【全文】「ちゃんと休みなさい」出エジプト記16章1~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもと一緒に礼拝をする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

明日から1週間、お休みをいただく予定です。年に2回、日曜日を含んだ休暇をいただけること感謝します。いくつかの予定を楽しみたいと思っています。社会では休むこと、休息をとることについて大きく意識が変わってきています。4月からはトラックドライバーにも残業時間の上限が適用されます。2024年問題と言われています。他の業界にはすでに残業時間の上限が適用されていますが、建設業とトラックドライバーだけ猶予されていたのが、他の業界と同じように上限時間が適用されます。これによってドライバーの労働環境の改善がされるといわれています。一方で物流への影響も心配されています。

私も20年前、一般企業に就職して間もないころ、全く休みを取ることが出来なかった時期がありました。来る日も来る日も仕事に追われ、夜遅くまで仕事をしても終わらず、デスクで寝て、朝また起きて仕事をして、また夜デスクで寝る、そんな風に仕事をしている時期がありました。当時は残業時間の規制が全く存在しなかったからです。気付くと100日間、休まずに仕事を続けていました。それが良いサラリーマンだと教えられ、とても褒められました。でも精神的にどんどん追い詰められてゆきました。ある時、走っている車を見て、これにぶつかれば休めるかもしれないと思ったことがありました。

私は思いとどまったのですが、同じ時期日本では過労死をする人、過重労働で自死する人が多くいました。そこから徐々に社会は適切な労働時間をまもるべきと気づいてゆきました。残業時間の上限が設定され、仕事と生活のバランス、ワークライフバランスという言葉も生まれました。社会はがむしゃらな労働と、それによる成長・安価な商品を求めるのをやめたのです。絶対終わらないような仕事を抱えて無理をするのは良くないと気づいたのです。社会は適切な安息を取りながら働くことの重要性を認識したのです。それは充実した安息の重要性を理解したとも言えるでしょう。

私がしばしお休みをいただくことができることも感謝します。そのために負担を担い、支えてくれる方々に感謝しています。それも含めて神様が準備して下さった安息だと受け止め、感謝し、また次の働きに向けて備えたいと思っています。聞くところによると教会の中にはなかなか牧師を休ませることができない教会、休まない牧師もいるそうです。学校の先生や国家公務員はまだ適切な休息が与えられていないそうです。他の多くの職業の方々にも安息が与えられ、健康が守られることを祈ります。1週離れまた戻って来て、また新たに牧師の働きを頑張りたいと思っています。

 

 

さて今日の聖書箇所を見ましょう。今月は3回出エジプト記を読んでゆきたいと思っています。今日はマナの個所です。旧約聖書、イエス様が生まれる前の時代、人々はエジプトで奴隷にされていました。そこでは非常にきびしい労働が科せられました。出エジプト記はそのような人々の過酷な労働を伝えています。1章14節には「彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」とあります。

人としての権利も認められませんでした。ただ求められたのは、働くことでした。働け、でもこれ以上人口が増えると困るから子どもが生まれたら殺せ。人々は殴られながら労働をしました。仲間が殺されても何も言えなかったでしょう。それはまさしく、人権無視の休みなしの過重労働、虐待でした。出エジプトとはそんな抑圧の地からぬけ出し、安息を求める行動でした。人々は自由と安息のために、エジプトを脱出したのです。

しかしその道のりの一番の困難は食料の確保でした。そんな時、人々は言います。3節「エジプトの方が良かった」。昔の方が良かった、あの頃の方が良かったと言うのです。それはまったく事実ではありません。きっと彼らはそう考えなければ生きていけないほど追い込まれていたのです。彼らは目の前の困難に、過去を理想化することで乗り越えようとしたのです。昔は良かった、俺がエジプトで働いて頃はもっと良かったのだと自分に言い聞かせ、過去を理想化することでしか生きる意味を持てずにいたのです。昔はたくさん働いて、たくさん食べて働いた、あの頃の方が良かったと、偽りの過去を心の支えにしたのです。

そこに神様の言葉が響きます。5節です。神様はここで、新しい命のつなぎかたを彼らに提案しました。それは神様が天からパンを降らすということです。神様はどんな人にもパンを降らすことにしました。あなたには降らす、あなたには降らさないというのではありません。神様はすべての人にパンを降らすと提案しました。頑張った人に、いい人に、信じた人に降らすのではありません。誰にも限定せずに降らし、あなたたちはそれを食べ、命をつなぐようにと提案をしたのです。

そしてもう一つの命のつなぎ方の提案は、毎日少しずつ必要な分だけを集めるという方法です。毎日ちょっとずつ集めればよいという提案です。それは例えば大きな倉を作って、一度にたくさん集めてしまっておくという生き方ではありません。たくさんため込んでおく必要はないのです。今日の分は、今日集めればそれでよい、無理にたくさん集める必要はないという命のつなぎ方を神様が教えてくれました。

反対にこのマナを無理に集めることこそ、過重労働、働きすぎと言えるでしょう。とにかくたくさん集める、たくさんあればあるほど幸せになれるから1gでも多く集めるためにがむしゃらに休まずに働く、そのような労働は必要ないということです。神様の命のつなぎ方の提案は、無理をしないで、あなたが今日集められる分、できる限りの分を集めれば、それで命をつなぐことができるよ、そう教えているのです。神様はこのマナを多く集めた人も余ることなく、少しだけの人もたりなくないようにしたのです。

しかし中には誰かが自分が食べきれない分までマナを集める人がいました。その時神様はどうしたでしょうか。20節それは虫が湧いて、悪臭を放ったとあります。自分の食べきれない分まで集める事、それは富の蓄積を連想させます。自分が必要な分以上の分をかき集めて、あるいは他の人の必要な分まで必死にかき集めることは、富を独占し、蓄積させることです。誰かに休ませずかき集めさせて、富を蓄えていくことです。神様はそのような富には虫が湧き、腐り、悪臭がすると言います。神様は過度な富の蓄積を嫌ったお方でした。一人一人が生きるのにちょうど必要な分を備えるお方でした。だから神様は無理をしすぎないでいいと言っています。神様は誰かに無理をさせないでいいと言っています。集められた分で生きていける、私がそのマナをすべての人に降らすと言ったのです。だから人間は働きすぎることなく、蓄えすぎることなく生きることができたのです。

そして神様は安息の日も用意してくださる方です。6日目だけは少し多めに集めてもいいというルールにしました。そうやって7日目に安息できるようにしてくださったのです。日々日々働きすぎるだけではなく、1日まるごと休む日も与えて下さったのです。神様はこのように働きすぎを禁止しました。今日はみんな絶対に休む日ですと決めたのです。神様は、今日は働いても何も集めることはできない、何の成果もでないという日を決めました。今日は何をしてもうまくいかない日、だから休みなさいと言って安息の日を定めたのです。

27節それでも人は働こうとしました。誰かがは働かせようとしたのかもしれません。休まずに集めようと働きにでたのです。そして何の成果も出ませんでした。モーセは厳しく言っています。20節は「ちゃんと休みなさい!」という意味です。30節「民はこうして、七日目に休んだ」とあります。しぶしぶ休んだように想像します。ほんとはもっと働いて、もっと集めたい、もっと働かせて、もっと集めさせたいところでした。しかし神様がモーセを通じて厳しく言いました。「ちゃんと休みなさい」。そのようにして、ようやく人々に安息が与えられたのです。働きたいと思ったけれど、休んだのです。

神様は何と恵み深い方でしょうか。神様は人々は昔の方が良かったという不満に、怒りで返すお方ではありません。マナという食べ物で応えてくださるお方です。そして神様はなんとおせっかいなお方でしょうか。私たちに「ちゃんと休みなさい」と厳しく教えてくださるお方です。働いても何も成果のない安息日を与えてくれるお方です。神様はそのように私たちを大切に思い、生きる糧を与え、強制的な安息を与えてくださるお方です。

皆さんも今週1週間忙しくされることと思います。みなさんにもふさわしい休息が与えられる様にお祈りしています。そして世界は富を集めるのに慌ただしく、食べず、休まず、眠らず、マナを集めようとしています。その人々にも安息が与えられますように。必要なマナが与えれるように祈ります。私達にはすべきことがたくさんありますが、焦らずに、安息をしながら歩みましょう。これから主の晩餐の時を持ちます。このマナをいただき、神様が与えてくれる恵み、神様が与えて下さる安息を覚えましょう。お祈りします。