【全文】「愛を成し遂げる力」ヨハネ19章28~30節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。先日の総会では「こどもの声がする教会」という標語をみなさんと確認しました。私たちは大人とこどもが共に福音を分かち合うために、一緒に礼拝をします。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもの声がする礼拝をしましょう。大人もこどもも福音を分かち合い、誰もが大切にされる教会になりましょう。

今週は教会の暦で受難週です。イエス・キリストの十字架を特別に覚える1週間です。今日はイエス様の地上の生涯の最期の時を見ます。

人間は誰しも自分の人生には終わりがあるのだということを知っています。だから悔いのない人生、やり残したことのない人生を送りたいと思うものです。でも本当にやり残しの無い、悔いのない人生など送れるのでしょうか。それはとても難しいことでしょう。人生は悔いが残ることばかりです。やり直したいことばかりです。中途半端なことばかりです。私はこの人生で何か一つでも成し遂げることができたのだろうかと思うことばかりです。イエス様は十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取ったとあります。今日はこのことを考えてゆきたいと思います。

まずイエス様の架けられた十字架刑について考えます。当時から様々な処刑方法がありました。他の個所では洗礼者ヨハネは斬首刑で殺されたとあります。そしてイエス様は十字架刑です。他にも様々な処刑方法がありますが、十字架刑は様々な処刑方法の中で最も残酷な刑でした。それはあまりに残酷な方法であったために一般市民に科すことが禁止されていたほどです。この刑に科されたのは、特に権力に抵抗した者です。政治的な反乱者がこの刑を科されました。

十字架刑は広げた手に釘が打たれます。手を広げたままだと、息が出来なくて苦しいのです。手足を動かそうとすると釘が痛みます。通常はすぐには死に至りません。徐々に体力が奪われ、窒息死したり、手足からの出血多量で死んでゆきます。死ぬまでにとても時間がかかる刑です。何日も、何週間もかかる、なるべく苦しみが長く続くようにされた刑です。それは大通り、人からよく見える場所で行われました。見せしめのためです。権力に反抗した者はこうなるぞと、人々に恐怖を与えるために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。死んでしまった後も、遺体の埋葬は禁止されました。十字架から降ろすことも禁止されていました。遺体は鳥や野獣のエサとなりました。埋葬する遺体さえも残らない刑だったのです。これは死刑の方法の中でも最もおぞましいものとされ、人々からは十字架という言葉を口にすること自体がはばかられたと言います。イエス様がかかったのはそのような刑でした。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。

しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。これほどまでに残酷な方法で殺されているのに、苦難の言葉がほとんどないのです。おそらくそれは「渇く」という言葉だけです。その苦しみは「渇く」という言葉にしかならないほどだったのでしょうか。そしてイエス様はなんとこのような状況で「成し遂げられた」と言いました。この言葉は理解できないことばです。激しい痛みの中での「成し遂げられた」という発言にはどんな意味があるのでしょうか?このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?今日は「成し遂げられた」という言葉に注目をしたいと思います。

 

 

「成し遂げる」という言葉は完成する、完全になる、まっとうするという意味の言葉です。物事を最後までやりきる事を意味します。また、やり切って成功することを意味します。自分のできることをすべてやり切っても、失敗することがあります。がんばっても結果がついて来ない時があるものです。そのような時には、成し遂げるという言葉は使いません。頑張ったうえで、さらに成功した時に「成し遂げる」という言葉を使います。

イエス様は十字架上で「成し遂げられた」と言いましたが、イエス様は一体何を成し遂げたというのでしょうか。イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。この活動は数年で終わってしまいました。弟子たちからすればイエス様にはまだまだやって欲しいことがあったはずです。これからだと思ったはずです。地上の人々にもっと伝えなければならないことがあったはずです。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。その教えはあまりに短すぎて、今も謎が残ったままです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。まったく謎の言葉です。

この状況で、何が成し遂げられたというのでしょうか。成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。そうです、これはイエス様が「私は成し遂げた」と言った言葉ではありませんでした。イエス様は成し遂げ「られた」と言ったのです。それは自分で「成し遂げた」のではなく、誰かによって、何かによって成し遂げ「られた」ものだったのです。

この言葉によれば、イエス様は自分自身で何かを成し遂げたのではありません。それはイエス様以外の誰かの力によって「成し遂げられた」ものだったのです。それを成し遂げたのは神様でしょう。神様がイエス様を通じて、成し遂げたのです。イエス様はそのことを「成し遂げられた」と言ったのです。

では神様はここで何を成し遂げたのでしょうか。神様はイエス様の十字架を通じて何を成し遂げたのでしょうか。「成し遂げられた」とはイエス様のここまでの地上の歩みが指し示されています。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、仲間になるように教えました。隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。病の人を訪ね、励まし、癒しました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。

そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けました。多くの人が呪いの言葉を並べる十字架において、沈黙し、神を求め続けました。死を避けるために、神様の使命から逃げることができました。しかしイエス様は死に至るまで、他者を愛し続けました。それが神様によって成し遂げられたものだったのです。どんなにつらい時も愛に生きる事、自分の思い通りにいかなくても愛すること、死ぬその時まで他者を愛すること、それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて「成し遂げられた」のです。

イエス様自身にもいろいろな思いがあったかもしれません。私はまだ何も成し遂げていないと思ったでしょう。もっと生きたいと思ったでしょう。弟子たちもそう思ったでしょう。どうしてこれからだという時に終わってしまうのかと思ったでしょう。もっと生きて欲しかった、もっと教えを聞きたかったと後悔をしたでしょう。

しかし、イエス様は「成し遂げられた」と言います。人の願いは成し遂げられずとも、神様の願いは成し遂げられたのです。弟子の願い、イエス様自身の願いではなく、神様の願いが成し遂げられたのです。イエス様はこのようにして十字架を引うけ、息を引き取ってゆきました。

 

 

この物語を聞いて、私たちはどう生きるでしょうか。私たちの人生には苦難があります。言葉にできるもの、言葉にできないもの、様々な苦難があります。しかしきっと神様は言葉にしてもしなくても、私たちの苦難をわかっていてくださるでしょう。神様は私たちが苦難の中で、神様の導きを求め渇くことをわかってくださっているでしょう。おそらく私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。多くの事は成し遂げることができず不完全です。そして私たちが成し遂げられることは神様の前に小さなことです。でも私たちにも神様によって「成し遂げられる」ことがあるでしょうか。私たち自身ではではできないこと、私たち自身では耐えることのできないことがあります。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることはあるでしょうか。私たちの力を超えて、神様が成し遂げられることがあるでしょうか?きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。

きっと神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます。どんなに愛せない時も、神様は愛することを貫くための力を私たちに与えて下さいます。そのようにして神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。

それぞれの歩みに神様の力が与えられるように祈ります。私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。