「ヘビとの共存」

みなさん、あけましておめでとうございます。今年一番最初の朝を、神様を礼拝することから始めることができるのは素晴らしい事です。今年も心からの礼拝を神様に献げてゆきましょう。私たちは今年もこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に導かれて一緒に礼拝をしましょう。

十二支によると今日からヘビ年です。干支は東洋の思想であり、キリスト教とはあまり関係のないものです。しかし、この時期はいろいろなところでかわいいヘビのイラストを見かけます。干支の世界観では、脱皮して成長するヘビに「再生する力」や「無限の可能性」があり、知恵や金運を生み出すと考えられてきたそうです。こうしたことからヘビが脱皮した皮をおサイフに入れておくと金運が上昇するという言い伝えがあるそうです。そして中でもキレイに形の崩れていないヘビの抜け殻を持っていると金運が上がるそうです。干支によれば、このようにヘビ年というのは縁起のいい年だそうです。

ヘビは縁起が良いという話を聞いていて、聖書のヘビはどうだろうかと考えました。実は聖書にもヘビがたくさん登場しますが、ほとんどが否定的な存在として登場をします。聖書の中でもっとも印象的なヘビは創世記3章に登場するヘビです。このヘビはしゃべって人間をだまします。人間は神様の教えをヘビにそそのかされて、破ってしまうのです。ヘビはそのために神様の呪いを受けて、地を這って生きるようになったとあります。他の個所でもヘビは全世界を惑わす存在(ヨハネ黙示録12章)と言われたりしています。聖書の中でヘビは悪魔の代表とされ、汚れた動物であり絶対に食べてはならないと、も言われています。縁起がいいとする文化がある一方で、聖書の中でヘビはあまりにも悪者にされおり、ちょっとかわいそうな気がしています。

街ではヘビを祝っているのにも関わらず、聖書では邪悪な存在として現れます。私たちはどのようにヘビを受け止めたらよいでしょうか。ヘビ年を迎えたらよいでしょうか。ヘビと共存したらよいでしょうか?実は聖書の中でもごくまれなケースですが、ヘビを肯定的にとらえている箇所があります。例えばイエス様は「蛇のように賢くなれ」と言いました。そして今日のイザヤ書でもヘビが登場します。今日は邪悪なものとしてだけではない、共に生きる存在としてのヘビを聖書から見てゆきたいと思います。ヘビとの共存を考えます。そしてこの個所から今年1年、神様が私たちに与えて下さる力について考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はイザヤ書11章3~9節をお読みいただきました。3節には「彼」とあります。「彼」とは誰のことでしょうか。キリスト教では伝統的にイエス・キリストのことと解釈をしてきましたが、決してそれに捕らわれる必要はありません。聖書には彼としか書いていない以上、解釈は自由です。あなたのこと、私のこととしても解釈できます。誰かが霊に満たされるのではなく、あなたが霊に満たされると解釈しましょう。聖書はみなさんが霊に満たされる、つまり神様の見えない力に満たされると言っています。

みなさんは見えない力に満たされるのです。それはみなさんの内側から湧いてくる力ではありません。それはどんなに自分の中に探しても見つかりようのない力です。その見えない力が外側から神様からあなたにやって来るのです。神様はあなたを、見えない力で満たしてくださるお方です。

見えない霊の力に満たされるとどうなるのでしょうか。3節の後半を見ます。聖書によれば、あなたは見たもの、聞いたものだけで判断しないようになります。私たちは日々、目に見えるもの、耳に聞こえるものに左右されて生きています。でも神様からの力で満たされると、4節弱い人に正当な裁きを行う様になります。

これはどんな意味でしょうか。あなたはその力を受けると目と耳だけで判断しないようになります。聞こえない物を聞き、見えない物を見るようになるのです。つまりそれは、誰かの声にならない声を聞き、誰かの表面化しない苦しみを想像するようになるということです。弱い人の立場から物事を見て、想像することができるようになるということです。体の弱い人、立場の弱い人、弱くされている人に寄り添うことができるようになるということです。神様はそのような見えない力を、あなたに与えてくださいます。そのような力であなたを満たしてくださるのです。

唇が死に至らせるともあります。もちろん本当に相手を死なせてしまう力が与えられるわけではありません。神様は私たちに立場の弱い人に目を向け、助ける、そのような神様の力を与えられるのです。

5節を見ましょう。「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」とあります。正義を腰の帯とするとは、正義を私たちの人生の中心に置くようになるという意味です。正義とは何でしょうか?私たちは正義と聞くと、悪者に罰が与えられることを想像しがちです。正義の味方、ヒーローが敵を暴力的にやっつける姿を正義と考えがちです。でも神様の正義はそのような暴力的な正義ではありません。聖書の正義とは私たちの思う正義とは少し違います。聖書の正義は平和や公平と近い概念です。聖書の正義は共存の概念です。

私たちの世界では政治、経済、裁判、教育、人権あらゆる場面で独占や偏りがあります。でも聖書の正義は、それらに偏りが無い状態です。立場の弱い人、貧しい人の立場からの視点で公平であるということが聖書の正義です。私たちは神様から力をいただくと、その正義・公平さを人生の中心に置くようになるのです。都合のよい話ではなく、真実を追い求める様になるのです。やられていた人がやり返すのではなく、共存をする様になるのです。

6節を見ましょう。まさにこれが聖書の正義が実現した世界です。『狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう』とあります。ここで描かれているのは、弱い者と強い者が、富める者と貧しい者が共存してゆく世界です。神様の正義とはこのように様々な立場の人が共存共栄してゆける場所のことです。弱肉強食ではない場所、それが神様の霊に満たされた時に起るのです。

それが今年、みなさんが満たされる力です。神様は他の誰でもないあなたに、このような世界を実現する力で満たしてくださるのです。あなたは神様の示す正義の力で心が満ち溢れます。そしてあなたは様々な偏りの中で、平和と公平を追い求めるようになるのです。

神様から見えない力をもらい、正義・立場の弱い人からみた公平を追い求めてゆく時、そこでは単に立場の逆転が起こるだけではありません。こひつじを殺していた狼が、今度は反対にこひつじが狼を殺す番が来るという事ではありません。今度は子牛がライオンを倒すのではないのです。

聖書は、本来共存が難しい者同士が共に生き、共に寝て、共に育つという風景を描いています。そして小さいこどもがそれを導くようになると言っています。それが正義に満たされた世界なのです。神様はこのような正義の世界を求め、私たちにその実現のための力を与えて下さるのです。

8節を見ましょう。ヘビが登場します。『乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる』聖書には赤ちゃんがヘビとも仲良くできるという描写です。私たちには神様の正義を実現する力が与えられます。そしてそのようにして実現する世界は、悪魔の代表と言われるヘビと仲良くできる世界なのです。

聖書はヘビを悪魔の代表のように扱う場面が多くあります。しかし、今日の個所ではヘビと共存できると言われます。ただ悪魔と言われている相手を踏みつけにして、亡きものとするなら簡単でしょう。しかし神様はそれを求めてはいません。そのような相手とも共存できる、あなたはその力に満たされると教えているのです。

私たちの世界では様々な衝突や対立があります。私たち個人個人の生活の中でも様々な衝突や対立があるでしょう。しかし、聖書はあなたがたは霊で満たされると言います。あなたを満たすのは排除の霊ではなく、正義の霊、共存共栄の霊です。その力であなたは満たされ、相手をやっつけるのではない方法で、共に生きていく力が与えられるのです。それが今年、私たちが神様からいただく力です。

そして私たちには今年、失敗もあるかもしれません。誰かに迷惑をかけることもあるかもしれません。きっとあるでしょう。でも神様は大きな失敗をして、たとえヘビのように否定をされても、きっとそれでも共に生きる道、共存の道を備えて下さいます。私がヘビの様になってしまう時も、神様は私に小さなこどもの命を通じて、私たちを導いてくださるのです。

9節、神様のそのような知恵はあまねく大地を覆います。神様は選ばれた人にだけ、その知恵をあたえるのではありません。海の水のように、大地のように、神様はすべての人をその力で満たしてくださるのです。

今年1年、あなたは神様の見えない力で満たされるでしょう。そしてあなたは正義と公平・平和を追い求めるようになるでしょう。それは狼を捕まえ、蛇を踏みつけにする生き方ではありません。神様は敵と思える相手とも、共存と平和の道へと導いてくださるでしょう。共に生きる1年があなたには実現するのです。神様の力が海を覆う水のように、あなたの心を満たします。そのことを信頼して新しい1年を歩みましょう。お祈りします。