても身近に感じるようになりました。東京バプテスト神学校・神学生という存在も身近に感じるようになりました。そして横須賀長沢教会も身近に感じるようになりました。これまでずっとお互いを遠く感じていたけれども、とても身近に感じるようになりました。

私たちはこんな風に、遠くにあると感じていたものを、身近なものとして感じるようになるという体験があります。そしてその体験は神様と私たちの関係にもよく似ていると思います。神様はきっとここにいるはずと思う場所に、必ずいてくださるお方です。そして同時に、神様から遠いと思う場所、神様と関係ないと思う場所、神様はこんな場所にはいないと思う場所にも、神様は必ずいてくださいます。もうここにはいなくなってしまったと思う場所にも、神様はまだいてくださいます。私にはきっと来てくれないと思う私に、神様は来てくださいます。神様はそのように、私たちみんなに、私たちみんなの身近に、私たちみんなのそばにいてくださるお方です。

今日からアドベントです。クリスマスを待ち望む時です。神様は私のもとに来てくれるだろうか?そう思うあなたにきっと神様が来ます。まだ私には来ないかなと思う時、すでに神様はそこに来ています。ここに神様がいる、そう思う場所にももちろん神様はいます。

神様はいつも私たちと一緒にいます。そばにいます。そばにいるということ、それは大切に思っている、愛しているということと同じです。そばにいるよという言葉は、愛していると同じ意味の言葉でしょう。神様は私たちを離れず、そばに、身近にいてくださいます。遠くにいるように、離れている様に思えても、そばにおられます。そのようにして私たちを愛し、大切に思ってくださっています。

今日も聖書を読みます。神様は私たちを大切に思うからこそ、愛しているからこそ、私たちのそばにいて下さるお方です。そのことを聖書から見てゆきましょう。そして、そのように神様に愛される、大切にされるからこそ、私たち同士も、お互いを身近に感じ合って、大切にしあって、愛し合って生きようと教えています。神はそばにいて、大切にしてくださる。私たちも互いのそばにいて大切にしよう。そのことを見てゆきたいと思います。今日の聖書の個所を読みましょう。

 

 

 

今年のアドベントはヨハネ福音書を読みたいと思います。今日の物語を整理しましょう。登場人物は3人です。イエス様、エルサレムの人々、信じた人の3人です。エルサレムの人々はイエス様が平等とか平和とかきれいごとばかりを言って、そのうち騒ぎを起こすかもしれないと、支配者に目をつけられていることを知っていました。彼は民衆、特に貧しい人たちから人気がある人でした。

私たちはイエス様について本当に何も知りません。誰も会ったことも、その姿を見たことすらありません。私たちはただ数千年前からの言い伝えからイエス様を想像するだけです。しかしエルサレムの人々は私達よりも何百倍もイエス様のことをよく知っていました。

彼らはきっとこう言いました。「あれってガリラヤのヨセフとマリアの子でしょ。知っているよ。小さい頃はふつうのこどもだったよね」「私はあの子のおむつ変えたことがあるよ」「結構あいつは悪ガキだったよ」「あの子の家は私の実家のすぐそばで、私はマリアと幼馴染だから」きっと、そんな風に生活の実体験の中でイエス様をよく知っていたのです。その人たちはこう思いました。27節です。「いい話をしているけれど、あなたがガリラヤ生まれだと知っているよ。だからあなたは救い主ではない」そう思ったのです。そんな身近に救い主がいるはずないと思ったのです。救い主はもっと劇的に登場するはずだと思っていたのです。

たしかに当時、救い主は劇的に登場すると考えられていました。ダニエル7章13節には救い主は天の雲に乗ってくるとあります。マラキ書3章1節にも、救い主は神殿に突如現れると書いてあります。人々はそのような神、救い主のイメージを持っていました。だから人々は小さい頃から知っていて、目の前にいるあの人が救い主であるわけがないと思ったのです。その感覚は私もわかるような気がします。

しかし、イエス様はそれに対して28節大声で話をします。そこにいる人々の多くが自分をよく知っています。そんな人たちに囲まれていた中で、全員に聞こえるように言ったのです。「みんなわたしを小さい頃から知っています。でも私は神様から遣わされました。みんな私のことは知っていると思いますが、みなさんは神様のことはまだまだ知らないはずです」群衆はそんな風に言われて、怒ってイエスを捕まえようとしました。だからお前は普通のこどもだったし、神から遣わされた者と考えられない。それは私たちがよく知っている。お前には救い主らしさが無い。神から来たものとは、もっと神秘的で、特別な人だ、だからお前は救い主ではない。そう判断をしたのです。人々は、神から遣わされたのなら、こんな身近じゃなくて、もっと特別な手の届かない存在であるはずだと思ったのです。私の知らない遠い場所に生まれ、私なんかと住む世界が全く違うはずだと思ったのです。

しかし、救い主はそうではなかったのです。救い主はみんなが小さい頃から知っていて、身近な人だったのです。28節のイエス様が知っていて、エルサレムの人が知らなかったこと、それは何だったのでしょうか?それは神様が身近な存在であるということです。神様の子、救い主とは人の世界に、人のこどもとして生まれ、泣いて、あなたにおむつを替えてもらって、育ったのです。それほどに神様は身近な存在だということです。人々が知らず、イエス様が伝えようとしたこと、それは神は身近な存在だということです。イエス様はそれを大声で伝えているのです。

神様は近くにいる。そばにいる。身近にいる。あなたたちのそばにもう来ている。みんなに来ている。誰にでも来る。私には来ないと思っている人に来る。ここではないと思っている場所にすでにいる。それがイエス様が伝えようとしたことです。イエス様が伝えた希望、それはこんなところに神はいないと思う場所にこそ神がいるという希望です。神がそばにいるという希望です。

クリスマスはまさしくそのような出来事です。クリスマスはこんな場所に生まれるはずがないと思う、貧しい、汚い場所で起きた出来事です。イエス様は他の子と同じように、あるいは他の子よりも悪い環境で生まれました。そんな人が救い主で、そんな人が愛を伝えることになったのです。それがクリスマスでした。

私たちはどこに神様がいるのか探すでしょう。私たちは光り輝く場所、良いことが起きている場所、恵みが豊かにある場所、成長している場所に神がいると感じるでしょう。きっとそこに神様はいます。でもそこだけではありません。私たちが暗い場所、悲しいことが起きている場所、恵まれていないように感じる場所、縮小している場所、私たちのよく知っている場所、人、そんな場所に神様はいて下さるのです。神様はそのようにしてみんなのそばにいるのです。

私たちの身近にいる、それが神様です。私は今日の個所から、神がそばにいてくれる、そのことを心強く思います。神が私を愛して大切に思ってくださっている、そのことをうれしく思います。そして今日の個所から、私自身も誰かのそばにいる存在でありたい、人を愛し大切にする存在でありたいと思います。この教会自身も地域にそんな存在であって欲しいと思います。地域のそばにいる教会、地域を愛し大切にする教会でありたいと思います。そのように私たちは今週も互いに愛し合い歩みましょう。

これから私たちはパンを食べます。神を一番身近に感じる方法があります。それはパンを食べるという方法です。私たちが食べるパンは、神様の体を象徴しています。それが私たちの体を巡り、地となり肉となり、力となります。これほど身近な神体験はないでしょう。この後の主の晩餐で、私たちはこのパンを食べて、また神様を身近に感じましょう。お祈りをします。