【全文】「無期限の希望」マタイ24章36~44節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしてゆきましょう。今日から12月です。1年はとても早いものだと感じます。みなさんの1年はどんな1年だったでしょうか?私は忙しい1年で、あっという間でした。こひつじ食堂やこひつじカフェ、テレビの撮影、神学校の講師など、忙しい1年でした。毎日「いついつまでに」というように何かの日付に追われたり、誰かに「何日までになるべく早く」と急ぐようにせかしたりした1年でした。きっとみなさんも、それぞれに、何かに追われながら過ごした1年だったのではないでしょうか? 

教会には今年、こどもの誕生の知らせもありました。もちろんこどもの誕生については絶対にせかしてはいけません。こどもの誕生について、その日付は人間の手で決めることができません。そのプロセスには神様の計画が含まれており、私たちにはその奇跡を静かに、そして祈って、待つという役割が与えられています。こどもたちの成長についても同じことが言えるでしょう。私たち人間がこどもの成長のスピードを決めることはできません。私たちは誕生や成長に日付を決めたり、せかしたりしてはいけないのです。こどもの成鳥には待つこと、祈ることが大事です。私たちはすぐに日付を決めたくなるものですが、大きな希望こそ、それがいつなのかわからないものなのです。そしてこどもたちをよく見ると、すでに様々な成長をしています。いつかいつかと思ううちに、すでにこどもが成長しているということも多いものです。

あと3週間後の12月25日にはクリスマスがやって来ます。残された時間は全員同じです。私たちはそれを遅く感じたり、早く感じたりします。誰も時期を早めることはできませんが、それは必ずやってきます。私たちのクリスマスには、日付がついています。それはあと何日すればという楽しみでもあります。でも違う希望もあります。それは日付の無い希望です。本当の希望とは日付がないものなのかもしれません。私たちは病気が治る日や、困難が終わる日、人の生まれる日を具体的に知ることはできません。

でもその中で私たちは前に進む希望を見出してゆきます。いつだかわからないけど、必ず起こるという約束のある希望が私たちを前に進ませてゆくのです。そしてその希望にはきっともうすでに始まっている部分があるのではないでしょうか。今日は日付の無い希望について、そしてすでに始まっている希望について考えたいと思います。

 

 

 

今日はマタイによる福音書24章36~44節までをお読みいただきました。聖書の時代の人々も忙しく、あっという間の1年を過ごしていたでしょう。今日の個所からは当時の人々の忙しい生活が透けて見えてきます。38節以降、人々は食事の準備をしたり、結婚式をしたり、災害がおきたり、畑仕事をしたり、忙しく生活をしていました。彼らには何百年も待っていることがありました。それは救い主の誕生です。自分たちの魂を支える存在、自分たちの生活を支える存在である救い主が登場するのを、ずっと待っていたのです。彼らもクリスマスを待ち望んでいたのです。

同じクリスマスを待つということでも、私たちの時代の待ち方とは大きな違いがありました。それは、いつ来るかわからなかったという違いです。私たちはクリスマスが毎年来る、12月25日という日付を知っています。しかし当時の人にはそれがわからなかったのです。それは43節、まるで泥棒のように、あるいは突然帰って来る主人のように、いつ起こるのかわからないものだったのです。その出来事はいつ来るのか、誰も知らない、思いがけない時に起るものだったのです。36節「その日、その時を誰も知らなかった」とあるとおりです。

いつ来るかわからないものを待つというのは、どれだけたいくつで、どれだけ長く感じたでしょうか。いつかいつかと先延ばしされ、約束が忘れられていると感じたかもしれません。さらに現代の私たちは、予定や締切に追われる日々が当たり前です。だからこそいつ起こるかわからないことに対して、希望を見出すのが難しいはずです。日付の無い約束は、口先だけの約束に感じるかもしれません。苦しい時、せめてそれがいつ終わるのか、その日付さえ分かれば、先が見えさえすれば、それまで我慢することができるものです。日付こそ希望のように思います。でも一番初めてのクリスマスはそうではありませんでした。人々はいつ起こるかわからないことを、希望にしていました。本当に起こるかわからない事を希望にしていたのです。慌ただしい生活の中で、人々はそれを信じていました。そしてそれは何百年も続く、息の長い希望となりました。救い主の誕生をずっと待ち続けることが、彼らの信仰だったのです。

私はこのことから、息の長い希望を持つことの大切さを思います。予定外の出来事、日付の予想できないことが私たちに期待や感動を与えるときがあります。それは日付の無い希望、期限の無い希望です。私たちは何月何日という日付はないけれども、でも確実に訪れる希望を信じます。その希望は日付がないからこそ、長く続くのです。それは日付が分からなくても必ずやって来る希望です。やがて必ず来ると約束されている希望を信じる、それが信仰なのです。その信仰は私たちに息の長い希望を与えます。

信仰によって、息の長い希望を持った人は日々の歩みの根底に希望を持つ者となります。いいことが起きた日はいい日、悪いことが起きた日は悪い日ではないのです。息の長い希望を持つとき、毎日が一日一日が神様の希望に近づいてゆく、感謝の一日になるのです。私たちはこの先に神様が私たちに約束している希望があることを信じ、待ちましょう。イエス様はいつ来るかわからないその希望を待つようにと私たちに伝えています。それはこどもの出産と成長のように、日付を決めることができない、息の長い希望です。

イエス様はこの話を弟子たちに向けて話しています。そして弟子たちもまた救い主を待っていました。しかし彼らの目の前には、すでに救い主イエス・キリストが立っていました。ずっと待ち続けていた人はすでに目の前にいたのです。いつか必ず来ると何百年も待っていた希望は、実はすでに自分たちの目の前にあったのです。実はその希望はもう始まっていたのです。待ち望んだ希望は彼らの目の前ですでに始まっていたのです。

私たちはこのような希望のあり方も心にとめておきましょう。すでに私たちには神様の希望が実現し始めているのです。それはまだ完成はしていません。でも私たちの希望はすでに私たちの目の前に、私たちの心にすでに来ているのです。もう実現しかかっているのです。その兆し、そのカケラ、小さな希望は私たちの日々の中にも見いだせるのでしょう。

このように私たちには様々な希望があります。まず私たちは希望と聞いて、はっきりと日付がいついつと決まった希望を想像するでしょう。しかし希望はそれだけではありません。神様が準備している希望には日付がありません。私たちはずっと先にある希望を待ちましょう。はるか先にある約束を忘れずに、目を覚ましていましょう。いつ来るのかわかりません。でもいつの日か、私たちの心に、あの人の心に、この場所に、神様が来られ、イエス様が来られ、すべてを完全なものとする日が必ず来るのです。そしてすでにそれは、私たちの目の前に来ているのです。すでにその希望は私たちに起こり始めているのです。そのことを信じて歩みましょう。

もうひとつ、待つということについても考えます。イエス様は今日とは別の場面でも「目を覚ましていない」と言いました。それは十字架に掛かる前のゲッセマネにおいてです。イエス様が別の場所で祈っている間、弟子たちに「目を覚ましているように」と言いました。今日と同じように「目を覚ましているように」と教えたのです。しかし弟子たちは眠ってしまいました。再び来られたイエス様はもう一度弟子たち言いました「目を覚まして“祈っていなさい”」。今度は具体的に「祈っていなさい」と付け加えたのです。今日の個所も同じ意味を持っているでしょう。イエス様の教える「待つ」とはただ単に待つ、じっとしている、寝て待つということではないのでしょう。「目を覚ましていなさい」とは祈って待ちなさいという意味です。イエス様は希望を寝て待て、座って待てと言っているのではありません。イエス様はその希望を祈って待ちなさいと教えられているのです。祈って神様の時が、神様の業が起こるのを待ちなさいと言っているのです。私たちは祈って、希望がくることを待ちたいのです。そのようにして目を覚ましていたいのです。

私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。この儀式はパンとブドウジュースを飲んで、イエス様が私たちに来るという約束を思い出すために、すでに来ているということを知るために行われます。その約束を忘れないために行われます。そしてその後、マラナ・タという讃美歌を歌います。このマラナ・タとは、「主が来ますように」という意味です。この賛美歌は希望が来ますようにという歌です。希望がやがて来ること、希望がすでに来ていることを覚えてこのパンを食べましょう。私たちは祈って、この希望のパンをいただきましょう。そして新しい希望の約束を信じ続けてゆきましょう。お祈りします。