「地の塩、世の光、立派な行い」マタイによる福音書5章13節~16節

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。マタイ5章16節

 

今日は71回目の創立記念日です。「地の塩、世の光」というみ言葉は皆さんに親しまれてきました。教会やクリスチャンのあり方を表す言葉です。

教会は71年間「地の塩」でした。社会の基準とは距離をとってきました。そして教会は71年間「世の光」でした。暗い社会の中で教会はいつも希望を示し続けてきました。世の光とは、教会に集まった人のためだけの光ではありません。「世の」光です。閉ざられた仲間のためではなく「世のための」光、教会なのです。

しかし自分たちが自分たちを地の塩、世の光だと思うように、周囲から教会は世に光と思われているのでしょうか。地域の人々が私たちのことを地の塩、世の光と感じるのは、地域との交流があってこそのことでしょう。私たちは地域との交流によって人々の地の塩、世の光となることができるのです。今日の聖書箇所、私は3つのこと地の塩、世の光、立派な行いを今日は聖書から聞いてゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様の時代、イスラエルの荒野クムランという場所で生活するグループがいました。死海の近くです。クムランの人々は洞窟にこもり、社会と分離し、まったく違う価値基準で、自らに厳しい生活をしていました。まさしく塩の近くに住む、地の塩の人々だったのです。クムランの人々は、自分たちを光の子と呼びました。そして一般社会の人々を闇の子と呼びました。しかし、彼らは本当に光だったのでしょうか。おそらく洞窟で暮らした人々の光は、人々には届かなかったでしょう。彼らは地の塩でしたが、世の光ではありませんでした。

イエス様はクムランの人々のように社会から独自性を持った地の塩のようになりなさいということと同時に、隠れず世に出てゆき、世の光となりなさいと語りました。私はここで伝えられていることは3つあると思います。それは「地の塩」「世の光」そして「立派な行い」ということです。

立派な行いとは地域、世界の中に必要とされることを行うことです。教会や私たちが困っている人、寂しさを感じているに寄り添い、共に歩むことが立派な行いです。病気や寂しさから元気をなくしている人と共に過ごし、共に歩むことそれが立派な行いです。他にも様々な立派な行いがあるでしょう。私たちは自分たちを塩、光と呼ぶだけではなく、それを具体的に現す者として歩むように促されています。

私たちが立派な行いをするからこそ、世の塩であり、世の光となるのです。そのように人々の幸いのために行動を起こしてゆくのが、教会なのではないでしょうか。そしてそれは地域活動という行いで、表されているのではないでしょうか。

創立71周年を祝います。私たちは塩として歩みましょう。そして閉じこもるのではなく、世へと出て行く光となりましょう。「立派な行い」をしてゆきましょう。それが神様が私たちに示していることではないでしょうか。