【全文】「お互いをほめ合う教会」ヨハネ福音書5章41~45節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること主に感謝します。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝しましょう。

私たちの教会では毎週日曜日に集い、互いに言葉を交わし合っています。その会話の中で互いをほめ合っている様子をよく見かけます。見ていてとてもよい関係だと思います。今日の服はステキですね。この前のお料理おいしかったですよ。教会学校のお話が胸に響きました。すばらしい聖書朗読をありがとう。すばらしいお祈りをありがとう。教会で互いをほめ合う言葉が交わされるのをうれしく聞いています。お互いをほめることは、互いの関係を良くするだけではなく、その言葉を受けた人を積極的にします。またこれをやろう、もっとやってみようという気持ちにさせます。教会ではお互いをけなしたり、上下をつけたり、評価を下しあうのではなく、私たちは互いにほめ合いたいのです。互いの良いところを見つけ合って、ほめ合ってゆきましょう。

日曜日はこんなにおたがいをほめ合うのに、もしかするとそれぞれの1週間は家でも職場でも怒ってばかりの1週間だったかもしれません。あまり誰かをほめなかったかもしれません。私もこどもを怒ってばかりでした。日曜日に互いをほめ合うように、次の1週間はもっと他者を認め、ほめたいものです。

私の本棚にずいぶん前にもらった、ほめ方ハンドブックという本がありました。そこには正しいほめ方、ほめ方のコツが書かれていました。ほめるコツは、事実を細かく、具体的にほめることだそうです。そして決まり文句ではなく、相手に合わせてほめる事が大事だそうです。さらに、間を置かずタイミングよく、すぐにほめることが大事だそうです。恥ずかしさを置いてほめよう、そのような勧めが書かれていました。一方、ほめる上での注意も書かれていました。それは、嘘はいけないということです。事実をほめるのが大事だそうです。事実でないことをほめるのは、それはほめているのではなく、おだてている、こびているのだとありました。ほめるとおだてる、ほめるとこびるは違うのです。事実でないことをほめるのが、おだてる、あるいはこびるということです。嘘のほめ言葉はこびる言葉、他人の機嫌をとる言葉です。よく人は権力者にこびます。人は時に嘘をついて、権力者が好むような言動をし、こびるのです。

教会は互いにこびる場所ではありません。教会は互いを注意しあい、指導する場所でもありません。教会は互いを認め、ほめ合う場所です。今日もあなたはすばらしい、あなたと一緒にいれて良かったと確認し合う場所です。

社会ではもっと頑張れ、もっとできるはず、どうしてもっとできないのかという怒りがたくさんあります。でも私たちは教会では違います。頑張ってるねと言い合いたいとほめ合いたいのです。私たちは互をほめ合い、互いを尊敬し合い、互いを愛し合うことをこれからも続けてゆきましょう。ローマ12章10節に「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあるとおりです。

そして特に教会が大切にしていることがあります。それは神様をほめるということです。神様をほめるとは、神様のすばらしさが言葉や歌などで表現されることです。神様をほめるとは神様の栄光、誉れ、華やかさが、嘘偽りなく表現されることです。神様をほめるとは神様に向けて、神様に適ったほめ言葉が語られることです。それが神様をほめるということです。そのように教会では神をほめたたえることを何より大切にしています。教会では「神様はいつもそばにいてくれてすばらしい」「神様は悲しいときこそ一緒にいてくれてすばらしい」そのように神様のすばらしさが語られ、賛美の歌が歌われています。

そしてほめているのは、私たち人間だけではありません。神様も私たちをほめて下さるお方です。神様は「1週間、頑張ったね」私たちをとほめて下さっています。神様は私たちをここが良かったと具体的にほめて下さいます。私たちはそのような励ましを神様からいただいて、また1週間を歩みます。今日はほめることをテーマに聖書を読みたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日はヨハネ福音書5章41~45節をお読みいただきました。私たちの教会では互いをほめ合い、神様をほめたたえたいと思っています。しかし41節でイエス様は「私は人からの誉れは受けとらない」とあります。どんな意味でしょうか。

この言葉から私は十字架を連想しました。この後イエス様は十字架で死んでゆくことになりますが、十字架の前後では弟子を含めて、ほとんどの人がイエス様をほめませんでした。認めませんでした。イエス様は自分を救ってみろと罵られながら死んでゆきました。十字架の死は屈辱の死です。それはほめられることとは正反対の、不名誉な、呪われた死です。イエス様は誰からもほめられることなく、誰からも認められることなく、十字架で殺されていったのです。イエス様はこのようにほまれを受け取らなかったのです。

この個所をアドベントに読んで、イエス様の誕生も連想しました。イエス様の誕生は、教会にこどもが誕生したときのような、喜びの中で起きた事ではありませんでした。みんなに祝われて、歓迎されながら生まれたのではありませんでした。どこにも泊まる場所、どこにも居場所のない母マリアは、馬小屋で出産をしなければなりませんでした。社会の隅に追いやられて出産したのです。まるでイエス様は人々からその存在を認められないかのように、生まれてきたのです。

今日の個所、そしてイエス様の十字架や誕生からどのようなことが言えるでしょうか。私は誰かを十字架に架けるのではなく、互いを認め合い、ほめ合いたいと思いました。そして誰かを、母や子を隅に追いやるのではなく、受け止めたいと思いました。私はイエス様の十字架や誕生の、不名誉や抑圧を二度と私たちの社会や生活で繰り返したくありません。私の1週間は怒ってばかりですが、もっとほめたいと思っています。隅に追いやってばかりですが、もっとほめたいと思っています。イエス様の言葉、イエス様の十字架と誕生は、私たちに語っています。この個所は互いを拒絶するばかりではなく、もっと認め合い、ほめ合おうと伝えているのではないでしょうか。

当時のイエス様を十字架で殺すことを求めた祭司たちは大きな権力を持っていました。権力の周りにはいつも嘘があります。嘘で固められたほめ言葉、おだてとこびがあります。権力者の周りの人は事実ではないことをほめ、こびます。人々は権力者をおだて、権力者にこびへつらいます。

弟子たちもイエス様のすばらしさを知っていたはずです。しかし「そんな人は知らないと」嘘を言って逃げました。弟子たちは人々の前でイエス様のすばらしさをほめる勇気がなかったのです。本当はあの時、勇気をもってイエス様のこんなところがすばらしいと、具体的な事実をほめることができたら良かったのです。でも弟子たちはほめることができませんでした。

42節には「彼らの内に神の愛はなかった」とあります。人々や弟子たちの内に神をほめる愛がなかったのだということです。イエス様の誕生でも同じです。赤ちゃんの誕生を隅に追いやって、人間のいる場所から追い出して、家畜小屋に追いやりました。彼らはがんばっている母親や赤ちゃんをほめることがありませんでした。その内に愛が無かったのです。イエス様はこのように、誕生から十字架までそのような不名誉を受け続けたお方です。

44節を見ましょう。「あなたたちは唯一の神から誉れを受けようとしない」とあります。これは私たちが神様、イエス様をほめる前から、神様が私たちをほめて下さっているということを示しています。神様は私たちを受け止め、私たちを認めて下さっています。ほめるのは私たちだけではありません。神様も私たちをほめるのです。でも私たちは神様のその言葉を受け取ろうとしない者だとあります。ほめるのは私たちだけではありません。それよりも前に、先に、神様が私たちをほめて下さっています。私たちはすでに唯一の神からほめられているのです。あなたは頑張っている、すばらしいとほめられています。神様はちゃんと私たちを見ているのです。そしてそのほめ言葉をあなたに受け取って欲しいと思っているのです。神様は私たちのことを、罪人だ、愚か者だと怒っているわけではありません。神様は私たちをすでに、ほめて下さっています。私たちはこんなにも教会でお互いを受け入れ合い、ほめあっています。それと同じように、いえそれ以上に神様は私たちをほめて下さっています。

私たちは神様が私たちをほめている、その言葉を受け止めましょう。私たちが互いを受け入れ合ってほめ合う様に、神様が私たちを受け入れ、ほめてくださっています。神様からほめられ、それを受け入れるなら、私たちはもっと積極的になることができるはずです。これをやろう、もっとやろうという気持ちがわいてくるはずです。そして私も他の人のよいところをほめようと思う様になるはずです。私たちは、神様にほめられています。だから自信をもって歩みましょう。そして私たちが互いをほめ合う様に、神様のこともほめたたえましょう。神様のすばらしいと思う場所を神様に伝えてゆきしょう。そのような神様をほめる、祈りと賛美を神様にささげてゆきましょう。私たちは互いにほめ合いましょう。そして神様が私たちをほめてくださっています。私たちも神様をほめ、互いにほめあいましょう。お祈りします。