カテゴリ:礼拝メッセージ2020



2020/05/24
 私たちは子どもを大切にする教会を目指しています。そして子どもと一緒に礼拝することを大切にしています。今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。子どもを大切にすることを表す聖句です。...
2020/05/17
私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」です。教会にはたくさんの芸術があります。この芸術たちは教会にとってそれぞれ意味があります。中でも音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつです。...
2020/05/10
 私たちは今、「礼拝とは何か」というテーマを考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマです。礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められ、そこで私たちは一つの教会になります。私たちは礼拝共同体です。私たちを一番結び付けているのは礼拝なのです。  今日は礼拝の中の「報告」について考えます。報告は礼拝の一部です。忘れがちですが、礼拝プログラムの中に組み込まれている礼拝の一部です。  報告は礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で置くべきでしょうか。どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているからです。 多くの場合、神様は教会の仲間や友人を通じて、私たちに変化を起こそうとなさいます。だから私たちはそれぞれがみ言葉を聞いていればいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。このような共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。  今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所は報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。報告によって教会は大きな喜びに満たされます。自分たちの民族以外にも福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。  しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。  ある人はユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになると考え、イエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだと主張します。またある人は神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだと主張します。  私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。  いずれにしても今日見たいのは、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。そして報告によってこの共同体は境界線をなくしてゆくことを選んだのです。  報告によって、礼拝共同体の在り方は大きく問われました。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを問われ選ぶのです。
2020/05/03
今、私たちは「礼拝とは何か」をそれぞれの自宅で考えさせられています。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素と順序、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣を見ました。今日からは私たちの礼拝のプログラムのひとつずつを考えてゆきます。その一回目は「招詞」です。...
2020/04/26
 今日は「礼拝とは○○」シリーズの2回目です。前回は「礼拝は一番大事」というテーマでした。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。私たちはこの招きである礼拝を私の、教会の一番にしてゆきたいのです。...
2020/04/19
 今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝をやめてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。...
2020/04/12
 イースターおめでとうございます。今日もそれぞれの家から、それぞれの場所から共に礼拝をしましょう。今、自宅にいるということが大切です。とても寂しく、難しく、もどかしいことですが。しかし「自宅にいるという愛」「外出自粛の愛」を私たちは示してゆきたいと思うのです。病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、「愛」を貫いてゆきたいのです。  苦しみの中でも神様に、なんとか希望に目を向けてゆきましょう。一日中テレビでは不安と死者の数が語られます。でも私たちはせめてこの礼拝の1時間だけは希望を持ちたいのです。神様は希望を与えて下さるお方です。今、不安と死から振り返って、希望に目を向けてゆきたいのです。今日の聖書の個所を一緒に読みましょう。  マリアが墓に向かった動機、それはイエス様の遺体に会うことでした。遺体に触れてイエス様の死を確認するために向かったのです。しかし遺体は無くなっていました。それは彼女の深い悲しみです。しかし同時に私はマリアがイエス様の死ばかりに目を奪われている姿も見つけます。イエスの遺体への執着さえ見る事ができます。イエス様が現れ「なぜ泣いているのか」聞いても、マリアはやはり遺体にこだわっています。彼女は死ばかりを探します。  死を受け入れる事は必要なことです。しかし、そればかりを見ていてはいけません。私たちには希望があるはずです。その希望に目を向けて歩みだしたいのです。そんな時、イエス様が現れ名前を呼んでくださいます。イエス様はその死と絶望の全く正反対から、語り掛けて下さるお方です。それは命と希望と喜びの方角です。私たちが見る、死と絶望とはまたく違う場所からイエス様は私たちに語り掛けておられるのです。マリアはそれに振り向きました。これまで探していた、確かめようとしていた死と絶望。そのことから向きを変え、方向転換をしたのです。今まで探していた方向から、まったく見ていなかった希望に心の向きが変わったのです。  今日、マリアの物語を追ってきました。マリアとはいまの私たちです。私たちはマリアと同じです。今、さまざま落胆と悲しみの中にあります。死があります。それは嫌でも目に飛び込み、向い合せられ、死と、不安が渦巻いています。しかし、私たちが探しているのは死と絶望ではありません。たとえ今はその中にあったとしても、必ず悲しみでは終わらないのです。  イエス様からの希望、死から復活するほどの希望が私たちにはあります。いま私たちは悲しみと落胆に目を注ぎ探すのではなく、振り返って、そう振り返って、希望を探したいのです。イエス様は今、私たちの名前を後ろから呼びかけ、方向転換させ、招いてくださるお方です。そしてこの死は悲しみでは終わらない事を語り掛けておられるお方です。その先に必ず希望が続いていると語り掛けておられます。私たちもその希望を見てゆきたい。私たちもそれを告げ知らせる、証しする者となるそのように招かれているのです。
2020/04/05
 教会は4月中はそれぞれの自宅で礼拝を献げることとしました。週報と宣教原稿を郵送し、インターネットでも配信をします。互いの顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みを頂きましょう。ある方は「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」と言われました。私たちは葛藤しています。こんな時期、きっぱりと諦めればいいのに集うかどうかについて葛藤するのです。  ところで私たちはなぜ今まで礼拝に集っていたのでしょうか。それはまず神様が私たちを呼び集め、呼んでくださっているからです。でもこのことは周囲にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたら、どんな顔をされるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。「なぜ礼拝に参加するのか?」「それは神の招きだから」という家族との会話はかみ合いません。しかし私たちは、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。もちろん教会に向かう時だけでなく、教会の中でもそうです。かみ合わない会話があります。でも神様を証しし続ける、私たちはそのように他者と向き合ってゆくのです。それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。  イエス様とピラトの会話ははまったくかみ合っていません。イエス様はピラトが聞きたい有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えるのです。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。まったく違う二人。交わらない二人。でもそこには対話と証しが生まれます。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。まったく関係のないはずのものが、イエスの十字架という出来事によって、対話と証しを始めます。それは「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(ヨハネ1章5節)」とある通りです。  真理とは隠れていないものという意味です。表面を飾り付けたり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたお方です。 私たちは神様の導きによって、礼拝に招かれています。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しし続けてゆきたいのです。  今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。今日それぞれの場所で「礼拝やってます」そう証ししてゆきましょう。