【全文】「聖書と性の尊厳」Ⅰコリント6章9~10節

みなさん、おはようございます。今日もこうしてこどもたちと一緒に礼拝できること、主に感謝します。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月は性と聖書について、セクシャルマイノリティーと聖書について考えています。性の事柄について教会で取り扱うことは大変難しいことです。公の場で言葉にするのが難しいと感じています。しかし今、性の問題に宗教が沈黙を続けることも良くないと思っています。

テレビでは性の問題が大きく取り上げられています。ジャニーズや松本人志の性加害について報道されています。私たちの教会はこのような問題についてどのように考えたらよいのでしょうか。ある人は教会はそのような社会的なことよりも、もっと魂に関することを扱った方がよいと言います。教会はもっと魂の救いについて語るべきと言います。そのように言う人にも聞いて欲しいです。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。魂の問題に向き合うべきというのならば、教会はもっと性の問題に向き合うべきだと思います。私たちの大切にしている、魂の問題として、このことを考えたいと思います。

性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私個人は同性愛も一つの愛の形であると思っています。しかし同時に私はキリスト教の中には、そう解釈しない人、立場が大きく違う人がいることを知っています。平塚市内の教会でも、神奈川県のバプテスト教会の中でも、その理解は大きく分かれます。私は同性愛について「賛成、反対それぞれの立場を大切にしましょう」と言う前に、同性愛について聖書がどのように言っているのか、また言っていないのかをはっきりと確認をしておきたいと思っています。

 

今日の聖書の個所を見ましょう。今日の聖書の個所に、同性愛という言葉は登場しません。そもそも聖書全体に同性愛という言葉が登場しません。それもそうです。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。聖書はおおむね1世紀に成立しています。だからもちろん聖書には同性愛という言葉は登場しません。ではなぜ聖書が同性愛を禁止しているという解釈が生まれてくるのでしょうか。なぜ聖書は同性愛に反対していると言われているのでしょうか。

それは今日の個所や他の個所に、同性愛と混同された言葉があったからだと思います。本当は性暴力を示している言葉が、同性愛と混同された、誤解が生まれたのだと思います。聖書は本当は同性愛を否定していないのに、読む側が偏見を持って聖書を読む時、聖書で同性愛は禁止されている、そう解釈され、広がってしまったのではないかと思っています。そして性暴力に沈黙してしまっています。

今日の聖書の個所に誤解された言葉があります。今日の個所には「男色する」という言葉があります。この言葉こそ同性愛を指すものだとして、聖書に書いてある通り同性愛は禁止されていると理解されてきました。「男色する」という言葉を日常で使うことはありませんので、広辞苑で「男色」を引きました。そうすると「男性同士の同性愛」と書いてありました。だとするとやはり聖書は同性愛を禁止していると解釈できるでしょう。やはり同性愛が禁止されているように思えます。

でももっと深く考えましょう。日本語では「男色(つまり同性愛)」と訳していますが、聖書にもともと書いてある言葉ではどうでしょうか。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉が日本語で男色(男性同士の同性愛)と訳されています。この言葉についてもう少ししっかりと考えたいと思います。

現存する古代文献の中で「アルセノコイタイ」という言葉が最初に使われたのは聖書です。聖書が最も古く「アルセノコイタイ」という言葉を使っています。聖書と同時代やより古い文献が無いので、当時の「アルセノコイタイ」は、どのような意味で使われたのかははっきりとわからない言葉です。おそらくパウロが作った言葉ではないかとも言われます。いずれにしても意味が分からない言葉です。このように意味の分からない言葉がある場合、推測する方法は2つあります。一つは語源から推測する方法です。もう一つは文脈や用例から推測する方法です。

まず語源から推測しましょう。アルセノコイタイの「アルセノ」は男性に対してという意味があります。コイテは横たわるという意味があります。つまり語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味です。ここから同性間の性行為を指す言葉と推測されました。そしてそれが後に、男性同士の同性愛、男色という翻訳として定着してゆきました。

分からない言葉がある場合、もうひとつ文脈からその意味を推測するという方法もあります。アルセノコイタイはだいたい悪徳リストの一項目として登場します。今日の個所にも、泥棒と並べられています。他の文献、聖書よりも後の時代の用例を見ると、例えばアルセノコイタイするな、賃金を正確に払え、不正な行為をするななどの用例があります。他にはペテン師、詐欺師、アルセノコイタイなどと使われています。どれも経済的な搾取に関する文脈でアルセノコイタイが登場します。

おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉だと推測されます。この言葉は同性間の性行為という意味だけではなく、経済的な搾取の意味も含まれます。おそらく同性間の性行為と、経済的搾取の2つの間にある言葉です。つまり「アルセノコイタイ」は、お金の力によって同性と性行為をすることだと考えられます。お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことが「アルセノコイタイ」です。自分の立場や地位を利用して同性の性の尊厳を奪う事が「アルセノコイタイ」です。だとするとアルセノコイタイが9節で、みだらな者と泥棒の間に置かれている意味も納得できます。相手の性の尊厳を、不当に奪う事がアルセノコイタイです。私はこの「アルセノコイタイ」を「性搾取」や「性暴力」と訳すのが良いと思っています。

社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性による、小さい少年への性行為が盛んに行われていました。身分の低い少年や、奴隷の少年に対してそれが行われていました。それは同性愛とは全く違います。大人たちが立場の弱い少年たちの性を搾取したのです。少年たちに愛はありません。自由な選択はありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。

こうした背景からも「アルセノコイタイ」の意味を考えます。この言葉は同性間の同意ある、能動的な、対等な愛を示している言葉ではありません。この「アルセノコイタイ」は立場の弱い少年や奴隷を性的に搾取すること、性暴力の加害者となることを示している言葉だと考えられます。

しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。それまでも同性愛はあったでしょう。しかしそれが言葉になったのは19世紀でした。そして大きな偏見が広がってゆきました。20世紀になると本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解され、翻訳が定着しました。そして同性愛は一緒に記載される、ふしだらや泥棒と並んで悪、罪とされるようになりました。性暴力が悪、罪であったはずなのに、同性愛に置き換えられ、同性愛が悪、罪とされてしまったのです。そのようなことが起きたのはその時に同性愛に対する無知と偏見があったからです。聖書を読んだときその偏見を聖書解釈に重ねてしまったのです。そうしていつしか聖書は同性愛は悪・罪と解釈されるようになりました。同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。それは罪であり、治療して直すべきものであると解釈されるようになりました。

しかし聖書は本当にそのように語っているでしょうか。私個人はそのように思っていません。この個所は、経済的に性の尊厳を奪う人を指していると考えています。立場の弱い人やこどもの性の尊厳を奪う人を指していると考えています。

現代において魂の殺人と呼ばれていることです。それを聖書があってはならないと言っているのではないでしょうか。この個所は性暴力の加害者は神の国を受け継ぐことができないと言っているのではないでしょうか。私個人は性暴力の加害者は神の国を受け継ぐことができないということに同意します。同性愛者を断罪するよりも、その方がずっと納得感があります。この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているのです。

私たちの社会を見渡します。世界では私たちが一番大切にしなければならない魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。そして同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、反対してゆきたいと思います。そして偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。

10節、神の国を受け継ぐものとはどんな人かを想像します。それは互いの性を尊重する人ではないでしょうか。互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか?

聖書には「この個所は同性愛を否定している」そう読まれてきた箇所が多くあります。しかし、よく読んでみると決して同性愛を断罪するような解釈はできません。そしてそのような解釈が見落としていることがあります。それが性暴力や性搾取の問題です。教会は魂の問題としてそれに目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。