【全文】「食堂の教会」マタイによる福音書14章13節~21節

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」       マタイによる福音書14章16節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうしてともに集うことができることに感謝です。こどもたちも集まってくれています。一緒に感謝しながら礼拝をいただきましょう。さて「地域と福音」というテーマで宣教を続けています。先月はホームレス支援の中から福音を聞きました。神様は神様の方から訪ねてくださること、神様は私たちの家になってくださること、神様は食事に招いてくださるということを見てきました。今月はもう3回にわたって私たちが今一番頑張っている「こどもプロジェクト」から聞こえた福音を聞いてゆこうと思います。

私たちは、昨年の10月から毎月第四金曜日「こひつじ食堂」を始めました。こひつじ食堂は大人でもこどもでも誰でも利用できる地域食堂です。地域の方々の助けになろうとこの食堂をはじめました。困窮や孤立の解消に向けて教会が何かできるか、特にこどもに何ができるか、その人たちを助けよう、支えようと食堂を始めたのです。

助けるために始めた、教会のこひつじ食堂ですが、この食堂を始めてみて、いかにこの活動が地域の人々に支えられているかを実感しています。地域の支援がなくてはこの食堂はとてもじゃないけれど継続できません。今まで関わりのなかった人々が、教会を支援してくれています。相模原で野菜を作っている方、平塚商工会議所、市議会議員、高齢者の包括支援センター、フードバンク、社会福祉協議会、他のこども食堂、市のボランティアセンター、企業、もちろん教会関係からの支援もあります。

私もいろいろな人との接点が増えました「スペース・会堂はあるんですが、人も物も足りないので助けてほしい」と言いながら地域を回っています。そして徐々に食材やボランティアや寄付が集まっています。最初は足りないかもしれないと思っていたものが、不思議に集められてゆきます。余るほど集まるときもあります。

今日は、教会がにぎわってうれしいとか、教会が成長しているという報告ではありません。私は教会の在り方を考えさせられています。教会は食堂を生活に困窮している人を助けようと始めました。助ける側になろうと思ってスタートしました。でも始めてみて知ったのは、私たちこそ実は助けられる側なのだということです。この活動は地域の助けなしには継続できません。平塚市の人々が助けてくれなければ、私たちのこの活動は続けることができません。

私はこの活動にこれからの教会の在り方を見る気がします。これからの教会は一方的に伝える、提供する、教えるということではなくなってゆくでしょう。きっとこれからの教会は、地域との相互性を持った姿となってゆくでしょう。助ける側と助けられる側、教える側と教えられる側、救う側と救われる側に分かれるのではなく、相互関係が大切にされてゆくでしょう。

教会は助けられながら助ける、聞きながら話す、教えながら教わる。そのような相互性を大事にする姿になってゆくでしょう。教会と地域が、助け合ってゆく形に、教会の在り方は変わってゆくでしょう。

そしてきっとそれはもっと大きなうねりとなるでしょう。教会と教会、私とあなたも同じです。教える、教わる。助ける、助けられるという関係から、相互に教え教わる、相互に助け助けられる。そのような関係にもっと変わってゆくでしょう。助けあいの関係に変わり、今まであった見えない境界線がますますなくなってゆくでしょう。見えない上下もなくなってゆくでしょう。

今日も聖書箇所を見ますが、私はこの聖書の箇所、どこか境界線を前提にして読んでいたような気がします。パンを与える側と与えられる側に分けて読んでいたような気がします。しかし今私たちの食堂がこれだけの助けを受けているのを見るとき、この5000人の食事の豊かさ、境界線の無さを改めて感じます。この食事はもっと相互性のある食事、助け合いの食事だったのではないかと想像するのです。今日この個所から、神様は相互の助け合いを起こすお方だということを見てゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を読みましょう。男だけで5000人、女性と子供を入れれば数万人となったでしょうか。とにかくたくさん人がいたということです。

たくさんの人がイエス様に従っていました。そして弟子たちは夕食の時間になってこの群衆を解散させようとしました。もう食事の時間だし、食事はそれぞれ自分で用意してもらいましょうと考えたのです。その気持ちもよくわかります。

ここで自分たちが食事を提供する必要、ニーズがあるのかどうかということを考えたのでしょう。弟子たちは「解散してそれぞれで買って、それぞれで食べましょう」と考えたのです。

しかしイエス様は言います16節「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」イエス様はここで、みんなで食事をすることにこだわります。それにはいろいろな問題が伴います。まず心配されるのは、食材不足です。自分たちがこの人数に食事を提供するには、食材が圧倒的に足りませんでした。だから、やはり解散し、それぞれ自分で買って、ばらばらに食べようと考えたのです。

しかしイエス様はほんの少しの食事を手に取って、天を仰いで賛美の祈りを唱えました。すると不思議にパンと魚は全員にゆきわたり、余るほどになりました。この食材はどこから来たのでしょうか、本当に奇跡的に増えたのか、あるいはどこかから支援が集まったのでしょうか、わかりません。でもとにかく、全員にゆきわたり、余るほどになったのです。

私は今までこの数万人の食事、パンが増えてゆく奇跡的な雰囲気の中での、静かな、厳かな食事を想像していました。しかしコロナ禍の中で一緒に食べることを控えている今、一緒に食事する楽しさを思い出しながら、この物語を読みます。そしてこひつじ食堂に様々な人がにぎやかに集まる食事に、この場面を重ねます。

確かにこの食事は、聖書の時代に多くいた、貧しく、疲れ果てた人々が大でした。でもだからといって静かな雰囲気を想像する必要はないのではないでしょうか。黙食のような、しゃべらない食事を想像する必要はないでしょう。

とてもにぎやかな食事だったと想像することもできると思います。むしろ数万人で食べるのです。今は絶対にしてはいけない、相当にぎやかな食事をしちゃったのではないでしょうか。20節にはこの食事で「すべての人が満腹した」とあります。私は読んでいたら、この言葉の後にニコニコマークの絵文字が見えるような気がします。とにかくみんながニコニコしながら、楽しくて笑いながら、おなかいっぱいになったという話です。食堂と同じです。

食事の風景、教会のにぎやかな食事会や天城山荘の食事会を想像しました。食事をしていると自然に会話が生まれます。準備からここに箸が足りません、お茶が足りません。食べ始めれば、これとってください。あれとってください。あっちではこんにちは、始めましてと自然とにぎやかな食事になります。ましてや数万人、これだけの人数がいたら、相当がやがや、にぎやかな食事になったのではないかと思います。

これじゃ足りないという人と、こんなに食べれないという人が分け合いながら食べたでしょう。パンばかり余るグループと、魚ばかり余るグループが、パンと魚を交換して食べたでしょう。こっちは何が足りない、余っているところありませんか。そんな賑わいの中での食事だったのではないでしょうか。

ここにはそのパンと魚は弟子が「与えた」と書いてあります。伝統的にはこの弟子は選ばれた奉仕者と理解されてきたでしょうか。でもこれだけの人数の食事を12人で配るのは無理です。規模から考えると、弟子が配る、それ以外の人が食べるという一方的な関係ではなかったはずです。もっと相互的な食事だったとしか想像できません。食べ物がいったりきたり、人がいったり来たり、あーじゃないこーじゃないと言いながら、誰が弟子で誰が群衆か、そんな区別なく、大騒ぎしながら食べたのでしょう。そしてよくわからないけれど、最後は全員が満腹して、ニコニコしたのです。

最後21節には人数の報告がされますが、数え方は「食べた人」とある。食べ終わったら、弟子は何人、群衆は何人という分け隔てはなくなったのです。みんなで準備し、みんなで分け合った。そして最後にそこにいたのは全員「食べた人」という一つのグループだったのです。

もちろん女性と子供が排除されたカウント方法は受け入れられません。当時の男性優先の中の言葉です。しかし、それも聖書は超えていけると思います。女が準備するとか、お台所するとかではなく、この時、性や年齢に関わらず全員がそれを担ったはずです。

この食事は足りないはず、別々に分かれて取るはずの食事でした。しかしイエス様の一声で不思議に始まった食事でした。そしてそこでは、にぎやかで、いろいろな人と、分かち合って食べる食事会が始まりました。そこには豊かな相互性があったはずです。助ける側、助けられる側の境界線はもうそこにはありませんでした。私たちもそんな食堂になりたいと思うのです。

私たちは今、この教会と地域が同じ5000人になることができるだろうかということが問われているのではないでしょうか。私たちの教会と地域が、相互に助け合う関係性になってゆくことができるかが問われているのではないでしょうか。教会が、人々を救う、助けるという一方的な立場からではなく、助けを受けながら活動してゆくということができるかどうかということが問われていると感じます。

もちろん私たちには心配なことは山ほどある。足りないものも山ほどあります。でもそのなかでも、主イエスに信頼し、助けられながら、歩んでいけるかどうかということが問われているのではないでしょうか。

このあと主の晩餐を持ちます。私たちの教会ではクリスチャンがいただくものとして執り行います。でも私たちは信じてこの食事にみなさんも加わってほしいと願っています。この聖書の物語の中に一緒に生きてほしいと願っています。信仰への歩みを起こしてほしいと願っています。お祈りいたしましょう。