礼拝メッセージ概要2020年度

「礼拝はみ言葉が中心」ルカ福音書4章16節~26節

ピカソの絵を始めてみた時、まったく理解できませんでした。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知りました。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃をモチーフにした絵だというのです。

その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませると、戦争の恐怖や悲しみ、怒りを感じとります。この絵をどのように解釈するかも自由です。そこに正解はありません。しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに想像力をもって見るようになりました。それでもここで大事なのは絵の解説ではなく、絵そのものです。

私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます

当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。

礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですから、礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかし宣教とは「み言葉の僕」です。礼拝は聖書勉強会ではありません。もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。

今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。

み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。

私たちもそのような宣教の時を持ちましょう。今日私たちには、一緒に礼拝することが実現したのです。捕らわれていた人が解放されたように、自宅に捕らわれていた私たちは解放されたのです。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。

今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を中心としましょう。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂いてゆきましょう。

 

「礼拝は平和の集い」ヨハネ20章19節~29節

「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。今日は「平和の挨拶」は、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいて下さることを互いに確認するためにあるのだということを見てゆきたいと思います。

礼拝の中で挨拶するのは、交わりを持つことの大切さを表現しています。この挨拶が無い教会では、今自分が誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。これではなかなか礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、そして誰が今日いないのかを知るということが平和の挨拶の大事な役割です。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。

そしてこの挨拶が苦手な人も必ずいます。苦手な方への配慮も具体的に必要です。コロナウイルスの事も踏まえ、人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。

この挨拶はなぜ「平和の」挨拶なのでしょうか。それは私たちお互いの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶だからです。そして私たちにとっての平和、それは神様が共にいるということです。平和の挨拶とは、私たちの互いの平和の関係の確認、そして神様が共にいるという平和の確認をお互いにしあう事なのです。

今日の聖書を見てゆきましょう。イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。弟子たちはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てました。そして裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感は彼らを家に閉じこもらせたのです。弟子たちは自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていても心はバラバラでした。そのような孤独と不安のまん中にイエス様が現われます。そしてイエス様は「あなた方に平和があるように」と平和の挨拶をするのです。ここでイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。

シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまりみんなが神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。

それは自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解と平和の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。

私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けて、どうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。

 

「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

 私たちは子どもを大切にする教会を目指しています。そして子どもと一緒に礼拝することを大切にしています。今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。子どもを大切にすることを表す聖句です。

神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えて下さいました。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈ります。神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れ、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にする事が神様を受け入れるということです。

 しかし今日の個所、イエス様は「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」と言います。神様=イエス様、イエス様=こどもという事です。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。

 かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのです。

 弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たちは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエス様を、神様を迎え入れることになるのです。そしてイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。

私たちは今、礼拝ということを考えています。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

 今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。

 

「礼拝は歌う」出エジプト15章20節~21節

私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」です。教会にはたくさんの芸術があります。この芸術たちは教会にとってそれぞれ意味があります。中でも音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつです。

私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心に議論しました。そこで指摘されるとおり、歌は危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。時には間違った目的に利用されます。

それでも私たちが礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体をよく現わすからです。私たちは声をお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うことは、一つの共同体になることを示すのです。

そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印を同時に表現することができるのが賛美歌なのです。

今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。マリアムは踊りと楽器と歌で神様の素晴らしさを表現したのです。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。彼女たちはその踊り、叩き、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。

そしてここで歌われているのは私たちの決心ではありません。神の業そのものがここで歌われているのです。決心よりもまず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。

私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、、神様への感謝をまた歌で表したいのです。

私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。

 

「礼拝は共同体作り」使徒15章3節~21節

 私たちは今、「礼拝とは何か」というテーマを考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマです。礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められ、そこで私たちは一つの教会になります。私たちは礼拝共同体です。私たちを一番結び付けているのは礼拝なのです。

 今日は礼拝の中の「報告」について考えます。報告は礼拝の一部です。忘れがちですが、礼拝プログラムの中に組み込まれている礼拝の一部です。

 報告は礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で置くべきでしょうか。どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているからです。

多くの場合、神様は教会の仲間や友人を通じて、私たちに変化を起こそうとなさいます。だから私たちはそれぞれがみ言葉を聞いていればいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。このような共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。

 今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所は報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。報告によって教会は大きな喜びに満たされます。自分たちの民族以外にも福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。

 しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。

 ある人はユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになると考え、イエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだと主張します。またある人は神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだと主張します。

 私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。

 いずれにしても今日見たいのは、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。そして報告によってこの共同体は境界線をなくしてゆくことを選んだのです。

 報告によって、礼拝共同体の在り方は大きく問われました。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを問われ選ぶのです。

 

「礼拝は招き」ヨハネ21章1節~14節

今、私たちは「礼拝とは何か」をそれぞれの自宅で考えさせられています。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素と順序、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣を見ました。今日からは私たちの礼拝のプログラムのひとつずつを考えてゆきます。その一回目は「招詞」です。

集えなくなって気づくのは、「私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が礼拝に招いてくださっていた」ということです。招きは、たとえ礼拝に参加できなくても変わらないものです。私たちにどのような事情や病があっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神様の招きを受けている者です。

礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めます。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。

ペテロは一晩中あらゆる方法を試しても一匹の魚も捕れません。彼の働きは実を結ばなかったのです。自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ働きはうまくいかなかったのです。人間の決心による集まり中では、誰も彼がイエス・キリストだとわからないのです。

しかしだからこそ、そこでイエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。

網の中の153匹、それは神様が、すべての人々を招いていることを示しています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、その目で見た時ではありません。魚がたくさん取れた時、全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時「主だ」と分かったのです。礼拝も同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。

弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人が招かれた礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。

私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。

 

「礼拝は順序が大事」ヨハネ21章15節~25節

 今日は「礼拝とは○○」シリーズの2回目です。前回は「礼拝は一番大事」というテーマでした。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。私たちはこの招きである礼拝を私の、教会の一番にしてゆきたいのです。

 今日は礼拝の順序について共に考えます。礼拝では同じことをしても、順序の違いで意味は大きく変わります。私たちの礼拝は大きく分けて5つに分けられます。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣の5つです。まず礼拝は、招詞から始まり、前半に挨拶や交読文など、お互いを感じるプログラムがあります。そして次にみ言葉、聖書朗読と宣教があります。そして感謝としての献金、祝祷による派遣が行われます。矢印を付けると分かりやすいです。招きは神様から人間へ上から下の矢印です。交わりは左右の矢印、み言葉は上から下、感謝は下から上、派遣は上から下です。礼拝はこのように、上下左右の運動が交互に折り重なりながら進みます。私たちはこのようにして「神様との対話」として礼拝の順序を持っています。

 今日の聖書個所を見てゆきましょう。この個所のイエス様とペテロの対話が、実は私たちの礼拝とまったく同じ順序であることに気づきます。

 イエス様はまず「私を愛しているか?」と問います。この問いは同時に招きです。ペテロはイエス様に問いかけられ、対話と告白に招かれています。神様の招き、それが私たちの礼拝の始まりなのです。

 次に交わりです。羊飼いの仕事とはばらばらだった羊同士を結び付け、一つの群れを作ることです。私たちは交わりによって人との結びつきを作るように、示されるのです。だから私たちは礼拝で挨拶を交わすのです。

 3つ目はみ言葉です。み言葉とは傷つき、失敗し、逃げ出す私たちに向けられた、希望の言葉です。礼拝はこのみ言葉が中心です。そしてみ言葉によって、もう一度神と人を愛し、信頼し、歩む力を頂くのです。礼拝のみ言葉にはそのような力があるのです。これが礼拝の中心です。

 4つ目は感謝です。ペテロは感謝の応答をしています。イエス様に導かれ、み言葉に励まされた者は、イエス様に委ね、感謝する者になってゆくのです。

 5つ目は派遣です。私たちの人生は思う様に行きません。神様との出会いである礼拝の後に、私たちはそのような世に派遣されます。でもその中でイエス様は「私に従いなさい」というのです。これが派遣です。

 70年間私たちが大事に守ってきた順序があります。それにもう一度意味をしっかりと見い出したいのです。もっと新鮮に、日々新しく、この礼拝を頂きたいのです。そして、もっとこうしたら神様との対話になるのではないか、そのような部分が私たちの礼拝にはまだまだ残されているでしょう。私たちは礼拝の中にある招き、交わり、み言葉、感謝、派遣、その意味をもう一度取り戻したいのです。いまそれぞれの場所からする礼拝、毎週の礼拝を、大切にしてゆきしましょう。

 

「礼拝は一番大事」ローマ12章1節

 今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝をやめてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。

 教会がいろいろなことにチャレンジする時、礼拝以外の事柄に一番の力を注ぎ始めてしまうことに注意をします。たとえば子供を大切にしようと言っている教会。子どもを歓迎すると言っても、子供が礼拝にとても参加しづらいという教会がたくさんあります。「子供とどう礼拝するか」まずそれを第一の事柄として悩みたい、そう思うのです。それが教会が礼拝を中心にする、一人ひとりが礼拝を一番大切にするという事ではないでしょうか。その礼拝とは何か、今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 神様の礼拝に招かれるのは、神の憐れみによってです。人間の憐れみや権威によって、礼拝に招かれるのではありません。教会の牧師の人柄や、教会の人間関係によって礼拝に招かれているのではありません。

礼拝に集うということ、それは私たち人間の応答といえるでしょう。神の招きに私がたまたま応えることができた、それが礼拝に集うということです。神様が招いているからこそ、教会は礼拝がなによりも大事なのです。そして今、私たちは神様の招きがそれぞれの場所にある、そう信じ、今、それぞれの場所で礼拝を捧げているのです。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる 生ける、いけにえとして献げなさい」。ここには自分の体とあります。私たちの「体」とは、この地上に生き、汗をかいて働き、病気になり、不安になります。体を捧げなさいという時、それは不完全なままで献げる、礼拝をするということでしょう。だから聖書は、「聖なる体に“なって”献げなさい」とは言いません。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」

 ここでパウロは「生けるいけにえ」と言います。この「生けるいけにえ」は生き生きとしたまま捧げられるということです。私たちの生きている人生、生きたまま捧げる、生きる喜びをささげようということです。ありのままで、傷ついたままで礼拝においで。それで神様は喜んでくださるよ。そして、私たち人生を神様に献げようという意味です。

 「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」そう、これこそ私たちのなすべき礼拝です。礼拝とは神様からの招きです。そして私たちは今の体のままで、生きて、喜びの応答する、それが礼拝です。

 私たちはこの礼拝を中心にしましょう。そのままの姿で、その体で招かれ、そのままで聖とされるこの礼拝を一番大切にしましょう。礼拝は一番大事なのです。これからしばらく礼拝について共に考え、また改めてこの礼拝を大切にするときいただいてゆきましょう。

 

「こんな時、希望の神」ヨハネ20章1節~18節

 イースターおめでとうございます。今日もそれぞれの家から、それぞれの場所から共に礼拝をしましょう。今、自宅にいるということが大切です。とても寂しく、難しく、もどかしいことですが。しかし「自宅にいるという愛」「外出自粛の愛」を私たちは示してゆきたいと思うのです。病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、「愛」を貫いてゆきたいのです。

 苦しみの中でも神様に、なんとか希望に目を向けてゆきましょう。一日中テレビでは不安と死者の数が語られます。でも私たちはせめてこの礼拝の1時間だけは希望を持ちたいのです。神様は希望を与えて下さるお方です。今、不安と死から振り返って、希望に目を向けてゆきたいのです。今日の聖書の個所を一緒に読みましょう。

 マリアが墓に向かった動機、それはイエス様の遺体に会うことでした。遺体に触れてイエス様の死を確認するために向かったのです。しかし遺体は無くなっていました。それは彼女の深い悲しみです。しかし同時に私はマリアがイエス様の死ばかりに目を奪われている姿も見つけます。イエスの遺体への執着さえ見る事ができます。イエス様が現れ「なぜ泣いているのか」聞いても、マリアはやはり遺体にこだわっています。彼女は死ばかりを探します。

 死を受け入れる事は必要なことです。しかし、そればかりを見ていてはいけません。私たちには希望があるはずです。その希望に目を向けて歩みだしたいのです。そんな時、イエス様が現れ名前を呼んでくださいます。イエス様はその死と絶望の全く正反対から、語り掛けて下さるお方です。それは命と希望と喜びの方角です。私たちが見る、死と絶望とはまたく違う場所からイエス様は私たちに語り掛けておられるのです。マリアはそれに振り向きました。これまで探していた、確かめようとしていた死と絶望。そのことから向きを変え、方向転換をしたのです。今まで探していた方向から、まったく見ていなかった希望に心の向きが変わったのです。

 今日、マリアの物語を追ってきました。マリアとはいまの私たちです。私たちはマリアと同じです。今、さまざま落胆と悲しみの中にあります。死があります。それは嫌でも目に飛び込み、向い合せられ、死と、不安が渦巻いています。しかし、私たちが探しているのは死と絶望ではありません。たとえ今はその中にあったとしても、必ず悲しみでは終わらないのです。

 イエス様からの希望、死から復活するほどの希望が私たちにはあります。いま私たちは悲しみと落胆に目を注ぎ探すのではなく、振り返って、そう振り返って、希望を探したいのです。イエス様は今、私たちの名前を後ろから呼びかけ、方向転換させ、招いてくださるお方です。そしてこの死は悲しみでは終わらない事を語り掛けておられるお方です。その先に必ず希望が続いていると語り掛けておられます。私たちもその希望を見てゆきたい。私たちもそれを告げ知らせる、証しする者となるそのように招かれているのです。

 

「礼拝やってます」ヨハネ18章28節~38節

 教会は4月中はそれぞれの自宅で礼拝を献げることとしました。週報と宣教原稿を郵送し、インターネットでも配信をします。互いの顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みを頂きましょう。ある方は「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」と言われました。私たちは葛藤しています。こんな時期、きっぱりと諦めればいいのに集うかどうかについて葛藤するのです。

 ところで私たちはなぜ今まで礼拝に集っていたのでしょうか。それはまず神様が私たちを呼び集め、呼んでくださっているからです。でもこのことは周囲にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたら、どんな顔をされるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。「なぜ礼拝に参加するのか?」「それは神の招きだから」という家族との会話はかみ合いません。しかし私たちは、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。もちろん教会に向かう時だけでなく、教会の中でもそうです。かみ合わない会話があります。でも神様を証しし続ける、私たちはそのように他者と向き合ってゆくのです。それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。

 イエス様とピラトの会話ははまったくかみ合っていません。イエス様はピラトが聞きたい有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えるのです。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。まったく違う二人。交わらない二人。でもそこには対話と証しが生まれます。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。まったく関係のないはずのものが、イエスの十字架という出来事によって、対話と証しを始めます。それは「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(ヨハネ1章5節)」とある通りです。

 真理とは隠れていないものという意味です。表面を飾り付けたり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたお方です。

私たちは神様の導きによって、礼拝に招かれています。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しし続けてゆきたいのです。

 今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。今日それぞれの場所で「礼拝やってます」そう証ししてゆきましょう。