【全文】「信じない人を歓迎する教会」ヨハネ福音書20章19~28節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日も大人もこども一緒に礼拝をしましょう。先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話を始めました。このような視点は、毎週集っている方たちにも新鮮だったりするはずだと思っています。

 

よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。この礼拝は信じていないと参加できない集会ではありません。興味があって来ましたという人も歓迎します。信じるつもりは絶対ないという人も歓迎します。本当は来たくないけれど家族が来るから仕方なく来た、誰々さんに会いたいと思って来た、食事があるから来た、遊びたいおもちゃがあるから来たという人も歓迎します。教会はいろいろな目的を持った人と接点がある場所でありたいと思っています。周りの人に攻撃したり、教会を壊しに来るのでなければ、とにかくここに一緒に集った人をみんな歓迎したいと思います。

 

信じない人を歓迎するというよりむしろ、この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。信じない人が教会にいることの方が、安心できます。ここが信じる人だけの集まりとなると、秘密の儀式のようになってしまいます。きっとそれは閉鎖的で、内向きで、独善的になるでしょう。中にいる人も信仰に対する疑問を持ちづらくなったりします。集まる人も視野が狭まります。

 

教会は信じない人と一緒に、信じない人はどう思うかを想像しながら存在することが大事です。きっと信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。

 

「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかし信じている方を見ていると決して「信じるかどうかは自分次第」という印象は受けません。キリスト教は普通や常識、自然法則ではにわかに信じられないことばかりです。自分次第であるなら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が信じています。多くの人は不思議と何かに押し出されるように、信じるようになります。何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。

 

今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。彼は聖書の中で非常に大事な存在ですし、私たちにとっても非常に大事な存在です。信じない弟子がどう信じるようになるのか、その姿を見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

2000年前、イエス様は様々なことを教えました。中でも一番有名な教えは、互いに愛し合いなさいという教えです。人間関係にはいろいろあるけれど、お互いを大事にしあいなさいという教えです。イエス様は攻撃したり、論破したり、いじわるするのではなく、いたわりあい、優しい言葉を掛け合うことを教えました。それは当時、非常に革新的な教えででした。多くの人がその生き方、教えに共感してイエス様に従うようになりました。もちろん現代でもその生き方に倣うべき点は多くあります。

 

しかしイエス様の互いに愛し合いなさいという教えは、政府の政策とは真逆でした。政府は都合の悪い者は殺すという方針です。イエス様は十字架にかけられ処刑されてしまいました。イエス様の活動はこの十字架で終わってしまったかに思えました。中心的だった12人の弟子たちも、自分たちも政府に目を付けられ、殺されるのではないかと閉じこもっていました。窓を全部締め切って、鍵を閉めて閉じこもっていたのです。しかしそこに死んだはずのイエス様が現れました。その体験は弟子たちの人生を大きく変えてゆきます。その体験で何が起きたのか、どう表現、説明したらよいかはわからなかったのですが、弟子たちはとにかくそれをイエスの復活と呼ぶことにしました。

 

19節からはその12人の弟子のうち、イエス様の復活と呼ばれる出来事を見ていなかった弟子が1人だけいたという話です。トマスという名前です。トマスは言いました。そんなこと信じられるわけがない。確かにイエス様は十字架で死んだはずだ。手を釘で打たれて十字架につけられ、脇腹を槍で刺されて死んだはずだ。その人がもういちど弟子の前に現れる、復活をするわけがない。そんなことは信じことができないと言ったのです。

 

そして彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言ったのです。すると8日後、本当にイエス様が現れました。戸という戸は全部締め切ったはず、鍵を閉めはずです。しかしイエス様は現れました。そして手と脇腹を確認するように言いました。そのような物語です。

 

さて、この個所はどんなことを教えているでしょうか。特に今日は、信じるとはどういうことなのか、人はどう信じる者に変えられてゆくのか見てゆきます。

聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで、言われたことを信じましょうと言っているのでしょうか?決してそうではありません。人はそんなに簡単に宗教を信じません。人は簡単に自分の人生の大事なものを変えるわけではありません。確かな証拠や奇跡のような体験がないと信じることができないものです。トマスはそんな私たち人間の代表かもしれません。信じない人の代表です。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。

 

トマスもきっと信仰に興味はあったはずです。どちらかというと信じたいと思っていたでしょう。脇腹に手を入れるような、確実な体験、奇跡を体験すれば信じれるだろうと思っていました。私は奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。そしてイエス様はそこに現れます。さあ手を入れてごらんと現れます。

 

しかし注目したいことがあります。聖書にはトマスが実際に指を入れた、手を入れたとは書いていないのです。彼は結局、手と指を入れませんでした。手と指を入れたら私は信じると言っていたのに、彼は手を入れなかったのです。

 

私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。受験に合格したら信じる、愛する人と結婚できたら信じる、この病気が治ったら信じるという条件を聞く時があります。それは私たちの本当に切実な願い、叶えたい願いです。私たちの本音です。

 

でも私個人のこれまでの実感として、条件が叶ったら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになるという人は多くありません。そういった場合、たとえ自分の条件をクリアしても信仰を持つ人は少ないような気がします。自分の設定した条件や願いが、達成されても信仰を持つ人は少ないのです。

 

一方、条件が叶わなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。

 

トマスは手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。ではトマスは信じなかったのでしょうか。聖書には信じたとも書いてありませんが、文脈から考えるときっと信じるようになったのでしょう。どうして自分の設定した条件を満たしていないにも関わらず、信じるようになったのでしょうか。

 

そのきっかけはイエス様の方から現れた出会いでした。自分の作った条件とは全く別に、イエス様が来たのです。イエス様がここにいると感じたのです。それはイエス様・神様の一方的な登場でした。しかし彼にはその体験が何よりも大切なものとなりました。

 

自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。

 

そうです彼はもともと家にいました。あらゆる戸を閉めて、鍵を閉めて入って誰も外から入ってこれないよう家にいました。しかし、そこにイエス様の側から入ってきました。誰も入って来れるはずのない場所に、閉ざした心の内側に、イエス様は不思議と現れたのです。

 

信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。締め切っていたはずなのに、信じるつもりはなかったのに、入ってくることを期待していなかったのに、閉ざしていたのに、でも不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。そのことをトマスから教わります。

 

私達自身のことを考えましょう。ここは信じる人も、信じない人も歓迎する教会です。来て良い条件はなにもありません。どうぞそのまま来て下さい。心を閉ざしたままでもかいません。

 

イエス様・神様は、絶対に信じないという人にも、きっとその心に突然にイエス様・神様が現れる時があります。自分たちの条件付けや、気持ちとは関係なく、突然やって来る時があります。そして背中を押され、追い風を受けて、不思議と互いに愛し合いなさいという教えに心から従う時が来るのです。

 

自分あげた条件は叶わないかもしれないけれど、イエス様が心に現れる時がきます。みなさんにもいつかきっと来ます。それは8日後かもしれないし、何十年も先かもしれません。でも皆さんにその時が来ることを祈っています。いつかみなさんの心にイエス様がいる、そう信じる実感を持つ時が来ることを願っています。

 

信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りを