「命どぅ宝」マタイによる福音書5章21節~26節

その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。           マタイによる福音書5章22節

 

今日から7月まで「平和」というテーマで宣教をします。バプテスト連盟、特に女性連合は沖縄の歴史、そして今に続く基地問題に向き合い続け6月23日を「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」として覚え続けています。「命どぅ宝」とは琉球の時代から沖縄に伝わる「命こそ宝だ」という意味の言葉です。

沖縄の地上戦では、多くの住民がガマと呼ばれる洞窟に隠れました。しかし多くのガマで集団自決が起こりました。生き延びたシムクガマの人々はリーダーが「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」「命こそ宝」だと人々を説得し、生きる道を選びました。あの時、国家・天皇を宝とするか、一人一人の命を宝とするかの選択が、生死を分けました。命こそ宝です。「命どぅ宝」です。命よりも国家を優先する戦争に反対します。そして戦争しないだけではなくその準備や訓練、軍隊も基地もいらないのです。

私たちがそう考えるのは、イエス様が平和を訴えたお方だからです。イエス様は暴力ではない方法で、平和を造り出すことを訴えたお方です。イエス様の語られた平和を共に見てゆきましょう。

21節には殺してはならないとあります。そこに条件はありません。命は神様が造られ「よい」と言われたものだからです。命は神様が作った宝「命どぅ宝」なのです。そしてイエス様は殺さないことだけではなく、もっと積極的に平和を造りだそうとするお方です。22節には腹を立てるとあります。怒りのエネルギーをどのように、平和を造る力に変えてゆくことができるかが大事なことです。23節の登場人物は、平和を造り出す必要に気づいた人の話です。彼は神様への捧げものをしようとした時、自分と神様の関係を考え、そして自分と隣人の関係を思い出したのです。神に愛されている私は、隣人を愛しているかと思い出したのです。そして、彼は捧げものをいったんそこに置いて、平和を造り出すために出て行きました。彼は暴力ではなく、対話によって平和作り出そうとしました。神様に感謝したとき、平和を造ろうと気づかされたのです。彼は殺さないだけではなく、平和を造ることを選んだのです。

25節は裁判所に訴訟の相手と連れだって行くという場面です。もし私たちが加害者であるならば、相手に対し早く謝罪と償いが必要な場面です。私たちはそこから決して逃げることはできません。私たちが被害者のこともあるでしょうか。それでも私たちは、暴力を使う必要はありません。私たちの行く先には、必ず裁判官である神様がいます。神様はその罪を決して、あいまいにしないお方です。

私たちはこのように、暴力ではなく、平和を造りたいのです。対話と和解をいただきたいのです。その力を聖書から、神様からいただいているのです。神様が作った命は宝です。命は宝、命どぅ宝です。私たちは誰も殺しません。そして殺さないだけではなく、平和を作り出すために歩みます。どんな怒りも暴力に変えません。その怒りを、平和を作り出すことへ向けてゆくのです。