カテゴリ:礼拝メッセージ2020



2020/08/02
 聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争だけではなく、構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。...
2020/07/26
1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者が目標とされました。教会を作る方法としては「母教会主義」が取られました。平塚教会も90年代この流れの中で1993年6月小田原伝道所を開設します。...
2020/07/19
70年の歴史の中で幼稚園の閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の記録によりますと、1978年12月に初代牧師・長尾三二先生が天に召された後、附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の方針を引き継ぐのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園教諭全員の退職につながります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が教会を去ることになってしまいました。何とか幼稚園は続きましたが、結局幼稚園は8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。 このような状況でも教会が続いたのは、そこに不思議な力が働いたからでしょう。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や奉仕者の頑張りがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断により、この教会は続きました。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様がこの教会を建て続けると決めたのです。 教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」が刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことが刻まれています。栄光だけではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注いだのです。 今日の聖書個所を見ましょう。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。19節後半です。「自分からは何事もできない」と。自分は無力だというのです。 21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。24節、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。25節、無力さの中に神の声が響き渡る時、今がその時です。私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。 教会の歴史には無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力の証しです。 平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私はこの教会をもっと力強い教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。そしてそこに神様の力を求めてゆきましょう。そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。
2020/07/12
今日より私たちの教会が70年を迎えたという事について、3回に分けて考えてゆきたいと思います。...
2020/07/05
今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。...
2020/06/28
今日は礼拝から派遣された後も礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいと思います。...
2020/06/21
私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。今日は祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。...
2020/06/14
私たちは礼拝で「献金」をしますが、礼拝のプログラムには「奉献」と表記されています。奉献と献金を比較すると、一番大きな違いは「金」という言葉が入るか入らないかです。献金の方が事柄をよく言い表しており、何がされるのかも明確です。でもそう表記しなかった70年間、きっと何か意味があったのではないでしょうか。おそらくこの言葉を使うのは、私たちの奉献の時、献げているものは、お金だけではないからです。私たちはお金ではなく、何事かを献げているわけです。では一体何を献げているのでしょうか。それは私たちの命、私たちの人生を献げている言えると思います。 私たちは、命は神様のものと考えます。命は自分のもの、人間のものではないと考えます。だから、いらない命は無いのです。人間がどんなにこんな命は無意味だと思っても、神様はすべての命が大切だとおっしゃるお方です。お金も同じ様に考えることができるでしょう。そのお金はたしかに自分のものです。しかしそれも、私たちは神様からいただいたものと考えます。 だから私たちは命もお金も自分のためだけに使うことをしません。神様のためにまずそれを使おうと考えるのです。そして神様からの命と恵みに感謝し、自分のためだけに使うことを諦め、お互いのために使うのです。奉献とは命と恵みに感謝し、お返しすること、分かち合うことなのです。 今日の個所によれば、献げ物は主をおそれる事を学ぶためにあるのだとあります。そしてそれをレビ人、寄留者、孤児、寡婦のために使う様にとあります。献げ物をする目的・動機、それは神様が怖い、恐ろしいからではありません。畏れとは、神様の偉大さを知る事、つまり神様がすべての命を作られたと知ることです。 私たちは神様が命を作られことを学ぶために、献げ物をするのです。そして献げられたものをどのように使ってゆくかも示されています。人々は神様に献げたものを、献げただけではなく、一緒にみんなでそれを分かち合って食べました。献げ物とは神様の元にある分かち合いだったのです。 聖書には特に寄留者、孤児、寡婦と分かち合うの様にとあります。これは現代の貧困にも重なります。献げものは自分たちの信仰を守る事だけではなく、生活に困窮している人々にも具体的に使うものであるということです。 私たちも教会の予算の中からは震災支援募金、社会福祉献金を支出します。自分達の信仰のためだけではなく、生活に困る人と具体的に分かち合っていく、そのことも神様が私たちに示していることです。 献金に痛みが伴います、それは献身の痛みです。そして一番自分を献げられたのはイエス・キリストです。自分の人生を献げ、神に仕えたのがイエス様です。私たちが献金をして痛いと思う時、それはイエス様の十字架の痛みと同じものかもしれません。それは自分だけのためだけに生きるではなく、他者と神様を選び取っていく痛みだからです。
2020/06/07
ピカソの絵を始めてみた時、まったく理解できませんでした。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知りました。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃をモチーフにした絵だというのです。...
2020/05/31
「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。今日は「平和の挨拶」は、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいて下さることを互いに確認するためにあるのだということを見てゆきたいと思います。...

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