【全文】「難民だったイエス」マタイ2章13~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。こどもたちの声は私たちの教会にとって命と平和の象徴です。そしてもちろんこの世界にとっても命と平和の象徴でしょう。

国連の統計によれば、紛争や気候変動により故郷を追われた難民の数は日本の人口と同じ約1億2000万人に達しています。世界の難民の数は12年連続で過去最高を更新し、増加し続けています。難民の中には17歳以下のこどもが多く含まれています。難民の40%がこどもだと言われます。5000万人のこどもが住む家を追われ、難民となっているのです。難民はパレスチナ、アフガニスタン、シリア、ベネズエラ、ウクライナなどで多く発生しています。戦争や内戦によって、気候変動や飢餓によって多くの難民が生まれています。大変大きな数字ですが、これらの数字にまとめられてしまった一人一人に人生があったはずです。この数字の一人一人の人生に数えきれない悲劇があったでしょう。大切な人の死、家族や友達との別れ、育った町を捨てて逃げなくてはならなかった悲しみを想像します。私たちの世界はちっとも平和になりません。この世界の現実を悲しく思います。

日本は難民に厳しい国だと言われます。日本では年間1万人以上が難民申請をしますが、難民として受け入れられるのは、たった300人ほどです。ほとんど受け付けていません。追い出しているのと変わらないと言えるでしょう。日本で難民として受け入れられたわずかな人々も、文化の壁や経済的困難の中にいます。私たちは文化や経済の違いを超えて、難民を受け入れ、共存できる国になりたいと思います。痛みを持ち、住む場所のない人と共に生きる社会になりたいと願っています。

10月に教会に来られた佐々木和之さんはアフリカ・ルワンダで平和を教えておられますが、その学生の中には紛争によって難民となった学生も数名いるそうです。学費の支払いに苦労しながらも、平和を学びたいと言って大学に通っています。難民だった彼らが、暴力ではなく平和を学び、平和の大切さを伝えてゆく者となる、そのような話に心を支えられています。

イエス様が示されたのは、力に力で対抗するのではなく、愛と平和によって世界を変えるという道でした。これは、今私たちが向き合っている難民問題にも通じるのではないでしょうか。小さなことかもしれませんが、愛に基づく行動を選び取ることで、イエス様が示した平和を実現していけるのです。

私たちの世界は紛争や気候変動によって人生を左右される人がたくさんいる世界です。この世界のどこで神様を見つけたら良いのでしょうか。今日は、神様は悲しみの中に居る人と、また戦火を逃れてきた人と共にいるということを見たいと思います。神様は困難に追われ苦しむ人と共にいることをみてゆきます。聖書を読みましょう。

 

今日はマタイによる福音書2章13~15節をお読みいただきました。イエス様が生まれた後、エジプトに逃げなければいけなったという話です。当時も、そして今もパレスチナの支配は軍事力によって行われました。民主主義ではなく、一番強い軍事力を持つ者が王となる軍事政権でした。だからイエス様の生涯には、その誕生から戦争の影がまとわりつきます。ヘロデは猜疑心、人を疑う気持ちが強かったと言われています。誰も信じることができなかったのです。いつも自分は誰かに追い落とされて失脚するのではないかと恐れていました。暴力で奪った権力は暴力でしか守ることができません。彼は常に暴力への恐怖と不安を感じていました。ヘロデは自分の地位を狙っていると感じた人がいたなら、親族でも容赦なく殺してゆきました。

ヘロデの権力への執着は、パレスチナに住むこどもたちに対しても容赦なく向けられてゆきました。16節には、ベツレヘムで新しい王になるこどもが生まれたと聞き、2歳以下のこどもを一人残らず殺したとあります。残酷な王です。この権力者は、自己保身の王であり、暴力的な王でした。庶民はいつもこのような権力者に翻弄されていました。人々は救いを求めていました。人々の求めた救いとは平和であり、こどもたちを含めたすべての命が守られていくことでした。そのような場所に救い主イエス・キリストは生まれたのです。

イエス様の誕生は軍事的指導者、自己保身、暴力に象徴されるヘロデとは対極的なものでした。イエス様は強大な力に対して、力のない無力な姿でこの地上に生まれました。そしてイエス様は迫りくる暴力に、暴力で立ち向かうのではありませんでした。イエス様は戦うことではなく、逃げることを選びました。その姿は現代の難民と同じ姿です。それは小さく弱い、難民の姿です。危険から逃げざるを得ない、権力の前に最も弱い存在でした。

クリスマスはイエス様が幼子としてこの地上に生まれたことを伝えています。そしてそれに続くこの個所ではさらに、その幼子イエスが権力から逃れ、難民とならなければいけなかったことを示しています。多くのこどもが殺されました。その中でイエス様は生き残りました。イエス様は虐殺生存者という意味でサバイバーです。虐殺の生き残りの一人でした。多くの同じ世代の人が殺され、難民となり、その生き残りがイエス様だったのです。イエス様は多くのものを背負って生きたでしょう。他の人の人生を背負って生きたのです。そしてその地上の生涯でイエス様は政権に対する復讐ではなく愛と平和を訴えて、歩みました。イエス様は平和についての教えを数多く残しています。

イエス様の生い立ちが、平和の大切さを語らせたはずです。難民であった彼が、虐殺からのサバイバーであった彼が平和を語ることには大きな重みがあったはずです。多くの仲間が死ぬ、殺されるあの戦争、虐殺をもう二度としてはいけないと教えて歩いたのです。復讐ではなく、敵と思えるような相手を愛するようにと教えて歩いたのです。この物語はイエス様が平和をどれだけ大切に思っているのかということを示しています。

そして同時にこの物語は、私たちはこの世界でどこに神様を見出したらよいのかという答えにもなっています。私たちの神様は、戦争のただなかにおられるのです。私たちの神様は苦しむ者と共におられるのです。神様は難民の姿でこの地上を生きたのです。神様は苦しみのただなかに生まれて来られたのです。そのような場所に私たちは神様を見出すことができるのです。

神様は紛争や飢餓によって住む場所を追われた人を通じて問いかけています。神様は逃げている人、飢えた人、渇いた人、旅をしている人としてこの地上におられるのです。私たちはその人々の中に神様を見出すように、招かれています。私たちの世界は相変わらずまだヘロデのような凶悪な権力者・独裁者がたくさんいます。それらが民主的なリーダーに代わるように祈ります。でもきっとヘロデ、あの独裁者は世界に何人かいるあの人々だけではありません。

私たちの心の内側にも向き合いましょう。きっと私たちは自分の心の中にもヘロデを見つけることができるでしょう。他者を受け入れず、追い出し、自分を守ろうとする思いは、私たちに小さく、少しずつあるものです。誰にでも自分の思い通りにしようと強引になることがあるものです。それをキリスト教では罪と呼びます。私たちは全員そのような罪をもった罪人です。いつも他者の苦しみを受け止めず、追い出し、自分を守ろうとばかりしています。苦労している他者の人の言葉に耳を傾けず、その姿をしっかりと見ようとしていません。相手の苦しみを心で受け止めていないのです。私たちはヘロデだけを悪とするわけにはいかないでしょう。この世界、この私の中にヘロデがいます。この物語は、この世界の、この私の罪に気づくように訴えています。

私たちの世界は平和を実現することが出来るでしょうか。私たちはイエス・キリストを見つめそれを考えましょう。イエス様がそれを教えてくれるはずです。馬小屋の姿だけではなく、難民だった姿もイエス様のあり方だったのです。現代の難民とかつての難民イエス・キリストの両方に目を留める時、私たちは神様を見つけることができるでしょう。そして平和を実現してゆく者へと変えられてゆくでしょう。

神様がなぜこのような難民というあり方を選ばれたのか、なぜこのような時代を選ばれたのか、なぜこの場所を選ばれたのか不思議に思います。でもイエス様はこのようなあり方と場所を選び、お生まれになりました。私たちの神様とはそのような神様です。苦しみ、悲しみ、逃げ、孤独の中に共にいることを選ぶのです。

きっと神様がいないから悲しみがあるのではないでしょう。きっと悲しみのあるところにこそ神様が共にいるのです。そしてそれは私たちの人生でも同じです。あなたの人生には苦しみも悲しみもあるでしょう。逃げなければいけない時もあるでしょう。でも神様は確かにその時、あなたと共におられるのです。だから希望を持って生きてゆきましょう。

神様がそこにいます。暴力のただなかに幼子として、無力な存在でおられます。戦うのではなくそこから逃げる存在として神様がおられます。神様はそのようにして無力な私たちと共にいて下さるのです。そして私たちに愛と平和を教えているのです。それが私たちの神様なのです。この愛に従って歩んでゆきましょう。

小さな命が世界を変えていったように、私たちの小さくても互いのためにすること、小さくても愛を伝えてゆくこと、それが世界を変えてゆくはずです。お祈りいたします。