【全文】「がんばれ 子ロバ」ヨハネによる福音書12章12~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。またこどもたちと共に礼拝できることも嬉しいです。こどもたちの声を聞き、その存在を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会では「こひつじ食堂」という名前のこども食堂を開催しています。ここは貧しい人が集うためだけの場所ではなく、地域との交流ができる食堂です。誰かと出会うことができる食堂です。毎回200食近く作り、1食200円で提供をしています。たくさんの人が利用していますが、それを支えているのは、たくさんのボランティアさんたちです。ボランティアの登録は60名以上、そのうち毎回20名以上の方がボランティアとして加わってくださっています。毎回のボランティアの半分以上は教会員ではない、地域の方です。先日からは9歳(小学3年生)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。教会に説明を聞きに来た時はお母さんと一緒で、とても不安そうな表情でした。でも「やってみる」と言ってボランティアをはじめてくれました。

初めはお母さんと一緒に参加して、徐々に慣れてくれればいいかなと思っていましたが、始めるとすぐに楽しくなって、もうお母さん帰って大丈夫と言って、一人で加わってくれています。今では人一倍、立派に手伝ってくれています。大人の間違いを指摘して、大人顔負けの働きをしています。その日の最年少ボランティアは9歳、最年長ボランティアは88歳でした。こひつじ食堂は9歳と88歳が力を合わせる食堂です。こどもがボランティアに加わったことで、いろいろな良い影響が出ています。雰囲気が変わってきています。まず他のボランティアさんが刺激を受けています。自分は運ぶ、自分は作るということに一生懸命だった人が、周りで手伝っている子どもたちを見回すようになりました。自分の作業以外に気を配るようになりました。そして、すごいね、すごいねと、他者をほめながらボランティアする様になりました。大人たちだけよりよい雰囲気かもしれません。他のこどもにも影響があり、私もボランティアをしたいというこどもも出て来て、7歳(1年生)のこどもも一緒に働いてくれました。

こひつじ食堂の利用者にも変化があるようです。自分のこどもと来た母親が、自分のこどもより小さい子がお料理を運んで来るのに、目を丸くしました。早く私の料理を持って来てほしいと思っていた大人も、こどもが運んでいるのならしっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て、食べ終わったこどもが自然と自分で食器を下げるようになりました。嬉しい変化です。その食事の風景を見て、これが本当に平和というものなのだなと感じました。

最初はどのように教会がこどものボランティアを受け止めることができるかどうか、心配でしたが、受け入れて本当に良かったと思います。教会のこども食堂が、こどもが活躍できる場所となったことをうれしく思っています。そしてそのことから様々なことを教えられています。

神様はこのように、こどもを用いて、大きな変化を起こして下さるお方です。あるいはこどもにかかわらず一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。神様は私たちに教えて下さっています。神様はそれぞれが活躍できる場所を備えて下さるお方です。神様は共に喜び、互いにすごいねと励まし合うことの大切さを教えて下さっています。神様は待つことの大切さや、平和を私たちに教えてくださっています。

今日の聖書の個所にもこどもが出てきます。人間のこどもではないですが、ロバのこどもです。今日はこの子ロバが大活躍する姿を見てゆきたいと思います。そこから私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか?

 

聖書を読みましょう。ヨハネによる福音書12章12~15節をお読みいただきました。イエス様は互いに愛し合いなさいということを、町々村々を周って教えていました。戦争と暴力と不正がはびこる時代です。何よりも力が重要だった時代です。その時代の中にあってイエス様は愛し合うことを言葉とそして行動で伝えました。今日も愛し合いなさいということをひとつの行動で示しています。

イエス様はエルサレム、イスラエルの中心都市を訪問します。戦争ではなく、力ではなく、愛することを訴えたイエス様です。多くの群衆がその教えを支持していました。イエス様は「ホサナ(主よ、救ってください)」という大きな歓声を受けながらエルサレムの街に迎えられたのです。

今日注目したいのは、乗っていた動物です。イエス様は子ロバに乗っていたとあります。当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力の象徴であり、最新兵器でもありました。軍事力の象徴です。今で言うところの戦車と言えるでしょう。馬に乗って、悠々とエルサレムに来たらかっこいいです。馬に乗ることこそ、王様ふさわしい姿でした。

しかしイエス様は馬には乗りませんでした。その代わりにロバに乗ったのです。馬とは対照的です。ロバは忍耐深く重い荷物を運ぶ、地味な動物です。さらにロバの中でも、小さなこどものロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。ロバは馬よりも歩くのも遅いのです。子ロバならヨロヨロしたでしょうか。でもイエス様は子ロバを選びました。14節にイエス様は子ロバを見つけたとあります。それはイエス様自身が自分が見つけて、自分で選んで、それに乗ることを決めたということです。イエス様は、小さくて、不格好で、力のない動物を選んで、またがったのです。

ここには神様の選びが示されています。神様はどのような人を選ぶのかが示されています。神様は子ロバを選びました。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力の者を選ぶのです。力の強くないもの、こどもやお年寄りなど選びます。選ばれたのはロバの中のさらに子ロバです。神様は小さな力の中の、さらに小さい力しかもっていない者を選びます。それがまさに神様の選びです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方です。

この個所からまだまだ教わることがあります。神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバは馬と比べてかっこ悪い、地味な生き物です。しかも小さなロバに乗ったら、よろよろしたでしょう。子ロバは、みんなの前でよろよろとするのを恥ずかしいと思ったでしょうか。子ロバはもっと強くなりたいと思ったでしょうか。何とか馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。

私たちに置き換えて考えるとどうでしょう。私たちが子ロバだったら、子ロバなのになんとか馬になろう、馬に見えるようにしようと振る舞ったでしょうか。かっこつけたでしょうか。でも神様のもともとの選びはそうではありません。神様は子ロバを選ぶのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。だから私たちはかっこわるいままでいいのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。かっこわるいままで生きるのでよいではないかと、ここから教えられます。

人々がホサナと喜びの声をあげた様子も想像します。この言葉は群衆からイエス様に向けられた歓迎の言葉です。でも民衆の視線と歓声はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。イエス様の姿、それも小さなロバにのったイエス様の姿が、人々の心をとらえたのです。あんな小さなロバがイエス様を載せている。それならば私にも何かできるはずだと思ったでしょう。大きな変化があったでしょう。私を子ロバに置き換えてこの話を読む時、この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。運動会で転んで、ビリだけど、大歓声で応援されるように、頑張れ子ロバという思いがこの群衆の中にはあったのではないでしょうか。

小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしている。私はその子ロバをいとおしく感じます。イエス様のそのような選びを嬉しく思います。きっとその光景こそ、力と暴力の反対の平和があったのではないでしょうか。今日はイエス様とイエス様を背中に乗せた子ロバの話を見ました。私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。

私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。小さな力で前に進もうとする、その姿をみんなが応援する、そんな風景を平和と呼ぶのでしょう。小さな力でも一生懸命なあなたの姿が平和へとつながってゆくでしょう。私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。ホサナ、ホサナ、私たちにそんな応援の声が聞こえるはずです。

私たちの互いの1週間の歩みを祈りあいましょう。互いに小さな力だけれども、神様が大きく用いて下さるように祈りましょう。愛し合う1週間、小さな力に目をとめる1週間を歩みましょう。お祈りします。