【全文】「歴史に働く神」ルカ21:4~9

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音と共に礼拝をしましょう。今月は神学ということをテーマに宣教をしています。神学とはキリスト教の信仰を理解する方法のひとつです。例えば大学に神学部があり、キリスト教の信仰を研究しています。神学には4つの分野があると紹介をしています。聖書学、組織神学、実践神学、歴史神学の4つです。私の専門は聖書学で多くの場合、聖書学の視点で宣教をしています。しかし聖書の読み方、信仰には様々な視点があります。今回は歴史神学の視点で聖書を読み、信仰について考えたいと思います。

歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史に影響を与えてきたのか、あるいは影響を受けてきたのかということを考える分野です。キリスト教の歴史を考える分野です。歴史から学ぶことはとても大切な事です。歴史を学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないために必要です。先人たちの知恵ある選び取りを、私たちもしてゆくために必要です。

キリスト教の歴史の中でターニングポイントになったことはいくつかあります。そのひとつにユダヤ戦争があります。ユダヤ戦争は西暦67年に起きた戦争です。イエス様の十字架は西暦30数年頃に起きたと言われていますから、さらにその30年以上後にあった戦争です。西暦67年、ローマの総督が、エルサレム神殿から宝物を略奪する事件が起きました。このことがきっかけで、エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊されました。エルサレム神殿にも火がつけられ、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。現在もエルサレムには嘆きの壁という場所があります。この壁はこの時の戦争で崩壊した神殿の西側の壁だと言われています。神殿が壊されたことを、ユダヤの人々が嘆く壁です。

神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教にとって、エルサレム神殿は信仰の中心でした。人々にとっては神殿で献げ物をすることが、信仰の大事な要素でした。その神殿に祭司がおり、神殿で犠牲の献げ物がされていました。しかしユダヤ戦争によって神殿も、そこにいた祭司もいなくなってしまったのです。神様の大切な献げ物をすることが出来なくなってしまったのです。この神殿崩壊の出来事はユダヤ教の信仰に大きな影響を与えました。この時から、信仰の中心は神殿での献げ物や、神殿の祭司ではなくなりました。信仰の中心はそれぞれの町のシナゴーグ(教会)になり、町の宗教者であったファリサイ派が中心となってゆきました。そしてユダヤ戦争から逃がれて、世界中に逃げて行った人もいました。それはユダヤ人が世界に広がってゆくことにつながりました。ユダヤ教が大転換する時だったのです。

キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。それまでキリスト教はまだユダヤ教の中の1グループでした。ユダヤ教ナザレ派と呼ばれたのです。ユダヤの人々と共に神殿に通っていたのです。しかしキリスト教も神殿の崩壊で独自の信仰を歩みだすことになります。イエスをキリストと信じるグループもエルサレム神殿中心ではなく、世界へと散ってゆくことになりました。そしてキリスト教は特に、異邦人、現地で知り合った人々に、イエス・キリストを伝え、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。外部の人と出会い、食事や割礼などの律法の理解も変えてゆきながら、キリスト教が成立してゆくことになります。そしてキリスト教では平和の問題も大切なテーマとなりました。戦争の混乱を通じて形成されたグループは、何より平和を願うグループへと発展してゆきました。それが約2000年後、私たちの教会へとつながっています。

ルカ福音書はこのユダヤ戦争の後に書かれたと考えられています。つまり西暦30年頃にイエス様の生きている時代があり、その後西暦67年にユダヤ戦争・神殿崩壊があり、その後さらに西暦90年ころに、ルカ福音書は書かれたと言われます。イエス様はこの後ユダヤ戦争が起こる、神殿が崩壊するということを知りませんでした。歴史的な順序としてはイエス様の言葉があり→神殿崩壊があり→ルカ福音書が書かれたのです。ルカはエルサレム神殿が徹底的に破壊されたことを知ったうえで、この福音書を書いています。おそらくルカは本当に崩壊した神殿をイメージしながら、今日のこの個所を書いています。

今日はユダヤ戦争という歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら聖書を読みたいと思います。そして戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。聖書を読んでゆきましょう。

 

 

 

イエス様たちはエルサレムにいました。5節にはある人がエルサレム神殿の美しい石、輝かしい装飾をほめたとあります。しかしイエス様は6節で見とれている神殿が崩れ落ちるだろうと言います。歴史的に本当にそれは起こったことです。この後神殿は、ユダヤ戦争によって、徹底的に破壊されました。しかし人々はそのようなことが起るなど信じることができませんでした。誰しも何百年も変わらずに続いてきたものは、これからも続くと思うでしょう。自分たちの信仰の中心であった神殿はいつまでも続くと思っていたでしょう。神殿が美しい姿のままでいることを願ったでしょう。だからこそ7節にあるように、いつそんなことが起きるのか、どのように起こるのかを聞いたのです。もしそれが起きるならどのような徴、前兆があるかを聞いたのです。

8節でイエス様はその前兆として偽物がたくさん来ると言いました。「私がみんなを救う」という偽物のキリストが来ると言うのです。それは偽物の希望と言えるでしょう。偽物の希望を語る人が大勢起こると注意をしたのです。偽物は「時は近づいた」と言います。彼らは世界の終わりが近いと不安をあおります。偽物は人々の心を、希望ではなく不安で満たそうとします。すぐに行動を起こさなければ自分も世界も終わってしまうと訴え、扇動するのです。偽物は人々を不安にさせ、偽りの希望を持たせ、人々を扇動します。イエス様はそのような偽物に「ついて行ってはならない」と注意をしています。そしてイエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は残念ながら起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。

この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。神殿が崩壊をします。その時人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。おそらく人々は絶望をしたはずです。俺たちは終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。実際のキリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は絶望して終わったわけではありませんでした。それぞれの場所で、もう一度イエス様のことを伝えようとしたのです。イエス様のことを書き記そうとしたのです。それがルカ福音書やマタイ福音書になりました。平和・シャロームを求めて宣教がされ、福音書が書かれたのです。そのように神様は私たちの歴史に働かれました。そのようにして聖書、キリスト教は成立をしたのです。

このように神様は歴史に働くお方です。神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。戦争を使って私たちを動かすお方でもありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。戦う者ではなく、戦争から逃げる者と共におられたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。たとえ神殿がなくなったとしても、神様は歴史の中で働き続けるお方です。歴史神学の視点でこの個所を読むとそのような希望をいただくことが出来るでしょう。

そしてこの歴史は私たちにつながっています。神様はこのように歴史に働き、私たちへと信仰をつないでくださいました。そして神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。私たちにある私たち自身の神殿が崩壊してしまうような出来事があるものです。大切にしているものが壊れてしまうことがあるものです。それは残念ですがきっと起こるものです。

でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。大切なものが壊れてしまう時がいつか来る。でもそれがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。絶望の時に、終わりではないと呼びかけた、それが神の歴史、神が働きかけた歴史だったのです。私たちには希望があるのです。偽物の希望に惑わされてはいけないのです。

今日は歴史神学の視点で聖書を読みました。神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りいたします。

 

「歴史に働く神」ルカ21:4~9

戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。ルカ21章9節

 

今月は神学ということをテーマに宣教をしています。今回は歴史神学の視点で聖書を読みます。歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史と影響しあっているのかを考える分野です。西暦67年に起きたユダヤ戦争は、キリスト教の歴史上のターニングポイントのひとつです。エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊され、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。

神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教の信仰の中心が神殿での献げ物や、神殿の祭司でなくなりました。キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。キリスト教も世界へと散り、特に世界各地で出会った人に、イエス・キリストが伝えられ、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。今日は歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら、戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。

イエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。人々は絶望をしたはずです。終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。キリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は、それぞれの場所で、イエス様のことを伝えたのです。イエス様のことを福音書として書き記したのです。このように神様は歴史に働くお方です。

神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。そしてこの歴史は私たちにつながっています。

神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。それがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。

神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りします。

 

【全文】「聖書を朗読する神」ルカ4章16~21節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今月は3回の宣教を「神学」というテーマで持っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。他の学問と同じように、キリスト教を深く研究し、考えてゆくことが神学です。キリスト教の神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。前回は組織神学の視点で宣教をしました。キリスト教の信仰を神、聖霊、キリスト、人間、教会といった分け方で見てゆく考えということを紹介しました。私たちの教会の信仰告白もこのような分け方で信仰を表しています。このように信仰を整理することで、言葉にしてゆくことで信仰がより深まってゆくことを見ました。

今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。実践神学は4つの分野の中で私たちにもっとも身近な視点でしょう。神学をどのように実践するかという分野、キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。

キリスト教には信仰の実践が必要です。頭の中に知識や理論だけがあって、悟るだけではダメです。神様の事をよく知って、私たちは具体的にどう生きるか、どうキリスト教の信仰を実践するのかが大事です。それを考えるのが実践神学という分野です。実践神学ではたとえば、キリスト者の生活はどうあるべきかを考えます。他にも教会の奉仕にどう向き合うべきか、人権や差別、平和とどのように向き合うべきかを、どのように礼拝すべきかを考えます。

中でもどのように礼拝するかを考えることは実践神学の大事な分野です。礼拝の中でどんな曲を歌い、どんなプログラムで、どんな雰囲気で持つか。それは私たちの信仰の実践に深く関わる問題です。ちなみに来週には説教の作り方講座という勉強会を持ちますが、これもまさに実践神学の問題です。説教とはそもそも何か、説教をどのように作るのかということを一緒に考えます。ぜひどなたでもご参加ください。

今日はこの個所を実践神学の視点で、特に礼拝をどのように持つかということを考えます。今日の聖書個所によればイエス様も礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

 

 

ルカ福音書4章16節~21節を朗読していただきました。11月の祈祷会、教会学校でも同じ個所を読みました。祈祷会の参加者の方からはこんな意見がありました。「聖書を読み上げたイエス様の声が、どのように響いたのかを想像しました。その響きが胸に刺さるような気がします」。また別の方は「イエス様の聖書朗読を聞いてみたかった。聖書はどう朗読したらよいのでしょうか?すらすら読むよりかは、かみしめながら読みたいと思います。同じ個所でも数か月後に読むと感じ方が違うものです。み言葉はその時その時必要なものを与えてくれると思います」そのような意見を聞くと、私もどのように聖書朗読がされたのか想像をしたくなりました。

私たちの教会でも聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番としていることはとてもよい雰囲気だと感じています。まず礼拝にいろいろな人が代わる代わる登場するのが面白いです。いろいろな人が登場すると、礼拝が一方通行に聞く、出席するだけではなく、みんなで礼拝をしている感覚があります。礼拝は座って一方的に聞く集まりではないということを思い出させてくれます。そうです、礼拝は立ったり座ったり、挨拶したり、いろいろな人が来る場所だと気づかせてくれます。

朗読する人、一人一人の個性と多様さも伝わってくる気がしています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。聖書朗読をかみしめながら聞いていると、イエス様はどんな風にこの言葉を語ったのだろうと想像力が湧いてきます。

聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。イエス様の読んだ聖書はイザヤ書61章ですが、2000年前の人たちと、私たちとでは状況は大きく違います。まず2000年前の人は一人一冊聖書を持っていたわけではありません。それができるようになったのは2000年の歴史からいうとごく最近です。活版印刷が発明された後、ここ500年くらいの事です。イエス様の時代の聖書は羊の皮に手で文字を書いた巻物でした。他の巻物を手書きで写し、また別の巻物に手書きで書くという、写経のように聖書は伝えられてゆきました。今日読んだイザヤ書だけで1つの巻物になっていました。旧約聖書を全部集めたら39本の巻物でした。巻物は大変高価なもの、貴重な物でした。聖書は人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。町の会堂に大切にしまってある貴重品だったのです。

聖書が手元にないということは、人々はどのように聖書の言葉に接したのでしょうか。人々は礼拝において朗読される聖書のみ言葉を聞くこと以外には、聖書のみ言葉に接する機会が非常に少なかったのです。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書は一人一人の手元にある、便利なものではありませんでした。だから人々は、暗唱したのです。こどもたちに繰り返し暗唱する様に教えたのです。聖句の暗唱のルーツはそこにもあります。

聖書に触れる機会がとても貴重だったということから考えると、礼拝の中で聖書の朗読がされることが、いかに重要であったかがわかります。聖書朗読はそこでしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。20節には「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。聖書朗読が貴重だったから、すべての人が心も体も集中して聖書の朗読を聞いたのです。まさしく聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。

当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。その日に礼拝に来たお客さんや、町の有力者が聖書朗読をしたと言われています。聖書朗読の奉仕は礼拝の中で最も名誉ある奉仕とされました。聖書・聖書朗読が礼拝の中心だったからです。私たちの礼拝の聖書朗読が順番となったというのは、このあたりからルーツがあると思います。新しいようで、伝統的な方法です。イエス様の時代の礼拝も、私たちの礼拝も、大切にしているのは聖書のみ言葉です。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉です。

聖書の言葉はむずかしいかもしれません。まったく意味がわからないかもしれません。でも聖書の言葉、そのものが何より大事です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムです。それが私たちの礼拝の中心です。礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。解説や解釈が必要な時があり、イエス様もこの後、説明をしました。そんな時、私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしそうではありません。礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。

礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば礼拝は聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。

聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。もちろん聖書を、意味の分からない呪文にしてはいけません。でも一番大事なことは、聖書のみことばそのものです。そのことを心にとめながら礼拝したいのです。わかってもわからなくても、聖書の言葉を一人一人がかみしめ、想像する、そのような礼拝をしてゆきたいのです。聖書の朗読の奉仕は、そのことを気づかせてくれる、促してくれる働きなのではないでしょうか。

今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。そしてなぜこの個所を選んだのでしょうか。どのような意味でこの言葉を語ったのでしょうか。わからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めてゆきたいのです。なにより聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。

今日は実践神学の視点で聖書を見ました。礼拝の聖書朗読はもっとも大切な奉仕で、礼拝の中心です。イエス様もされた大切な奉仕です。これを分かち合う喜びは大きなものです。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践して行く者となりましょう。お祈りいたします。

 

「聖書を朗読する神」ルカ4章16~21節

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。           ルカ4章16節

 

今月は「神学」というテーマで宣教をしています。今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。中でも実践神学は私たちにもっとも身近な視点でしょう。キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。特に礼拝をどのように持つかは実践神学の大事なテーマです。今日の聖書個所によればイエス様は礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。

私たちの教会では聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番となっているのはとてもよい雰囲気だと感じています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。

聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。当時、聖書の巻物は大変高価なもので人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書の朗読は礼拝でしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。だからこそ聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。

礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。しかし礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。

今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。どんな意味だったのか、何を言おうとしたのかわからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めて、聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。

今日は実践神学の視点で聖書を見ました。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践してゆく者となりましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「神はどんな方か」ルカ5章1節~11節

みなさん、おはようございます。今日も共に主に招かれ、礼拝を共にできる事、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、共に礼拝をいたしましょう。

1月は残り3回の日曜日がありますが「神学」というテーマで宣教をしたいと思っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。大学には経済学部や物理学部といったように学問が分類されていますが、その一つに神学部というものもあります。キリスト教について学んだり、研究したりしています。大学の学部はさらに細かな分野、学科に分かれてゆきます。経済学部は経営学科と金融学科に分かれたります。神学も同様に分野が細かく分かれてゆきます。大きく4つに分けられるでしょう。聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。

聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。組織神学は私たちの信仰告白が分かりやすい例となるでしょう。信仰告白には聖書・神・人間などをどのように考えるかということがまとめられています。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。

例えば今日の聖書の箇所、同じ個所でも専門によって視点の違いがあります。私は聖書学が専門なので、聖書の分析から入ります。この話がどのように成立をしたのかを考えたりするのです。例えばきっとマルコ福音書にあるシンプルな従う話が先にあって、ルカはそれを補充・拡大してこの話を伝えたのだろう。またヨハネ福音書はこの話を復活の後に置いていて、復活と関係付けたのだろう。では、もともとの核になる出来事は何で、それぞれの福音書が強調している部分はどこかだろうかと考えます。そんな風にして聖書を読むことが多いです。

実践神学の視点でこの個所を読むとどうなるでしょうか。実践神学では、たとえばこの個所は献身とは何かを考えさせる箇所です。そしてさらに教会の中での実践、礼拝とはこのように、神の前にひざまづくことだと考えるでしょう。

歴史神学の視点でこの個所をとらえるとどうでしょうか。歴史神学では、たとえばこの個所が歴史的にどのような影響を与えたかを考えます。おそらく今日の個所は、中世の修道院の活動に影響を与えた箇所です。すべてを捨てて従うというモチーフは、修道院のモデルとなったでしょう。

神学はもっとさらにもっと細かく分類したり、横断的に考えたりしますが、このような4つの視点、聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学が基本となります。1月は残り3回ですが、今日は組織神学、次回は実践神学、最後は歴史神学とそれぞれの視点から聖書を読んでゆきたいと思います。今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白のように、組織神学の視点で神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神とはどんな方か、イエス・キリストとはどんな方か、人間とはどんな存在なのかを考えます。今日は物語よりも、組織神学の視点で、この聖書を読んでゆきたいと思います。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。そのイエス・キリストがすべての人間を愛に招いているということを見てゆきたいと思います。今日の個所からどのように神様、イエス・キリスト、人間を理解してゆくことができるのか見てゆきましょう。

 

 

神様とは人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思い、願いを人間に伝えていました。時には直接語りかけ、時には天使を遣わし、時には預言者を通じて、ご自分の思いを伝えようとしました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断をされました。イエス・キリストを、地上に人間として派遣し、実際に地上で人々と共に生きることによって、そして十字架と復活によって、神の愛を伝えようとしたのです。神様はそのように、そのひとり子を地上に送るほど、人間を愛したお方なのです。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。ペテロのもとに、神様からイエス・キリストが派遣されたのです。神様とはこのように人間にイエス・キリストを派遣するお方です。

イエス・キリストとは神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、そしてそれは神様に等しい存在として、人間に与えられました。そしてイエス・キリストは、このゲネサレト湖畔での出来事のように突然、人間の日常生活の中に現れるお方です。人間には、うまくいかないことがあります。人間には、漁に出ても何の成果もでず、網を洗っていたあの弟子たちのような時があります。人間には努力の果てに何の成果も出ずに、気持ちが沈む時があります。イエス・キリストはそのような人間に現れるお方です。イエス・キリストは順調な人生の中に現れるのではありません。私たちがイエス・キリストを探すのでもありません。イエス・キリストは失意の人間を探し出し、声をかけるのです。イエス・キリストはそのように、私たちをご自分の元に招くお方です。この物語はイエス・キリストの招きで始まります。イエス・キリストは特に熱心な人間、ふさわしい人間を招いたのではありません。多くの群衆がイエス・キリストの言葉を求め、押し寄せていました。その群衆の中にこそ、イエス・キリストに招かれるべき、もっとふさわしい人間がいたでしょう。しかしイエス・キリストは成果の出ない、無関心な人間に声をかけたのです。イエス・キリストの招きはこのように起こります。イエス・キリストは、ふさわしい人間を招くのではありません。ふさわしさを超えて、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人、残念な思いを持っている人間を選び、招くのです。それがイエス・キリストです。

 

人間とは罪深い存在です。ペテロも自分のことを罪深いと言っています。罪深いとは一体どのようなことでしょうか。人間の罪とは何でしょうか。罪とは法律上の犯罪を犯すことだけではありません。罪とは命の尊厳を踏みにじることです。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人は皆誰しも、このような罪を持っています。私は罪を犯していないという人間はいません。人間とはいつも、誰かを愛することができない、罪を持った存在といえるでしょう。ペテロもそのような人間の一人です。そのように人を愛することができない罪深い人間は、本来神の愛に値しないでしょう。人間の側からもまた、罪深い人間とキリストが同じ世界に生きること、同じ舟に乗ること、恩恵を受けること、共にいることは、ふさわしくないと思うのです。ペテロはイエス・キリストに自分から離れるべきだと言います。しかし今日の物語によれば、そのような罪深い人間こそ、神と出会い、人生を変えられてゆきます。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。人間はこれまでにあきらめていたことでも、イエス・キリストに出会うと「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。それが人間です。

 

救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。イエス・キリストは人間に救いを示す存在です。人を捕る漁師にさせるとは、人を支配するようになるという意味ではありません。人を捕る漁師になるとは、人間を愛し、人間を大切に守る者になるということです。人間を愛せる者としようということです。それが私たちの救いです。イエス・キリストのように、人間を愛せることが救いです。それよりも大きな救いはありません。イエス・キリストはその愛に、救いに人間を招いています。

 

教会とはこのように救いに招かれた者の集まりです。教会に集い、み言葉に出会い、イエス・キリストに出会った者は変えられます。人間を愛する者へと変えられてゆきます。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。教会は神の愛の招きが繰り返しあることを覚えて、毎週礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。

 

今日いつもとは違う視点で、聖書を読みました。神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださるお方です。イエス・キリストはすべての人間を愛に招くお方です。すべての人間は罪深い存在ですが、イエス・キリストに従うことによって変えられ、救われます。人間は救われると、人間を愛することができようになります。教会とはそのように神に招かれた、救いに招かれた者の集まりです。そこで人間は礼拝をするのです。

私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りします。

 

「神はどんな方か」ルカ5章1節~11節

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」ルカ5章5節

 

1月は「神学」というテーマで宣教をします。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。神学は他の学問と同じように分野が分かれます。主には聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。

今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白がよい例です。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。すべての人間を愛に招いていることを見てゆきたいと思います。

神様とは、人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思いを人間に伝えていました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断しました。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。

イエス・キリストとは、神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、人間に与えられました。イエス・キリストは人間の日常生活の中に現れるお方です。成果の出ない、無関心な人間に声をかけます。イエス・キリストの招きはこのように起こります。ふさわしい人間を招くのではなく、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人を選び招くのです。

人間とは、罪深い存在です。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。

救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。人を捕る漁師になるとは、人間を愛す者になるということです。それが私たちの救いです。

教会とは、このように救いに招かれた者の集まりです。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。

私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「ひと皮むく神」ルカ3章15~18節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行う予定です。実は昨年から法律が変わり、「成人」の年齢は20歳から18歳に変わりました。平塚市の成人式も「はたちのつどい」と名前が変わったそうです。法律上は18歳ですでに「成人」ですが、とりあえず今年の教会は成人祝福祈祷とします。来年は「はたち祝福祈祷」でしょうか? 

これは神様に若者たちがここまで成長してきたことを感謝する祈りです。そして若者のこれからの人生に神様の守りがあるように祈ります。互いの感謝と守りはいつも祈っていることですが、20歳という人生の大きな節目を迎える時を、改めて神様に祈りたいと思います。クリスマスはこどもたちや赤ちゃん、それを囲むママたちの物語を読みました。元旦の主日礼拝は高齢者を覚えました。今日は若者を覚えます。神様はあらゆる年齢の者、すべての人を祝福しています。神様からの祝福とはつまり神様が「いいね」と言ってくれているということです。

成人を迎えたからには、ぜひ自覚と責任をもって生きて欲しいと上から言いたいところですが、実は当の私が成人としての自覚が足りていません。私たちもまだまだこどものようなものです。こどものようなわがままを言ったり、こどものような失敗をしたり、こどものような言い訳をしたりします。年を重ねるごとにわがままになっていったりするものです。18歳、20歳に関わらず、すべての大人たちが、もう一度自分が成人であることを自覚しなければいけないでしょう。

神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。それぞれの世代に良さと不足があります。私たちはその互いの命を祈り合いたいと思います。互いの命を祈りあいましょう。私は高齢者のように祈りたいし、若者のように祈りたいのです。そして自分のわがままに生きるのではなく、自分のためにだけに生きるのではなく、他者のために生きたい、そう思うのです。

今日も聖書を読みますが、このことを見てゆきましょう。神様はすべての命を喜んでくださるお方です。「いいね」と言ってくださるお方です。そして、自分のためだけではなく、他者のために生きるように、他者を下支えする様な人になるように、そう聖書は語っているということを見てゆきましょう。聖書を読みましょう。

 

今日はルカ福音書3章15節~22節をお読みしました。イエス様はよく神様の特徴を説明するのに、農作業を例に挙げました。聞いていた人々のほとんどが農民でしたから、神様の特徴を農作業に例えると、とてもよく理解できたのです。今日のヨハネも、他の個所と同じように神様の特徴を農作業にたとえています。今日はもみ殻を取る作業です。

おそらく当時の人々が食べたのは大麦か小麦でしょう。麦は収穫されると、まずよく乾燥させます。そして叩いて穂先の粒だけを取り、殻を割ります。打穀です。そしてさらに実の周りについているもみ殻を取ります。それを箕(み)というカゴに移し、空に舞い上げました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。もみ殻やごみだけが、宙を舞い地面に落ちたのです。そうやってようやく食べられる部分が出てきます。さらに実際は食べる前には、それを臼でひいて、粉にして、こねて、焼いて、パンにしました。気が遠くなります。もみ殻は乾燥しているので、とても良く燃えるそうです。一度火がつくとなかなか火は消えません。でもきっと昔はなんでも無駄にしなかったでしょう。燃やしたもみ殻はよい肥料になるそうです。

17節には、神様はもみ殻を吹き飛ばし、燃やし尽くすお方だとあります。このもみ殻とは何を指しているのでしょうか。ここには神様の選びが書かれていると言われます。神様は麦の実ともみ殻を分け、もみ殻を永遠に消えない炎に投げ入れる方です。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。神様は信じない人をもみ殻のように吹き飛ばし、地獄の消えない火へ投げ込むというのでしょうか。教会に通う人と、教会に通わない人をふるい分け、教会に通わない人を地獄に追いやるのでしょうか。バプテスマを受けた人と受けてない人をふるい分け、バプテスマを受けていない人に天罰を与え、地獄に落とすのでしょうか。もし聖書に書いてある神がそのような神であるなら、私は絶対信じたくありません。そんな神様は嫌です。そんな罰を与えるだけの神様なら信じたくありません。

実はヨハネも厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。ヨハネも自分の思う神様の特徴を農業の風景でたとえています。9節には「良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」とあります。ここで切り倒されるのは実ができない木ではなく、よい実をつけないです。実を1個食べてまずいだと思ったら、根っこから切り倒してしまう神様です。これは相当厳しい神様のイメージです。

でもヨハネは同時に言っています。16節、私より優れた方がやって来ると。私よりも優れた、イエス・キリストがあなたたちに訪れると言っています。それはまるでもっと優しい神様が来ると言っているように聞こえます。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。麦ともみ殻の話をどう理解したらよいでしょうか。私はこうも理解できると思います。

私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点とも言えるでしょうか。私たちの罪、私たちの欠け、私たちの良くないところ、それがもみ殻です。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちはみんな余計な部分があります。不必要な部分があります。悪いところがあります。神様はそれを良い部分だけにするために、ふるい取り分けて下さるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊という言葉も出てきますが、聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様は私たちを揺さぶり、舞い上げ、風・聖霊が私たちの不必要な部分を吹き飛ばしてくれるのです。そして私体の良い部分だけが残るのです。それが今日のたとえです。

神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分はどうなるのでしょうか。私たちのむけた部分は、永遠の炎で焼き尽くされます。神様は私たちを一皮むき、悪い部分、罪、欠点を取り払い、そしてすべて焼き尽くしてくださるお方です。

神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。私たちはこの麦の穂のように、揺らされ、ぶつかりあい、風に吹かれ、一皮むけてゆきます。不必要な部分が取り除かれてゆきます。教会とは脱穀場のような場所でしょうか。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。

私たちだけが正しい、教会以外は、クリスチャン以外は救われないと思う人もいるでしょうか。それはまだ一皮むけていない考えかもしれません。そんな思いは神様に揺さぶられ、聖霊と風に吹かれ、吹き飛んで燃やされて、無くなればいいと私個人は思います。神様はきっと、一粒残らずすべての命を、大切に思い、守ってくださるお方です。

16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。履物の紐をほどくとは、当時の奴隷の仕事で、奴隷でも嫌がる仕事だったそうです。それをする価値すらも自分にはないということは、私など神様の前に価値がないと思っていたのでしょう。自分は必ず罰が当たる存在だと思っていたのです。しかしイエス様はどうだったでしょう。イエス様は他の聖書の個所によれば、弟子たちの足を洗ったお方です。イエス様は弟子の履物の紐をほどき、さらに足を洗ったお方でした。イエス様はこのように、人の下に立とうとしたお方です。へりくだったお方、低い場所から物事をみたお方、謙虚であったお方です。決して上から裁いて地獄に落とす方ではありません。

私はそんなイエス様、良い人だと思います。この姿こそ成人の姿だと思います。成人とは年齢によって自動的に迎えるものではないでしょう。成人とは神様の風に吹かれて、もみ殻が焼き払われた人です。そしてもみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者のために働くようになるのです。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。それは他者の靴を脱ぐ、履くの手伝いができる人です。これがイエス様の姿です。

私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。神様にこれまでの命に感謝し、これからの命の守りを祈ります。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。

私たちはそのような者、そのような大人になりたい一人一人です。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。

 

「ひと皮むく神」ルカ3章15~18節

今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行います。神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。私たちにはそれぞれの世代に良さと不足があります。そんな私たちは、お互いの命を祈り合いたいと思います。

麦を食べるには、麦の実の周りについているもみ殻を取る必要があります。穂は打穀された後、箕(み)というカゴに移され、空に舞い上げられました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。

もみ殻とは何を指しているのでしょうか。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。ヨハネもそのような厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。でもヨハネは同時「私より優れた方がやって来る」と言っています。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。

私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点、罪、悪い部分とも言えるでしょうか。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分は永遠の炎で焼き尽くされます。神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。

16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。しかしイエス様は弟子の履物の紐をほどき、足を洗ったお方でした。もみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。

私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。

 

【全文】「高齢者を大切にする教会」ルカ2章21~40節

みなさん、あけましておめでとうございます。年の初め1月1日から礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を足音を聞きながら礼拝をしましょう。クリスマスを無事終えてほっとしています。クリスマスは赤ちゃんを囲んだ物語でした。教会にもたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。自然と教会でもこどもの話題が多くなる時期でした。来週は成人の日もあります。この期間は特に若い人にスポットが当たり続ける期間かもしれません。

私たちはこどもを大切にする教会です。しかしもちろん私たちは高齢者を大切にしない教会ではありません。事実、この教会は高齢者が大切にされていると思います。この教会は若さを大切にしているわけではありません。若々しくいることを大切にしているわけではないのです。0歳も100歳も、小さくても、長くても、どんな命でも大切にできる教会になりたいのです。それを象徴するものとして、平塚教会はこどもを大切にする教会ですと語っています。

年が変わって新年度が近づくと、多くの教会で、就職や進学で引っ越しをする若者がいます。大人たちにとっては、旅立つこどもが、引っ越し先でちゃんと教会に通うかどうかが心配です。良い教会にめぐり会って欲しいのですが、なかなか定着するのは難しいものです。あの教会に行っても若い人がいない、少ない、高齢者ばかりだと嘆きを聞くことがあります。しかしある先輩牧師は、引っ越し先で教会を探すときは、高齢者がたくさんいる教会を選びなさいと言っていました。高齢者がたくさんいる教会は、教会の中でそれだけ長く信仰を持てる教会だということだからです。教会の高齢者は、信仰を長く育むことができるというしるしなのです。若い人がたくさんいて、元気のある教会もいいけれど、ぜひ高齢者のたくさんいる教会に通うようにと勧めていました。よいアドバイスだと思います。

神様を信じる信仰を持つことは素晴らしいことです。熱意を持って信じることができればなおさらです。でも信仰を長く途切れずに持ち続けることは、きっとそれより難しい事です。きっとクリスチャンになってもつらい事、悲しい事、うれしい事はたくさんあるはずです。そのような人生の中で信仰を持ち続けることはとても難しいことですが、それこそが大切なことです。そんな時私たちを励ましてくれるのは、信仰を持ち続けた先輩の存在です。教会には長い人生の中で、紆余曲折、様々な苦労をしながらも、信仰を守り続けてきた人がいます。その方の話が、その方の信仰が、その方の存在が、私たちの身に染みて、励ましてくれるのです。私もいつも励まされています。高齢の方に「大丈夫だからね、神様がいるから」と言われるととても安心します。重みが違うのです。

私たちは高齢者の話を良く聞く教会になりたいのです。信仰を守り続けた高齢者から元気をもらいたいのです。そしていつか私もあのおばあちゃん、あのおじいちゃんみたくなりたいと思います。あの人のようになりたい、そう若者があこがれる高齢者がたくさんいる教会になってゆきたいと思いますし、すでにたくさんいると思います。

今日は新年最初の礼拝です。この1年の始まりを「高齢者を大切にする教会」という話から始めたいと思います。聖書から老いることについて考えたいと思います。聖書の中にある、信じ続けた高齢者の話を見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日の個所はルカ2章21~40節です。マリアとヨセフは赤ちゃんのイエス様を連れて、神殿に来ました。献げ物をするためです。神殿の祭司はこの両親を迎えるのが仕事だったはずです。おそらく祭司は他のこどもと同じように律法通りに献げ物を受け取り、二人を見送りました。祭司はイエス様と他のこどもとの違いに全く気付きませんでした。マルコとヨセフは他のこどもと同じように献げ物を済ませ神殿から帰ろうとします。そして二人とイエス様は神殿の境内でシメオンという人と出会います。

シメオンとはどんな人でしょうか。29節でシメオンは「この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っています。この言葉から彼は相当長く、救い主の誕生を待ち望んでいたと考えられます。おそらくシメオンは高齢者だったのではないかと言われています。シメオンを想像します。彼は白髪でしわしわの老人だったかもしれません。杖をついて、むこうからゆっくり歩いて来る、衰えた老人かもしれません。でも31節からは、シメオンのあふれる豊かな感情が伝わってきます。イエス様に出会って、これはすべての人の救いだ、光だ、誉れだと興奮して喜んでいます。この時を待っていたのだ、私は主イエスに出会えてとてもうれしいと、彼の顔がまぶしく輝いているのを想像できます。これもイエス様が生まれてすぐ、クリスマスの8日目の物語です。でもどうしてクリスマスは赤ちゃんばかりが登場するのでしょう。クリスマスにイエス様の誕生を祝ったのは羊飼いと博士だけではありません。シメオンもその一人です。シメオンのしわだらけでも、キラキラした目を想像します。赤ちゃんを抱いて、救い主を賛美するおじいちゃんは、クリスマスのすばらしい登場人物です。

シメオンは長く信仰を貫いてきた人です。ずっと待っていた人です。楽しい時も、苦しい時も、病気の時もあったでしょう。それでも待ち続けた人です。そして彼は神殿に通い続けた人です。今日こそは救い主に会えるだろうか、彼はきっと彼はそう思いながら毎日神殿に行きました。毎日、祈り、礼拝したのです。彼はそのように、人生の紆余曲折を経ながらも、息の長い信仰を持ち、礼拝を続けた人です。彼はイエス様と出会って、これで私の役目は終わったと言います。でも私は想像します。まだまだ生きたのではないでしょうか。だってこんなに喜んでいるのです。この誕生と出会いから元気と活力をいただいたのです。きっと彼はもうしばらく生きたはずです。

36節以降にはもう一人の高齢者が登場します。アンナは84歳だったとあります。この個所は原文では結婚して夫を亡くしてから84年間だったとも読める箇所です。もしかすると100歳を超えていたかもしれません。いずれにしても非常に年をとっていたのです。38節には彼女もまた「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。彼女も腰が曲がっていたでしょうか。しわだらけだったかもしれません。でも想像します。彼女もきっと輝きと、感謝にあふれていた晴れやかな顔をしていたに違いありません。

彼女の人生には困難なことがあったと記されています。彼女はずいぶん前に夫を亡くしています。彼女は人生のパートナーを失う、深い悲しみを経験した女性です。でも彼女はそれでも信仰を捨てなかった人です。いえむしろ、人生に悲しみがあったからこそ、その悲しみを深く知り、悲しむ人のために祈り続けた人でした。「大丈夫、神様がいるから」と神様の慰めを語り続けた人でした。若い者のために幼い者のために祈ることができた人でした。そして37節、彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた人でした。

祭司はイエス様と他の人間にまったく違いを感じませんでした。だから、規定通りに事を終えたのです。しかしこの二人の高齢者は違いました。彼らは、この人こそ救い主だと、救い主を見極めたのです。それは祭司にはできませんでした。本当に救い主を見抜くことができたのは、信仰と人生の経験を深めた、年を重ねた信仰者だったのです。

人は死ぬ前に衰えを感じてゆくものです。それに恐れを感じる時もあります。実際に衰えてゆくのはつらい事です。できないことが増えていくのに、もどかしいように感じるでしょう。でも私たちはこの二人の高齢者に励まされます。彼らは衰えてもなお、神殿に通い続けたのです。衰えや不自由の中でも礼拝を続けたのです。彼らこそ、神の言葉、神との出会いを待ち続けた人でした。神殿に通い続け、信仰を守り続けた人でした。そのような人こそが、本当の救い主を見極めることができるのです。そのよう人が、周囲の人を励ますことができるのです。

私たちの教会に目を移します。私たちの教会にもシメオンとアンナがたくさんいます。こどもを抱いて、喜んで、大事にする、高齢者がたくさんいます。こどもと出会って目を輝かせている方がたくさんいます。そしてその方たちは信仰を守り続けた方です。人生の様々な苦労がありながらも、信仰を持ち続けた人、礼拝に通い続けた方々です。この教会のシメオンと、アンナです。

私たちはこの教会のおじいちゃんとおばあちゃん、シメオンとアンナのような、長い信仰をいただきたいと思います。人生には様々なことがあり、年老いてゆき、肉体は衰えてゆきます。そして人はやがて天に召されてゆきます。でもそれでも信仰を守り続け、礼拝をし続ける者に、私もなりたいと願います。

そしていつか、これで地上の役割が十分果たせたと思う時が来るでしょうか。私の地上の仕事は終わりました。礼拝し続け、あなたを待ち続けることができました。そう言える時が来るでしょうか。そう言えるように生きたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。わたしたちは高齢者を大切にする教会です。高齢者が赤ちゃんを喜ぶ教会です。私たちには今日、新しい1年が与えられました。今年も1年、健康に気を付けて、礼拝をし続けましょう。自分の命が続く限り礼拝し、主を待ち望む、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「高齢者を大切にする教会」ルカ2章21~40節

 

これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。

ルカ2章31~32節

 

あけましておめでとうございます。私たちはこどもを大切にする教会です。もちろん私たちは高齢者を大切にする教会です。どんな命も大切にする象徴として、平塚教会はこどもを大切にする教会ですと語っています。

神様を信じることは素晴らしいことです。でも信仰を長く持ち続けることは難しい事です。そんな時私たちを励ましてくれるのは、信仰を持ち続けた先輩の存在です。私たちは高齢者の話を良く聞き、元気をもらいたいのです。そしていつか私もあの人のようになりたいと若者があこがれる高齢者がたくさんいる教会になってゆきたいと思いますし、すでにたくさんいると思います。今日は新年最初の礼拝です。この1年の始まりを「高齢者を大切にする教会」という話から始めます。

イエス様は神殿の境内でシメオンという人と出会います。おそらくシメオンは高齢者です。衰えた老人かもしれません。でも31節からは、シメオンのあふれる豊かな感情が伝わってきます。イエス様に出会って、これはすべての人の救いだ、光だ、誉れだと興奮して喜んでいます。彼の顔がまぶしく輝いているのを想像できます。シメオンは長く信仰を貫いてきた人です。今日こそは救い主に会えるだろうかと毎日神殿に行き、息の長い信仰を持ち、礼拝を続けた人です

アンナも84歳の高齢者だったとあります。彼女も腰が曲がっていたでしょうか。でも彼女もきっと輝きと、感謝にあふれていた晴れやかな顔をしていたに違いありません。彼女の人生には困難なことがあったと記されています。でも彼女はそれでも信仰を捨てなかった人です。いえむしろ、人生に悲しみがあったからこそ、その悲しみを深く知り、祈り続けた人でした。「大丈夫、神様がいるから」と神様の慰めを語り続けた人でした。祭司は何も気づかず、この二人の高齢者がこの人こそ救い主だと見極めました。本当に救い主を見抜くことができたのは、信仰と人生の経験を深めた、年を重ねた信仰者だったのです。

私たちの教会にもシメオンとアンナがたくさんいます。こどもを抱いて、喜んで、大事にする、高齢者がたくさんいます。こどもと出会って目を輝かせている方がたくさんいます。そしてその方たちは信仰を守り続けた方です。人生の様々な苦労がありながらも、信仰を持ち続けた人、礼拝に通い続けた方々です。

私たちはこの教会のおじいちゃんとおばあちゃん、シメオンとアンナのような、長い信仰をいただきたいと思います。人生には様々なことがあります。それでも信仰を守り続け、礼拝をし続ける者に、私もなりたいと願います。

私たちはこどもを大切にする教会です。わたしたちは高齢者を大切にする教会です。私たちには今日、新しい1年が与えられました。今年も1年、健康に気を付けて、礼拝をし続けましょう。自分の命が続く限り礼拝し、主を待ち望む、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「こどもの声が希望のしるし」ルカ2章8~20節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。また私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今日はこの後パーティーがあります。とても楽しみで、ワクワクしています。この後、楽しいことがあるから、説教を短くしたいと思っています。料理も楽しみだし、ゲームや出し物も楽しみです。こんなに楽しい、楽しみと思えるのは、みんなが楽しそうだからです。みんなが楽しそうにしているのを見て、なんだか自分も楽しくなります。こどもたちの声や笑顔がうれしいです。おじいちゃんおばあちゃんの声や笑顔がうれしいです。「本当のクリスマスというのはパーティーをする日ではありません、礼拝をする日です」教会はそう言ってきました。しかし、とにかく楽しむということもクリスマスにはふさわしいいのではないでしょうか。楽しい雰囲気を大事にしましょう。教会はこの礼拝と、この後のパーティーに、たくさんの人に加わって欲しいと思っています。今日、イエス様の誕生を祝いたいと思っている人、寂しいと思っている人、せっかくのクリスマスなのに予定が無い人、そのような人といっしょに礼拝し、パーティーをしたいのです。今日もし、なかなか希望を持てないという人がいたら、一緒に礼拝しパーティーしたいのです!

今日は今年1年の最後の礼拝でもあります。今年は楽しい事ばかりではありませんでした。特にウクライナの戦争に心を痛めます。戦争はまだ続いています。ウクライナからロシア本土への攻撃も始まっています。この戦争はプーチンが悪で、ゼレンスキーが正義かのように報道されました。でもウクライナに武器を提供してきた西側諸国が正しくて、ロシアが間違っているのでしょうか。そもそも戦争に正義はあるのでしょうか。正義のための戦争があるのでしょうか。きっとそんなものはありません。正しい戦争はありません。すべての戦争が間違えです。ゼレンスキーもプーチンも間違っています。

日本も軍事費(防衛費)を倍増させる議論が続いています。私たちは武器を買うために追加で毎年1兆円の税金を納めることが求められています。正しい戦争はありません。武器は必要ありません。私たちはこんなに生活が苦しいのです。武器を捨てて、鋤を持てです。私たちがしたいのは壊すことではなく、育むことです。欲しいのは武器ではなく食べ物です。政治が間違っています。自分たちは使途不明金がたくさんあるのに、国民からは軍事費をきっちり徴収するそうです。

暗い時代だと思います。お互いの軍事力に恐れを持ち、より強い軍事力が必要だと思い込んでいる世界です。息苦しい世界です。10年後、20年後の日本や世界はどうなっているのでしょうか。こんな暗い時代、息苦しい時代に希望はどこにあるでしょうか。

希望一つはこの後のパーティーが楽しいことでしょう。そして希望はこのような暗い時代の中でも、イエス様が私たちの心に光として来てくださることでしょう。今日は聖書から息苦しい時代にある喜び、イエス・キリストが私たちにあるという希望について見たいと思います。

 

 

今日はルカ福音書2章8~20節です。ルカ福音書はイエス様の誕生について事細かに記しています。しかしこれまで読んできて気づくのは、イエス様の誕生そのものについてはあまり記載がないということです。たくさんの記載があるのは、イエス様の誕生に際しての周りの人々の様子です。アドベントの期間の宣教はイエス様の誕生を迎える人々の様子を見てきました。そして今日注目したいのは、イエス様の誕生は社会情勢と密接に関係していたということです。ルカ2章1節には、皇帝からの勅令があったこと、どのような総督の時代にあったのかが記されています。この誕生物語は世界の情勢・政治と関係があると示されているのです。

先日こどもに、皇帝アウグストゥスとはどんな人なのかと聞かれました。アウグストゥスは分裂していたローマ帝国を統一した王様です。そして世界一強い軍隊を持っていた王様です。その王様は世界最強の軍隊で、支配しました。だれも逆らえない、恐ろしい力を持つことで「平和」を実現した王様なのです。つまりこれは軍事的抑止力を使ったということです。相手より強い武器を持っていれば戦争が起きず、世界が「平和」になるという考え方です。では世界最強のローマ帝国の軍事力、その費用・軍事費はどうしたのでしょうか。それはもちろん人々からの税金です。アウグストゥスはきっちりもれなく全員から、軍事費のための税金を取り立てました。そのために2節人口調査をし、税金を集めます。そのようにして「平和」を実現したのです。税金を逃れることはできません。妊婦であろうと、人口の調査の対象です。みなが皇帝アウグストゥスを恐ろしいと感じていました。戦争のための税金が集められる、行く先が見えない時代、世界情勢です。そこにイエス様の誕生物語が置かれているのです。暗い時代、暗い社会、暗い世界情勢の一筋の光として、イエス様の誕生が描かれています。

しかし、聖書からはそういった暗さは感じられません。人々の嘆きや悲しみの声は記されていません。このような厳しい戦争の時代、貧しさ、激しい税金、赤ちゃんにとっての環境の悪さにも関わらず、何か希望を感じさせる物語になっています。汚れているはずの飼い葉桶、動物用のエサ入れの周りには大きな光があり、平安があります。クリスマスの飼い葉桶を書いた絵本がたくさんあります。その絵本はどれも、飼い葉桶は光に包まれて、赤ちゃんが安らかな顔をしています。それはきっと間違えではありません。神様は暗い時代、不安な時代に、光として、平安として、私たちに希望を与えて下さいました。神様は暴力を見せつけられている時代に、救い主を与えました。それが神からのプレゼントだったのです。

羊飼いに現れた天使は10節「恐れるな」と言います。恐れるべきことがたくさんある時代です。しかし天使は「恐れるな」と言います。大丈夫だよ、怖がらないで、必ず地に平和が来るよと呼びかけています。最も恐ろしい事、それは暴力が支配する戦争です。天使はそれを恐れるなと言います。地には平和が来る、力ではなく愛が世界を支配する時が訪れるという告知です。軍事力を恐れる必要はないということです。相手の軍事力に恐ろしさを感じた人間は、より強い軍事力を持とうとします。でもそれに恐れる必要はないのです。地には平和が来ます。その光が私たちに与えられています。恐ろしい、恐ろしい、武器が必要だと言っていないで、平和を探しなさいと言っているのです。

羊飼いはベツレヘムへと旅立ちました。恐れではなく、平和を探すために旅立ちました。天使は私たちの不安や恐れに対する答えをすぐに教えてくれたわけではありませんでした。自分たちで協力をして探すように言ったのです。私たちの人生もそうです。平和を探すのが人生です。その答えは自動的に与えられるものではありません。私たちは恐れずに、平和を探すことが求められています。

天使はしるしを教えました。そのしるしは12節、布にくるまれた赤ちゃんです。布とはおくるみや、おむつです。おむつをした赤ちゃんがしるしですと言ったのです。赤ちゃんはみんなおむつをしますから、特別な赤ちゃんではありませんでした。それではしるしになりません。よく目にする光景がしるしとされました。きっとそれは神様がわたしたちがよく見る光景におられるというしるしとなっているのでしょう。さらにしるしは飼い葉桶に寝かせられているということです。

羊飼いたちは「さあベツレヘムに行こう」といって旅立ちました。しかし、どのように赤ちゃんを探したのか疑問に思います。まさかベツレヘムの家を1件1件訪ねたのでしょうか。家の外にある洗濯物、おむつが干してある家を探したのでしょうか。それがしるしだったのでしょうか。それも夜だとしたら難しいでしょう。私の想像ですが、羊飼いはきっとこどもの声を頼りに探したのではないでしょうか。こどもの声がする場所が、泣き声と足音のする場所が、赤ちゃんのいる場所でした。羊飼いは希望のしるし、平和のしるしである、赤ちゃんの泣き声を頼りに探したのです。その声をたどって、そしてようやくイエス様に出会ったのです。

私たちは今日クリスマスを迎えています。私たちには楽しみしていることがあります。暗い時代でも、私たちは楽しみ、希望を持つことができるのです。きっと私たちがそうできるのは、イエス様の希望があるからでしょう。暗い時代にあっても、恐ろしい戦争が起こる時代にあっても、私たちも「恐れるな」と告げられています。イエス様の誕生・平和という希望があると告げられているのです。

聖書によれは、それは決して特別な場所に起こるのではありません。それはありふれた場所に起こります。私たちはつらい時もしんどい時も、恐ろしいと思う時も、希望をもって生きましょう。楽しんで生きましょう。そして、その目印はこどもです。こどもたちの声のするところに希望と平和があります。私たちの礼拝もこどもの声がしるしです。私たちもこどもの声を目印に、恐れず、希望と平和を探し続けましょう。お祈りいたします。

 

「こどもの声が希望のしるし」ルカ2章8~20節

 

そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

ルカ2章16節

 

私たちはこどもを大切にする教会です。教会はこの礼拝と、この後のパーティーに、たくさんの人に加わって欲しいと思っています!今年は特にウクライナの戦争に心を痛めました。すべての戦争が間違えです。日本も軍事費(防衛費)を倍増させる議論が続いています。私たちに武器は必要ありません。武器を捨てて鋤を持てです。私たちがしたいのは壊すことではなく、育むことです。

暗い時代だと思います。お互いの軍事力に恐れを持ち、より強い軍事力が必要だと思い込んでいる世界です。こんな暗い時代、息苦しい時代に希望はどこにあるでしょうか。希望一つはこの後のパーティーが楽しいこと、そしてイエス様が私たちの心に光として来てくださることではないでしょうか。聖書を読みましょう。

イエス様の誕生は皇帝からの勅令、総督など誕生物語は世界情勢の中にあります。皇帝アウグストゥスとは世界最強の軍隊で、支配しました。だれも逆らえない、恐ろしい力、つまり軍事的抑止力によって「平和」を実現しました。その軍事費は人々からの税金です。人口調査をし、税金を集めました。戦争のための税金が集められる、行く先が見えない時代です。しかし、聖書からはそういった暗さは感じられません。何か希望を感じさせる物語になっています。

羊飼いに現れた天使は10節「恐れるな」と言います。最も恐ろしい事、それは暴力が支配する戦争です。天使はそれを恐れるなと言います。力ではなく愛が世界を支配する時が訪れるという告知です。相手の軍事力に恐ろしさを感じた人間は、より強い軍事力を持とうとします。でもそれに恐れる必要はないのです。地には平和が来ます。その光が私たちに与えられています。恐ろしい、恐ろしい、武器が必要だと言っていないで、平和を探しなさいと言っているのです。

羊飼いは恐れではなく、平和を探すために旅立ちました。天使はすぐに答えを教えず自分たちで協力をして探すように言います。羊飼いたちはどのように赤ちゃんを探したのでしょうか?私の想像ですが、羊飼いはきっとこどもの声を頼りに探したのではないでしょうか。こどもの声がする場所が、泣き声と足音のする場所が、赤ちゃんのいる場所でした。泣き声をたどってイエス様に出会ったのです。

私たちは今日クリスマスを迎えています。暗い時代でも、私たちは楽しみ、希望を持つことができます。きっと私たちがそうできるのは、イエス様の希望があるからでしょう。そして恐ろしい戦争が起こる時代にあって、私たちも「恐れるな」と告げられています。イエス様の誕生・平和という希望があると告げられているのです。その目印はこどもです。こどもたちの声のするところに希望と平和があります。私たちの礼拝もこどもの声がしるしです。私たちもこどもの声を目印に、恐れず、希望と平和を探し続けましょう。お祈りいたします。

 

「必要とされる喜び」ルカ2章1~7節

みなさん、こんばんは。今日はようこそおいで下さいました。平塚バプテスト教会の牧師の平野と申します。私たちの教会は「こどもを大切にする教会です」です。この教会では礼拝中、こどもたちに静かにおとなしく座っているようには求めていません。こどもたちの声や足音もこの礼拝の一部として、命の音としてそれを聞きながら礼拝をしています。一緒にその声、その音を聞きながら礼拝しましょう。

私たちはこどもを大切にするということの具体的実践として「こひつじ食堂」というこども食堂を実施しています。1食200円で地域の方と、楽しく会話し、食事ができるということで、毎回たくさんの方にご利用をいただき、長い行列ができています。

実は当初この食堂にこのような反響があると思ってもいませんでした。この活動が地域から必要とされるのだろうかと不安に思ってスタートしたのです。あるいは本当はこの教会自体が地域から必要とされているのかも少し不安でした。この教会がなくなったらどれくらいの人が寂しいと思ってくれるだろうかと不安に思っていました。しかし今地域に踏み出し、教会がこんなにも地域から愛され、必要とされていることをうれしく思っています。

最近は自分達だけでは手が回らず、手伝ってくださるボランティアさんが必要になってきました。たくさんの方々が活き活きとボランティアに参加してくださっています。みなさんがそこまで熱心に参加してくださる原動力はきっと、私たちの教会と同じだと思います。自分が必要とされるのか不安だったのに、今誰かに自分が必要とされている、そのことがうれしいのです。そのように活き活きしているボランティアさんの姿から力をもらい、私たちの教会ももっと地域の人々の必要に応えてゆきたいと励まされています。

自分が誰かに必要とされるということは、私たちが生きてゆく上でとても大切なことです。もちろん誰にも必要とされなくても、すべての命は大切な命です。でももし命があるとしたら、多くの人は誰かの役に立ちたい、どこか自分を必要としている場所に身を置きたいと思うものです。

誰かに必要とされることは、うれしいことです。誰かのために何か良い事をするのは気持ちいいものです。しかし反対に、誰にも必要とされないことは、とても不安で、とても深い悲しみです。誰かに必要とされることは、私たちが生きる意味に直結する問題です。誰にも必要とされていないと感じる時、人は生きる活力を大きく失います。

人も教会も同じです。誰かの役に立たなくても命はそれだけで尊いものです。でももし他者の必要に応えることができたら、自分を必要だと言ってくれる人に出会うことができたら、教会も人も活き活きと輝くはずです。

今日は聖書の箇所から必要とされないときの悲しみ、そして必要とされることの喜びを見てゆきたいと思います。そして他者のために生きる喜びを見てゆきたいと思います。

* * *

クリスマスの絵本と聖書を読んでいただきました。イエス様は誕生においてどれほど人々から必要とされたでしょうか。実は、まったくと言っていいほど必要とされていません。イエス・キリストは誰からも必要とされない時代に生まれたのです。

その誕生はある日突然、天使によって予告されました。その妊娠はあまり良いタイミングではありませんでした。王様が人口を調べろと命令したのは税金をしっかりと取るためです。人を必要としたのではなく、動物と同じように、数を数えただけです。妊娠中のマリアと夫ヨセフは泊まる場所がありませんでした。家畜小屋に泊まることなり、そこで出産をします。その誕生は周囲からの励ましと支えがあったとは思えません。誰からも必要とされず、社会の隅に追いやられた誕生です。イエス様はこのように誕生において、多くの人にとって必要とされない命だったのです。

イエス様の誕生はまず羊飼いに知らされました。羊飼いは社会では疎まれる存在でした。嫌われ、避けられる存在でした。社会から必要ないと言われる存在でした。天使の知らせは、そのような必要がないと言われ続けた人に告げられたのです。しかし神の物語はそこが始まりです。誰からも必要とされないということから神の物語は始まります。

聖書にはこの後、イエス様が大人になってから様々な活動を始めたことが記されています。病人や、差別されている人、困っている人のもとを訪ねました。社会から必要ないと言われ悲しんでいた人々と手を取り合って活動をしました。様々な人と食事をしました。必要ないと言われた人々と食事をして歩いたのです。

イエス様の教えは隣人のために働くようにという教えでした。自分の必要のためだけではなく、他者の必要ために体を動かしなさいと教えたのです。隣人愛です。自分を愛し、自分の必要を満たすだけではなく、他者を愛し、他者の必要を満たしなさいと教えたのです。しかしイエス様は最後まで必要とされない人でした。この後、厄介者として十字架刑で殺されてしまうのです。

イエス様とはこのように必要ないと言われ続けた存在でした。それでも、いえそれだからこそ他者の愛し、他者の必要のために生きるようにと教えたお方でした。イエス様は誰からも必要とされず、愛されないことの不安と悲しみをよく知る人でした。そして他者を愛し、必要に応えるように教えた人でした。

私たちはこのような方を神の子だ、神と等しい存在だ、私を救ってくれる存在だと信じています。だから私たちは自分の存在がどんなに否定されても、自分のためだけではなく、他者のために生きたいと願っています。きっとその生き方が私もあなたも幸せにする、お互いの救いとなるのです。

私たちは今、手に小さなろうそくを持っています。たくさんあるので一つくらい無くても気づかないかもしれません。大きな光があれば、小さな光は必要ないかもしれません。でもいま皆さんがご覧のように、小さな光の集まりはとても美しいのです。小さな光が集まって、お互いを照らし合うと、とても美しいのです。私たちも小さくとも、互いを愛し合いましょう。きっともっと美しい世界に変わってゆくはずです。

みなさんの次の1年がこの光のように、小さくとも他者のために生きることができるように祈ります。あなたを必要とする人、あなたを必要とする場所にめぐり会い、活き活きと生きることができように祈ります。そして自分だけではなく、他者を愛し、隣人愛のうちに歩んでゆくことができるように、祈っています。お祈りします。

 

【全文】「ママ友の祈り」ルカ1章39~56節

みなさん、おはようございます。今日も共に集うことができたこと、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。

今年も1年、教会のこひつじひろば、こひつじ食堂にたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。そして同時にたくさんの親、特にママたちも訪ねてくれました。こどもたちが仲良くしていると、自然にママ同士の仲も深まってゆきます。ママ友という言葉があります。こどもを通じた母親同士の友達のことです。教会での様子を見ていると、ママ友の絆は強いものだと感じます。ママ友には子育てという共通のミッションがあり、共通の悩みがあります。こども同士が楽しく遊ぶと、ママ同士も打ち解けやすいものです。私もときどきママ友に混ざる時がありますが、本当に話題は尽きないものです。こどもの成長の事や食事のこと、どんな予防接種を打ったか、よく遊びに行かせるところはどこか、学校ではどんな出来事があったか、誕生日プレゼントは何にするかなど、いろいろな話をします。ママ友は多少年齢が離れていても、こどもの年齢が近ければ、すぐに仲良くなります。そしてときどき夫のグチを言い合っているのも聞きます。「うちの夫はこうで困る」「うちもそう、まじほんと困るよね」「どうにかなんないのかしら」そんなことも話しています。

未来のこと、これからの社会のことも自然に話題になります。特に教育のこと、医療のことにはみんな関心があります。教育でいうと、平塚の市内にも大きな教育格差があって、どうやってそれを超えてゆくか、平等にしてゆくのか、進学先はどうするのか、そんな話題もママ友の間ではよくあります。

ママ友に限らず大人は、こどもが身近にいることで、未来や社会がより身近になります。こどもが身近にいれば、この子たちが大人になった時に困らないように、今どんな教育が必要のかを考えるようになります。こどもが身近にいれば、この子が大人になったとき、未来はどんな世界で、どのように暮らすのかを想像するようになります。そのように、こどもたちは私たちに、未来や社会について考えさせてくれるのです。こどもたちが身近にいると、私たちには未来への祈りが湧いてきます。こどもたちが身近いると、いままで気にならなかった社会のことが、気になるようになります。

今日の聖書箇所もそのようなことだと思います。最もこどもを身近に感じているのは、お腹に赤ちゃんが入っている妊婦です。今日のマリアの祈りはこどもが最も身近にいる人の祈りです。こどもが身近にいて、未来について考えさせられ、生まれた祈りです。

私たちもこどもプロジェクトを進めています。そして私たちは未来を考えています。私たちは今、こどもと関わり持ったからこそ、未来を想像し、未来へと祈ってゆくことができるのではないでしょうか。私たちはこどもが身近になり、そして未来への祈りが与えられています。世界のことを祈る者にされています。今日はこどもを通じて、私たちに与えられる祈りを聖書から見てゆきたいと思います。そしてこどもの命を喜び、未来を語ることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はルカによる福音書1章39節~54節です。マリアがエリサベトを訪問するという物語です。マリアはなぜエリサベトを訪問したのでしょうか。一番は天使ガブリエルからのお告げ、エリサベトの妊娠を確かめるためでしょう。しかし、その滞在は3か月だったとあります。妊娠しているかどうかの確認だけには長すぎる滞在です。マリアも妊婦です。妊婦が旅先に3か月も滞在した動機は何だったのでしょうか。おそらくマリアはエリサベトの出産直前にナザレに帰っています。マリアは出産の手伝いをしたわけでもない様子です。ではどうして3か月も滞在したのでしょうか。想像します。おそらくエリザベトとマリアは3か月間たくさんのことを話し合ったのではないでしょうか。今で言うところのママ友だったのではないでしょうか。あるいは妊娠中の友達のことはマタニティの友達、マタ友とも言うそうです。二人は同じ時期に妊娠した者同士、そして不思議な妊娠をした者同士、親族同士、つよい絆を感じていたのではないでしょうか。

きっとマリアはママ友を訪ねるために、遠くの親族を訪ねたのです。片道3日間かかる道のりだったと言います。妊婦が一人で3日間の旅をし、旅先で3か月滞在するのは、かなり注意が必要です。しかし、マリアはそれほどまでにこの妊娠について、そしてこれから先のことを分かち合う仲間に会いたかったのです。マリアはママ友と話したかったのです。ママ友に会いに3日間歩き、ママ友と3か月過ごしたのです。ママ友は、互いに会えたことを喜んでいます。エリサベトは42節で「あなたは祝福されている」と言います。マリアも47節「神を喜びます」とあります。おめでとうとお互いに声を掛け合ったということです。お腹のこどもも動きました。お腹のこどもも喜んでいるのでしょうか。マリアとエリサベトは互いの出会いと、互いに生まれてくるこどもの命を喜びあっています。

マリアとエリサベト、二人のママ友はいろいろなことを話したでしょう。こどもの成長のこと、家族のこと。夫のグチも言い合ったでしょうか。ママ友の会話を想像します。「うちの夫ヨセフは私が結婚前に妊娠して相当ビビっていたわ。でもようやく受け入れてくれたわよ。まあよく頑張ってる方かしらね。」「あらいいわね、うちの夫ザカリヤなんか私が妊娠してからひと言もしゃべんないのよ。まあ家が静かでいいけどね。」「でもこれから住民登録があるわよね、エリサベトは、生まれてすぐの小さい赤ちゃんと住民登録に行くのは大変でしょうね。」「あなただって出産時期と重なるから気を付けてね、まさか旅先で産気づかないか心配だわ(笑)。」そんなママ友の会話が延々と3か月続いたでしょうか。

そして現代のママ友と同じように社会のことも話題になったはずです。将来この社会はどうなるのか。今どんな問題点があるのかを話し合ったはずです。マリアの祈りはそのような、ママ友との会話の中で紡がれた祈りだったのではないでしょうか。マリアの祈り、それはママ友と過ごす時間の中で与えられた祈り「ママ友の祈り」だったのではないでしょうか。

このマリアの祈りは前半と後半に分けることができると言われています。前半の50節までは妊娠の喜び、自身のことを祈っています。そして51節からは社会全体について祈っています。こどもたちの未来を考えた祈り、それが51節以降の祈りです。おそらくマリアたちにとって、こどもが身近になったからこそ、社会の権力構造や格差に目が行くようになったのでしょう。こどもたちが生きていく世界のことを考えると、その社会構造や不平等について祈らざるを得なかったのでしょう。こどもたちにはもっと平和で、平等な社会に育って欲しい。これはそのようなこどもたちの未来を考えた祈りです。

ママ友であるマリアとエリサベトはたくさんの対話をしました。互いを喜び、励まし合いました。そしてこのこどもたちが育つ社会がもっと良いものになって欲しいと語りあいました。マリアとエリサベトの対話、それがマリアの祈りとなりました。この祈りはきっとママ友の祈りなのです。

ある注解書を読んでいると、こんな言葉がありました「富める者と貧しい者の社会的境遇の逆転という社会革命を、年若い未婚女性が祈ったとは考えづらく、きわめて不自然である」。妊娠中のママは、社会正義や不平等の解消を祈らないだろうというのです。この注解書を書いた学者は、少し想像力が足りないかもしれません。こどもがいるから、未来について考えるのです。こどもがいるから不平等について考えるのです。自分のことだったら「世の中はそういうのも、しょうがない」で終わるかもしれません。でもこどもたちの未来ことだから、強く願い、強く祈るようになるのです。こどもが身近だからこそ、こどもたちが成長する世界、成長したあとの世界が、自由で平等であると祈るようになるのです。

こどもが身近になると、未来への祈りが湧いてきます。そしてそれは今の私たちにも起きていることではないでしょうか。私たちもこどもたちがいるからこそ、未来に目が向くのでしょう。こどもたちがいるから社会に目が向くのでしょう。こどもとかかわりを始めたマリアだからこそ、社会の平等を祈れたように、私たちもこどもたちと関わる時、社会の平等や正義を祈ることができるようになるのではないでしょうか。自分のことはさておき、こどもたちの事を祈ることができるのではないでしょうか。

神様はこのようにして、こどもを通じて、私たちに新しい祈りを与えられます。神様はこどもを通じて私たちに未来を考え、今を変えるように、そして祈るように、促しておられます。そのような祈りを私たちもしたいのです。こどもたちのための祈り、そしてこどもたちの未来への祈り、それを私たちも大切にしたいのです。そして私たちもマリアとエリサベトのように、こどもの命を喜びあいたいのです。マリアとエリサベトのようにこどもの命を温かく迎えたいのです。未来を共に語りあいたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを大切にすると、未来を考えるようになります。こどもを大切にすると、世界を考えるようになります。来週はクリスマスです。街や教会でこどもたちの笑顔をたくさん見ることができるでしょう。その命を互いに喜びあいましょう。そして未来について祈ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

「ママ友の祈り」ルカ1章39~56節

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

ルカによる福音書1章39節

 

私たちはこどもを大切にする教会です。今年も教会にはたくさんのこどもたちとママたちが訪ねてくれました。教会での様子を見ていると、ママ友の絆は強いものだと感じます。ママ友には子育てという共通のミッションがあり、共通の悩みがあります。こどもの成長の事や食事のこと、夫のグチを言い合っています。未来のことも話題になります。ママ友に限らず大人は、こどもが身近にいることで、未来や社会がより身近になります。こどもたちが私たちに、未来や社会について考えさせてくれるのです。こどもたちが身近にいると、未来への祈りが湧いてくるのです。

今日のマリアの祈りも、こどもが最も身近にいる人の祈りです。今日はこどもを通じて、私たちに与えられる祈りを聖書から見てゆきたいと思います。そしてこどもの命を喜び、未来を語ることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

マリアはなぜエリサベトを訪問したのでしょうか。妊婦が旅先に3か月も滞在した動機を想像します。きっとマリアはママ友を訪ねるために、遠くの親族を訪ねたのです。マリアはそれほどまでにこの妊娠について、そしてこれから先のことを分かち合う仲間に会いたかったのです。マリアはママ友と話したかったのです。

二人のママ友はいろいろなことを話したでしょう。現代のママ友と同じように社会のことも話題になったはずです。将来この社会はどうなるのか。今どんな問題点があるのかを話し合ったはずです。マリアの祈り、それはママ友と過ごす時間の中で与えられた祈り「ママ友の祈り」だったのではないでしょうか。

おそらくマリアたちにとって、こどもが身近になったからこそ、社会の権力構造や格差に目が行くようになったのでしょう。こどもたちにはもっと平和で、平等な社会に育って欲しい。これはそのようなこどもたちの未来を考えた祈りです。

ある注解書を読んでいると「年若い未婚女性が社会革命を祈ったとは考えづらく、きわめて不自然である」と書いてありました。この学者は、少し想像力が足りないかもしれません。こどもが身近にいるから、未来について考えるのです。こどもが身近になると、未来への祈りが湧いてきます。神様はこのようにして、こどもを通じて、私たちに新しい祈りを与えられます。

こどもたちのための祈り、そしてこどもたちの未来への祈り、それを私たちも大切にしたいのです。そして私たちもマリアとエリサベトのように、こどもの命、こどもの声を喜びあいたいのです。マリアとエリサベトのようにこどもの命を温かく迎えたいのです。未来を共に語りあいたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを大切にすると、未来を考えるようになります。来週はクリスマスです。街や教会でこどもたちの笑顔をたくさん見ることができるでしょう。その命を互いに喜びあいましょう。そして未来について祈ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「すべての命がふさわしい」 ルカ1章26~38節

みなさん、おはようございます。アドベントの礼拝をみなさんと共に持つことができること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。こどもたちの声も足音もこの礼拝の一部です。

私たちの教会では事情があって泊まる場所のない方をお泊めするシェルターを運営しています。場所は安全上の問題から非公開です。先日もそのシェルターの利用がありました。こひつじ食堂が終わって疲れていた夜でした。平塚社会福祉協議会から連絡があり、住居がなく困っている夫婦をシェルターに泊めてあげて欲しいという依頼を受けました。このご夫婦は事情があって家を出なくてはならず、ホテルで生活をしていたそうです。しかし所持金がなくなって、今日泊まる場所がなくなってしまいました。そして泊まる場所がないだけではありません。聞けばなんとその女性は妊娠をしているのだそうです。

食堂が終わって疲れていて、できれば利用を断りたいと思っていました。しかし妊娠した女性とその夫が、今日泊まる場所が無いという事情を、私は無視することができませんでした。私が引き受けなければ今日は野宿しなければいけないということ以上の問題です。私は聖書のある物語を思い出します。聖書に登場する今日寝る場所のない夫婦の物語です。マリアもこのご夫婦の様に妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。このような夫婦が教会を訪ね、泊めて欲しいと言われた時、断ることができる教会があるでしょうか?そして私たちは何より、こどもを大切にする教会です。大人は多少しんどくても我慢できます。でも、こどもにそれを強いてはいけません。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。お二人は夜9時頃、教会を訪ねて来られました。

翌朝、ご本人たちから話を聞けばお二人のお金のこと、家族の事、いろいろな課題がありました。この後の人生をどう生きるかを二人は決めなくてはいけません。これからの自分たちの人生に責任を取ることも必要になってくるでしょう。人一倍苦労し、生活の再建をしてゆかなければならないでしょう。大人たちには自分の人生に責任があります。しかし生まれてくるこどもは別の話です。親がどんなに貧しく、どんなに問題を抱えていても、こどもに一切の非はありません。こどもの命は育まれ、大切にされなくてはいけません。こどもはどんな家に生まれても、どんな親のもとに生まれても、どんな生まれ方をしても、大切な命です。どの命も大切な命です。家柄や、貧しさや、両親によって、健康に生まれてくることができなかったり、人生の機会が失われたり、差別されたりしてはいけません。すべてのこどもの命は守られ、育まれなければならないです。

生まれてくるのにふさわしくない命、生きるのにふさわしくない命、そんな命はありません。すべての命が大切にされるべき命です。守られなくてもしょうがない命はありません。死んでしまってもしょうがない命はありません。こどもにおいては特にそうです。お二人は10日ほど滞在し、様々な人の助けを受けてアパートへと引っ越されてゆきました。

今日は聖書から命について考えたいと思います。聖書からふさわしい命とか、ふさわしくない命というものはないのだということ。すべての命が神様にとってふさわしいのだということを見ます。すべての命を大切にしたいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思う、そのような場所に、そのような人に神様が来て下さる、そのことを見てゆきたいと思います。今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。

 

 

今日の聖書箇所はルカ1章26~38節、受胎告知と呼ばれる箇所です。教会学校でも分かち合われた箇所だと思いますが、どんな言葉が交わされたでしょうか。

聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。私はさまざまな解釈の可能性があると思いますし、開かれた議論が必要だと思います。少なくとも日本には昔から、こどもは天からの授かりものだという言葉があります。どの命も、天からの授かりものなのです。

イエス・キリストは神の子、人類の救い主です。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。それにしても、これはかなり特殊な出生です。もし現代でそのようなことが起きたらどうでしょうか。こどもは奇異の目で見られ、学校でいじめられるでしょうか。しかし聖書を見ると、イエス様の出生を批判する人、奇跡の様子を話す人は一人もいません。おそらくイエス様は、このような特殊な出生の逸話が残っているにも関わらず、他のこどもと同じように、育てられました。それは不思議なことです。イエス様は他のこどもとほとんど変わらない扱いを受けました。他のこどもと同じように、貧しい家に生まれ、貧しい家庭に育ったのです。

貧しい家に生まれたことはキリストにはふさわしくないと思うかもしれません。ではキリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれる、王様のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。

しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。まずその妊娠は34節にもあるように、結婚する前に起こります。結婚前の妊娠は当時のユダヤの律法に違反するものでした。周囲から見れば、それはふさわしくない妊娠でした。神の子なら、もっとふさわしい生まれ方があったはずです。しかしその妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。しかし神の子はそこに生まれたのです。神の出来事は私たちがふさわしいと思う場所ではない場所に起こりました。マリアに起きました。

マリアと私たちにはどのくらいの差があるでしょうか。マリアは世界一信仰深い女性だったから、神様に選ばれて妊娠したのでしょうか。神様は最もふさわしい人を選んで、妊娠させたのでしょうか?私はそうは思いません。マリアにも当然、戸惑いと疑いがありました。29節にはいったい何のことかと戸惑ったとあります。彼女も信じられなかったのです。この戸惑ったには計算するという意味を含みます。マリアはこの後の自分の人生に何が起こるか、計算をしたのです。周囲からどのような視線を受けるか、ヨセフとの関係にどのような変化があるのか、とっさに計算したのです。

そしてなぜ自分にそんなことが起るのかも考えたはずです。他のナザレで生きる女性と同じように生きている自分に、同じように貧しい自分に、なぜこのようなことが起るのかを思いめぐらせました。彼女は不安と疑問でいっぱいだったはずです。なぜ私にと思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。いまよりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。彼女はその後38節「お言葉どおり、この身に成りますようにと」言っています。すべてを受け入れたように書いてあります。でもそこにはきっと信じられない思いや不安がありました。もっとふさわしい人がいる、ふさわしい時があるという思いがありました。

しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。そうです、わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。今はふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。

神様はこのようなお方です。神様は私たちのふさわしさを超えるお方です。ふさわしくないと思うところに神の出来事は起ります。そして神様は神の子を産むのに、これはふさわしい命、これはふさわしくない命と選ばなかったお方です。神様は自分の子を地上に生まれさせるにあたって、親や、環境や経済力をもってふさわしいとしたのではありません。神の子は私たちがふさわしいと思う生まれ方はしませんでした。神の子はふさわしくないと思う人に、ふさわしくないと思うタイミングで、ふさわしくない場所で生まれたのです。

神様はこのことによって、生まれ方や、育ち、環境で命の優劣はないということを示しています。神様は命の優劣をつけないお方です。神様にとってふさわしい命、ふさわしくない命はないのです。ふさわしい生まれ方も、ふさわしくない生まれ方も無いということです。神様は私たちが思うふさわしさを超えて、私たちの間に生まれてくる方なのです。

神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。こんな私はダメと思っている人、ふさわしくないと言われている人に神の子がやって来るのです。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。そのように、神様はすべての命をふさわしいとされるのです。

私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。私たちは互いの命、こどもの命を大切にしましょう。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。

 

「すべての命がふさわしい」 ルカ1章26~38節

天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

ルカによる福音書1章30~31節

 

私たちの教会ではシェルターを運営しています。先日は女性が妊娠している夫婦が利用しました。私は聖書の物語を思い出します。マリアも妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。大人たちには自分の人生に責任があります。しかしこどもに一切の非はありません。こどもが両親の事情によって、健康に生まれてくることができなかったりしてはいけません。

生まれてくるのにふさわしくない命はありません。すべての命が神様にとってふさわしいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思うような場所に、人に神様が来て下さるのです。今日は聖書から命について考えたいと思います。

聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。

キリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。その妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。

マリアも「なぜ私に?」と思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。今よりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。

しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。

神様はこのようなお方です。神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「神を待ち望む」ルカによる福音書1章5~25節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集うことができたこと感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの泣き声も足音も礼拝の一部としてお献げしています。共に礼拝をしましょう。

今日はアドベントの第二週です。クリスマスの到来を待ち望む期間をいただいています。私たちの心にイエス様が来ること、私たちに希望が与えられること、時間がかかったとしてもそれを待ち望み、祈ってゆきましょう。

今日は、私たちと共に礼拝をしていたAさんについて、最近の方はご存じ無いかもしれませんので、ご紹介します。彼は障がいを持っていて、支援を受けながら生活をしている50代の男性です。彼はかつて毎週日曜日、礼拝に集い、会堂に来るとすぐに、誰かを捕まえてはお祈りをしていました。最近見かけないのは、彼の通っている福祉施設の人に、コロナが終わるまで人が集まる礼拝には出ないようにと言われているからです。彼は代わりに日曜日の10時30分に、教会の前まで来て、礼拝堂には入らず、道路の脇に座って私と一緒に祈っています。

彼の願いは私が出会った4年前からずっと変わらず3つです。就職をしたい、健康でありたい、バレエを習いたいです。しかし彼は行く先々で、あなたは就職できない、あなたに仕事は無理だ、誰もあなたなんか雇わないと言われているそうです。そして大好きな食事をしていると、そんなに食べると病気になると言われているそうです。彼は毎日夕方4時半に私に電話をしてきます。電話の内容は3つの願いと、今日も誰々に就職は無理だと言われた、あなたに紹介できる仕事はないと言われたという内容です。

彼はよく「平野先生は僕が就職できると思うか」と聞いてきます。私は正直に「コロナでみんな仕事を探しているし、障がいのこともあるし、私もきっと難しいと思う」と答えています。そしてこうも付け加えています「でも無理かどうかはわからない。誰もあなたの願いを無理だと言うことはできないし、無理と言う権利もない」と。私は「それは無理そうだから祈るのは止めた方がいい」とか「私は無理だと思うので祈れません」とか「祈る内容をもう少し現実的なものに変えた方が良い」とは言いません。彼の願いが叶うようにひとまず一緒に祈ります。そして私は彼との祈りに感謝を付け加えています。いろいろな願いと不満を持ちながらも、神様に守られ、支えてくれる人がたくさん与えられていることに感謝して生きことができるようと付け加えて祈っています。

彼は自分が就職できる日をまだかまだかと待っています。周りが無理、あるいは相当難しいと言っても、彼自身はその日が必ず来る、すぐに来ると信じています。彼は信じて、祈って、待っています。時々私は彼に「これだけみんなに無理と言われてもまだ就職できるようにと祈りますか?」と聞きます。そうすると彼は必ず「まだ祈り続ける」と言います。彼はもし就職できそうな先があれば、私の車で、私と一緒に面接に行くそうです。彼は実現のイメージを持って、いつそれが起っても良い様に祈っています。

私たちは彼から学ぶことがあるでしょうか。私たちは今アドベント、待つ時をいただいています。私たちは身近にいる彼から、待つこと、辛抱強く祈り続けることを学べるのではないでしょうか。今日も聖書から待つということを学びたいと思います。そして希望を持って待つということ、祈り続けるということを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

 

 

今日の聖書箇所はルカ福音書1章5~25節です。ルカ福音書はイエス様の誕生以前を丁寧に描きます。特にヨハネの誕生については詳しく書いています。おそらくそれは、旧約聖書と新約聖書をつなげる役割をしています。読者は早くイエス様の誕生の話、奇跡の話、結末を聞きたいと思うでしょうか。でも聖書は少し待つように言っています。ユダヤ教とキリスト教の架け橋、新約聖書と旧約聖書の架け橋、これまでの時代とこれからの時代の架け橋の物語から始まります。

ザカリヤという祭司が登場します。彼はずっとこどもが欲しいと願っていましたが、年を重ねてあきらめていました。もう自分には難しいと思っていたのです。こどもがいないことは妻のエリザベトにとってもつらい事でした。当時の女性にとって妊娠しないということは、恥、神の罰と考えられました。それも女性の側だけの問題とされました。妻エリザベトは周囲から、ずっと願いが叶わない人、罰が当たった人と言われたのです。でも本当はそうではありませんでした。この夫婦は神様を一生懸命信じて、人にやさしくできる夫婦、非のうちどころのない夫婦でした。神様はそんなこの二人をいつも見守っていたのです。

ある時、ザカリヤはある時、神殿の聖所で1人でお香をたく奉仕をすることになりました。この奉仕は名誉ある奉仕です。奉仕はくじ引きで決められますが、当時の祭司は1万8000人いたと言われます。1万8000分の1の、人生に1回当たるかどうかというくじです。そして一度あたるともう一生、くじには参加できないルールになっていました。

くじ引きですから入ってすぐの新人が当たることもあったでしょう。でもザカリヤはこどもをあきらめる年齢になっても、くじに当たりませんでした。もう何十年もはずれを引き続けてきたのです。それでも待って、待って、待ってようやく当たりが出たのです。彼の神殿奉仕は、人生に一度あるかないか、待って、待って、ようやく当たった、一世一代の奉仕、名誉でした。お香をたく神殿の聖所には1人しか入ることが許されていません。そして聖所の外では大勢の民衆が祝福の祈りを待っています。民を待たせず、滞りなく済ませることが大事です。しかしそこでザカリヤに天使が現れ、こどもが生まれると予告したのです。

ザカリヤにとってくじに当たることも、こどもができることも、ずっと祈ってきたことでした。何十年も祈ったことでした。でも待っても、待っても叶わなかった願いでした。もうあきらめていたことでした。ザカリヤはようやく当たった奉仕に、複雑だったでしょう。もっと早くあたりたかったという気持ちもあったでしょう。

そして今さらこどもが生まれると言われても、それを信じることなんてできなかったのです。そのようなことを言われても、信じることも、さらにこれ以上待つことはできなかったのです。彼は求めていたのにそれを信じませんでした。彼は本当なら何か証拠となるものを示すように求めました。そして天使は話せなくなるという証拠を与えたのです。

このやりとりの間、10節大勢の民衆は外で待っていました。ザカリヤが出て来て祈るのを待っていたのです。でも他の人より手間取っている様子です。心配でした。でも待ちます。そしてザカリヤは言葉が話せなくなり戻ってきました。民衆たちはザカリヤに何かが起ったことを知ったのです。エリザベトはどうしたでしょうか。24節彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、家にこもりました。どこにも出かけずに、待つことにしたのです。自分が確かに神様によって妊娠する、出産することを、信じて、隠れて、待ち続けたのです。彼女は自分の体に起こる変化を待ち続けました。

今日の物語は待つことがテーマになっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆もエリザベトもみんな待っていたのです。ザカリヤは待ちきれない時もありましたが、でも待ちました。そしてこの物語はやがて、ヨハネが生まれ、イエス様が生まれる話へとつながってゆきます。この物語はすべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。

私たちは祈っても、祈っても、待っても、待っても、願いが叶わないという時があります。どれほど待っても叶わない願いがありました。願い続けるのに疲れ、祈るのを止めてしまう時があったでしょうか。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが叶う時が来るかもしれません。それはもう何年も前にすでにあきらめた事だったかもしれません。でも神様は、神様のタイミングでそれを起こすことがあります。まさか私たちにそんなことが起るのでしょうか。周囲から無理と言われていることが起きるでしょうか。私たちが待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、私たちにも起こるのでしょうか?きっと誰にもそれを無理と言うことはできないでしょう。大勢の民衆が聖所の外で待ち続けました。そしてエリザベトもひっそりと待ち続けました。ザカリヤもこの後、言葉を失いながらも待ち続けました。そして人々は希望を見ました。私たちの希望もそのようにあるのでしょう。

私たちにはきっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものがたくさんあります。でも私たちは無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私たちはどんなに周りに無理と言われても、自分自身さえ無理だと思っていても、希望をあきらめないでいたいのです。そしてそれが実現するときが来るかもしれません。その時、大胆にそれを選び取りたいのです。私はAさんの祈りを思い出します。あきらめずに、実現のイメージを持ち続ける祈りの大切さを学びます。

私たちは今日、クリスマスの到来を待つ時をいただいています。私たちがあきらめている希望はあるでしょうか。願い続けることに疲れてしまっているでしょうか。でも私たちは、希望を待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って歩みたいと思うのです。神様がきっと私たちに希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を私たちに示してくれるはずです。

アドベントはそれを信じる時です。忘れずに待つことを覚える時です。今日、神様は私たちをその希望へと促しています。神様が私たちに希望を与えて下さること信じ、待ちましょう。きっとそれを待つ力も神様が与えてくださるはずです。お祈りします。

 

「神を待ち望む」ルカによる福音書1章5~25節

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。

ルカ福音書1章13節

 

アドベント、クリスマスの到来を待ち望む期間をいただいています。Aさんは障がいを持っています。彼は会堂に来るとすぐに、誰かを捕まえてお祈りをします。彼のもっとも強い願いは就職です。しかし彼は行く先々で、あなたに仕事は無理だ、誰もあなたを雇わないと言われているそうです。でも彼は信じています。どんなに周りに無理、相当難しいと言われても、自分が就職できる日を、その日が必ず来る、すぐに来ると信じています。私たちは彼から、待つこと、辛抱強く祈り続けることを学べるのではないでしょうか。今日は聖書から希望を持って待つということ、祈り続けるということを見ます。聖書をお読みしましょう。

ザカリヤはくじ引きで、名誉ある奉仕に当たります。当時の祭司は1万8000人、人生に1回当たるかどうかというくじです。新人が当たることもあったでしょう。でもザカリヤはこどもをあきらめる年齢まで、何十年もハズレを引き続けてきました。それでも待って、ようやく当たりが出たのです。天使はそこでザカリヤにこどもが生まれると予告しました。ザカリヤは今さらこどもが生まれると言われても、信じることも、これ以上待つことはできなかったのです。彼は信じませんでした。

10節大勢の民衆は外で待っていました。24節彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、家で待ちました。今日の物語は待つことがテーマになっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆もエリザベトもみんな待っていたのです。この物語はすべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。

私たちは祈っても、待っても願いが叶わないという時があります。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが叶う時が来るかもしれません。まさか私たちに、待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、起こるのでしょうか?きっと誰にもそれを無理と言うことはできないでしょう。私たちにはきっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものがたくさんあります。でも私たちは無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私はAさんの祈りを思い出します。

私たちは今日、クリスマスの到来を待つ時をいただいています。私たちがあきらめている希望はあるでしょうか。願い続けることに疲れてしまっているでしょうか。でも私たちは、希望を待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って歩みたいと思うのです。神様がきっと私たちに希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を私たちに示してくれるはずです。アドベントはそれを信じる時です。

 

クリスマスのイルミネーションを始めました

11月27日~1月上旬の16時30分~21時頃まで教会のイルミネーションをしています。

【全文】「顔を上げさせる神」ルカ21章25~33節

みなさんおはようございます。今日も共に集い、礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聴きながら礼拝しましょう。今日からアドベントです。クリスマスの到来を待ち望む時です。ろうそくを1本ずつ灯し、クリスマスを待ち望みながら礼拝をしてゆきましょう。

今日は昼食を食べた後、大掃除と飾りつけを行います。今年もいろいろあって、あっという間の1年でした。時が流れるのは本当に早いものです。教会は落ち葉の季節になりました。庭や道路にたくさんの葉が落ちています。葉がすべて落ちるまで、しばらくは落ち葉の掃除が大変な時期です。気づいた方はどうぞお手伝いください。

数年教会で過ごして気づいたのは、春と夏は雑草との戦いであること、秋は落ち葉との戦いであることです。雑草を刈るのに一生懸命だと思ったら、次は落ちてくる葉を拾うのが忙しくなります。庭の草木は、葉を茂らすことと、葉を落とすことを毎年変わらずに繰り返しています。木々にとって、葉が落ちない冬はないし、葉が茂らない夏もありません。植物はそのように確実に季節を巡っています。私たちもあとひと月ほどでクリスマスです。クリスマスも毎年必ずやってくるものです。その後には必ず春が来て、その後には必ず夏が来ます。多少の気候変動があっても、それは確実です。そのように時や季節が巡る確かさを、私たちは知っています。春は待っていても、待っていなくても必ずやって来るのです。

季節が確実に巡る一方、人生はいつも不確実です。人生は確実に時を刻むとは限りません。人生には春夏秋冬が順番に訪れるわけではありません。喜びのさなかに突然の悲しみがあり、反対に悲しみの中に突然喜びがあります。そして人間はすぐに気が変わります。人間はいつも不確実です。人間はいつも予測不可能です。人間の人生は、自然や時間の確実さとは違う、不確実さにあふれています。

アドベントとは「到来」という意味の言葉です。クリスマスの到来を待ち望む1ヶ月です。時の流れは正確です。春も12月25日も、待っていても、待っていなくても、それは確実にやって来ます。良い子にも悪い子にもクリスマスはやってきます。私たちにはそれが必ず来るでしょう。私たちはクリスマスをどう待つのかが大事です。人間がそれをどう待つのかが不確実なのです。

必ず来るクリスマス。私たちの心にイエス様は必ず来て下さいます。私たちにとって大事なのは必ず来るものをどう待つかです。それを考えるのがアドベントです。今日は聖書から、クリスマスが確実に来るように、私たちにもきっと神様が来て下さるということを見ます。そして私たちはそれを待つ間、顔を上げて、うつむいた顔を上げて、前を向いて、それを待とうということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所をお読みしましょう。今日はルカ福音書21章25節~33節です。25節には「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」とあります。これは世界の終りの時、様々な超常現象が起こるという意味ではありません。太陽と月、星は世界の確実さの象徴です。太陽と月と星は数千年、数億年にわたって規則正しく動き続けてきました。日はまた昇るという言葉があるように、天体の動きは人間に左右されません。天体の運動とは確実で、信頼できるものの象徴です。

しかし25節ではその確実と思えたものに徴が現れるとあります。それは確実であったものに、変化が起るということです。26節には天体が揺れ動くとあります。これまで動きが完全に規則的で、予測できたはずのものが、予測不応な不確実な状態になるということです。今まで規則正しく、確実であったものが、揺れる、変化する時、人々はそれを恐ろしく感じます。変わらないと思っていたものが変わる時、不安になるのです。変わらないと思っていたものが、変わってしまう時、自分は何をしたら良いのか分からなくなってしまうのです。26節「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。」とあります。人間は変化に対して、不安になるのです。

確実で変わらないと思っていたことが、変わることがあります。春夏秋冬も気候変動によって少しずつ確実ではなくなっています。ゲリラ豪雨や季節はずれの台風、コロナの事、予測不可能なことが増えてきています。変わらないと思っていたものが、変わってゆく不安は私たちにも、よくわかります。変わらない自然さえ変わってしまう時代です。人間はならなおさら変わるでしょう。仲間同士の関係は変わらないと思っていても、案外、簡単に変わってしまうものです。時間がたてば家族との関係も変わります。友人との関係も時と共に大きく変わります。教会員同士も同じでしょう。関係はどんどん変わります。ずっと来るのだと思っていた方が教会を離れることがあります。もう戻ってこないと思っていた人が戻って来ることがあります。人間はころころ変わるのです。人間はいつもその変化に悩みます。いつもと違う事、思っていたことと違うこと、予想と違うことに人は悩むのです。

確実なものはこの世界にどんどん少なくなっています。天候も変わる、人間も変わる、変わらないのは太陽と月と星くらいです。でもそれさえも変わる時がくるのでしょうか。そのような中で、変わらないものは無いのでしょうか。

26節には「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。これは神様は天地が変わる時、変わらないと思っていたものが変わる時、不安に思っている時に、私たちのもとに来てくださるという約束です。聖書は、イエス様が必ず来ると、それをあなたたちは必ず見ると語っています。私たちの世界は大きく変わるかもしれません。変わらないと思っていたこと、変わらないと思っていたあの人との関係は、変わってしまうかもしれません。想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害がおこるかもしれません。それはすでに起きているかもしれません。しかし私たちにはただひとつ、変わらないものがあります。それが26節にあるように、神様が来るという約束です。

神様が来るという約束、それは私たちの変化のただ中に与えられた約束です。私たちの変化の中に、神様が来るという約束です。どんなに自然が変わっても、どんなに人間が変わっても、どんなに世界が変わっても、この約束だけは確かなものです。どんなに人間が変わろうとも、どんな天変地異が起きようとも、変わらないものがただ一つだけあります。それが人の子、イエス・キリストがやって来る、それを私たちが見るという約束です。私たちは様々な変化の中にあっても、その変わらない、確実な約束をいただいています。

そしてイエス様は私たちがその約束をどのように待つべきかを教えています。28節には「身を起こして頭を上げなさい」とあります。私たちの人生には様々な困難や、求められる変化があります。しかし私たちがその人生を、うつむいて歩くのはいけないということです。聖書は私たちに体を起こして、背筋を伸ばして、顔を上げて、前を向いて歩みなさいと言っています。不確実で不条理な時代の中にあっても、神様が必ず来るという約束を信じ、顔を上げて歩こうと言っているのです。私たちはそのように歩みましょう。

イエス様はこの後、いちじくの木のたとえ話を始めます。いちじくや、他の木が成長しているのを見たら、神様のことを思い出すようにと言っています。ここでも、季節が巡り、葉が茂り、また枯れてゆく、その確かさのように、神様はあなたのもとに来るのだと言っています。

そして31節には「神の国は近づいている」とあります。それは神様の方から近づいてくるという意味です。神の国は神様の方から近づいてくるもので、私たちが一生懸命探すのではありません。私たちに求められているのは、神の国に到達するために頑張ることではありません。すでに神様の方から私たちに到来しているのです。私たちに求められていること、それは待つことです。世界は変わります。人の心、人間関係も変わります。変わっていいのです。変わらないものの方が少ないのです。そして私たちは変化に不安を感じるかもしれません。外に出たくなくなるかもしれません。しかし神様は必ず、私たちのもとに来てくださるのです。

そして33節にこうあります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。聖書の言葉は天地が滅んでも、人間がどんなに変わっても、変わらない、無くならないのです。私たちにはその確実さが与えられているのです。

人生や世界には、予想もしないような変化が起きます。私たちはそれを不安に思ったり、どうしたらよいかわからないものです。でも私たちに変わらないものがあります。それは神様が私たちのもとに来るという約束と、神様の言葉です。神様の約束と神様の言葉は変わらない確実なものです。私たちの人生には不確実と困難さあります。しかし私たちは顔を上げて歩みたいのです。イエス様が必ず私の心に来て下さるという確かな希望を持って、顔を上げて歩みたいのです。どんなに世界が変わっても、神様のことばは決して滅びないことに希望をもって、顔を上げて歩みたいのです。うつむいた顔を上げて、主イエスを見上げましょう。背を伸ばし、心を開き、主イエスの愛を受け取りましょう。お祈りします。

 

 

「顔を上げさせる神」ルカ21章25~33節

このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。

ルカ21章28節

 

今日からアドベントというクリスマスの到来を待ち望む期間に入ります。クリスマスは毎年確実にやって来るものです。一方、人生はいつも不確実です。人生には春夏秋冬が順番に訪れるわけではありません。喜びのさなかに突然の悲しみがあります。人間はすぐに気が変わります。人生は不確実さにあふれています。

アドベントとは「到来」という意味の言葉です。時の流れは正確です。待っていても、待っていなくて、それは確実にやって来ます。私たちはクリスマスをどう待つのかが大事です。今日は聖書から、クリスマスが確実に来るように、私たちにもきっと神様が来て下さるということを見ます。そして私たちはそれを待つ間、顔を上げて、うつむいた顔を上げて、それを待とうということを見てゆきたいと思います。

25節の「太陽と月と星」とは世界の確実さ、信頼できるものの象徴です。しかし確実と思えるものにも変化が起こります。人々はその時、不安になります。気候変動、ゲリラ豪雨、季節はずれの台風、コロナなど不確実なことが増えてきています。人間はならなおさら不確実でしょう。仲間、家族、友人、教会員など、どの関係も簡単に変わってしまうものです。人間はいつもその変化に悩みます。

確実なものはこの世界にどんどん少なくなっています。その中で変わらないものは何でしょうか。私たちの世界には想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害がおこるかもしれません。しかし私たちにはただ変わらないものがあります。それが26節にあるように、神様が来るという約束です。どんなに人間が変わろうとも、どんな天変地異が起きようとも、変わらないもの、それが人の子、イエス・キリストがやって来るという約束、それを私たちが見るという約束です。その確実な約束を私たちは変化の多い生活の中で待っています。

イエス様は私たちがその約束をどのように待つべきかを教えています。28節には「身を起こして頭を上げなさい」とあります。聖書は私たちに不確実で不条理な時代の中にあっても、顔を上げて歩こうと言っているのです。

そして33節には聖書の言葉は天地が滅んでも、滅びないとあります。私たちには人間がどんなに変わっても、変わらない確実さが与えられているのです。人生や世界には、予想もしないような変化が起きます。でも私たちに変わらないものがあります。それは神様が私たちのもとに来るという約束と、神様の言葉です。神様の約束と神様の言葉は変わらない確実なものです。

私たちの人生には不確実と困難さあります。しかし私たちは顔を上げて歩みたいのです。イエス様が必ず私の心に来て下さるという確かな希望を持って、顔を上げて歩みたいのです。どんなに世界が変わっても、神様のことばは決して滅びないことに希望をもって、顔を上げて歩みたいのです。お祈りします。

 

2022クリスマス行事のご案内

今年もたくさんのクリスマス行事があります。ぜひお越しください。

どの集会も、どなたでもご参加いただけます(こどもも大歓迎です)。ぜひご参加下さい!お待ちしております!

写真は昨年のクリスマス会の様子と、キャンドル礼拝の様子です。


【全文】「シャロームの教え」ルカ3章1~14節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声も足音もこの礼拝の一部です。共に礼拝を献げましょう。

今日は特に礼拝の後半でこども祝福祈祷の時を持ちます。こどもたちが神様に愛されていることを感謝し、こどもたちが教会で元気に、のびのびと育つことを祈ります。こどもたちには、将来偉くなって欲しい、他の人よりいい暮らしをして欲しいと、立身出世を祈るのではありません。平和を実現する者として育って欲しいと願って祈ろうと思います。

平和は何より大切なことです。ですから毎年のように話します。平和はすべての生活の基盤です。しかし聖書の平和は戦争をしないという狭い意味ではありません。何も変化が無い、波のない凪の状態が平和なのではありません。聖書の平和はヘブライ語で「シャローム」といいます。シャロームは何もない状態ではなく、もっとダイナミックな動きをあらわす言葉です。聖書の平和、シャロームは動きを表します。それはちょうどでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作に似ています。シャロームとはきれいな丸になる状態です。どこもへこんだり、どこもでっぱったりしない、美しい丸です。それは、みんなが等しく満たされている状態です。

図にも示しましたが、現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所があります。自分だけが良ければいいという考えです。一方低く押し込められている場所があります。誰かに抑えつけられてしまっている場所です。イエス様の十字架は、このへこみの下にあります。低み、一番深い谷、悲しみの底にイエス様の十字架があります。シャロームとは歪んだ丸がもとの丸に戻る動作です。谷が満たされるようにし、高ぶりが低められるようにする、そのダイナミックな動きがシャローム、聖書の平和です。シャローム・平和を作るには、押し込められている人と共に十字架から力をいただき、満たされていくことが必要です。シャローム・平和を作るには、高ぶりの中にいる人と共に十字架を見て、低くなってゆくことが必要です。

そのようなダイナミックな動きがシャロームです。子どもたちにはぜひシャロームのために働く人になって欲しいと願っています。そしてもちろん私たちもまだまだシャロームのために働きたいのです。今日は聖書から私たちに求められているシャローム、平和のための働きを見たいと思います。そこから「私たちはどう生きればよいのか」を考えたいと思います。聖書を読みましょう。

今日の聖書箇所はルカによる福音書3章1~14節です。バプテスマのヨハネという人が登場をします。バプテスマのヨハネとは、イエス様が公の活動を始める前から、活動をしていた預言者です。特にヨルダン川の付近で悔い改めのバプテスマを呼び掛けていました。どの福音書も必ず、このバプテスマのヨハネを取り上げるのですが、ルカ福音書はヨハネの描き方が独特です。

例えばバプテスマのヨハネといえば荒野で、動物の皮を着て、悔い改めを叫ぶ、荒々しいイメージを持つのですが、ルカ福音書ではそのようなイメージではありません。風貌の記述もありませんし、もともとヨハネのもとに人々が集まったのではなく、ヨハネが出かけて行って、話をしたとあります。ずいぶん他の福音書とイメージが違います。

バプテスマのヨハネの記述で他の福音書と共通しているのは、4節『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』はイザヤ書40章からの引用です。どの福音書にも共通して記述があります。しかしやはり、ルカ福音書だけが強調している点がいくつかあります。他の福音書には無く、ルカ福音書だけにしかないのは、5節と6節、そして10節以降です。5~6節はルカ福音書にのみに伝わる記述です。そこではこう言われています。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされるというのは、まさしくこの図の通りです。5節~6節は、まさしく丸になるように、シャロームに近づく動きを示しています。バプテスマのヨハネはシャロームの教えを広めていたとも言えるでしょう。

谷は埋められる、山は低くされるはそれぞれ〇〇されると書いてあります。それは神様によってなされるということです。神様の力、シャロームの力によってそれが起ると言っています。一人一人が、すべての人が満たされる世界が、シャロームな世界が、神様によって作られていくのだと、バプテスマのヨハネは教えたのです。この呼びかけには多くの人が賛同したと書かれています。多くの群衆がそのシャロームの教えを聞くために集まったのです。その中には徴税人や兵士たちもいました。いろいろな身分、職業の人が、シャロームの教えを聞いていたのです。

ヨハネは人々に「悔い改め」を呼び掛けました。当時の信仰者に求められた悔い改めとは、犠牲の献げ物や断食でした。しかしヨハネの求めた悔い改めはそうではありませんでした。だからこそ人々はそれぞれに聞きました。「私たちはどうすればよいでしょうか?」何をすればよいのか、どう生きてゆけばよいのかを聞いたのでしょう。私はこれからどうやって生きてゆけば良いのですか?と聞きました。人間の根源的な問いとも言えるでしょう。私はどう生きるべきなのかを聞いたのです。

群衆、徴税人、兵士それぞれが尋ねています。徴税人と兵士からみましょう。徴税人には必要以上に取り立てるなと言いました。彼らは納めるべき税金より多く集め、その差額を自分たちの収入・利益にしていました。だから民衆から嫌われていたのです。ヨハネは決まり以上に不正な取り立てしないように言いました。兵士たちにも同様です。市民から暴力でお金を取るようなことをしないように言いました。それぞれの場所で公正な、誠実な仕事をする様に教えたのです。

徴税人も兵士もおそらくどちらも組織の中では下っぱの存在です。徴税人の頭や百人隊長から命令されてお金を取り立て、ほとんどは頭や隊長に取られていきました。彼らも決して裕福ではなかったでしょう。彼らも裕福ではなかったけれども、不正な取り立てをしないようにと言われたのです。それはそれぞれに与えられた場所で不正をせず、誠実に働くことを求めたということです。神様にも隣人にも、誠実に生きるということが、悔い改めを訴えたヨハネの「どう生きてゆけばよいか」への答えだったのです。

群衆への答えも見ましょう。群衆には下着を2枚持っていたら、持っていない人に1枚手渡すようにと言います。注目するのは、この話の登場人物はみんな貧しいことが前提にあることです。徴税人も兵士も、民衆もみな貧しいのです。この群衆は着る物を2枚しか持っていません。たった2枚のうち1枚は、洗濯している時の着替えでした。それは自分にとって余っているものではありません。必要なものです。本来、人にあげることができないものです。

しかし、バプテスマのヨハネは2枚持っている下着を1枚、持っていない人に渡すように求めています。これは貧しい人は、より貧しい人の助けになるようにという教えです。それがシャロームの教えなのです。有り余っているものがあったら、もちろん分け合いましょう。でもそれだけではありません。たった2枚しかない、私も貧しい、私も必要、でもその中から分かち合うということです。無い袖は振れないのですが、無い袖の中から、分け合ってゆく、それがシャロームの教えです。有り余っている者はもちろんですが、貧しい者同士も分かちあうように教えているのです。

バプテスマのヨハネは「どう生きればよいか」と質問を受けて、それぞれ貧しい者も互いに分かち合って生きるようにと言いました。支え合って生きるようにと言いました。バプテスマのヨハネが伝えようとしたことは、神の前に誠実に生きることです。私たちは神の前で祈り、献げることと、隣人とも共に祈り、分かち合ってゆくことが求められたているのです。まさしくこの丸の様にシャロームを目指す、小さくても丸になってゆくことを目指す、そのような働きが、悔い改めた者には起こされるはずだと語ったのです。

今日の個所にはイエス様は登場しませんが、イエス様はこのあと、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けることになります。イエス様もこの群衆の一人だったかもしれません。バプテスマのヨハネのシャロームの教えに共感し、さらに活動を広げていったのです。イエス様は高い者を低くし、傷ついている人を訪ねました。そしてご自身から十字架へと向かわれたのです。シャロームの実現のために、この地上に来られ、十字架にかかられたのです。

私たちはどう生きればよいでしょうか。この問いは私たちの問いでもあります。私たちは今日もイエス様に尋ねます「私たちは、どうすればよいのですか」「私たちは、どう生きればよいのですか」と。今日の個所、そして様々な聖書の箇所にその答えが書いてあるのではないでしょうか。今私たちの生活は本当に苦しいです。どんどん物の値段が上がるけど、どんどん年金は下がります。まるで下着が2枚のような生活です。でも私たちは、できることをしたい。2枚のうち1枚を分かち合ってゆきたい。ヨハネはそれがシャロームのために、平和のために必要なのだと教えています。私たちはどう生きるべきでしょうか。それぞれが主に尋ねて歩んでゆきましょう。そしてこどもたちが高みに行くのではなく、シャロームの実現のために働く人となるように祈りましょう。お祈りいたします。

 

「シャロームの教え」ルカ3章1~14節

今日はこども祝福祈祷の時を持ちます。こどもたちの立身出世ではなく、平和を実現する者に育って欲しいと願って祈ります。平和は何より大切なことです。そして聖書の平和は戦争をしないという狭い意味ではありません。聖書の平和はヘブライ語で「シャローム」といいます。それはちょうどでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作に似ています。みんなが等しく満たされている状態です。

図にも示しましたが、現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所、低く押し込められている場所があります。そしてイエス様の十字架は低み、一番深い谷、悲しみの底にあります。シャロームとは歪んだ丸がもとの丸に戻るダイナミックな動きです。子どもたちにはぜひそのシャロームのために働く人になって欲しいと願います。

今日の聖書箇所でルカだけが強調しているのが5~6節です。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされるというのは、まさしくこの丸になる、シャロームに近づく動きを示しています。バプテスマのヨハネはシャロームの教えを広めていたとも言えるでしょう。この呼びかけには多くの人が賛同しました。そして人々はそれぞれ聞きました。「私たちはどうすればよいでしょうか?」ヨハネはそれぞれの場所で公正な、誠実な仕事をする様に教えました。神様にも隣人にも、誠実に生きるということが、ヨハネの「どう生きてゆけばよいか」への答えだったのです。

ヨハネは群衆に、下着を2枚持っていたら、持っていない人に1枚手渡すようにと言います。これは貧しい人も、より貧しい人の助けになるようにという教えです。私も貧しいし、私も必要、でもその中から分かち合うということです。バプテスマのヨハネは貧しい者も互いに分かち合い、支え合って生きるようにと言いました。この丸の様にシャロームを目指す、小さくても丸になってゆくことを目指す、そのような働きが、悔い改めた者には起こされるはずだと語ったのです。

そしてイエス様もこの群衆の一人だったかもしれません。イエス様は高い者を低くし、傷ついている人を訪ねました。そしてご自身から十字架へと向かわれたのです。シャロームの実現のために、この地上に来られ、十字架にかかられたのです。

私たちはどう生きればよいでしょうか。聖書にはその答えが書いてあるのではないでしょうか。今私たちの生活は本当に苦しいです。まるで下着が2枚のような生活です。そのような中で私たちはどう生きるべきでしょうか。それぞれが主に尋ねて歩んでゆきましょう。そしてこどもたちが高みに行くのではなく、シャロームの実現のために働く人となるように祈りましょう。お祈りします。

 

【全文】「すべての人を生かす神」ルカ20章27~40節

みなさん、おはようございます。今日、この召天者記念礼拝にようこそお集り下さいました。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声がするかもしれませんが、それもこの礼拝の一部として捧げています。私たちは今日特に、天に召された人を覚える礼拝を持っています。神様にこれまでの命を感謝し、そしてこれからの命に感謝をし、礼拝をしてゆきましょう。

この1年、教会では1月にお一人の教会員の方の葬儀が執り行われました。ご家族も、そして私たちも寂しい思いを持っています。彼は今頃、どう過ごしているでしょうか?今はきっと神様のもとで苦しみや不安、心配事の無い毎日を過ごしているはずです。私たちの社会にある、不安定や格差、争いや、差別がない世界にいるはずです。きっと平安な時を過ごしているでしょう。私たちも全員、すべての人がやがて神様のもとへ帰ります。そしてすべての人と再会する時が来ます。その日はいつかわかりません。私たちは今日という日を精一杯生きてゆきましょう。今日この礼拝を、この方々の死を覚えつつ、そして私たちがどう生きるかを考える時としてゆきましょう。

1年ぶり、久しぶりに教会に来られた方がいるでしょうか。教会も少しずつ変化しています。週報には礼拝出席人数の報告があります。以前は男〇名、女〇名と表記されていました。男性と女性に分ける集計にはどんな意味があったのでしょうか。男性が先で女性が後に表記されることにはどんな意味があったのだろうかと思います。社会でも男女に分けて物事を考えることから解放されつつあります。例えば学校はもう、男女別の名簿を使っていません。出席番号も男子が先で、女子が後ではありません。名前の順になっています。社会でも性別による役割分担を見直す動きが出ていますが、教会も同じです。教会はこれまでの、牧師やリーダーは男性がなるべきという考えから解放されて、女性の牧師も増えてきています。女性は男性のサポートをするという性別による役割分担を止めて、性別を超えてみんなで教会を作っていこうとしています。そのような中、平塚バプテスト教会では男女別の表記を止めて、大人とこどもに変更をしました。みんなでこどもを大切にする教会へと向かう、子どもがどれくらい来ているかを毎週確認できるように変えています。この教会の中でも、他の多くの教会の中でも、男女に分けて考えること、女性の位置づけ、ジェンダーが見直され、これまでの反省と新しい出発が求められています。

聖書には当時の時代背景から来る、女性蔑視の表現が多くあります。しかし同時に、当時常識だった男女差別を超える表現として、見直されている箇所もたくさんあります。例えば創世記のアダムとイブの物語です。聖書によれば神様は女性を助け手として創造されたとあります。長らくそれは、女性は男性の「ヘルパー」として創造したと扱われてきました。でも聖書をよく読めば、そうではありません。神様は男性と対等な「パートナー」として女性を創造しました。神様は、対等な人間、対等な性、対等な関係を創造したのです。

イエス様も同じです。今日の個所でイエス様は男女、あらゆる性別が対等に生きることを望まれています。イエス様は、何も不安のない場所、平安な場所とは、男女やあらゆる性が対等な場所だと言っています。それを今日の聖書の個所で、死というテーマから教えています。今日の聖書箇所、天に召された方を覚え、また私たちがどう生きるかを考えたいと思います。今日の聖書箇所を読みましょう。

 

 

今日の聖書箇所をお読みしましょう。昨年の召天者記念礼拝でも似た箇所からお話をさせて頂きました。命は天に召されてもなお神様のもとで続き、生きているのだという話をしました。今日は似た箇所ですが、去年とは少し違う視点で話をしようと思います。今日は夫に死なれた女性が夫の弟と結婚をするという話です。日本にも戦後このような夫の弟と結婚をするという習慣があったそうですが、ユダヤ教にも似た習慣がありました。夫が死ぬとその妻は、兄弟の家に嫁いだのです。これには女性の生活を守るという意味もありましたが、一番は「家」を守るということでした。夫の家系を守るために弟に嫁いだのです。日本の時代劇にもよくある光景ですが、女性の人生最大の役割は健康な男子の跡取りを産むことでした。サドカイ派はこのような社会情勢の中で、たとえ話を持ち出しています。サドカイ派とは貴族祭司ともいえます。権力とお金があって、民衆を見下していた宗教者です。イエス様をバカにして話しかけています。こんなたとえ話と質問を始めます。

ある女性がいました。男子を産むことがないまま、夫に先立たれてしまいました。この女性は夫の弟と結婚しますが、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。さらにこの女性は次の弟とも結婚し、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。このような結婚が7回続きました。サドカイ派は質問をします。みんな復活した時、あるいは天国で再会した時、この女性の夫は誰でしょうか?

サドカイ派は復活を信じないというグループでしたから、だから復活などないということが言いたいようです。復活を信じるかどうかは個人の自由ですが、それ以上に彼らには問題があります。それは女性に対しての差別です。これがたとえ架空の話だったとしても、あまりにひどい話です。この女性がどれほどの苦しみを感じていたか、サドカイ派はまったく想像していません。女性に負わされた、男子を産む、跡取りを産むという役割と負担、そして夫を亡くした悲しみ、それが7回繰り返される悲しみは、この話にはまったく出てきていません。サドカイ派の偉い祭司はそのような悲しみ、女性差別にまったく興味がありません。死んで復活したら、この女はだれのものか?と問います。サドカイ派は最後まで徹底して、男性中心主義で語り抜きます。21世紀に男女の平等に目が開かれている私たちは、このサドカイ派に驚き、がっかりします。そしてこれはいくら2000年前だったとしても、ひどいたとえ話です。

このたとえ話にイエス様はどのように答えるでしょうか。イエス様は「次の世ではめとることも、嫁ぐこともない」と答えます。次の世では女性がこの人と結婚、この人と結婚と、男性に振り回されて生きる必要はないということです。この女性は天使に等しい一人の大切な存在として、神の子として生きるのだということです。神様が約束している次の世、それは女性が男性に振り回されない世です。男を産め、男を助けろと言われない世です。そして次の世では、この人たちは天使に等しい、神の子だと言われています。地上での激しい差別と、生き抜くための苦労、負担、心配は次の世にはもうないということです。次の世では男も女もすべての性が、すべての不安や心配や痛みから解放されるということです。それが今日、召天者の方々に起きていることです。この方々もすべての不安から解放されて、いま天使に等しく、神の子とされているのです。

そしてもう一つ大切なことがあります。死んだら、天国に行ったら平等ですということだけを言っているのではありません。38節でイエス様は「神様は生きているものの神だ」言っています。死んでしまったら、苦しみはもうないということから、地上で生きる私たちがどう生きるのかということに目を向けさせます。

イエス様は言います。「すべての人は神によって生きている」。男も女もすべての性の人が、大人もこどもすべての人が、神様によって生きていると言っています。すべての人が神様から命を与えられており、その命に優劣はないということです。一人一人の命はみな天使、神の子と等しい命だということです。それが召天者にも、私たちにも与えられている命です。生きている者も、召天した者も、男も女もすべての性も、同じ命が与えられています。すべての人は神に与えられた命によって生きているのです。すべての命が天使の命、神の子の命です。

今の社会ではどうでしょうか。引き続き女性が男性に劣るものとして扱われることがあります。さまざまな差別や不安が多くあります。神様は生きている者の神様です。この地上でも、神様から与えられたすべての命が、天使や神の子の命として大切に扱われるように祈ります。そして神様によって与えられたこの命も、天に召されて平安の中にある命と同じように、大切に扱われてゆくことを願います。

イエス様はこのことを応えています。次の世には、もう女性がこのように扱われない、すべての命が天使、神の子のように大切に扱われ生きるのだ。そう語っています。早くその世が来るように願います。天に召された人はすでにそのような世におられるでしょう。そしてこの地上にも、そのようなすべての命が天使、神の子として大切にされることを願います。そこにいた別の学者はこう言いました39節「先生、立派な答えです」と。私もそう思います。立派なお答えです。

今日私たちは召天者を記念する礼拝に来ています。天に召された方たちがどうしているのか想像します。きっと不安もなく、苦しみもなく、心配事もありません。誰かにもののように扱われることなく、天使の様に、神の子の様にすごしているでしょう。だからこそ私たちは安心してこの皆さんを天へと送りだしています。

そして私はこの地上もそのような場所になることを願っています。すべての人が神のよって、生かされています。すべての人が神様に作られた、同じ命を持っています。神様はこの地上でも平和で平等な社会を望んでおられます。一人一人の命が天使、神の子のように大切にされることを望んでおられます。御心が天になるがごとく、地にもなりますようにと祈っておられます。召天者に与えられた平安が、地上の私たちにも与えられるように祈りましょう。お祈りします。

 

「すべての人を生かす神」ルカ20章27~40節

この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。ルカ福音書20章36節

 

今日は召天者記念礼拝です。天に召された方々は神様のもとで苦しみや不安、心配事の無い毎日、平安な時を過ごしているでしょう。

久しぶりに集われたご家族もいると思います。教会は少しずつ、男女に分けて物事を考えることから解放されています。聖書には当時の時代背景から来る、女性蔑視の表現が多くあります。しかし同時に、当時常識だった男女差別を超える表現として、見直されている箇所もたくさんあります。今日の個所でもイエス様は男女、あらゆる性別が対等に生きることを、死というテーマから教えています。

サドカイ派はたとえ話をします。当時、女性の人生最大の役割は健康な男子の跡取りを産むことでした。しかしこの女性は男子を産むことがないまま、夫に先立たれてしまいました。夫の弟と結婚しますが、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。このような結婚が7回続きました。サドカイ派は質問をします。みんな復活した時、この女性の夫は誰でしょうか?

復活を信じるかどうかは個人の自由ですが、このたとえ話が架空の話だったとしても、あまりにひどい話です。女性に負わされた、男子を産む、跡取りを産むという役割と負担、そして夫を亡くした悲しみ、それが7回繰り返される悲しみは、この話では想像すらされません。サドカイ派は最後まで徹底して、男性中心主義で語り抜きます。いくら2000年前だったとしても、ひどいたとえ話です。

このたとえ話にイエス様はどのように答えるでしょうか。イエス様は次の世では女性が男性に振り回されて生きる必要はないと言っています。女性も天使に等しい一人の大切な存在として、神の子として生きるのだということです。神様が約束している次の世、それは女性が男性に振り回されない世です。すべての性が不安や心配や痛みから解放されるということです。それが召天者の方々に起きていることです。この方々はすべての不安から解放されて神の子とされているのです。

そしてもう一つ大切なことがあります。私たちは生きている者も、召天した者も、男も女もすべての性も、神様から同じ命が与えられています。しかし今の社会ではどうでしょうか。さまざまな差別や不安が多くあります。神様は生きている者の神様です。この地上でも、神様から与えられたすべての命が、天使や神の子の命として大切に扱われるように祈ります。

今日私たちは天に召された方たちはきっと不安もなく、苦しみもなく、心配事もありません。誰かに物のように扱われることなく、天使の様に、神の子の様にすごしているでしょう。だからこそ私たちは安心してこの皆さんを天へと送りだしています。そして私はこの地上もそのような場所になることを願っています。神様は御心が天になるがごとく、地にもなりますようにと祈っておられます。召天者に与えられた平安が、地上の私たちにも与えられるように祈りましょう。

 

【全文】「神の光が私の中で輝く」ルカ11章33~44節

 

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝ができること感謝です。こどもたちの声と足音を聴きながら礼拝しましょう。

今日、新しい命がスタートをしました。ひとつの命が神様に従うという決心に導かれ、バプテスマを受けました。これはただ単に個人に起きたことではなく、私たちにとっても大きな喜びです。私も神様と共に生きる仲間を新しくいただいたことを、うれしく思います。信仰告白もいただきました。私には生きる資格なんてないのだと思ったとき、私はダメな人間だと思ったとき、神様はその人を離れませんでした。神様はその時にこそ、生きる力を与えて下さいました。神様はその人に、ずっと昔に語られた神様の言葉を思い出させました。「あなたは失ったものばかりではないはず。しっかりと自分の周りを見てみなさい。大切にするべき新しい家族がいるはず。」そう呼びかけられたのです。そしてその呼びかけは今も続いていると思います。もう一度周りを見渡してください。この教会の仲間も家族です。大切にしあえる家族です。共に主に従う者として、歩んでゆきましょう。その信仰はまだ小さな芽かもしれません。でもきっとこの仲間の中で大きく育ってゆくはずです。一緒に育ってゆきましょう。

今日、まかれた種が芽を出しました。まいても、まいても芽が出ない、そう思っていました。でも信仰の芽は、植物のようにすぐに芽を出すのではありませんでした。長い時間を経て芽が出たのです。私たちはそこにも大きな励ましをもらいました。今すぐに芽はでないけれども、いつか私の家族が、いつか私の友人が、いつかこの教会を訪ねた地域の人が、信仰の種が芽を出すのです。今日思います。私たちはやはりたくさんの種をまいてゆきましょう。芽の出そうな人にまくのでは足りません。とにかくまくのです。小さくてもいい、すぐに芽が出なくていいのです。たくさんまいてゆきましょう。

教会にどなたかをお誘いすると、よく言われることがあります。私なんかが行ってもいいのでしょうか?私なんか俗世間の人間で、立派なことを何もしていません。まじめに礼拝している方々の中に私なんかが居ていいのでしょうか?私はクリスチャンのような清い生活ではありません。それは、まるで自分を汚れた者だと思っているようです。イメージと中身にギャップがあると思いませんか。教会の内側と外側にギャップがある様に思います。私たちはそんな聖人のような生活をしているわけではありませんし、私は他の人以上に立派だと胸をはれるわけでもありません。それなのに、どうしてこんなイメージがついてしまったのか不思議です。クリスチャンは清い、汚れなきクリスチャン、そんなイメージを持たれていますが、もしかするとそのイメージはクリスチャン自身が造り出したものかもしれません。でも私たち大切にしたいことは、あれは清い、これは汚れていると別ける事ではありません。大切にしたいことは、汚れたものに近寄らないことではありません。

私たちが本当に大切にしたいことは、愛を持って行動することです。汚れているとか、清いとか、そのようなことを超えて、他者に愛を示してゆくことを大切にしたいのです。むしろ汚れていると言われる人、自分はダメな人間だと思っている人にこそ関わり、愛を示したいのです。清いか汚れているかではなく、そのような愛のある1週間がおくれるかどうか、それが私たちの問題です。

今日の信仰告白にもあったように、人が愛に接するとき、人の中にあった絶望は変えられてゆきます。神の愛に触れる時、絶望は希望や感謝に代わってゆくのです。イエス様もそのように人と関わられたお方だったのではないでしょうか。今日はそのことを見てゆきたいと思います。聖書を一緒に読みましょう。

 

 

ルカ11章33~44節までを読みました。今日の場面を見ると、イエス様は清い、汚れているという区別を超えていたお方だということが分かります。37節、今日はファリサイ派の人々と食事をしています。イエス様は罪人や汚れていると言われる人ともたくさん食事をしましたが、今日のように自分たちは清いという人たちとも食事をしました。そういう意味でも分け隔てのないお方です。

しかし38節イエス様は食事の場面で手を洗いませんでした。当時のユダヤでは、食事の前に手を洗わなければいけないという言い伝えがありました。食前に手を洗えという律法は、旧約聖書のどこにもありませんので、ただの言い伝えです。それは衛生上の問題でもありません。自分の身を清める、汚れを取り払うという意味で手を洗いました。日本のお寺にも「手水(ちょうず・てみず)」という似た習慣があります。食事の前には手と、お皿の内側と外側の汚れも取り払ってから食事をしたそうです。イエス様はそういう習慣を徹底する、ファリサイ派の祭司の人と食事をします。そういう人の中で食事をするのですから、周りに合わせて、ちゃちゃっと形式的に手を洗えばよかったのです。しかしイエス様はそれをしません。汚れをはらわずに、食事を始めてしまったのです。これにはみな驚いて、不思議に思いました。ファリサイ派の祭司はとにかくいろいろな物を清いか、汚れているか細かく言う人々でした。それは律法から考えられた言い伝えで、他の民族との違いとして大切にしていたのですが、でも時々行き過ぎがありました。

細かい言い伝えは、祭司ぐらいは守れたかもしれませんが、一般庶民は普段の生活ではそこまで徹底できませんし、細かすぎるものでした。一般庶民はファリサイ派から自分にはできないこと、わからないこと、細かなことで、あなたは汚れていると言われていました。どこがどうして汚れているのか、全く身に覚えのない人が、汚れていると言われていたのです。イエス様はそれは間違っていると感じていたのでしょう。だからあえて、清いと自負する人々の食事会で手を洗うことを拒んだのです。

イエス様はこの祭司たちを、知らない間に踏んづけた墓みたいな人ですねと譬えています。当時はお墓も触ると自分が汚れるものでした。触ると汚れ、汚れを取り払うためにまた手や全身を洗い清めなければならなかったのです。イエス様は祭司たちに、あなたはお墓みたいな人ですねと言っています。それは一般庶民に、汚れている、汚れていると言っているが、本当はそういうあなたが一番汚れているのではないか、あなたはまるで知らないうちに踏んづけたお墓みたいな人です。本人が気づかない、あるいはどうすることもできないことで、人を汚れていると言って周って、ひどいですねと言ったのです。それより大事なものあるのではないですかと言ったのです。「この墓野郎」ともう少し汚い言葉で言ったかもしれません。

イエス様は何が清いとか、何が汚れている、そのようなことを問題にしないお方です。汚れているものに触るな、汚れているものから離れろ、汚れているもの憎めと言いません。イエス様は汚れているといわれるものから遠ざかる方でもありません。むしろその中に向かってゆき、汚れてなどいない、あなたは清い、そう宣言される方でした。イエス様はそのように汚れていると言われている人と、ご自分の力を分かち合った方でした。

前半の33節を見ましょう。イエス様はともし火をみんなから見えるように置きなさいと言っています。これはあなたの内側にもっている光を大切にするようにということです。あなたの内側に光がありますか?と聞いているのではありません。あなたの中にはすでに光があるのです。そのすでにある光が消えそうになっていないか、暗くなっていないか調べなさいと言っています。あなたの内側にはすでに光があるということです。私なんか内側に光がないと思うあなたにも、しっかりと光があるのです。それは神様が命を創造した時にすべての人に与えて下さった光です。今は見えない時かもしれません。でもそれはただ少し隠れているだけです。神様はあなたの中には人々を照らす明かりがある。それをもっと輝かせてごらんといいます。あなたは汚れてなんかいない、すべての人がすでに清い、美しい光を持っている、そう言うのです。

そしてその光を他者が見えるように、輝かせなさいと言います。入って来る人に見えるようにしないとあります。そしてあなたが輝く時、あなたが輝きだすとき、きっと周囲の人の絶望は、希望や感謝に代わってゆくはずです。私たちは器の中身、私たちの中にある光、私たちが自分という器の中に持っている光を分かち合うことが大事です。汚れている、ダメな人間だ、そう周りから、偉い人からそう言われることがあるかもしれません。そして自分自身でさえそう思うことがあるかもしれません。でもそんなことありません。あなたの中には光があります。それがすこし隠れているだけです。もっと輝かせてください。そしてあなたの光を他者を照らすために使ってください。明るい暗い、清い汚れているその差別を生み出すための光ではありません。あなたの光が他者の光を生むように、汚れていると言われている人が尊厳を取り戻すために、私たちは輝いてゆきましょう。

今日のたとえ話でそれが促されています。清さと汚れを超えて、私たちには光がある。共に輝く。それが今日私たちに与えられたメッセージではないでしょうか。私たちの世界には差別と暴力があります。見えない、普段は表に出さない汚れの意識があります。自分はダメな人間だと思っている人がいます。それを私たちがいただいている神様の光で照らしてゆきましょう。私たちの内側にある光を、共に輝かせてゆきましょう。これからも神様の光を私たちの中で輝かせてゆきましょう。お祈りします。

 

「神の光が私の中で輝く」ルカ11章33~44節

だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。ルカ11章35節

 

今日、ひとつの命が神様に従うという決心に導かれ、バプテスマを受けました。神様はつらい時も離れていなかったという信仰告白もいただきました。まいても芽が出ないと感じていても、長い時間を経て芽が出るのです。私たちはそこに大きな励ましをもらいました。これからもたくさんの種をまいてゆきましょう。

私たちが大切にしたいことは、あれは清い、これは汚れていると別ける事ではなく、愛を持って行動することです。清さや汚れを超えて、他者に愛を示してゆくことを大切にしたいのです。人が神の愛に触れる時、絶望は希望や感謝に代わってゆきます。イエス様もそのように人と関わられたお方だったのではないでしょうか。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。

イエス様は清い、汚れているという分け隔ての無いお方です。祭司とも罪人とも食事をします。しかし汚れを取り払う習慣は拒否します。なぜなら一般庶民が祭司から、できないこと、わからないこと、細かなことで、汚れていると言われていたからです。イエス様はあえて、清いと自負する人々の食事会で清めを拒んだのです。

イエス様はこの祭司たちを、知らない間に踏んづけた墓みたいな人ですねと譬えています。本人が気づかない、あるいはどうすることもできないことで、人を汚れていると言って、ひどいですねと言ったのです。イエス様は何が清いとか、何が汚れている、そのようなことを問題にしないお方です。むしろその中に向かってゆき、汚れてなどいない、あなたは清い、そう宣言される方でした。そしてご自分の力を分かち合ったお方でした。

33節にはイエス様はともし火をみんなから見えるように置きなさいと言っています。これはあなたの内側にもっている光を大切にするようにということです。あなたの中にはすでに光があるのです。それは神様が命を創造した時にすべての人に与えて下さった光です。今はただ少し隠れているだけです。あなたは汚れてなんかいません。すべての人がすでに清い、美しい光を持っているのです。そしてその光を他者が見えるように、輝かせなさいと言います。私たちは器の中身、私たちの中にある光、私たちが自分という器の中に持っている光を分かち合うことが大事です。

汚れている、ダメな人間だ、そう周りから、そう言われることがあるかもしれません。でもそんなことありません。あなたの中には光があります。あなたの光を他者を照らすために使ってください。明るい暗い、清い汚れているといった差別を生み出すための光ではありません。清さと汚れを超えて、私たちには光があります。そのように共に輝く。それが今日私たちに与えられたメッセージではないでしょうか。

私たちの世界には差別と暴力があります。自分はダメな人間だと思っている人がいます。私たちがいただいている神様の光でそれを照らしてゆきましょう。私たちの内側にある光を、共に輝かせてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「苦しみを引き受ける神」ルカ23章35~43節

 みなさん、おはようございます。今日も共に集い礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしてゆきましょう。

今月は世界ということをテーマに宣教をしています。私たちの日本バプテスト連盟ではアフリカのルワンダに佐々木和之さんを派遣し、人々の和解を支援しています。ルワンダでは1995年に集団虐殺があり、80万人の人が殺されたといわれます。当時、同じ教会に通い、隣の家に住む人を、違う民族だと言う理由で殺す、そのような虐殺がルワンダ各地で起きました。虐殺によって人々の受けた傷、破壊された生活、憎しみはとても深い問題です。佐々木さんは時間をかけて、その和解のために働いています。現在は大学で平和学も教えていますが、学生たちの中にも多く、虐殺の被害者がいます。虐殺によって家族と生き別れになったまま、遺骨も見つからないという人がいます。多くの人が友人や家族を失い、様々な思いを残したまま学んでいます。今日はある時学生を対象に行われた、平和を教えるためのワークショップをご紹介します。

このワークショップでは学生たちは、家族を失った悲しみ、そのために引き起こされた困窮、加害者への怒りや憎しみを小さな紙に書いてゆきます。学生たちは何とか忘れようとして心にしまい込んではいるものの、癒されることなくずっと心に残っている一つ一つの傷に向き合い、それらを何とか言葉にするのです。それはとてもしんどいものです。そして自分の苦しみ悲しみを書き出した紙は、金槌を使って、釘で十字架に打ち付けてゆきます。祈りと賛美の後、この紙は焼かれて灰とされます。ワークショップでは、このようにして、悲しみや憎しみを主にゆだねてゆきます。これによって、他者を赦し、自分自身を赦し、平和へと導かれてゆくのです。

参加者の一人、エティエンさんを紹介します。彼は当時虐殺から逃れ、難民キャンプにいた学生です。しかしその難民キャンプも襲撃にあい、家族と離散してしまいます。その時まだ7歳だったそうです。彼はその襲撃の日以来、父親に会っていません。彼は、父親がいない苦しみと悲しみについて紙に書き、釘で十字架に打ち付けました。

学生のそれぞれが自分の中にある悲しみや、他者へのわだかまりを正直に、十字架に向けて言葉にしてゆきます。憎しも悲しみもわだかまりもすべて、十字架にぶつけてゆきます。それを通じて初めて他者や自分自身を赦すのです。これは世界の裏側の戦争、虐殺を体験した人の話です。しかし、私たちにも共通する点があるのではないでしょうか。私たちもそれぞれに様々なわだかまりや不満、憎しみ、悲しみがあります。

私たちにも赦しが与えられるためには、その思いを正直に十字架へと差し出してゆくことが必要なのではないでしょうか。憎しみも、悲しみも、後悔も、心配も十字架の前で言葉にし、差し出してゆくこと、主にゆだねてゆくこと、それが和解と赦し、新しい歩みにつながってゆくのではないでしょうか。今日の聖書からもそれを見たいと思います。

 

 

今日はルカによる福音書23章35~43節です。ここの箇所は十字架について、4つの立場が書かれています。ひとつ目の立場は民衆です。民衆は、一度はイエス様にホサナと熱狂しますが、この場面ではどうすることもできず、無言で、黙って、突っ立って見ています。十字架の前に何もできないという立場です。二つ目は指導者の立場です。彼らはあざ笑ったとあります。他者の苦しみを見下し、笑いにする立場です。三つめは兵士の立場です。彼らも、酸い葡萄酒を飲ますという、苦しむ人にさらに追い打ちをかけるような行為をするという立場です。そしてもう一つ、四つ目の立場は犯罪人の立場です。彼ら犯罪人は、イエス様と同じように十字架につけられているという立場です。今日はこの十字架の場面を、犯罪人の視点で読みたいと思います。

39節には犯罪人とありますが、具体的にどのような罪を犯したのかははっきりとしません。他の福音書では強盗とありますが、単なる強盗では十字架刑にまでなりません。十字架刑にまでなるのは奴隷で重大な犯罪を犯した者か、あるいは政治的な反乱者でした。おそらくここで犯罪人とされているのは、政治的な反乱を起こそうとした人だったのではと考えられます。この犯罪人とは政治的理由で十字架に架けられているのです。33節にはその十字架はイエス様の十字架の右と左にあったとあります。イエス様は罪人として二人の犯罪人の間に挟まれています。これは屈辱の様ですが、彼の生涯をよく表しているものだと思います。イエス様の歩みは罪人と言われる人の間にいる歩みだったからです。罪人と食事し、罪人を癒し、罪人を助けました。二つの十字架に挟まれた姿は、イエス様の歩みが最初から最後まで罪人とされる人と共に、苦しむ人と共に歩んだということが表れています。

十字架に架けられた二人は、2種類の罪人だったと言えるでしょう。一人は悔い改める罪人です。自分の人生の最期にあって、自分の非、自分の罪を認め、神の前に赦しを乞いました。彼は私たち信仰者のモデルとされてきたでしょうか。私たちも罪人としてイエス様の前で悔い改めよう、そのようにこの個所を受け取ってきました。一方、同じ十字架にかかりながら、最期までイエス様を侮辱した罪人がいました。彼は悔い改めないかたくなな人間です。最期の最期まで信仰を持たなかった愚かな人間と評価されてきたでしょうか。でもどうでしょうか。私はルワンダでの佐々木さんのワークショップの話を聞くと、この人が悔い改めなかった罪人だったという思いは変えられます。私はこの罪人が痛み、苦しみを十字架のイエス様に正直にぶつけた人として見えてきます。

十字架刑はなるべく長く苦痛を感じさせ、人々にさらされながら死んでゆく死刑の方法でした。苦痛は体だけではなく、心も深い傷を与えたはずです。苦しみ、怒り、悲しみ、憎しみ、十字架に架けられた者には様々な感情が起ったはずです。

十字架に架けられた彼はそんな時、自分の痛み、心の深い傷、魂の傷をイエス様に向けて、隠すことなく、正直に言葉にしました。イエス様の十字架に向けて、自分の思いのたけを叫んだのです。なぜ神がいるのに、救われない人がいるのか。なぜ私は救われないのか。キリストなら自分と私を救ってくれ。そのように叫んだのです。これは不信仰な侮辱の言葉でしょうか。私はルワンダで和解を目指し、苦しみや憎しみわだかまりに向き合い、言葉にし、十字架に差し出してゆく人々を思い出します。彼らはそうすることによって、持っていく場所のない思いを、神様にぶつけ、赦しへと導かれてゆきました。偽りのない、魂の叫びをイエス様にぶつけることができたのです。十字架に架けられた彼が、思いをぶつけた相手は、自分が受けている十字架の苦しみを誰よりも知っている人でした。一緒に苦しむお方でした。彼は自分の気持ちを、誰よりも知っている人に、自分の正直な思いをぶつけることができたのです。周りの人間は、自分が苦しいときに神を呪ってどうすると言います。もともとそれは自分の責任で、しょうがない事だろと言います。まるで自己責任です。イエス様はその苦しみの言葉に対してどうしたでしょうか。イエス様はその言葉を遮りません。イエス様は苦しみの言葉も、悔い改めの言葉もそのまま受け止めているのです。

イエス様は43節「今日、あなたは私と共に楽園にいる」と言います。当然、悔い改めた人に対して、私と一緒に楽園にいると答えたのでしょう。しかし実は、聖書にはこの言葉、誰に答えたのか、相手が明確に書いてありません。聖書にはただ彼に言ったとだけ書いてあります。誰に答えたのでしょうか。文脈からすれば当然、悔い改めた者と楽園にいると答えているように見えます。しかしイエス様を罵り、自分の苦しみを全部ぶつけたあの罪人が「あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた可能性もあります。悔い改めた者が楽園へ、そうでない者は地獄に行ったと考えたくありません。私はどちらもその日イエス様と楽園に行ったのではないかと思いたいのです。イエス様は、十字架に苦しみをぶつけるその言葉も、信仰の告白として受け取ってくださったのではないでしょうか。

イエス様はこのように、すべての苦しみを引き受けて下さるお方です。私たちの偽りのない苦しみや憎しみの言葉を十字架に差し出すとき、それを引き受けてくださるお方です。そしてイエス様の苦しみを十字架にぶつけた者に、楽園を、神様の愛の下にあることを約束して下さったのです。

イエス様は楽園にいるのは「今日」だとおっしゃいます。神様の愛の下にいるのは今日なのだと言っています。いつか必ずではありません。今日です。これも大きな希望です。あなたが悔い改める今日、あなたが苦しみを十字架に吐き出す今日、あなたは楽園にいる、あなたはイエス様の愛の下にいるということです。

私たちは今日、イエス様とともに十字架にかかる者として自分の身をおきたいと思います。そしてイエスの前に悔い改めてゆきたいと思います。そして十字架に苦しみ、悲しみ、憎しみ、すべての思いを言葉にして、すべてぶつけてゆきたいのです。その間にイエス様の十字架があります。そこに苦しみを知り、引き受け、愛の下にいる約束をしてくださる十字架のイエス様がいます。私たちも今日、それぞれの思いを正直に十字架へと向けてゆきましょう。今日、神の愛の下、楽園にいる約束がされています。お祈りをいたします。

 

「苦しみを引き受ける神」ルカ23章35~43節

 

イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。                       ルカ23章43節

 

アフリカ・ルワンダでは1995年に集団虐殺があり、多くの人が殺されました。私たち日本バプテスト連盟では佐々木和之さんを派遣し、人々の和解を支援しています。ある時に佐々木さんが行った平和を教えるためのワークショップをご紹介します。このワークショップでは参加者は家族を失った悲しみや傷に向き合い、それらを小さな紙に書きだしてゆきます。そしてその紙を釘で十字架に打ち付け、祈りと賛美の後、焼いて、灰としてゆきます。このようにして、悲しみや憎しみを主にゆだね、他者を赦し、自分自身を赦し、平和へと導かれてゆきます。このような赦しは私たちにも共通する点があるのではないでしょうか。私たちにも赦しが与えるためには、その思いを正直に、十字架へと差し出してゆくことが必要なのではないでしょうか。今日の聖書からもそれを見たいと思います。

イエス様と共に十字架に架けられた二人は、一人は悔い改める罪人、もう一人は最期までイエス様を侮辱した罪人です。後者は最期の最期まで信仰を持たなかった愚かな人間と評価されてきたでしょうか。私はルワンダでの佐々木さんのワークショップの話を聞くと、この罪人が痛み、苦しみを十字架のイエス様に正直にぶつけた人として見えてきます。十字架に架けられた彼は自分の痛み、魂の傷をイエス様に向けて、隠すことなく正直に言葉にしました。自分の思いのたけを叫んだのです。彼はそうすることによって、持っていく場所のない思いを神様にぶつけ、赦しへと導かれていったはずです。

イエス様は43節「今日、あなたは私と共に楽園にいる」と言います。この個所は実は、誰に向けて答えたのか、相手は明確に書かれてありません。聖書はイエス様を罵り、自分の苦しみを正直にぶつけたあの罪人が「あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた可能性にも開かれています。イエス様は、十字架に苦しみをぶつける言葉も、信仰の告白として受け取ってくださったのではないでしょうか。

イエス様はこのように、私たちの偽りのない苦しみや憎しみの言葉をすべて引き受けて下さるお方です。イエス様は苦しみを十字架にぶつけた者に、楽園、神様の愛の下にあることを約束して下さったのです。

イエス様は楽園にいるは「今日」だとおっしゃいます。いつかではありません。今日です。あなたが苦しみを十字架に吐き出す今日、あなたは楽園にいる、あなたはイエス様の愛の下にいるということです。私たちは今日、十字架に苦しみ、悲しみ、憎しみ、すべての思いを言葉にしてぶつけてゆきたいのです。私たちには苦しみをよく知り、引き受け、愛の下にいる約束をしてくださる十字架のイエス様がいます。私たちも今日、その神の愛の下で、楽園にいる約束がされています。私たちも今日、その思いを正直に十字架へと向けてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「収穫感謝礼拝」ルカ12章13~21節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。今日から半年間、ルカ福音書を読みたいと思います。そして今日は収穫感謝礼拝です。収穫感謝礼拝の直接の起源は諸説あるようですが、メイフラワー号にあると紹介されることが多いでしょう。

1621年イギリスのクリスチャン、ピューリタン(清教徒)というグループが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカに渡りました。新しいグループはイギリスでの迫害を逃れるために、信教の自由を得るために、新天地アメリカに渡ったのです。しかし船がアメリカに到着したのは冬でした。人々は新天地でまず、厳しい冬を乗り越えることから始めなければなりませんでした。

メイフラワー号の人々はこの危機を先住民からの援助によって乗り切ることができました。先住民からトウモロコシの種をもらい、栽培方法を教わり、魚や貝の取り方を教わったそうです。アメリカで生きる知恵をすべて先住民から教えてもらったのです。そして翌年の秋には、たくさんの収穫をすることができました。メイフラワー号の人たちはお祭りをすることにしました。収穫を先住民と一緒に喜び、分かち合おうと考えたのです。先住民の人々も食事を持ち寄りました。皆で七面鳥を食べ、ゲームをしたそうです。私たちの持ち寄り愛餐会に似ています。助けてくれた先住民に感謝する時、そしてもちろんメイフラワー号の人々にとっては神様が与えて下さった新天地・恵みに感謝をする時でした。これが収穫感謝の起源です。

しかし、もうひとつ確認しておきたい事実があります。その後どうなったかということです。キリスト教の新天地を求めたクリスチャンたちは、どんどんアメリカに来て入植してゆきます。最初は100人だったのが、1000人、2000人と人が増えてゆきました。彼らにはより広い土地が必要になります。彼らはどうしたでしょうか。彼らは助けてくれたはずの先住民を追いやっていったのです。先住民の土地を奪い、強い武器で追い払い、殺してしまったのです。そして多くの先住民を捕まえ、奴隷として、売りさばいていったのです。先住民と分かち合う、助け合うという関係はすぐに終わってしまいました。入植したクリスチャンは、先住民の命を売り買いする対象としてしまったのです。

収穫感謝は実りを感謝する時として残っています。ただし先住民の分かち合いは忘れられてしまっています。私たちは400年前のクリスチャンが、助けてくれた先住民から土地を奪い、命を奪った歴史も忘れないでいたいのです。クリスチャンは分かち合ってくれたはずの人から奪い、奴隷としました。富や土地を『私の』ものだと独占し、そこにあった命さえも『私の』所有物として扱ったのです。私たちは収穫感謝の時、このことも忘れないでいたいと思います。

私たちはすべての恵みは神様から来たと感謝します。そしてそれを分かち合います。そして、お互いの命は神様が与えた下さったものだということ、どんなことがあっても命は人間が好き勝手にしてはいけないということを確認したいのです。神様に感謝すること、互いの命を感謝し大切にすること、分かち合うこと、それを収穫感謝礼拝の時に覚えたいのです。この教会では今日、収穫感謝礼拝を持つこととしました。今日は世界食料デーです。恵みに感謝し、世界と分かち合いたいという願いを込めてこの礼拝を持ちたいのです。

現代の世界に目を向けると飢餓が広がっています。特にこの2年、世界の食糧不足は深刻です。原因はコロナや紛争や気候変動によるものです。そして不平等も大きな原因です。先進国は途上国から多くの作物を輸入していますが、途上国では食べる物が足りません。この世界は分配がうまくいっていない世界です。分かち合いができていない世界です。感謝して分かち合うことができる、そんな世界を目指してゆきたいと願いますし、私たちの教会も子ども食堂やフードバンクの応援も、これに貢献をしていると思います。神様は私たちに分かち合うことを求めています。神様は、食べ物は神様からいただいたものとして分かち合う様に、そして互いの命も神様からいただいたものとして大切にするように教えています。今日の聖書の個所もそのことを言っていると思います。今日の聖書の個所を読みましょう。

 

 

今日はルカ福音書12章13~21節までを読みました。遺産相続の話から始まります。遺産問題が、きょうだいの仲を引き裂きます。この男は、自分の取り分が不満でした。『私の』配分が少ないと言ったのです。配分が不平等だったのでしょうか?それとももっと欲しいという欲望だったのでしょうか。いずれにしてもお金持ちの世界の話です。イエス様は「そんなことは知らない」と関わろうとしません。

そしてイエス様は豊作だった畑のたとえ話を始めます。これはもともと金持ちだった人の畑が、さらに豊作だったというたとえ話です。ひとくちに豊作といっても、豊作には様々な条件があります。一番は天候に恵まれることです。そしてたくさんの収穫のためには、たくさんの人手が必要です。要作はたくさんの労働者によって支えられました。種をまく人、雑草をむしる人、収穫する人、脱穀する人、蔵に入れる人、市場にもっていく人、いろいろな人が関わって初めて豊作になるのです。いろいろな人が協力した流れの中で初めて豊作となります。この物の流れをサプライチェーンと呼びます。

しかしこの金持ちの考えたことは卑劣です。この豊作において協力者のことを一切考えていません。「どうしよう、これ以上ため込めない。そうだ、蔵を大きくしよう」と考えました。彼が考えなかったこと、それは分かち合う事でした。この個所の日本語訳には『私の』という所有をあらわす言葉が省略されていることを見つけました。おそらく『私の』という言葉が繰り返されていることが、文章としてくどくて、削除されたのでしょう。でもここにはしつこく『私の』と書いてあるのです。17節「どうしよう。『私の』作物をしまっておく場所がない。18節「こうしよう。『私の』倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに『私の』穀物や財産をみなしまい、 19節『私の』魂に言ってやるのだ…。『私の』作物、『私の』蔵、『私の』穀物、『私の』財産、『私の』魂、自分、自分、自分。この金持ちは豊作の恵みをすべての『私の』ものだとして独占しました。彼は神様に感謝の献金をすることもなかったし、分かち合おうなど考えもしませんでした。ただ自分、自分、自分、金、金、金です。

イエス様はそこで言います。今日あなたは死ぬ、そうしたらそれは誰のものになるのかと問います。イエス様は財産は天国に持っていけないという以上の事を言っていると思います。それは元々、誰のものだったのかと問うているのです。

イエス様は、それはあなただけのものではなかったはずだと言っています。一緒に手伝ってくれた人、支えてくれた人、関わった人、励ましてくれた人、たくさんいたでしょう。感謝してる?分かち合ってる?雑草むしってくれた人、お腹すかしてない??収穫してくれた人お腹いっぱいになっている?あなたの蔵にしまったもの、本当はそれ、みんなのものなんじゃないの?あなたが死んだらそうなるの?きっとみんなそれを分け合うんじゃない?そう問いかけています。イエス様は、自分のために富を積んでもしょうがないよ。神様の前に一緒に豊かになろうと言っています。それが21節、神様の前に豊かということだよと言っているのです。それが収穫に感謝するということだよと言っているのです。

15節には「人の命は財産によってどうすることもできない」とあります。本当でしょうか。この言葉にも関わらず奴隷売買は長く続きました。人が人の命を売り買いしました。しかし本来、人は人を買う事はできません。奴隷にしてはいけないのです。これはお金を払えば、命を好き勝手にしてよいという発想です。お金払ったら何してもよいという発想です。神様は人の自由と尊厳を奪うことを許しません。

22節以降は思い悩むなと続きます。この個所も今日の流れから考えると、質素倹約を勧めている話ではありません。自分の分ばかりに思い悩んでいないか?この金持ちと同じように『私の』食べもの、『私の』着るもの、自分、自分、自分になっていないかが問われているのです。神への感謝、仲間への感謝があるかどうかが問われているのです。

もう一度、世界に目を向けます。私たちは本当に世界と分かち合うことができているでしょうか。そしてそれは収穫に感謝しているでしょうか、という問いに言い換えることができると思います。神様に感謝しているでしょうか?そしてサプライチェーンの人々が豊かになっているでしょうか?

今日は収穫感謝礼拝です。私たちはこの手にあるものが、すべて神様からいただいた恵みであることに感謝しましょう。そしてこの手にあるものは多くの人の支えによってあることに感謝しましょう。だからこそ、それを神様に献げ、仲間と世界とそれを分かち合ってゆきましょう。神様の前で世界が共に豊かになってゆきましょう。神様は私たちに収穫に感謝するように教えています。神様が与えて下さった恵み、それを『私の』ものだと蔵にいれるのではなく、神様に感謝し、仲間と分かち合ってゆきましょう。それが神様に収穫を感謝するということではないでしょうか。それが収穫感謝礼拝ではないでしょうか。お祈りします。

 

「収穫感謝礼拝」ルカ12章13~21節

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。 ルカ12章15節

 

今日は収穫感謝礼拝です。1621年イギリスのピューリタン(清教徒)が、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡りました。彼らは新天地での厳しい冬を、先住民からの援助と、教えてもらった知恵で生き抜きました。そして翌年の秋、その収穫を神様に感謝しつつ、先住民と一緒に喜び、分かち合ったことが収穫感謝の起源です。

しかしその後、入植者たちはより広い土地を必要とします。彼らは先住民の土地を奪い、殺し、奴隷としました。私たちは400年前のクリスチャンが、助けてくれた先住民から土地を奪い、命を奪った歴史も忘れないでいたいのです。

私たちはすべての恵みは神様から来たと感謝します。そしてそれを分かち合います。そしてどんなことがあっても命は人間が好き勝手にしてはいけません。神様に感謝すること、互いの命を感謝し大切にすること、分かち合うこと、それを収穫感謝礼拝の時に覚えたいのです。今日の聖書の個所もそのことを言っていると思います。

今日の聖書の箇所でイエス様は、もともと金持ちだった人の畑が、さらに豊作だったというたとえ話をしています。ひとくちに豊作といっても、いろいろな人が協力して、初めて豊作となります。サプライチェーンです。しかしこの金持ちは協力者のことを一切考えていません。17節からは『私の』作物、『私の』蔵、『私の』穀物、『私の』財産、『私の』魂とあります。自分、自分、自分の発想です。この金持ちは豊作の恵みをすべての『私の』ものだとして独占しました。

そこでイエス様は、今日あなたは死ぬ、そうしたらそれは誰のものになるのかと問います。イエス様は、それは元々誰のものだったのかと問うているのです。イエス様は一緒に手伝ってくれた人、支えてくれた人、励ましてくれた人に感謝してる?分かち合ってる?あなたの蔵にしまったもの、本当はそれ、みんなのものなんじゃないの?あなたが死んだらどうなるの?きっとみんなそれを分け合うんじゃない?そう問いかけています。自分のために富を積んでもしょうがないよ。神様の前に一緒に豊かになろうと言っています。それが21節、神様の前に豊かということ、それが収穫に感謝するということだよと言っているのです。

22節以降は思い悩むなと続きます。この個所も自分の事ばかりに思い悩んでいないか?自分、自分、自分になっていないかが問われているのです。神への感謝、仲間への感謝があるかどうかが問われているのです。

今日は収穫感謝礼拝です。私たちはこの手にあるものが、すべて神様からいただいた恵みであることに感謝しましょう。そしてこの手にあるものは多くの人の支えによってあることに感謝しましょう。だからこそ、それを神様に献げ、仲間と世界とそれを分かち合ってゆきましょう。神様の前で世界が共に豊かになってゆきましょう。それが神様に収穫を感謝するということではないでしょうか。それが収穫感謝礼拝ではないでしょうか。お祈りいたします。

 

11月3日13時~バザー開催のお知らせ

 

 

 

 

 

 

 

 

今年もバザーを開催することになりました。どなたでもご参加いただけるイベントです。ぜひお越しください。掘り出し物があるかもしれません!

 

※今回は在庫一掃のため何でも50円均一です

※こどもも中庭で楽しく遊べる駄菓子屋さんもあります!

※当日、車の駐車はできません、お車でのお越しはご遠慮ください。

※転売目的でのご利用はお断りします。

 

【全文】「世界の先にいる神」マルコ14章27~31節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声を聴きながら礼拝をしましょう。今月は世界・環境ということテーマに聖書を読んでゆきたいと思っています。先週は世界と共に、主の晩餐を持つことを見てきました。今週も世界に目を向けて聖書を読んでゆきましょう。

今の世界に目を向けると何が見えてくるでしょうか?私には世界が相変わらず戦争を繰り返しているのが見えてきます。第二次世界大戦で平和の尊さを知ったのはずの世界は、今もまた再び戦争を繰り返しています。さらに、核兵器の恐ろしさを知っている世界が、再びそれを使おうとしています。人類は広島・長崎に続き三度目の過ちを繰り返そうとしています。

私たち人類は平和をどこまで貫くことができるのでしょうか。私たちはいつまで核兵器を使わずにいることができるでしょうか。きっと人間はいつかそれを使ってしまうのでしょうか。戦争をすること、それこそがまさしく「私はイエスなど知らない」と言い表すことだと思います。私には繰り返される戦争が「私はイエスなど知らない」と告白しているよう思えます。広島・長崎のきのこ雲の写真は、私には「私はイエスなど知らない」と言っているように聞こえるのです。ロシアとウクライナが戦っているのを見て「私はイエスなど知らない」と言っているのが聞こえます。

これから先、世界はどうなってゆくのでしょうか。戦争への不安や経済的な不安がますます強くなってきています。先の見通せない世界になってきています。世界はこれからさらに「私はイエスなど知らない」「神などいない」そんな世界になってゆくのでしょうか。

私たちはこの世界で一体何に、どこに希望を持てばよいのでしょうか。こんな世界で希望をいただくためにこそ、今日も聖書を読みましょう。私たちは「イエスなど知らない」と言う者ではなく。イエス様を知る者となってゆきましょう。そこからきっと希望が見えてくる、私たちはそう信じて集っています。こんな世界でも私たちに必ず希望を与えてくださるのがイエス様です。今日も一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日はマルコ14章27節~31節までを読みしました。27節には「つまずく」という言葉があります。つまずくとは、人生につまずく、教会につまずく、人につまずくといった様に使われます。小さな出来事に対して、全体が倒れてしまう、倒れそうになってしまうことを「つまずく」と言います。

しかし、この言葉、もともとはおっとっとと足がもつれる程度の意味ではないようです。聖書の言葉、ギリシャ語では動物の罠を仕掛ける際に使う棒から生まれた言葉です。それは罠にかかる、生死にかかわる危機が訪れることを意味します。つまずくどころではありません。絶望する、挫折するという意味です。人生を左右する、生死を左右する大きな失敗があなたに訪れるという意味です。イエス様はその危機が自分に従う最中に起ると予告をしました。あなた方には、信仰の危機が訪れるだろう、失敗し、絶望するだろう。羊が散っていくように、あなたがたはバラバラになってしまうだろうと言ったのです。

するとペテロは言います。29節「たとえ、みんながつまずいたとしても、わたしはつまずきません」。それに対してイエス様はまた言います。30節「あなたは今日、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。あなたは繰り返し失敗するだろうと言うのです。イエス様は人の弱さ、人の決心の弱さを知っておられます。ペテロはそれでも31節でこう答えます。「死んでも、あなたを知らないなどとは決して申しません」。そして周りの皆も言ったとあります「決して知らないなどとは言わない」と。

ペテロの反応を見てみると「私は大丈夫、私は強い」と言っています。たとえ他の人がだめでも、私は大丈夫だと言っています。ペテロは周囲の弱さに引き合いに出して、自分の強さを強調しようとします。私は大丈夫、私は他とは違います、私はちゃんとした信仰を持っていますと、区別をしたのです。そしてたとえ死の恐怖が迫っても私は大丈夫だと言います。死も怖くないと言うのです。

このような信仰は一番危険な信仰と言わなければならないでしょう。自分は大丈夫、そして私は他の人と比べて信仰が強い、ちゃんとした信仰を持っている、どんな危機にも打ち勝つことができる、そのような信仰はとても危険です。本当の信仰の強さは、弱さの中にあります。私の信仰は強いと思うことが、つまずき、危機を招きます。イエス様は自分の強さを主張するペテロに「お前が一番弱い」「これから3回私を知らないと言う」と言います。

聖書はいつもペテロを弟子の代表として描きます。人間の代表として描きます。ペテロを人間全体として見る時、どんなことが見えてくるでしょうか。ペテロは危機が訪れた時、三度「イエスなど知らない」と言いました。呪いの言葉さえ口にしながら言いました。自分の身に危険が迫ると、いとも簡単にその言葉を翻してしまったのです。

人間の決心は、このように弱く、もろいものです。決してそうしたいと思っているわけではなくても、裏切ってしまうのです。そんなこと誰も願っていないことだとわかっていても、人間はそれを選んでしまうのです。自分を守るためには仕方なかったと言いながら、それを選んでしまうのです。

イエス様は人間の弱さをよくご存じです。今は決心が固くても、危機が訪れる時、裏切ってしまう、逃げ出してしまう人間の弱さをよくご存じです。私たちも自分たちの弱さ、人間の弱さ、この世界の弱さをよく知る者となりましょう。

そして、こんな私たちには、こんな私たちの世界には、どこに希望があるでしょうか。私たちはイエス様から希望をいただきましょう。イエス様が私たちに下さる希望は28節「私は復活した後、あなたがたより先に先にガリラヤへ行く」という言葉です。

イエス様あなた方は裏切ってしまうという失敗の予告よりも先に大切なことを伝えました。28節「あなた方より先にガリラヤに行く」ということです。イエス様は人間には失敗と絶望が必ず起こるけれども、その後に必ず立ち上がり、再会をできると約束をしておられます。つらい事がある、不本意なことがある、でもそこで失望することはない、その先に私は待っているとおっしゃっているのです。それが私たちの希望です。イエス様の「ガリラヤに先に行っている」それは、あなたが私を裏切り、すべてに失望した先にもなお、あなたと共にいるという意味です。神は私たちと共にいる神であり、神は私たちの先にいる神なのです。

人間には失敗があります。これ以上の戦争を起こさないと繰り返し誓ってきました。もう繰り返さないというのが私たちの決意です。しかし戦争は繰り返されてきてしまいました。それはまるで「イエスなど知らない」と言っているかのようです。

しかしそのような私たちの先にさえ、イエス様は待っていて下さいます。裏切り、逃げ出した者にも、イエス様との出会いが約束されているのです。そこに希望があるのです。私たちは繰り返し失敗をするかもしれない。したくない。でもその先にもイエス様は待っておられます。私たちは復活のイエス様と出会い、もう一度新たに生きる者となってゆくのです。そして弟子たちだけではなく、イエス様ご自身も苦難を超えたお方です。十字架と死を超えて、復活し、そこで待っているのです。どんな失敗も、絶望も、死も、それで終わりではないことが復活によって示されています。

この個所は希望が二重に示されている箇所と言えるでしょう。弟子にとってもイエス様を裏切ったことが終わりではなく、イエス様と再会できる、待っているという希望があります。そしてイエス様自身も死で終わるのではいという希望があります。イエス様にとっても、弟子にとっても失望で終わらないのです。

いま私たちの世界は戦争が起り、暗い世界です。失敗と絶望が続く世界です。神を裏切り、「イエスなど知らない」と繰り返し表している世界です。でも聖書は言います。これで終わりではない。私たちの行く先には必ず希望がある、復活のイエス様がおられるのです。この世界の先に、神様は待っておられるのです。その方に出会う時、私たちはもう一度、新しい命をいただくことができるのです。今日、その希望をいただきましょう。

世界の中にいる、私たち一人一人の生活、一週間についても、同じことが言えるでしょうか。私たちの1週間も失敗し、「イエスなど知らない」と言ってしまう一週間でしょう。病や痛み、苦難がある1週間でしょう。できればそれは避けたいものです。でもたとえそれができなかった時も、神様はその先に待っておられます。今日私たちも、その約束をいただいています。私たちはそれぞれの一週間で「私はイエス様を知っている」そのような証しとなる歩みをしましょう。そしてまた来週も礼拝に集いましょう。

 

今日までマルコ福音書を1年間読んできましたが、すべての個所で神の愛を読むことができたでしょう。今日で最後となります。でももちろん、この先にも物語は続き、この先にもイエス様がおられます。これからも先を歩まれるイエス様に向かって、共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

「世界の先にいる神」マルコ14章27~31節

しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。

マルコ14章28節

 

今月は世界・環境ということテーマに聖書を読んでいます。今の世界に目を向けると相変わらず戦争を繰り返しています。核兵器の恐ろしさを知っている世界・人類は広島・長崎に続き三度目の過ちを繰り返そうとしています。戦争をすること、それこそがまさしく「私はイエスなど知らない」と言い表すことだと思います。広島・長崎のきのこ雲の写真を見て、ロシアとウクライナが戦っているのを見て「私はイエスなど知らない」と言っているのが聞こえます。

これから先、世界はどうなってゆくのでしょうか。先の見通せない世界になってきています。世界はこれからさらに「私はイエスなど知らない」そんな世界になってゆくのでしょうか。私たちはこの世界で一体何に、どこに希望を持てばよいのでしょうか。こんな世界で希望をいただくためにこそ、今日も聖書を読みましょう。

29節と31節でペテロは、私は大丈夫、私は他とは違います、私はちゃんとした信仰を持っていますと言います。このような信仰は一番危険な信仰です。結局ペテロは危機が訪れた時、三度「イエスなど知らない」と言います。人間の決心は、このように弱く、もろいものです。イエス様は人間の弱さをよくご存じです。こんな私たちには、こんな私たちの世界には、どこに希望があるでしょうか。

イエス様が私たちに下さる希望は28節「私は復活した後、あなたがたより先に先にガリラヤへ行く」という言葉です。イエス様は人間には失敗と絶望が必ず起こるけれども、その後に必ず立ち上がり、再会をできると約束をしておられます。つらい事がある、不本意なことがある、でもそこで失望することはない、その先に私は待っているとおっしゃっているのです。それが私たちの希望です。

イエス様の「ガリラヤに先に行っている」それは、あなたが私を裏切り、すべてに失望した先にもなお、あなたと共にいるという意味です。神は私たちと共にいる神であり、神は私たちの先にいる神なのです。

いま私たちの世界は戦争が起り、暗い世界です。失敗と絶望が続く世界です。神を裏切り、「イエスなど知らない」と繰り返し表している世界です。でも聖書は言います。これで終わりではない。私たちの行く先には必ず希望がある、復活のイエス様がこの先におられるのです。この世界の先に、神様は待っておられるのです。

世界の中にいる、私たち一人一人の一週間についても、同じことが言えるでしょうか。私たちの1週間も失敗し、「イエスなど知らない」と言ってしまう一週間でしょう。病や痛み、苦難がある1週間でしょう。できればそれは避けたいものです。でもたとえそれができなかった時も、神様はその先に待っておられます。今日私たちも、その約束をいただいています。

今日までマルコ福音書を1年間読んできました。この先にも物語は続きます。これからも先を歩まれるイエス様に向かって、共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「世界と共に食べる」マルコ14章10~26節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしましょう。

礼拝の宣教ではマルコ福音書を去年の10月から読んできました。あと2回で終える予定です。私たちはマルコ福音書を1年間、行ったり来たりしながら、かなり細かく読んできました。10月後半からは半年間ルカを読む予定です。この4年間で4つの福音書をそれぞれ1年間、通して読むことになります。次年度はどんな宣教のスケジュールにしようかと考えています。どんな箇所を読もうか、どんなキーワードで読んでゆこうか考えています。旧約聖書か、パウロ書簡か、それとも・・・。今月の宣教のテーマは世界・環境としました。先月までの「礼拝」というテーマは私たちの礼拝の内側を考えるものでした。今月はもう少し視野を広げて、視野を外に向けて、世界を意識して聖書を読みたいと思います。世界に向けて開放された、聖書の読み方をしたいと思っています。

今日はこの後、主の晩餐の時を持ちます。久しぶりにパンとぶどうジュースを使った晩餐です。そして今日10月の第一日曜日は「世界聖餐日」と呼ばれる日です。教派や教会を超えて、世界で同時に主の晩餐を行うという運動がされる日です。教派によって主の晩餐(聖餐)の形は様々ですが、今日は多くの教会で主の晩餐が行われています。

「世界聖餐日」は世界が戦争へと傾斜していく1940年代にはじまりました。全世界の教会がそれぞれの教会で主の晩餐を持ち、国境、人種、差別を越えて、キリストのもとに一つであると確認する日です。異なる文化や国、政治や経済の状況にあって、世界のキリスト者が主にあって一つであることを確認する日です。世界中のキリスト者が私たちはイエス様を中心とする仲間であると証する日です。私たちも今日の主の晩餐を、この教会のメンバーだけではなく、世界の仲間たちと共に行うものとしましょう。世界に目を向けると様々な問題が起きています。一番大きなことはロシアとウクライナのことでしょうか。二つのキリスト教国が戦争をしています。キリスト教が戦争に加担し、兵士を鼓舞し、戦争への勝利を祈っています。1日も早く戦争が終わること、クリスチャン同士がまず戦争を止めることを願います。世界情勢の変化は私たちには物価上昇をもたらしています。しかし大変なのは私たちだけではありません。途上国の物価上昇はさらに深刻です。途上国では3回の食事を2回に減らす人がいます。世界の格差がどんどん大きくなり、格差の犠牲になってゆく人が増えています。私たちは今日、食べる物に事欠く人々と共に、このパンとブドウジュースを飲みます。私たちはそのような罪深い世界を見つめながら礼拝し、主の晩餐をしたいのです。今日世界で、そのような主の晩餐が行われます。その連帯性、同時性を意識しましょう。戦争をしている人がいます。世界の富を独占する人がいます。今日の安全がなく、眠れない人がいます。食べることができない人がいます。そして私がいます。

今日この主の晩餐は、そんな世界と私を考えながら、共に持ちたいのです。自分を点検するだけではなく、この世界を見つめ、この主の晩餐をいただきましょう。私たちはこの世界の中で、共に、主の晩餐をする一人です。イエス様が中心の仲間だと証しする一人です。そして世界に責任を負う一人です。主の晩餐をそのような視点からいただいてゆきましょう。今日の聖書箇所も主の晩餐の個所です。

 

今日はマルコ福音書14章10節~26節までをお読みしました。主の晩餐、最後の晩餐の場面です。今日はこの食事の場面に裏切り者のユダが同席していたことを考えたいと思います。

12節から先に読みましょう。私たちは主の晩餐へどのように招かれるのかが書いてあります。12節以降によれば、主の晩餐は私たちの努力で一生懸命続けるのではなく、不思議と準備されているものです。イエス様が必ずその場所が見つかるように導いてくださいます。

イエス様が目印とした人が特徴的です。目印とされたのは水がめを運ぶ男でした。当時、水を運ぶのは女性の仕事でした。ですから水がめを運ぶ男は珍しく、よい目印だったのです。イエス様は性別役割分担を超えて働く人を目印としました。神様が準備される場所には、かならずこのような人が起こされます。神様の働きの目印は富や権力や影響力ではありません。神様の働きの目印は、性別にとらわれない、コツコツとした働きなのです。

弟子たちは、主の晩餐をする場所、家へと導かれます。これは主の山に備えあり、アブラハムがイサクを献げようとした物語を連想させます。どちらも神様が定めた事、神様が準備をなさってくれたということを表す物語です。このようにイエス様と弟子たちにはふさわしい場所が与えられました。食事会が始まります。イエス様は22節で言います。「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい、これは私の体である』。また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そしてイエスは言われた『これは多くの人のために流される私の血である』」この言葉は、私たちの主の晩餐にも受け継がれています。

今日見たいのは、この主の晩餐は「ふさわしい者」だけが集い、食事をしたのではないということです。実はこの主の晩餐には、この後イエス様を裏切るユダが同席していた食事だったのです。特別に選抜された弟子が、この食事にあずかったのではありません。裏切り者も招かれたのです。

イエス様は18節で弟子たちからの裏切りを予告します。弟子たちの反応はどうでしょうか。「私は決して違う」と否定したわけではありませんでした。誰も「私は大丈夫」と思いませんでした。逆です。19節「まさか、私のことでは」と言い合います。みんな「まさかそれは私の事では」と裏切るのは自分だと思ったのです。

弟子は皆イエス様を裏切ることにおいて、心当たりがあったのです。この12人の中に裏切る人が1人いると言われて、それは自分だと思う者、それほどの信仰しか持たない者の集まりだったのです。そしてその食事のメンバーには一人、本当に間違ったことをする人がいました。この食事会は自分の信仰に自信がない者、うまく従えず裏切ってしまう者、にもかからず神様から招かれた者の食事会でした。この食事会は12人のメンバーの結束を確認するためだったのでしょうか。私には逆に見えます。この食事ではメンバーの結束のほころびがあらわになります。これからバラバラになってゆく食事会です。そんな食事会ならしない方がよいでしょうか。裏切るならば、生まれてこない方がよいでしょうか。いいえ、決してそうではありません。イエス様がこの食事会を開催することを選ばれたのです。

イエス様はなぜ、このような食事会を持ったのでしょうか。それはこの仲間たちがどんなにバラバラになってもイエス様を中心とする仲間であることを確認するためでした。間違いを犯す人、そういう危険のある人、自分たちと正反対の人たちも含めて、共にイエス様を中心とする仲間だと確認するために食事会は行われました。懐の深い食事会です。その食事会は、弟子たちの中心にはいつもイエス様がいることを忘れないための食事会でした。そしてそれは繰り返すように呼び掛けられました。それが私たちの主の晩餐につながっています。私たちの主の晩餐も、同じです。私たちの中心にイエス様がいる、そのことを忘れないために行われます。

私たちは今日、世界中で行われる主の晩餐を覚えながらこの礼拝を持ちます。世界の仲間たちと一緒に主の晩餐を持ちます。同じキリスト教の中でも、それはキリストの教えと違う、間違っていると思える仲間がいます。そんな人を徹底的につるし上げ、排除したい気持ちになります。そもそも仲間になんかならない方がよかったと思うかもしれません。しかし今日の個所によればイエス様は、バラバラの私たちを、バラバラになる私たちを同じ食事に招くお方です。主の晩餐に招くお方です。私たちの世界の中心にイエス様がいる、それを繰り返し、思い出すように促しておられます。イエス様を中心として生きる世界の仲間が、正しく導かれるように祈りながら、このパンと杯をいただきたいのです。そしてもう誰にも裏切って欲しくないのです。

そしてもちろん私も弟子たちのように、私が裏切ってしまうのではないかと思う一人です。いえ、きっと私こそイエス様を裏切ってしまうユダです。心当たりがいくつもあるのです。でも主は今日も一緒に食事に加わるように招いておられます。なんという恵みでしょうか。いつ裏切ってしまうかわからない者さえもあずかってよいとされています。それが神様の愛です。そして私は思います。招かれたからこそ、愛されるからこそ、イエス様を裏切りたくないと思うのです。それぞれの場所でイエス様を裏切らない歩みをしたいのです。私たちはすぐに忘れてしますでしょう。だからこそ、この主の晩餐を繰り返しましょう。そしてもし裏切ってしまっても、また主の元に集いましょう。それでもイエス様はそれでも食事へと招いてくださいます。それが神様の愛です。

この後、主の晩餐を持ちます。世界と共に、主の晩餐を持ちます。この世界はどこへ向かってゆくのでしょうか。神を裏切り、分裂し、殺し合う世界になるのでしょうか。どんな世界になろうとも神様は、主の晩餐に招いておられます。

そして神様は私たちに平和への一致を求めておられます。平和への一致への道は必ず用意されています。世界の平和と一致がこの主の晩餐から始まるように、願います。お祈りします。

 

 

「世界と共に食べる」マルコ14章10~26節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」

マルコ14章22節

 

今月の宣教のテーマは世界・環境としました。世界に向けて開放された、聖書の読み方をしたいと思っています。今日10月の第1日曜日は「世界聖餐日」と呼ばれる日です。教派や教会を超えて、世界で同時に主の晩餐を行い、イエス様を中心とする仲間であると証する日です。世界に目を向けるとロシアとウクライナの問題、途上国の物価上昇など様々な問題が起きています。私たちはこの世界を見つめながら礼拝し、連帯性、同時性を意識して主の晩餐をもちましょう。

12節には主の晩餐は神様に招かれ、不思議と準備されているもだと書いてあります。イエス様が目印とした人は性別役割分担を超えて働く、水がめを運ぶ男でした。神様が準備される場所には、必ずこのような人が起こされます。

今日見たいのは、この主の晩餐は「ふさわしい者」だけが集い、食事をしたのではないということです。この食事にはこの後イエス様を裏切るユダも招かれたのです。

イエス様は18節で弟子たちの裏切りを予告します。弟子たちは19節「まさか、私のことでは」と思ったのです。弟子と言っても、それほどの信仰しか持たない者の集まりでした。そしてメンバーの中には本当に間違ったことをする人がいました。

イエス様はなぜ、このような食事会を持ったのでしょうか。それは仲間たちがどんなにバラバラになってもイエス様を中心とする仲間であることを忘れないためでした。間違いを犯す人、そういう危険のある人も含めて、共にイエス様を中心とする仲間だと確認するためです。それは私たちの主の晩餐も、同じです。私たちの間に違いがっても、中心にイエス様がいることを忘れないために行われます。

私たちは今日、特に世界の仲間たちと一緒に主の晩餐を持ちます。同じキリスト教の中でも、それはキリストの教えと違う、間違っていると思える仲間が世界にいます。しかし今日の個所によればイエス様は、バラバラの私たちを、バラバラになる私たちを同じ食事に招くお方です。この主の晩餐を、イエス様を中心として生きる世界の仲間が、正しく導かれるように祈りつつ、持ちたいたいのです。そしてもうこれ以上、誰にもイエス様を裏切って欲しくないのです。そしてきっと私こそイエス様を裏切ってしまうユダです。しかし、それでも神様はこの食事に招いておられます。なんという恵みでしょうか。それが神様の愛です。私は招かれたからこそ、愛されるからこそ、イエス様を裏切りたくないと思うのです。

私たちはその愛を忘れてしまわないように、この主の晩餐を繰り返しましょう。そしてもし裏切ってしまっても、また主の元に集いましょう。食事へと招いてくださるのが神様の愛です。この後、世界と共に、主の晩餐を持ちます。神様は私たちに平和への一致を求めておられます。平和への一致への道は必ず用意されています。世界の平和と一致がこの主の晩餐から始まるように願います。お祈りします。

 

 

【全文】「彼女を記念する礼拝」マルコ14章3~9節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。

私たちは今月「礼拝」というテーマで宣教をしています。今日がこのテーマでは最後です。先週は「ハチドリのひとしずく」として、レプトン銅貨2枚を献げた、やもめの個所を読みました。小さくて、みんなから笑われてしまうようなことでも、精一杯を献げてゆく信仰が大事だということ、その精一杯をイエス様はアーメンと言ってくださるということを見ました。私たちは今日もそのような礼拝を献げましょう。今日はレプトン銅貨2枚を精一杯献げた人とは真逆の話をします。300デナリ、300日分働いた分の香油を献げた人の話です。

ある日の食事の際中のことです。女性がイエス様に対して、頭から油を注ぐという出来事が起こりました。その香油は大変高価な香油でした。女性はそれを惜しみなく、頭からドバドバと注いだのです。頭に油を注ぐ、それは聖書の中では特別な意味を持ちます。例えばサムエル記に記されています。サムエルはサウルを王様として任命する際に、象徴的な行為として頭に油を注ぎました。それはこの人は王様だと人々に明らかにする象徴行為です。ちょうど王様の頭に冠を載せて、この人が王様だと宣言する行為に似ています。頭に油を注ぐとはそのような特別な意味を持ちました。

メシア=救い主という言葉がありますが、メシアとはヘブル語で油注がれた者という意味です。そしてキリストも油注がれた者という意味のギリシャ語です。ですから油を注ぐということは、この人は救い主だ、メシアだ、キリストだ、それを人々に公にするという重要な意味を持ったのです。新しい王様に油を注ぐことは重要な役割です。そして今日の場面では、油を注ぐ役割を女性が担ったとあります。この女性は預言者サムエルの役割を果たしています。イエス様に油を注ぎ、この人がキリストだと最初に宣言をしたのは女性だったのです。このように最初期のキリスト教では女性が中心的な指導者として活躍をしていました。この後、イエス様の十字架を見届け、墓に訪ねたのも女性たちでした。

男性の弟子たちはどうだったでしょうか。8章で、ペテロはイエス様に私を誰だと思うかと問われ、あなたはメシア、油注がれた者ですと答えています。しかし結局はイエス様を裏切ってしまいました。男性の弟子たちは口先ばかりです。この後すぐイエス様を裏切り、イエス様を知らないと言ってしまいます。男性の弟子たちは十字架の場面にもいません。肝心な時に裏切り、逃げ出したのです。女性の小さな献げものを「何になるのか」と笑い、多くの献げ物を「無駄だ」と非難した男たちは、まっさきに逃げしたのです。

一方、この女性は、口先ではなく具体的な行動として、イエス様に油を注ぎ、キリストであると宣言した弟子でした。マルコ福音書には残念ながらこの女性の名前は残っていませんが、中心的な指導者だったと言えるでしょう。しかし歴史的に見ると、この女性指導者は、時代が経過と共に徐々に、地位を下げられてゆく傾向にあります。マルコ福音書にはただ「女」としか書かれていませんので、食事の中にいた中心的な弟子の一人という印象を持ちます。少し後の時代に書かれたヨハネ福音書では、この女性は頭ではなく足に油を塗り、髪の毛でぬぐったとされています。油は頭ではなく、足に塗られます。頭に油を注ぐ、王様を任命するという意味は失われてしまっています。さらにルカ福音書ではキリストと宣言した弟子であったはずの女性は、罪深い女として登場します。やはり頭ではなく足に油を塗り、さらに涙を流しながら、接吻をして、髪で油をぬぐいます。油を注いだのは足で、それは罪を悔い改める女性だったとされています。さらになぜか現代においては、この足に油を塗った罪深い女性とは娼婦・売春婦だったとまで解釈されています。どこにもそのようなことは書いてありません。

今日のマルコ福音書にはそもそも女が罪深い者であったこと自体が書いてありません。マルコ福音書ではこの女性は中心的な弟子のひとりとして、イエス様と共に食事をした、そして油を頭に注いだそう読むことができます。私たちはどうしてもルカやヨハネに影響されて、この女性を罪深い女、娼婦の女の話と連想してしまいます。知らず知らずのうちに、聖書を男性中心に読んでいたかもしれません。今日はそこから解放されたいのです。男性中心ではなく、この女性を罪深い女として読むのではなく、素晴らしい信仰を持った女性指導者の話として読みたいのです。

ある女性指導者が高価な油をたっぷりと頭から注いだことについて、周りは無駄遣いだと批判をしました。しかしイエス様はそれを支持しました。6節「そのままにさせなさい」と言ったのです。頭に油を注ぐのは「この人は私の王だ」という告白です。イエス様はそれを信仰の告白として受け取りました。そしてイエス様はその信仰の告白を、私たちの信仰を「無駄だ」「その力を他に使え」と言わないお方です。その信仰を大事にしなさいと受けてとめて下さるお方なのです。私たちの精一杯の信仰告白は誰にも批判される必要はないのです。

 

 

 

油を塗ることには王様の宣言以外に、もうひとつの意味がありました。香油という言葉が聖書で次に出てくるのは、イエス様が十字架で死んだ後です。イエス様の体に「香油」を塗りに墓に向かうという場面で「香油」が登場します。香油は死者を埋葬するときに使われたのです。油を塗るとは死者の葬りをするという意味もありました。

この弟子の女性は「イエス様は私の王だ」そう告白して油を注ぎました。そして同時に女性は、イエス様がこのまま活動を続けたらきっと死んでしまう、きっと殺されてしまうと思ったのでしょう。イエス様の十字架の死の危険に、誰よりも早く気づき、油を塗ったのが、この女性だったのです。

イエス様も油を注がれるということに2つの意味を感じていたでしょう。一つは自分をキリストと告白し、油を注ぐ者が初めて起こされたという意味です。そして二つ目は8節「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」とある通りです。十字架の準備をしてくれたという意味です。

 

 

 

油を注いだということ共に、それが大変高価な香油で、大量であったということも問題です。彼女の献げ物は、無謀で、ぜいたくで、過剰です。彼女はおそらく全財産ともいえる、数百万円分の油を、一瞬で使い果たしてしまいます。この女性はバランスを欠いているように思えます。もう少し自分の生活や欲しいものとのバランスを考えて献げ物をして方がよいでしょう。

しかし彼女は違いました。自ら収支計算、計画、欲しい物を超えて、イエス様に信頼し、献げました。イエス様に信頼し、献げたのです。それは私たちから見ればバランスがおかしいものでした。しかしそれは自発的で、打算のない、無欲の、時にかなった献げ物でした。イエス様への自分の信仰を表現する物でした。イエス様は8節「この人はできるかぎりのことをした」それでよいと言ってくださるのです。

今日私たちに求められているのは、他の人々の信仰の表現を批判することではありません。他の人の信仰の表現を、小さいと笑ったり、多すぎると批判したりすることでもありません。私たちがただ求められていることは9節です。「福音が宣べ伝えられるところでは、いつでもこの人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とあります。私たちに求められているのは「記念として語り伝える」ということです。

記念として語り伝える場所は「福音が宣べ伝えられる場所」です。それはまずこの礼拝と言えるでしょう。私たちは礼拝でこの女性を記念するようにと期待されています。今日私たちはこの女性を記念する礼拝をしたいのです。

この女性を記念する礼拝とはどんなでしょうか。それは彼女がイエス様の事を「この人が王だ」「私の人生を導く」と告白をする礼拝です。救い主をはっきりと告白する礼拝です。私たちも彼女の告白を記念するような礼拝、イエス様を救い主と告白する礼拝を献げてゆきましょう。それをイエス様が願っています。

毎週教会に通い、礼拝すること、それは周囲からバランスを欠いた人のように思われるでしょうか。大切な時間を使って、毎週繰り返し礼拝することは、無駄だと思われるでしょうか。礼拝することは、まるで高い油を無駄遣いしているように見えるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいのです。私たちの油、時間、思いをイエス様に惜しみなく献げたいのです。そのような礼拝を献げることが最高の献げ物なのではないでしょうか。

そして油を注ぐ、それは十字架に向かう葬りの準備でもあったということを見ました。その油にはイエス様の十字架の死と復活を覚えるという意味があります。イエス様はその生き様ゆえに、十字架にかけられ、殺されました。私たちはイエス様の十字架への歩みと復活を覚えて、この礼拝をしましょう。

私たちは礼拝について考えてきました。私たちはこの礼拝で、この女性が記念されるような、思い出されるような礼拝をしましょう。イエス様を救い主と告白する礼拝、自らの予定を超える礼拝、十字架と復活を覚える礼拝、そのような礼拝をお献げしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「彼女を記念する礼拝」マルコ14章3~9節

はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。

マルコ14章9節

 

ある時、女性がイエス様に対して、頭から油を注ぎました。頭に油を注ぐことは聖書の中で特別な意味を持ちます。サムエルがサウルにしたように、この人は王様だと宣言する象徴行為です。今回は油を注ぐ役割を女性が担いました。最初期のキリスト教では女性が中心的な指導者として活躍をしたのです。一方、女性の小さな献げ物を「無駄だ」と非難した男たちは、その後まっさきに逃げだしました。

しかしこの女性指導者は、時代と共に地位が下がります。ヨハネ福音書では頭ではなく足になり、ルカ福音書では罪深い女として登場し、娼婦とまで解釈されてゆきます。今日はこの女性を罪深い女として読むのではなく、素晴らしい信仰を持った女性指導者の話として読みたいのです。イエス様は頭に油を注ぐという女性の信仰の告白を「無駄だ」「その力を他に使え」と言わないお方です。受けてとめて下さるお方です。私たちの精一杯の信仰告白は誰にも批判される必要はありません。

油を塗るとは死者の葬りをするという意味もありました。この弟子の女性はイエス様がこのまま活動を続けたらきっと殺されてしまうと思ったのでしょう。イエス様の十字架の死の危険に、誰よりも早く気づいたのが、この女性だったのです。

大変高価な香油が、大量に使われたことも問題です。彼女の献げ物は、無謀で、ぜいたくで、過剰です。この女性はバランスを欠いているように思えます。しかし彼女は自らの収支計算、計画、欲しい物を超えて、イエス様に信頼し、献げました。それは打算のない、時にかなった献げ物でした。イエス様は8節「この人はできるかぎりのことをした」それでよいと言ってくださっています。

私たちに求められているのは、他の人の信仰の表現を批判することではありません。他の人の信仰の表現を、小さいと笑ったり、多すぎると批判したりすることでもありません。私たちがただ求められていることは9節「記念として語り伝える」ということです。記念として語り伝える場所、それはまずこの礼拝です。今日私たちはこの女性を記念する礼拝をしたいのです。

この女性を記念する礼拝とはどんな礼拝でしょうか。それは「この人が王だ」「この人が私の人生を導く」と告白をする礼拝です。イエス様を救い主と告白する礼拝を献げてゆきましょう。大切な時間を使って、毎週繰り返し礼拝することは、無駄だと思われるでしょうか。礼拝することは、まるで高い油を無駄遣いしているように見えるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいのです。そして油を注ぐ、それは十字架に向かう葬りの準備でもあったということを見ました。私たちはイエス様の十字架への歩みと復活を覚えて礼拝を続けてゆきましょう。

私たちは礼拝について考えてきました。この女性が記念されるような、思い出されるような礼拝をしましょう。イエス様を救い主と告白する礼拝、自らの予定を超える礼拝、十字架と復活を覚える礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「ハチドリのひとしずく」マルコ12章38~44節

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

マルコ12章43節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。今月は礼拝をテーマに宣教をしています。

こんな話を聞きました。南アメリカ・アンデス地方に伝わる「ハチドリのひとしずく」という話です。ある時、森が火事になりました。多くの生き物は逃げ出しました。でもクリキンディという名のハチドリだけは森に残ったのです。クリキンディ1羽だけが、森の中を行ったり来たりしています。クリキンディはなんと、くちばしで水を一滴ずつ運んで、火の上に落とし、火事を消そうとしていたのです。他の動物たちはそれを見て「そんなことしていったい何になるんだ」といって笑いました。しかしクリキンディはこう答えたと言います。「私は、私にできることをしているだけ」。

この本の最後には、この物語の続きはあなたが考えて下さいともあります。私たちはどのようにこの物語の最後を描くでしょうか。ある人は、それを聞いたハチドリは別のハチドリに伝え2羽に、2羽が4羽に、4羽が16羽に、それが40回続くと1万羽に。あっという間に火が消えたとつけ加えています。無理にハッピーエンドにしなくてもいいでしょう。森は焼けてしまったけれども、ハチドリの姿を見ていた動物たちが、森の再生のためにそれぞれできることを一生懸命したというのはどうでしょか。私たちの想像力を掻き立てる話です。このハチドリとは、いつも一生懸命なあの人のことを言っている様に思えます。私もこのハチドリのようになりたい。私はハチドリを笑う動物になっていないだろうか。この山火事とは今の世界の現状だ。山火事とは私たちの目の前にある現実のことだ。いろいろな想像力を掻き立てます。いずれにしても「私は、私ができることをしているだけ」ということの大切さを教えてくれる話です。

大きな必要に対して、小さすぎる、私の働きはほとんど無意味と思える時があります。ほとんど役に立たないと思える時があります。でも決してそうではありません。その一滴が大事なのです。あきらめない一滴が大事なのです。日常にも、世界にも、すぐに解決が難しいと思える課題があるでしょう。でもあきらめない。ひとしずくのできることをする。このひとしずくは大切なのではないでしょうか。

イエス様の生き方、イエス様の物の見方も、そうだったのではないかと思います。イエス様はあきらめないで、小さなことを大切にする生き方を勧めたお方です。イエス様も事柄の大小ではなく、あなたにできることをすることが大事と言っています。イエス様はあきらめず、小さい事を、大きな愛で進めてゆこう、そう私たちに呼びかけています。聖書からイエス様のそんな姿を見てゆきましょう。

 

マルコ12章38節~44節をお読みしましょう。ここには律法学者が登場します。彼らは長い衣、キラキラした服を着て歩いています。集会ではいつも来賓席、上席に案内されます。尊敬を受けること、きれいな服を着ること自体は決して悪いことではありません。しかし聖書によれば40節、律法学者はやもめを食い物にしていたとあります。当時の女性にとって、夫に先立たれると、厳しい生活が待っていました。やもめは激しい男女差別、男女格差の時代の中で、経済的にも困窮したのです。

そんな生活困窮者、やもめに律法学者はどんなことをしていたのでしょうか。食い物にするとはおそらく、死んでしまった夫から受け継ぐはずの財産を横取りしたり、お祈りに高いお金を要求したのでしょう。現代で言うなら、宗教詐欺です。人の人生の混乱や不安や紛れて、財産を奪おうとしたのです。祈らないと災いが起る、これを買わないと災いが起る、霊感商法と同じです。イエス様は人前で長々と祈るような律法学者は信用するなと言います。人前で祈ることは難しいものです。きれいな言葉で上手に祈るはかっこいいものです。人が涙するような、感動させる祈りをしたいものです。

でも本当の祈りとは違います。祈りは上手ではなくて良いのです。きれいな言葉でない方が良いです。つっかえながら、間違えながら、祈るのが良いのです。誰かの言葉を借りなくていいのです。自分の言葉で祈ることが大事です。

イエス様は律法学者のような偉い、偉大、きれいに祈るとされる人ではなく、社会で見過ごされる人に目を向けました。今日の物語の主人公は偉大な者ではなく、見過ごされている人です。でもイエス様はかわいそうだと思ったのではありません。イエス様は小さな力にこそ信頼をしました。小さなできることにこそ、信頼をしたのです。

やもめの信仰を見てゆきましょう。エルサレムの神殿にはいくつか、献金を入れる賽銭箱がありました。しかしおそらくこの賽銭箱にはプライバシーの課題がありました。誰がどれくらい献金したのかわかってしまったのです。中身が丸見えだったのでしょうか。あるいは献げる時に音がしたのかもしれません。お金持ちはパチンコ屋さんのようにジャラジャラジャラと献金します。まわりは「おぉ」となり、拍手が沸いたでしょう。それは長い衣や長い祈りと同じです。

やもめの献金はどうだったのでしょうか。すべての人がジャラジャラとたくさん献げています。そこにやもめの順番が回ってきます。チャリン。聞こえるか聞こえないか程の、小さな音が響きます。それは誰かが小銭を落としたかのような音です。周りで見ていた人、多く献げた人は、それを笑ったでしょうか。そんなことして何になるのかと笑ったでしょうか。しかし聖書によればこのやもめはレプトン銅貨を2枚献げたとあります。もう一度チャリンと小さな音がします。人々はもう一度笑ったでしょうか。もう一度、そんなことして何になるのかと言ったでしょうか。

彼女は1枚でも恥ずかしい思いをしたのに、2枚も入れました。そして彼女の状況、宗教詐欺にあって困っていいた彼女からすれば、1枚でもきっと十分な献げ物だったはずです。しかし彼女はもう1枚、2枚を献げました。そこに彼女の信仰があったのではないでしょうか。小さくても、笑われようとも、私ができることをする。そんな信仰があったのではないでしょうか。

イエス様はこんなとき、あなたは詐欺にあって、かわいそうだから、大変そうだから、あなたは献金しなくてもいいですよとは言いません。あなたは施しを受ける側なんだから、献金をしなくていいとは絶対言いません。もちろんもっとしないさいとも言いません。イエス様はそのレプトン銅貨2枚を、そのひとしずくを、素晴らしいとおっしゃるお方です。あなたの、小さくても、自分ができる精一杯をしようという気持ちが、その信仰が素晴らしいというのです。イエス様はこの様子を見て「はっきり言っておく」と弟子たちに話します。実はこの言葉、聖書では「アーメン」という言葉です。「アーメン」という言葉が、日本語には「はっきり言っておく」と訳されています。つまりイエス様はこの女性の信仰を見て「アーメン」と言ったのです。女性が献げる信仰を見て「アーメン」「確かにそれは真理だ」とおっしゃったのです。

そしてイエス様は弟子たちに言います。彼女はだれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。イエス様はこの女性の信仰を真理だと言っています。

私たちは今月礼拝というテーマで宣教をしています。私たちもこのやもめのように、礼拝を献げてゆきたいと思います。献金のこともありますが、まず私たち一人一人が、できる限りの礼拝を献げてゆきましょう。一人一人が精一杯の礼拝を献げてゆきましょう。

周囲の人たちからすれば、私たちの礼拝も何の役に立つのかわからないものかもしれません。でも、私たちはできる限りの礼拝を続けましょう。私たちは強くて、大きくて、影響力を持つ人間ではないかもしれません。でも私たちは笑われても自分ができることをする、自分ができる礼拝をする、そんな生き方をしてゆきましょう。そして今週、礼拝から派遣されたそれぞれの場所で、小さいけれど大きな愛で、私にできることをしてゆきましょう。派遣されるそれぞれの場所で精一杯を献げましょう。きっとその姿にイエス様が「アーメン」と言ってくれるはずです。

そしてそれは教会自体も同じだと思います。教会は自分が大きくなることを目指すのではありません。教会が精一杯を献げる、そんな教会になってゆきましょう。もちろん私たちの教会はお金持ちではありません。いろいろ大変なことも多いです。でも小さくても精一杯を神様に献げる教会になりましょう。自分たちのためではなく、誰かのために精一杯になりましょう。例えば地域のために、地域の子どもたちのために、小さくても働いてゆきましょう。その教会の姿にきっとイエス様が「アーメン」と言ってくれるはずです。

今日は特に、この後、高齢者祝福祈祷の時を持ちます。平塚バプテスト教会は元気な高齢者が多い教会です。でももしかして体力の衰えを感じている方がおられるかもしれません。前よりできないこが増えたと感じているかもしれません。でも今日の聖書の個所によれば、大きなことができなくてもいいのです。山火事に対して一滴でもいいのです。2枚でいいのです。それぞれにできることを、精一杯してゆきましょう。それぞれができる礼拝を、一滴ずつしてゆきましょう。きっと神様は、そのような私たちを見て、誰よもよりもたくさん入れた、アーメンと言ってくれるはずです。お祈りいたします。

 

 

「ハチドリのひとしずく」マルコ12章38~44節

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

マルコ12章43節

 

南アメリカ・アンデス地方に「ハチドリのひとしずく」という話があります。1羽のハチドリが、山火事の中で森に残り、くちばしで水を一滴ずつ運び、火事を消そうとしました。他の動物たちは「そんなことして何になるんだ」と笑いました。しかしハチドリは「私は、私にできることをしているだけ」と答えたと言います。私たちの日常と世界には、大きな課題に対して、私の働きは小さすぎてほとんど無意味と思える時があります。でも、あきらめない一滴が大事なのです。

イエス様もあきらめないで、小さなことを大切にする生き方を勧めた方だと思います。イエス様は事柄の大小ではなく、あなたにできることをすることが大事、あきらめず、小さい事を大きな愛で進めてゆこうと私たちに呼びかけています。聖書からイエス様のそんな姿を見てゆきましょう。

聖書には律法学者がやもめを食い物にしたとあります。これは人の人生の混乱や不安に紛れて、財産を奪おうとした宗教詐欺です。霊感商法と同じです。イエス様は律法学者のような“偉い人”ではなく、社会で見過ごされる人に目を向けました。

今日の物語の主人公は偉大な者ではなく、見過ごされている人です。やもめの信仰を見てゆきましょう。エルサレム神殿の賽銭箱は誰がどれくらい献金したのかわかってしまいました。お金持ちはジャラジャラジャラと献金します。まわりは「おぉ」となり、拍手が沸いたでしょう。しかしやもめの献金はチャリン。誰かが小銭を落としたかのような音です。周りで見ていた人は、そんなことして何になるのかと笑ったでしょうか。しかし聖書によればこのやもめはレプトン銅貨を2枚献げたとあります。もう一度チャリンと小さな音がします。

イエス様はそのレプトン銅貨2枚を素晴らしいとおっしゃるお方です。あなたの、小さくても、自分ができる精一杯をしようという信仰が素晴らしいというのです。「はっきり言っておく」とは「アーメン」という言葉です。イエス様は女性が献げる信仰を見て「アーメン」「確かにそれは真理だ」とおしゃったのです。

私たちは今月礼拝というテーマで宣教をしています。私たちもこのやもめのように礼拝を献げましょう。周囲からは、礼拝は何の役に立つのかわからないかもしれません。でも、私たちはできる限りの礼拝を続けましょう。私たちは笑われても、自分ができる礼拝をする、そんな生き方をしてゆきましょう。そして派遣された場所で、小さいけれど大きな愛で、私や、教会にできることをしてゆきましょう。

今日は高齢者祝福祈祷の時を持ちます。聖書によれば、大きなことができなくてもいいのです。それぞれができる礼拝を、できることを、一滴ずつしてゆきましょう。きっと神様は、そのような私たちを見て、誰よもよりもたくさん入れた「アーメン」と言ってくれるはずです。お祈りします。

 

【全文】「礼拝の縦糸と横糸」 マルコ12章28~34節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集えたこと感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたち、そしてお互いを感じながら礼拝をしてゆきましょう。

中島みゆきの「糸」という曲をご存じでしょうか。1990年代の歌ですが、若い世代のアーティスト、ミスチル、リトグリ、エメなどにもカバーされ、広い世代に人気の曲です。その歌詞が心に残ります。

 

 

この歌では私たち一人一人は一本の糸の様に弱い者かもしれないけれど、お互いが紡がれて布になってゆく時、何かができるかもしれないと歌っています。大事なのは縦糸と横糸の関係で、それがしっかりと紡がれて、組み合わされている時、誰かを暖めたり、癒したりすることができるのだとあります。

今月私たちの礼拝では「礼拝」をテーマにしています。礼拝とはなんだろうかということを考えています。糸の話をしましたが、礼拝にも縦糸と横糸があると思います。私は礼拝がこの歌に似ていると感じました。

礼拝において縦の糸とは、神様と私がつながる糸です。そして礼拝において横の糸とは、私と仲間とがつながる糸です。礼拝は縦糸だけでも、横糸だけでもありません。この縦糸と横糸が織られ、紡がれるのが礼拝です。礼拝のプログラムを見るとそれを直接感じることができるでしょう。例えば「招詩」招きの言葉は神様からの招き、神様との関係、つまり縦糸を示すものです。続く「平和の挨拶」は仲間の確認する時間です。横の関係を確認します。それは横糸です。「聖書朗読」は神様の言葉をいただく、縦の糸と言えるでしょう。礼拝は一つ一つのプログラムが、縦糸と横糸が織り重なるようにすすみます。礼拝には縦糸と横糸があり、全体で織られた布のようになっています。神様との関係を考える、仲間との関係を考える、それが交互に織り重なったのが礼拝です。その礼拝は誰かを暖めうるかもしれません。傷をかばうかもしれないのです。

私たちはこのような礼拝を持っています。礼拝の中で儀式のように意味が分からなくなっている部分、よく考えずに通り過ぎてしまっている部分もあるかもしれません。でも礼拝を縦糸と横糸の視点で見直したいのです。私たちにはコロナで礼拝に集えない期間がありました。YouTubeの礼拝はどこか物足りない、寂しい気持がしました。それはきっと横の糸がなかったからでしょう。仲間を感じづらい礼拝は、縦の糸はあっても横の糸が足りないのです。いろいろな技術があっても、私たちがなお今日、集まって礼拝をするのは、横の糸を感じながら礼拝をするためです。様々な事情があったとしても、集うことを大事にし、精一杯集ってゆきたいのです。仲間と共に礼拝すること、それは礼拝の大切な要素です。大切な横糸なのです。こどもの声が聞こえるということもそうでしょう。一人で礼拝しているのではないことを、こどもたちの声が教えてくれます。きっとそれも大切な横糸です。

礼拝は縦糸と横糸とどちらも大事です。礼拝は神様と自分の関係を考える時、そして同時に仲間と自分の関係を考える時なのです。どちらかだけではなく、両方が大事なのです。今日は礼拝とは神様と自分の関係を考えることはもちろんとして、礼拝は人と人との関係を考える場所でもあるということを見てゆきたいと思います。今日の聖書を読みましょう。

 

 

あるとき一人の律法学者がいました。当時の律法学者たちの信仰の中心は、神殿で犠牲を献げることでした。エルサレムの神殿で牛を丸ごと1匹、黒焦げになるまで焼くのです。それが焼き尽くす献げ物でした。煙を神様に献げたと言われています。彼らにとって神を愛するとことは、神様に献げ物をするということでした。神殿での犠牲と献げ物を何よりも大事にしたのです。しかし今日の律法学者は、話の最後で自分の考えをすっかり変えてしまっています。神殿での犠牲の献げ物を最も大事にしていた律法学者が、それにも勝る大切なことがあると宣言してしまったのです。これは驚くべき変化です。

律法学者ははじめ、イエス様に質問をしました。ここは議論を吹っ掛けたのではなさそうです。純粋に教えて欲しい、わからないと思って質問をしました。質問をする、疑問を持つということ、それを誰かにぶつけることは大事なことです。聖書に書いてあることを、ただそのまま信じればよいのではありません。疑問に思い、考え続けること、誰かに聞いてみること、神様になぜと問いかけてみることが大事です。なぜなら疑問、質問が私たちを新しい信仰へと導くからです。

疑問や質問は、信仰にとってとても大切です。なぜと思い、周囲や神様に聞くことで、私たちの信仰の優先順位が逆転することがあるからです。今日まさに、律法学者に起きた事がそのようなことでした。彼は疑問に思ったことを問いかけ、その答えによって、自分の信仰の優先順位が逆転されることになるのです。

イエス様の答えをみてゆきましょう。律法学者は一番大事なものは何かとイエス様に尋ねました。イエス様は一番重要なのは何かと聞かれて、第一に神を愛することだと言っています。聖書の元の言葉では、第一に神をアガペーすることだと書かれています。アガペーは愛するという意味です。そしてさらに愛するという意味以外にも、大切にするという意味を持ちます。

アガペーは日本語の愛するという言葉よりも、大切にするという表現が私にはふさわしいように思います。イエス様は第一に神様をアガペーしなさいと言っています。神様を大切にしなさいと言っているのです。心、精神、思い、力を尽くし神様を大切にしないさいと言っています。それを難しく言えば、全身全霊、全人格ともいえるでしょう。心と生活の端から端まで神様を大切にしなさいということです。私たちの心も生活も神様を大切にする、そうでありたいと願います。

そして神様を第一に大切にするとは、もちろん礼拝をすることと言えるでしょう。私たちは神様を第一とするこの礼拝から、1週間を始めます。今週も全身全霊、全人格、生活の隅々まで、神様を大切にしながら生きてゆきましょう。そしてまた来週も、集って神様を大切に思う時、礼拝を持ちましょう。毎週の礼拝出席が難しいという方もいるでしょう。それぞれの精一杯で礼拝をしましょう。そのような一週間を繰り返してゆきましょう。

聖書を読み進めます。31節にはイエス様は第二にと答えます。イエス様は一つだけ答えて欲しいという問いに二つ答えようとしています。これは好きなものを一つだけ教えてと言われて、どうしても選べずに二つ答える心理と同じです。それはどちらも同じくらい好きで選べないから、両方を挙げるのです。イエス様も今日、選べないほど両方とも大事だからこそ、二つ答えているのです。イエス様は神様を愛するのと同じくらい大事なことを私たちに教えています。それは隣人を愛するということです。隣人を愛することは、神様を愛するのと同じくらい大事だというのです。神様と隣人のどちらも愛しなさい、神様と人間のどちらも大切にしなさいと言っています。私たちは今日の礼拝から、この1週間、全身全霊、全人格、生活の隅々まで、神様を大切にしながら生きてゆこうと願って集いました。そして、それと同じくらい大事なことがあると今日の聖書箇所は示しています。

それは隣人を全身全霊、全人格、生活の隅々まで、大切にしなさいということです。隣人を愛しなさいということです。隣人とは誰のことでしょうか。今日、隣の席に座っている人とも言えるでしょう。そしてあなたの職場で隣の席の人、あなたの家の隣の家に住んでいる人、私たちの国の隣の国に住んでいる人です。よく考えるなら、すべての人、すべての命が私たちの隣人と言えるでしょう。私たちは神様からすべての隣人を、すべての命を大切にしてゆくことが求められています。命と優しく接し、いたわりあう事。世界中の隣人が大切にされるように願うこと。それは神様を愛するのと同じくらい大事な事なのです。私たちは神様を愛しましょう。神様を大切にし、アガペーしましょう。そして私たちは他者を愛しましょう。他者を大切にし、アガペーしてゆきましょう。その一週間を歩みましょう。

イエス様はこのあと十字架に架けられることになります。十字架とはただ犠牲なったという出来事ではありません。十字架は私たちに、神を愛すること、そして隣人を愛することを強烈に指し示しているものです。イエス様は神様に十字架の上でも神を愛し、大切にし続けました。そして十字架の上でも罪人や家族へ語り続けました。私たちは礼拝でこの十字架を見てそれを思い出します。イエス様の十字架はどんな時も神を愛し、隣人を愛した主イエスを思い出せるものです。

私たちは今日の礼拝から1週間を始めました。私たちはどんな献げ物や犠牲にも勝るように、神様を愛し、隣人を愛しましょう。神様を全身全霊で大切にする1週間、他者を、命を全身全霊で大切にする1週間をこの礼拝から始めてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「礼拝の縦糸と横糸」 マルコ12章28~34節

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコ12章29~30節

 

中島みゆきの「糸」という曲には「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」とあります。今月私たちの礼拝では「礼拝」をテーマにしていますが、礼拝にも縦糸と横糸があると思います。礼拝において縦の糸とは、神様と私がつながる糸です。そして礼拝において横の糸とは、私と仲間とがつながる糸です。礼拝はこの縦糸と横糸が織られ、紡がれるのです。

礼拝のプログラムを見るとそれを直接感じることができるでしょう。縦糸と横糸が織り重なるようにすすみ、布のようになっています。その礼拝は誰かを暖めうるかもしれません。傷をかばうかもしれないのです。

礼拝は縦糸と横糸とどちらも大事です。礼拝は神様と自分の関係を考える時、そして同時に仲間と自分の関係を考える時です。どちらかだけではなく、両方が大事です。今日は礼拝とは神様と自分の関係を考えることはもちろんとして、礼拝は人と人との関係を考える場所でもあるということを見てゆきたいと思います。今日の聖書を読みましょう。

当時の律法学者たちの信仰の中心は、神殿で犠牲を献げることでした。イエス様はその律法学者に一番重要なのは何かと聞かれて、神を愛することだと答えています。全身全霊、全人格、心と生活の端から端まで神様を大切にすることが大事なのです。神様を第一に大切にするとは、もちろん礼拝をすることとも言えるでしょう。それぞれの精一杯で礼拝しましょう。

31節にはイエス様は第二にと答えます。イエス様は選べないほど両方とも大事だからこそ、二つ答えます。イエス様が神様を愛するのと同じくらい大事だと教えたのは、隣人を愛するということです。イエス様は隣人を全身全霊、全人格、生活の隅々まで、大切にしなさいと教えています。すべての人、すべての命が私たちの隣人と言えるでしょう。私たちは神様からすべての隣人、すべての命を大切にしてゆくことが求められています。私たちは神様を愛し、大切にしましょう。そして私たちは他者を愛し、大切にしましょう。

イエス様はこのあと十字架に架けられます。十字架は私たちに、神を愛すること、そして隣人を愛することを強烈に指し示しているものです。私たちは礼拝でこの十字架を見て、どんな時も神を愛し、隣人を愛した主イエスを思い出せるのです。

私たちは今日の礼拝から1週間を始めました。神様を愛し、隣人を愛しましょう。神様を全身全霊で大切にする1週間、他者の命を全身全霊で大切にする1週間をこの礼拝から始めてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】『今日、礼拝に集える喜び』マルコ12章1~12節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。先週はお休みをいただき、ありがとうございました。私は大井教会の礼拝に出席させていただき、恵みをたくさんいただきました。

さて、9月末まで「礼拝」というテーマで宣教をしています。私は信仰生活の上で何より、礼拝を大事にしたいと思っています。私は礼拝にはできれば毎週欠かさずに集いたいと思っています。なぜなら私は弱い者だからです。毎週の礼拝で神様のみ言葉をいただかなければ、すぐに神様のことを忘れてしまうのです。聞いたとしてもすぐに忘れてしまうのですが、それでもきっと心の奥でその言葉は生きて、生活に影響を与えてくれる。そう願って毎週この礼拝に集っています。そして弱い者だからこそ、一人ではなく、励まし合える仲間と一緒に礼拝をしたいと思って集っています。

もちろんすべての人が毎週欠かさず礼拝に来れるわけではありません。それぞれに、それぞれの事情があります。大切な家族との関係もあるでしょう。大切なお仕事の事情もあるでしょう。健康の問題もあるでしょう。特にコロナの時期は、家族に負担や心配をかけないように、自宅で礼拝するということもあるでしょう。私はもし誰かが毎週来ることができなかったとしても「ちゃんと毎週来なさい」と互いを責め合いたくないのです。私たちは「来ないこと」「来れないこと」を責め合うのではなく、今日この礼拝に集えたこの1回の礼拝、この1回限りの礼拝を、守られて、精一杯に集い、共に礼拝できたことを喜びあいたいのです。

特に私たちはこの日本で信仰を守っています。圧倒的多数の人は、日曜日に礼拝に行ったりしません。今日の礼拝に集ったのは、日本のごく一部のクリスチャンの中の、さらにさらにその一部です。他の人から見ると、日曜日に教会に行くというのはなんと不思議な習慣でしょうか。礼拝に集うということは、他の人がめったにしないことです。めったに選ばないことです。人生に1回あるかどうかということが、今私たちに起っています。周囲からは熱心で奇特な方と見えるでしょう。他の人がほとんどしないことを、ほとんど選ばないことを、私たちはしているのです。

私たちはそのように礼拝を大切にし続けてきたのです。毎週ではないけれど、いつもではないけれど、さらに他の人はほとんどしない、選ばない、この礼拝に招かれ、集って来ました。他の人はあまりしないのだけれども、私自身も毎週欠かさずというわけではないのだけれども、でも今日この礼拝に集うことができたこと、この1回を共に喜んでゆけたらと願っています。

今日の聖書から礼拝に集う事、礼拝を大切にし続けることを聞いてゆきましょう。聖書をお読みしましょう。

 

 

今日はマルコ福音書12章1~12節です。「ぶどう園と農夫のたとえ」という表題が付いています。この個所は伝統的な解釈があります。お聞きになったことがあるでしょう。それはぶどう園=イスラエル、主人=神、息子=イエス・キリスト、農夫=ユダヤ人とする解釈です。預言者を信じずに殺してきたユダヤ人を批判している話です。そしてクリスチャンはこの個所から、自分たちもイエス様を信じない者となっていないか、自分たちの生活の中に神から送られたイエス様を受け入れない者になっていないかということを受け取ってきました。私たちはイエス様を信じ、神の国を受け継ごうと語られてきました。これが伝統的に解釈をされてきた内容です。

しかし今日はせっかくの礼拝ですから、もう少し視点を変えて読みたいと思っています。それは当時イエス様に従った貧しい農民たちはどのように聞いたのかという視点です。この視点で少しこの個所を読んでみたいと思います。

まずぶどう園です。この土地はともとは農民たちの土地でした。しかし飢饉や災害が起き、食べる物が無くなってしまうと、農民は土地を売らなければなりませんでした。そのようにして土地は、大土地所有者の手に渡ってゆきました。生きていくための穀物を作っていた畑は、より利益の出るぶどう園に変えられてゆきました。そして土地を手放した農民たちは、今度はぶどう園で雇われ農夫として、小作人として働くことになります。主人である大土地所有者は収穫の25%の土地使用料を取ったと言われます。そのほかの税金と合わせれば、農民の手元にはほとんど残りません。格差はますます広がってゆきました。このような格差の中、農民はよく一揆を起こしました。大勢で大土地所有者や土地の管理者を襲い、自分たちの土地を奪い返そうとしたのです。1節にはぶどう園に「垣を巡らし」とあります。土地所有者には防犯上の壁が必要だったのです。

農民はこのような現実に生きていました。その農民たちからすると、この話はどのように聞こえたでしょうか?息子を殺すところまでは勧善懲悪の話です。いつも自分たちを搾取する主人が殺されるというのはスカッとする話だったはず。自分の奪われた土地でもそれが起きて欲しいと切実に思ったはずです。この話を聞くと胸が晴れるような気持ちになったでしょうか。

しかし、イエス様の話には続きがあります。農民一揆は結局すぐに鎮圧され、全員殺されてしまったというのです。それは現実でも同じでした。農民一揆が頻繁に起きましたが、それらはことごとく失敗をします。強い軍隊が来て、参加した農民は全員殺されてしまったのです。一揆が鎮圧される姿を想像し、農民たちは再び、現実の厳しさを知ったことでしょう。ではこのたとえ話は農民たちにとって何を意味したのでしょうか?結論は謎です。でもイエス様は農民を前に、本当に「主人=神」だとたとえたのでしょうか。イエス様は本当に「農民は逆らうと殺されるから、ちゃんと主人に従え」と伝えたのでしょうか。

私はそうではない解釈もあると思います。むしろ私は、イエス様が平和を愛したお方だと考えて読みたいのです。平和を愛するイエス様の視点からこのたとえをとらえたいのです。その視点から読むと、イエス様は奪われた土地を農民一揆などの暴力によって奪い返したとしても、結局また暴力によって奪われるだけだと言っている様に聞こえてきます。暴力で奪っても何も解決しないのだ。暴力に代わる手立てはないのかとイエス様が問いかけている様に感じるのです。そうすると10節・11節につながります。これは「誰かが役に立たないと捨てたものが重要な役割を担うようになった」ということです。みんなが見向きもしないものが、土台になってゆくということです。何の役にもたたないと思われたものが、物事の基礎となるのだということが語られています。

ここで言われている、捨てられた、何の役にも立たないとされたものとは何のことでしょうか。ひとつは殺されたイエス様を表すでしょう。十字架で捨てられたイエス様が、私たちの土台となったということです。そしてもう一つことで捨てられているものがあると思います。それは暴力以外の手立てです。皆が困った時にまず取った手段は暴力でした。その時、暴力以外の選択肢は捨てられていました。農民が捨てたもの、それは平和的な解決方法、対話、愛です。農民もそして私たちもすぐにそれを捨て、力、暴力によって解決しようとしてしまうのです。イエス様はそれでは解決しないよと言っています。みんなが捨ててしまっている様な、価値を見過ごしている、平和な方法を選びなさい、そう呼びかけているのです。

私たちは今日、礼拝をテーマにして聖書をみています。もしかすると礼拝ということも多くの人にとって、価値のない、自分の人生に役に立たない、不必要なものとされているでしょう。多くの人にとって、自分の人生を豊かにするにはもっと有効な手段、他の方法があると思われているのでしょう。礼拝こそ多くの人に捨て石とされています。でも私たちは違います。人々がしない礼拝という捨て石を、自分たちの土台としようとしています。それは11節「とても不思議なことに見える」でしょう。でもそれが私たちの信仰です。人々が選ぶ方法ではなく、見過ごされている方法、礼拝によって一人一人の人生を豊かなものにしたいと願うのです。

私たちは礼拝を大事にしたいと願っています。この礼拝は多くの人々に必要とされているものではないかもしれません。しかし私たちはこの礼拝こそ、一人一人の人生を豊かにする、私たちの人生の土台となるものだと信じます。これこそが私の土台だ、そんな礼拝をささげたいのです。人生を豊かにする方法は争いや、戦いではなく礼拝なのです。聖書に聞くことなのです。そのような方法で、豊かな人生を目指してゆくことはできないでしょうか。多くの人々には不思議に思える、礼拝という手立てによって、人生を豊かにすることができないでしょうか。そんな礼拝を献げてゆきたいのです。

この個所をどのような解釈をするにしても、大切なことは神様から送られたイエス様を大切にしようということです。私たちは聖書を読み、礼拝を続けましょう。私たちは捨て石にされてしまう礼拝を、土台としてゆきましょう。そして、私たちはこれから主の晩餐を持ちます。イエス様の血と体の象徴をいただきます。十字架によって殺された、イエス様の血と肉を覚えて主の晩餐を持ちましょう。暴力のただなかで、人を愛することを教えた主イエスを覚えて、暴力ではなく人々が捨てた愛がもっとも私たちを豊かにすることを覚えて、この礼拝の中で主の晩餐を持ちましょう。お祈りします。

 

10月10日14時~チャペルコンサート開催のお知らせ

コンサートを企画しました。慌ただしい毎日の生活から少しだけ離れて、音楽に耳を澄ます時を持ちませんか?元気がでてくるかもしれません。うまくいかないことが前に進む、きっかけになるかもしれません。どなたでも歓迎しています。ぜひお越しください。

 

「大胆に話せるように、祈ってください」 エフェソ6章19~20節

本日はお休みをいただき、宣教の奉仕を担っていただきます。このような休暇をいただけることを感謝します。

神学校では宣教1回の準備には20時間かかると教わりました。宣教の準備では聖書のみ言葉を読み、黙想し、先人たちの解釈を調べ、辞書を引き、会衆を想像し、言葉を紡いでゆきます。最近私は15時間程度で準備ができるようになったでしょうか。それでもまだ20時間かかる週もあります。このような綱渡りを毎週繰り返し、穴をあけること無く、講壇に立つことができていることに驚いています。

神学校では宣教の後は必ず落ち込むものだとも教わります。限られた時間で準備しなければなりませんし、人間が語ることには必ず欠けと不足があるからです。終わった後は達成感よりも後悔が押し寄せるのが普通です。むしろ過度な達成感はみ言葉の前の謙虚さという点で危険とも言えるでしょう。振り返れば必ず反省点があるのです。このような役割を続けてゆくには祈りと支えと励まし、そして「休暇」が必要です。いつも必要な祈りと支えと励ましといただき、休暇をいただけたことに改めて感謝します。

宣教の働きについてよく「大胆に語ることができるように」と祈ってくださいます。宣教者は祈りによって支えられなければ、この働きを続けてゆくことができません。祈りが必要です。語るにあたって、大胆ならよいわけではありません。力強ければよいわけではありません。宣教には大胆さと同時に繊細さ・適切さが必要です。しかし大胆さの中に繊細さ・適切さを含む宣教を語るのはとても難しいことです。それは鎖に縛られながら、早く走ろうとするようなものです。

今日のみ言葉はまるで宣教者に向けられた祈りのようです。今日立たされた福音の使者、宣教者のために祈りましょう。限られた時間と、言葉、さまざまな鎖の中で語っています。語ったあと後悔することもあるでしょう。そのような宣教者が大胆かつ繊細に語ることができるように励まし、心から祈りましょう。

そしてこの個所は宣教者から会衆への祈りのリクエストでもあるでしょう。宣教者は孤独で、一人で悩みます。だからこそ宣教は会衆からの祈りと支えと励ましによって語ることができるようになるのです。私も今日宣教者のために祈っています。

そして私からもリクエストします。どうぞ今日の宣教者のために祈ってください。毎週の牧師の宣教のために祈ってください。大胆で繊細で適切な宣教のために祈ってください。良い礼拝となるように祈っています。    (牧師 平野健治)

 

【全文】「礼拝に招かれたこどもたち」 マルコ10章13~16節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聴きながら礼拝をしましょう。そして今日から1ヶ月間「礼拝」をテーマとして宣教をします。私たちが変わらずに一番大切にしてきたのは礼拝です。私たちはこの礼拝にどのように向き合うべきなのか共に聖書から見てゆきましょう。

こどもと一緒に礼拝をすることについて、どのようにお感じでしょうか?やはり静かに礼拝したいと思う人もいるでしょう。み言葉を求めて教会に来たら、こどもの声がして集中できなかったという人もいるでしょう。あるいは子育てに疲れた人が、礼拝くらいはこどもに邪魔されず、ちゃんと話を聞きたいのにと思うこともあるでしょう。もちろん、こどもの元気な声が聞こえてうれしいという人もいるでしょう。

実は私は落ち着いて座っているのが苦手なタイプです。同じ場所にずっといることが苦手なのです。本当は私も席を立ったり座ったり、落ち着きがありません。すぐにスマホが気になってしまします。皆さんの前ではなんとか我慢していますが、私も落ち着きのないこどもの一人かもしれません。

そんなこどもたちとどのように礼拝を共にするかは教会の難しいテーマです。教会のレイアウトや歴史、考え方が違うので、それぞれの教会でこどもたちとの礼拝し方は違います。また集っているこどもの年齢や特徴も考慮されて、それぞれの教会の在り方が決められています。教会にこどもがいる限り、どのように一緒に礼拝するかという問いはずっと続きます。でも教会ににぎやかなこどもがいることは贅沢な悩みかしれません。感謝できる事かもしれません。こどもたちと礼拝できることに感謝です。こどもがいない教会では、どのように一緒に礼拝するかは問いにならないのです。

私は休暇中、いろいろな教会に行くようにしています。他の教会で礼拝を受けることは、自分にとっても大きな刺激になるからです。しかし、こどもと一緒に礼拝に出ることは実はなかなか難しいことです。親としてはせっかく一緒に教会に来たのだから、できれば一緒に礼拝に出たいと思って向かいます。多くの教会では、受付の方に一緒でもいいかと尋ねると「歓迎しますよ」と言われます。

しかし注意が必要です。いざ礼拝堂に入ると他のこどもは別の部屋で遊んでいて、礼拝堂がとても静かなのです。私はこどもたちを、きっとおとなしくさせていられないと思って、慌ててこども部屋に連れてゆきます。そしてこども部屋で一緒に礼拝をするのですが、あまり礼拝をした気分にはならなかったりします。そもそも音声が聞こえなかったりもします。

少数ですが、一緒に礼拝をできる教会もあります。こどもの声も別に構わないという教会もごくまれにあるものです。そのような教会はこどもの様子を見れて安心ですが、他のこどもが気になったり、礼拝に集中できなかったりもします。うまくメッセージに集中できないことがあるのです。他にも、教会によっては礼拝の最後、祝祷の時間になるとこどもたちが前に出てきて、牧師が一人ずつに手を置くという教会もありました。

それぞれの教会が、それぞれの方法でこどもを大切にしようとしています。その正解はひとつではないと思います。こどもといっしょに礼拝できる喜びと、礼拝に集中できることはどちらも大切だと思います。親でさえ一緒に礼拝したい気持ちと、礼拝に集中したい両方の気持ちがあるものです。ただ願うのは、大人によってこどもが教会から排除されず、受け入れられることです。「歓迎します」「大切にします」というのが、言葉だけではなく、具体的な形になってゆくことが大事です。

私たちの教会はこどもプロジェクトから「こどもを大切にする教会」を始めました。私たちはこどもをどのように受け止めてゆくでしょうか。正解は一つではありませんし、こども自身が成長し大人になります。そして新しい命も生まれます。大人もこどもも変わるのです。私たちなりにどのようにこどもを受け止めてゆくか。今の子どもたちとどのように礼拝するか、いつも考え続けてゆきたいのです。聖書からこのことを読み、考えてゆきましょう。聖書を読みましょう。

 

 

 

今日お読みするのはマルコ10章13節~16節です。ルカ福音書で並行する箇所が、昨年度までの主題聖句でしたので、何回か似た場所から宣教をしている箇所です。13節、人々はイエス様に触れていただくために、こどもを連れてきました。人々と書いてあるだけで、親とは限定されていません。近所の人か、親戚の人か、おじいちゃんおばあちゃんかわかりません。とにかく人々はこどもに、イエス様に近づいて欲しいと願い、連れてきたのです。あなたにも信仰を持って欲しい、そう願って連れてきたのです。しかし弟子たちはこどもたちを叱りました。なぜ叱ったのかという理由も、どのように叱られたのかということも書かれていません。あるいは誰が叱られたのかも書いていません。人々は誰なのか、どのような理由で怒られたのかは私たちの想像力にゆだねられています。

怒られたのは、連れてきた人々だったとも読めます。こどもを連れてくるな、静かにさせなさいと怒られたのでしょうか。もちろんこどもが怒られたとも読めます。こどもが怒られている姿はすぐに想像がつきます。ふざけない、おしゃべりしない、落ち着きがない・・・。

そのような態度は礼拝者としてふさわしくないと怒られたのでしょうか。怒る気持ちも怒られる気持ちも、どちらもわかるような気がします。落ち着いていられない私。ちゃんと集中できない私。他のことにすぐ気が行ってしまう私。眠くなってしまう私。礼拝者としてもとても不十分な私。おそらく私もこの場所にいたなら、イエス様に近づいて怒られた一人だったでしょう。この話は礼拝にふさわしいのは誰かということが投げかけられています。

この話は「金持ちの男」の話の前にあります。実は次の話も、誰がふさわしいかというテーマで展開します。当時は、たくさんの財産を持っている人こそ、神様に祝福された人で、救われる人と考えられていました。金持ちこそ神の国に入ると信じられていたのです。社会で成功するような人間こそ、豊かさを受け継いだ人間こそ、神の前にふさわしいと考えられていたのです。逆に子どもや貧しい者は神の国入れないと信じられていました。ですからイエス様に近づく、礼拝者にふさわしくないとされたのです。不十分な者は、じゃまにならないように、近づかないで遠くから礼拝するように言われたのです。

しかしイエス様は23節「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しい事か」と言っています。それは今日の14節「神の国はこのような者たちのものである」と対比される言葉です。金持ちの男の話と、こどもたちの話、この二つの共通するテーマは人の目にはふさわしくないと思えるような人が神の国に入るということです。私たちがふさわしいと思う人こそ、神の国に入るのが難しいということです。

むしろ私たちから見て、不完全な者、不十分な者こそ、神の国に入るのだということです。イエス様はこの不十分と思われている人が、礼拝に来るのを妨げてはならないと言います。むしろそういう人を連れてきなさいと言うのです。イエス様は不十分と思える人こそ神の国に入る、礼拝に招かれていると言うのです。

この招きは私たちの礼拝にもつながっています。ここは礼拝するには不十分な者が集められている場所です。本当は私なんか、神様の前に立つ資格なんてないと思う人が招かれている場所です。ちゃんとできない人こそ招かれています。こどもこそ招かれているのです。すべての人が招かれていると言えるでしょう。大事なのは14節「連れてくること」と「妨げとならないこと」です。神の国はいつも叱られっぱなし、失敗ばかり、不十分で、とても神様には近づけないように思われる人たちのものです。神様はこのような人が神の国に入ると言うのです。

私は自分をこのこどもに重ねます。私にはいろいろな不十分や力不足があります。神様の前に出るにはとても自信がありません。私はきっと神の国には入れないと思います。でも神様はそのような私を招いてくださいます。不十分な私を神の国に招き、礼拝に招き、そして手を置いて祈ってくださるのです。

きっとみなさんもこのこどもの一人でしょう。それぞれには不十分や力不足があるでしょう。神様の前に胸を張ることができない部分があるでしょう。誰もが、自分は神の前にふさわしいという自信を持つことはできません。でもそんなあなたを、イエス様は神の国に招き、礼拝に招き、手を置いて祈ってくださるのです。

もちろん教会に集うこどもたちも、同じです。神様の前にふさわしいとは思えないかもしれません。でも神様は、こどもたちこそ神の国に招き、礼拝に招き、抱き上げて、手を置いて祈ってくださるお方です。

今日集った私たちは、大人もこどもも皆、この物語にでてくるこどもです。ほんとうは不十分だけど、神様に招かれて集いました。年齢も考え方も違う私たちの共通点、それは互いに不十分だということです。そしてこのような者こそ神様に招かれているのです。

イエス様はこのように、こどもを、私たちを招き、抱き上げて、喜んでくださるお方です。私たちはこの仲間と共に礼拝をしてゆきましょう。神様に招かれた者として、礼拝を共にしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。私たちは不十分なお互いを大切にする教会です。そこに神様の招きがあると信じ、共に礼拝をしましょう。そしてどのようにすれば、よりよく共に礼拝できるかを考え続けてゆきましょう。イエス様が集まった人を喜び祈ったように、私たちも集えたことを喜び互いに祈りましょう。お祈りいたします。

 

「礼拝に招かれたこどもたち」 マルコ10章13~16節

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

マルコ10章14節

 

今日から1ヶ月間「礼拝」をテーマとして宣教をします。こどもと一緒に礼拝をすることについて、どのようにお感じでしょうか?こどもの声で集中できなかったという人、元気な声が聞こえてうれしいという人がいるでしょう。こどもたちとどのように礼拝を共にするかは教会の難しいテーマです。でも教会ににぎやかなこどもがいることは贅沢な悩みかしれません。

それぞれの教会がこどもを大切にしようとしています。正解はひとつではありません。こどもといっしょに礼拝できる喜びと、礼拝に集中できることはどちらも大切です。願うのは、大人によってこどもが排除されず、受け入れられることです。私たちなりにどのように、今のこどもを受け止めて、共に礼拝するか、いつも考え続けてゆきたいのです。聖書からこのことを読みましょう。

13節は人々と書いてあるだけで、誰のことなのかはっきりしません。誰が、なぜ叱られたのかは私たちの想像力にゆだねられています。こどもが怒られている姿はすぐに想像がつきます。礼拝者としてふさわしくない態度だと怒られたのでしょうか。怒る気持ちも怒られる気持ちも、どちらもわかるような気がします。ちゃんと集中できない私です。礼拝者としてもとても不十分な私です。おそらく私もこの場所にいたなら、イエス様に近づいて怒られた一人だったでしょう。

この話の前の金持ちの男の話と共通するテーマがあります。それは人の目にはふさわしくないと思えるような人が神の国に入るということです。イエス様は不十分と思える人こそ神の国に入る、礼拝に招かれていると言うのです。

この招きは私たちの礼拝にもつながっています。ここは礼拝するには不十分な者が集められている場所です。こどもこそ招かれています。すべての人が招かれていると言えるでしょう。私は自分をこのこどもに重ねます。私にはいろいろな不十分や力不足があります。でも神様はそのような私を招いてくださいます。きっとみなさんもこのこどもの一人でしょう。それぞれには不十分や力不足があるでしょう。でもそんなあなたを、イエス様は神の国に招き、礼拝に招き、手を置いて祈ってくださるのです。もちろん教会に集うこどもたちも、同じです。

今日集った私たちは、大人もこどもも皆、この物語にでてくるこどもです。イエス様はこのように、こどもを、私たちを、招き、抱き上げて、喜んでくださるお方です。私たちは神様に招かれた者として、礼拝を共にしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。私たちは不十分なお互いを大切にする教会です。どのようにすれば、よりよく共に礼拝できるかを考え続けてゆきましょう。そしてイエス様が集まった人を喜び祈ったように、私たちも集えたことを喜び互いに祈りましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「立ち止まって聞く神」マルコ10章46節~52節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に集えたこと、またYouTubeでも共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝しましょう。

また、コロナでなかなかできなかった「証し」を聞くことができ、本当に感謝です。互いの声に足を止め、聞いてゆくことは、大切なことです。私たちは互いの言葉を聞くことによって互いを知るだけではなく、お互いの言葉を通じても神様に出会うことができるからです。特に沖縄からの声は私たちの耳にはあまり届いていないでしょう。私たちは沖縄からの声を聞き逃しているでしょう。私たちが今日、仲間の言葉と沖縄からの声に耳を傾け、立ち止まって考えることができたことに感謝します。

今日は平和祈念礼拝です。これまで平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。息子の病からの癒しを願う父親のように、「救ってください」と叫ぶように、平和を叫び求めてゆきたいと聖書を読みました。今日聖書から見ることは、それとは反対のことかもしれません。平和とは、小さな声に耳を傾けてゆくことなのだということを見ます。平和とは声にならない叫びを聞いてゆくことです。平和を願っていても、言葉を取り上げられている人がいます。平和を願っていても声を出せないでいる人がいます。平和を願っていても声を出しづらい人がいます。周りの大きな声に遮られている人がいます。

私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。そして新しい道を示して下さるイエス様をみてゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。

今日はマルコ10章46節~52節の物語を読みました。バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。当時は(今も)障がいを持っていると激しい差別を受けました。そして必要な福祉は提供されず、経済的にも困窮をしていたのです。バルティマイもそうでした。46節彼は道端に座って物乞いをしなければ生きてゆけなかったのです。彼の居場所はどこにもありませんでした。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができなかったのです。道端へと追いやられていたのです。社会からはじき出されていました。彼がすぐに必要としていたのは何より、今日寝る場所、今日の食べる物だったでしょう。そのために物乞いをせざるを得ませんでした。

バルティマイはイエス様がこの道を通る聞きました。そしてある言葉を叫んだのです。イエス様に一番初めにしてほしい、具体的な行動として求めたことを叫びました。しかし彼の叫びは「施しをください」や「治してください」という叫びではありませんでした。彼は「わたしを憐れんでください」という叫びだったのです。これは驚くべきことではないでしょうか?彼はイエス様に呼びかける時、何よりもまず「憐れんでください」と叫んだのです。

憐れむというのは難しい言葉ですが、聖書の元の言葉では「憐れむ」という意味以外にも、同情する、慈しむという意味があります。それは具体的に「私に同情し、憐れみ、慈しんでくれ」という叫びです。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉に置き換えるとするなら「自分の気持ちを分かってもらう」それが憐れんでもらうという意味でしょう。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください。どうか私が、今までどんな気持ちで生きて来たのか、聞いてください、分かってください」そんな叫び声だったのではないでしょうか。誰もが彼を無視し、通りすぎ、彼が声を上げてもかき消されてしまったのです。彼はそのすべての気持ちを「憐れんでください」という言葉に込めて叫んだのです。

聖書にはその時、周囲がどのように反応したかも残しています。48節「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」とあります。なんと群衆は黙らせようとしたのです。障がいをもった人、弱さを持った人、道端に追いやられている人が救いを求めて叫んでいる状況です。それを叱りつけ、黙らせようとする、冷徹な反応です。

「気持ちを分かってほしい」と言う叫びは群衆には、全く聞こえていませんでした。群衆は聞こうとしていませんでした。周囲の人々、それは社会と言い換えてもいいかもしれません。この目の見えない人は、社会から無視され、社会の隅に追いやられていたのです。そして彼は社会に必死に声を上げました。しかし社会はそれを聞こうといませんでした。それどころか社会から黙れと恫喝さえされたのです。この場面はそのような冷たい社会が描かれています。小さな声を聞かない社会が描かれています。そのたびに彼は「だれも聞いてくれない」「だれも分かってくれない」と孤立感を味わったでしょう。でもだからこそ彼はもっと大きな声で叫びます。「今度こそ、今度こそ、きっと分かってくれる人が来る」「私の前を通る」そう期待して彼は叫んだのです。

そして多くの人が通りすぎる場所でイエス様は立ち止りました。49節「イエスは立ち止まって」とあります。イエス様はそこに足を止めたのです。誰も足を止めなかった場所でイエス様は足を止めるお方です。そしてイエス様が黙らせたのは、バルティマイではなく、その叫びを遮ろうとする群衆でした。そして道端から、社会の隅から、彼を自分の前に連れてこさせました。神の前に呼び出すのです。そしてイエス様は51節「何をしてほしいか」と尋ねます。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。

彼はようやく本当の願いを口にすることができました。本当はずっと願っていたことがあったのです。彼は51節「目が見えるようになりたいのです」と言いました。重い一言です。「目がみえるようになりたい」それは今までの彼の人生の苦労が凝縮された言葉です。障がいをもち、困窮し、無視され、黙らされていた、彼は本当の願いをようやく言葉にすることができました。それこそがもうすでにイエス様が起こした奇跡と言えるでしょう。聖書によれば、52節彼はすぐに見えるようになり、イエス様に従ったとあります。

この物語をどのよう理解しましょうか。私はただの奇跡物語としてだけではなく、イエス様の生き方をここから学びます。私たちは誰かに「わかってほしい」そう思うことがあるものです。本当は今こんな気持ちでいる。こんな出来事があった。誰かにそれを「わかってほしい」という叫びは私たち一人一人の中にもあるのではないでしょうか。

そして本当は私たちの周りにも「わかって欲しい」と叫んでいる人がいるのではないでしょうか?彼らはきっと私たちに、何かをすることよりも、まず先に「憐れんで欲しい」「わかって欲しい」そう思っているのではないでしょうか?

私たちは、それを今日の個所のような無視をする群衆となっていないでしょうか?どなって声をかき消す群衆の一人となってはいないでしょうか。私はもう一度苦しみの声を聞こう、そのために立ち止まりたいと願います。かき消されてゆくその声に耳を傾け、足を止めて、共感し、突き動かされて、行動する。イエス様のようなそんな人間になりたいと思うのです。

私たちにとって今日の個所から知る希望とは何でしょうか?それは、私たちの神様は苦しみに足を止めて、共感し、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。私たちには人生の中で傷つき、誰にも理解されないことがあります。でも私たちは神様に「憐れんでくれ」「わかってください」と祈ることができるのです。それが今日の個所の希望、福音ではないでしょうか。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?イエス様のように生きるとはどんなことでしょうか。それは多くの仲間が持つ、社会の中にある「憐れんでください」「わかってほしい」という叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくことではないでしょうか?

個人個人の願いがあるでしょう。それに足を止め、互いの言葉を聞いてゆきましょう。そして平和を求める声があるでしょう。平和を求める声は小さくさせられています。どこの国が危ない、どこの国が攻めてくるという大きな声に、日本人は平和ボケしているという大きな声があります。しかし私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声に耳を傾けたいのです。小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。

 

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「立ち止まって聞く神」マルコ10章46節~52節

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 マルコ10章49節

 

平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。今日聖書はそれと反対のことかもしれません。私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。

バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができない、社会からはじき出された人でした。彼はイエス様に一番初めにして欲しい行動を叫びました。それは驚くことに「憐れんでください」ということでした。「憐れむ」という言葉には同情する、慈しむという意味があります。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉にするなら「自分の気持ちを分かってもらう」ということです。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください」そんな叫び声だったのです。しかしなんと周囲の人々は黙らせようとしたとあります。周囲の人々とは社会と言い換えることができます。彼は、社会から無視され、黙らされたのです。でも彼はもっと大きな声で叫びます。

イエス様は誰も足を止めなかった場所で足を止めるお方です。そして道端、社会の隅から彼を神の前に呼び出すのです。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。

この物語からイエス様の生き方を学びます。そして私たちが今日の個所から知る希望は、神様は苦しみに足を止めて、聞き、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。

私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?それは多くの仲間が持つ、社会の中にある叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくではないでしょうか?私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。

沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声、小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。

今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。

 

【全文】「平和をあきらめさせない神」マルコ9章14節~29節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に、み言葉に出会ってゆきましょう。また特に今日はこどもが登場する場面です。このみ言葉を通じて、神様に出会ってゆきましょう。

1ヶ月間、平和をテーマとして宣教をしています。この教会は平和を祈り続けてきました。平和への祈りは、この教会が始まった時からの祈りです。長尾先生も川上先生も熱心に平和を祈った先生でした。教会はこのようにして、平和をあきらめずに祈ってきました。私たちの教会は平和をあきらめずに祈り続けてきた教会です。

そして同時に、私たちは平和への無力さを繰り返し感じてきたとも言えるでしょう。私たちが祈る間にも、たくさんの戦争が起きました。平和を祈っても、世界はなかなか平和にならないのです。私たちは戦争が起きるたびに、神様がいるのにどうして戦争が起こるのだろうか?神様は本当にいるのだろうか?そう神様を疑ってきた私たちです。特にウクライナの戦争に衝撃を覚えています。平和を祈っても、なかなか戦争は終わりません。しかし、それでも私たちは平和を祈ります。目を背けたい現実をしっかり見て、祈り続けてゆきたいのです。

平和を祈っていくことは教会の大切な役割です。憎しみや衝突に対して暴力ではなく、愛と和解、感謝すること伝えてゆくことが教会の役割です。殺すのではなく、命をはぐくむことを訴えるのが、教会の大事な役割です。私たちは争いが続くこの時代にあって、あきらめずに平和を祈ってゆきましょう。平和を訴えてゆきましょう。自分自身の平和、家族の平安、心の安定の祈りも大切です。でも私たちはそれだけではなく、世界の平和、東アジアの平和、この地域の平和、隣人の平和も祈ってゆきたいのです。自分自身の平和のためだけではなく、他者の、周囲の平和を祈ってゆきたいのです。

私たちが平和を祈り続けることができるのは、毎週の礼拝を通じて、み言葉を通じて、祈りへと導かれるからです。神様から希望をいただくから、私たちは平和をあきらめずにいられるのです。平和について祈るのをやめるようにする力、平和をあきらめさせようとする力こそ悪霊の力です。悪霊とは私たちに平和をあきらめろ、あきらめろと誘惑をします。戦争もしょうがないと誘惑します。私たちは悪霊に負けず、どんなときも平和を祈ることをあきらめないでいたいのです。

教会にはたくさんの、あきらめない祈りがあります。戸が開くまでたたき続けるような祈りがたくさんあります。周りには無理と思える祈りを、粘り強く続けている祈りがあります。周囲は共に祈ることが大切です。それは、きれいな祈りではなくてよいのです。疑い半分でもよいのです。私たちの平和の願い、言葉にならない叫びを神様にささげてゆきたいのです。

今日は聖書から祈りをあきらめないこと、神様はあきらめず祈ろうと私たちを励ましているということを見たいと思います。今日の聖書から平和への祈り、他者への祈りをあきらめず、励ますイエス様の姿を見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日の個所の少し前の個所で、イエス様は山の上におられました。そこで光り輝く姿、栄光の姿に変えられたのです。しかしイエス様はその山の上から下って来られました。イエス様は聖なる場所から、下って来られるお方です。イエス様は高い聖なる場所から人々が議論し、争う場所にやってこられたのです。

群衆は驚いたとあります。群衆にとって山から下ってこられたこと自体が驚きだったのです。山の上にいるはずの方が、この地上に来たこと、争いの現場に来たこと自体が驚きだったのです。それは私たちが争いあう現実の世界にイエス様が来て下さるということも示しているでしょう。

山の下でイエス様は悪霊と出会いました。悪霊の力とは、その人をしゃべれなくしました。悪霊は自分の思いを口にさせない力を持っていました。そして悪霊の力はその身体を傷つけ、引き倒します。体を硬直させ動かないようにさせます。人を死んだようにさせる力でした。弟子たちはこの悪の力を追い出すことができませんでした。このこどもをその悪霊の力から自由にすることができなかったのです。弟子たちの力ではできなかったのです。

イエス様は20節で弟子たちに「私のもとに連れてきなさい」と言います。そうです、弟子たちの役割はイエス様になることではありません。弟子たちの役割はイエス様のもとに連れてゆくことです。私たち弟子の役割は、伴って、手を取って、友人を、こどもをイエス様へと連れてくることです。

イエス様は21節「いつからか」と尋ねます。父親は「幼いころから」だと答えます。いろいろな病院を回ってもこどもの病名がわからない親を想像しました。次こそ原因がわかる、そう希望をもって次の病院を訪ねるでしょう。しかし原因は分からず、そのたびにがっかりして帰るのです。この父親もそうだったでしょう。いろいろな場所で、いろいろな人に見てもらいました、祈ってもらいまいた。しかしすべて駄目でした。今回もほらまた弟子たちに祈ってもらったけれど治りません。父親はもう期待することに疲れていたでしょう。あきらめかけていました。気力の無い言葉が続きます。22節の趣旨は「もしあなたにまだ何かできることがあれば、してください」そう、あきらめながら尋ねたニュアンスを持ちます。

イエス様も父親があきらめかけていることを感じたでしょう。悪霊はとはそのような力を持っています。悪霊とはあきらめさせる力です。祈りによって病気が治るのかどうかはわかりません。しかし、ここで病気以上に悪霊の力とされているのは、あきらめてしまう力です。人をあきらめさせようとする力です。もうダメだ、そうあきらめさせるのが悪霊の大きな力なのです。父親は悪霊に負けそうになっていました。あきらめさせる力に負けそうになっていた、あきらめかけていたのです。

イエス様は23節「信じる者は、なんでもできる」と言います。本当になんでもできるかどうか自信はありません。でも信仰、つまり神様への信頼があれば、祈り続けることができるでしょう。あきらめず祈り続けてゆくことできるでしょう。あきらめず祈り続けることが信仰なのです。私たちはすべてが可能となるときまで、あきらめずに祈ることができるのです。

父親はこれにすぐに答えます「信じます!」「神様を信頼し、あきらめません」と答えたのです。信じることができず、あきらめそうになってしまう私を救ってくださいと言ったのです。父親が「私を」救ってくださいと言ったことも大事なことです。彼は息子を救って欲しいと願うと同時に、「私」の救いも祈ったのです。この「私」に息子のことを祈ることを、あきらめないようにさせてください、そう願ったのです。

父親の言葉は24節「叫び」でした。その願い、その祈りは叫びだったのです。私たちもそのように祈っていいのです。祈りは叫びです。叫びが祈りです。美しい言葉にならなくてよいのです。祈りは叫びなのです 。

そしてこれは息子自身の祈りではなかったことも見ておきましょう。イエス様が見ているのは、周囲の人々の祈りなのです。周囲の大人の祈りです。周囲の大人のあきらめない叫びが、神様に届いたのです。

そして25節、イエス様は悪霊をしかりつけて追い出します。その子の持つ願いを黙らせ、引き倒した力、周囲をあきらめさせ、絶望させた力、その力をイエス様は追い出したのです。そしてそれは祈りによって起こるのだと言います。あきらめさせるのが、悪の力です。祈り続けることがそれに勝つことなのです。祈ることがあきらめを追い出すのです。イエス様はこの物語からこの希望を教えてくれています。私たちがあきらめそうになる時、そのことをもう一度祈れ、あきらめるな、祈りよってこそ、このあきらめは追い出すことができると言っています。

私たちは何かをあきらめそうになっているでしょうか。私たちはあきらめずに祈り続けたいのです。特に平和について祈り続けましょう。私たちには何度も戦争が起きて、何度も平和をあきらめそうになってしまいます。戦争を見て、いつも祈っているのに、また戦争が起きてしまったとがっかりします。でも私たちはあきらめずに祈りたいのです。祈ることであきらめない力をいただきたいのです。悪霊の力はいつも、私たちをあきらめようとさせます。そんな願いはかなわないと誘惑し、平和をあきらめるようにささやき、私たちを黙らせ、引き倒すのです。私たちはその悪霊を追い出すように祈りたいのです。父親の祈りが叫びだったように、私たちも祈り叫びましょう。声をあげましょう。平和が欲しいと神様に叫びましょう。

そして実はイエス様も叫んだお方です。十字架の上で「わが神わが神なぜ見捨てるのか」と叫んだのは、イエス様でした。イエス様こそ暴力のただなかで平和を求めて叫び、神に祈ったのです。その祈りを私たちも祈りましょう。暴力が満ち溢れる世界の中で、あきらめずに平和を主に叫び願ってゆきましょう。今日の聖書によれば、本人以上に、周囲の人の祈りが大事です。大人たちの祈りが大事です。私たちは互いのこと、こどものことを主に叫び祈ってゆきましょう。平和のために叫び祈ってゆきましょう。

このあと主の晩餐を持ちます。この杯は十字架の主が流した血を象徴します。イエス様が血を流し、叫び、平和を祈られたことを覚えてこの杯をいただきましょう。そして私たちも叫び、平和を祈りましょう。お祈りいたします。

 

「平和をあきらめさせない神」マルコ9章14節~29節

1ヶ月間、平和をテーマとして宣教をしています。私たちの教会は平和をあきらめずに祈り続けてきた教会です。私たちが祈る間にも、たくさんの戦争が起きました。それでもあきらめず平和を祈っていくことは教会の大切な役割です。憎しみや衝突に対して暴力ではなく、愛と和解、感謝すること伝えてゆくことが教会の役割だからです。私たちは争いが続くこの時代にあって、あきらめずに平和を祈ってゆきましょう。平和をあきらめさせようとする力こそ悪霊の力です。

教会にはたくさんのあきらめない祈りがあります。周囲は共に祈ることが大切です。今日の聖書から平和への祈り、他者への祈りをあきらめずに続けるイエスの姿を見てゆきたいと思います。

今日の個所の少し前、イエス様は山の上で光り輝く姿となってから、下り、人々が議論し、争う場所にやってきました。それは私たちが争いあう現実の世界にイエス様が来て下さるということを示しています。

そしてイエス様は病気のこどもの父親があきらめかけていることを感じました。悪霊とはあきらめさせる力です。もうダメだ、そうあきらめさせるのが悪霊の力なのです。父親は悪霊に負けそうになっていました。あきらめかけていたのです。イエス様は23節「信じる者は、なんでもできる」と言います。神様への信頼があれば、私たちはすべてが可能となるときまで、あきらめずに祈ることができるのです。

「信じます!」という父親の言葉は24節「叫び」でした。私たちもそのように祈っていいのです。祈りは叫びです。美しい言葉にならなくてよいのです。そしてこれは息子自身の祈りではなく、周囲の人々、周囲の大人の祈りです。周囲の大人のあきらめない叫びが、神様に届いたのです。そして25節、イエス様は悪霊をしかりつけて追い出します。イエス様はこの物語から希望を教えてくれています。私たちがあきらめそうになる時、そのことをもう一度祈れ、あきらめるな、祈りよってこそ、このあきらめは追い出すことができるという希望です。

私たちは何かをあきらめそうになっているでしょうか。私たちはあきらめずに祈り続けたいのです。特に平和について祈り続けましょう。悪霊の力はいつも、私たちをあきらめようとさせます。私たちはその悪霊を追い出すように祈りたいのです。父親の祈りが叫びだったように、私たちも祈り叫びましょう。声をあげましょう。平和が欲しいと神様に叫びましょう。そして実はイエス様も叫んだお方です。イエス様こそ暴力のただなかで平和を求めて叫び、神に祈ったのです。私たちも暴力が満ち溢れる世界の中で、あきらめずに平和を主に叫び願ってゆきましょう。

この後、主の晩餐を持ちます。この杯は十字架の主が流した血を象徴します。イエス様こそ暴力のただなかで叫び、血を流し、平和を祈られた方であったことを覚えてこの杯をいただきましょう。そして私たちも叫び、平和を祈りましょう。

 

【全文】「イエス様は本当に優しい王様」ヨハネによる福音書 18章37節、19章19節~22節及び、マタイによる福音書26章74節~75節

私は、東京バプテスト神学校から参りました小平公憲と申します。所属教会は横浜ニューライフバプテスト教会です。今日このように宣教の機会を与えてくださった、平塚バプテスト教会の皆様と平野先生に深く感謝いたします。また、普段から東京バプテスト神学校のためお祈りとご支援をたまわりありがとうございます。

神学生ということで、若い青年が来るのかと思われた方もいらしたかもしれませんが。残念ながら、私はもう還暦を迎えたおじいちゃんかもしれません。私には何もできませんが、残りの人生を神様のために捧げられたらという思いで、献身を決意し4年目を迎えました。

ここで、東京バプテスト神学校について紹介させていただきます。東京バプテスト神学校は、誰でも学べる学校です。大学のような試験はありません。面接があるだけです。もちろん通学することもできますが、インターネットによるライブ授業、録画によるデジタル教材など、時間と空間を超えて、コロナ禍においても安心して授業を受けることができます。私の受講している授業でも、北海道から九州まで同時にライブ授業を行っています。働きながらでも、子育てや介護を行いながらでも学ぶことができます。神学校で学びたい方、お知り合いの方などに、ぜひ、ご紹介していただければと思います。

宣教のメッセージに入る前に、私のことを知っていただくため、簡単に証しをさせてください。私は小学校4年生の時にある大学生の青年に家庭教師に来てもらい、勉強を教わることになりました。その方は20歳の青年で、クリスチャンではありませんでした。求道中の彼は、やがてクリスチャンとなり、聖霊の働きとしか言いようのない不思議なことがたくさん起こりました。私は、彼からイエス・キリストを教わり、受け入れたのです。彼は自分の志を180度変え、西南学院大学神学部へ進み、牧師を目指すことになったのです。その後私は高校大学へと進学し、教会から離れてしまい、暗澹たる生活を送っていたのです。

私は真剣に「神様私を救ってください。神様私をどのように救ってくださるのですか。」と、祈り続けました。

私は大学卒業後、中学校の先生になったのですが、躓いてしまい、にっちもさっちもいかなくなり、あるバプテスト教会に救いを求め、飛び込みました。その教会では、80過ぎの牧師先生が杖を突きながら講壇に上がっていました。やっと通い始めた教会でしたが、牧師は高齢のため1か月ほどで引退し、無牧師になってしまいました。しかし、その6か月後に赴任した新牧師は、私の家庭教師であったあの大学生の青年だったのです。

私はイエス・キリストを教えていただいた、自分の家庭教師からバプテスマを授かることになったのです。このようなことが起こる確率は、宝くじの一等に当たる確率より低いことを知っています。宝くじに当たった方がよかったですか?私は宝くじに当たるより救われたほうが、はるかに幸せで、良かったと思っています。

次に「イエス様は本当に優しい王様」という題でメッセージを致します。話は飛びますが、最近読んだ本でユヴァノ・ノア・ハラリの21Lessonsという本があります。4~5年前になるかもしれませんが、彼は。サピエンス全史という本を著し、大変話題になりました。その本は全世界で600万部以上売れたそうです。私は結構ハラリの本にハマっています。ハラリはユダヤ人の歴史学者であり、哲学者なので、聖書やユダヤ教のことにもとても詳しいです。

ハラリは、人類の歴史を動かしてきたものは3つあるといっています。『帝国主義』、『貨幣』つまりお金です。そして、『宗教』です。この3つは、何千年もの間、人類を支えてきた仕組みであると言っています。いま、ウクライナ戦争が起こっていますが、これも極めて帝国主義的な様相を示しています。

イエス様の時代も、イスラエルはローマ帝国という帝国に支配・占領されていました。当時のユダヤ人は、この帝国主義から解放してくださる真の救世主を待望していました。この救世主は、ダビデ王やソロモン王のように強いリーダーシップで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかし、目の前に現れた救世主のイエス様はそのような力強さを持った方ではありませんでした。ユダヤ人は自分たちの待ち望む救世主のイメージからかけ離れていることを理由に、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と言って、イエス様を十字架につけてしまったのではないでしょうか。

総督ピラトは大した人ではなかったと言われていますが、でも、彼はイエス様の本質を見抜いていました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。つまり、ピラトは、イエス様を本気でユダヤ人の王と考えていたのです。そのことは、300年後に証明されます。有名なことですが、ローマ帝国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国になるのです。当時の言葉でパックス・ローマ―ナという言葉がありますが、それはローマ帝国の繁栄を表す言葉です。つまり、当時の世界を覇権していたローマ帝国。当時の世界一の国です。

その国が、従属国の大工の子であるイエス様を受け入れたのです。そんなことが世界史の中で他に例があるでしょうか?歴史学者のハラリも「不思議なこと」という言葉を使って、このことを表現しています。この説明は「本気でイエス様に聞き従った人々」と「神の計画」によってなったとしか言いようがないのです。当時のユダヤ人たちは、イエス様を救世主である王とは認めませんでした。でも、ピラトが言った通り、イエス様の説いた教えは、ある意味ローマを征服したのです。これはすごいことです。一つの宗教が覇権帝国主義を凌駕したのです。彼こそ真の王ではないでしょうか。その方法は、武力や力ではありませんでした。彼の武器は、愛と恵みでした。

最近、キリスト教会が、元気がないという話をよく耳にします。日本だけではなく、諸外国でも、教会の衰退が話題になります。ウクライナ戦争を見ても、ウクライナとロシアというキリスト教国同士が戦争をしています。私は、キリスト教や教会が衰退する原因は、ずばり「人がイエス様に聞き従わない。」からだと思います。別な言い方をすると聞き従うようなふりをして「イエス様に背いている。」からだと思います。私も4年前に、仕事を早期退職して、東京バプテスト神学校へ入学し、実家で両親の在宅介護を始めました。最初は信仰に燃え、仕えるものとして、イエス様に聞き従って、「私はできる。」と自信満々でした。しかし、両親の衰えが進むと、介護が大変になり、身体が悲鳴を上げ、自分を優先するようになりました。両親に不平を言ったり、怒鳴ったりしました。とどのつまりが、両親の介護度も上がり、自分では面倒を見切れない状態になってしまい、施設に預ける決断をしました。あのペテロのように、私には自信があったのです。しかし私は、イエス様に聞き従うことができない自分を、認めざるを得ませんでした。私は、あのペトロのように激しく泣きました。「私はあなた様の靴の紐を説く値打ちもないものです。」、と。

しかしイエス様は、そんなダメ人間が大好きです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」本当に彼は優しい方です。このヨハネの福音書の続きにも、あの挫折したペトロに、復活したイエス様は、もう一度「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。私たちは、イエス様に近づこうとしても、なかなか近づけないダメ人間です。また、世の中でもたくさん失敗や挫折を味わいます。でも、イエス様はそんな私たちに再び声をかけてくださり。私を愛しているか?と優しく聞いてくださり、私の羊を飼いなさいと言ってくださるのです。イエス様には、どうしてこのようなことができるのでしょうか。それは、イエス様が私たちの代わりに死んでくださったからです。確かにその方の十字架の上には、「ユダヤ人の王」と書いてあったのです。つまり、私たちは、この王様によって「赦された罪人」なのです。真の王であるイエス様が、今日も私たちを優しく取り扱ってくださるのです。帝国主義を凌駕するイエス様の方法は、この愛と恵みです。私たちも、この愛と恵みという方法で、再びイエス様の羊を探し出そうではありませんか。お祈りいたします。

 

天の神様、あなたの聖名を讃美いたします。

あなたがイエス様を遣わしてくださったことを感謝します。

私たちは、自己中心的な存在です。でも、イエス様の人格に触れる時、私たちは生まれ変わることができます。どうか、私たちの中心に居座る自分自身をイエス様に明け渡すことができますように、あなたが導いてください。

私たちがイエス様という王様に「赦された罪人」として、イエス様に聞き従うことができますように。

復活したイエス様は今も生きて共にいてくださることを感謝いたします。

あなたの守りがとこしえにありますように。

この祈りをイエスの聖名によりお祈りいたします。

アーメン

 

「イエス様は本当に優しい王様」ヨハネによる福音書 18章37節、19章19節~22節及び、マタイによる福音書26章74節~75節

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。   ヨハネによる福音書 19章19節

 

有名なユヴァノ・ノア・ハラリはユダヤ人の歴史学者であり、哲学者です。ハラリは人類の歴史を動かしてきたものは3つあるといっています。『帝国主義』、『貨幣』、『宗教』です。イエス様の時代も、イスラエルはローマ帝国という帝国に支配・占領されていました。当時のユダヤ人は、この帝国主義から解放してくださる真の救世主を待望していました。この救世主は、ダビデ王やソロモン王のように強いリーダーシップで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかし、目の前に現れた救世主のイエス様はそのような力強さを持った方ではありませんでした。

ユダヤ人は自分たちの待ち望む救世主のイメージからかけ離れていることを理由に、イエス様を十字架につけてしまったのではないでしょうか。総督ピラトはイエス様の本質を見抜いていました。つまりピラトはイエス様を本気でユダヤ人の王と考えていたのです。そのことは、300年後に証明されます。ローマ帝国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国になるのです。歴史学者のハラリも「不思議なこと」という言葉を使って、このことを表現しています。この説明は「本気でイエス様に聞き従った人々」と「神の計画」によってなったとしか言いようがないのです。一つの宗教が覇権帝国主義を凌駕したのです。彼こそ真の王ではないでしょうか。彼は武力という方法ではありませんでした。彼の武器は、愛と恵みでした。私は、キリスト教や教会が衰退する原因は、ずばり「人がイエス様に聞き従わない。」からだと思います。

私も4年前に、仕事を早期退職して、東京バプテスト神学校へ入学し、実家で両親の在宅介護を始めました。最初は信仰に燃え、仕えるものとして、イエス様に聞き従って、「私はできる。」と自信満々でした。しかし、両親の衰えが進むと、介護が大変になり、身体が悲鳴を上げ、自分を優先するようになりました。とどのつまりが、両親の介護度も上がり、自分では面倒を見切れない状態になってしまい、施設に預ける決断をしました。私は、あのペテロのように激しく泣きました。「私はあなた様の靴の紐を説く値打ちもないものです。」、と。しかしイエス様は、そんなダメ人間が大好きです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」彼は本当に優しい方です。

私たちは、イエス様に近づこうとしても、なかなか近づけないダメ人間です。また、世の中でもたくさん失敗や挫折を味わいます。でも、イエス様はそんな私たちに再び声をかけてくださり。私を愛しているか?と優しく聞いてくださり、私の羊を飼いなさいと言ってくださるのです。真の王であるイエス様が、今日も私たちを優しく取り扱ってくださるのです。帝国主義を凌駕するイエス様の方法は、この愛と恵みです。私たちも、この愛と恵みという方法で、再びイエス様の羊を探し出そうではありませんか。

 

【全文】「命をいつくしむ神」マルコ9章33~37節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの平和の足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今月は平和について考えています。平和とはただ戦争が無い状態を指すのではありません。聖書の平和とはひとつひとつの命が大切にされ、輝いていることです。聖書の平和から、私たちのこの日本を見渡すと決して、平和とは言えないと思います。平和は命を大切にすることから始まります。命を壊すのではなく、愛し、育てることから平和は始まります。平和は命への慈しみをもつことから始まるのです。

先日、私は近所の方から、植物の苗をいただきました。それはどんぐりの種から芽が出た苗でした。ドングリが二つに割れて、そこから芽が出ている苗でした。どんぐりから芽がでているのを始めてみたので、とてもうれしい気持ちでそれをいただきました。

その方の自宅のお庭も見せてもらったのですが、そうするとアジサイの挿し木がたくさん並べてありました。アジサイの枝を切ってまた新しいアジサイの苗を作っておられたのです。お庭を見ていて、どんぐりの苗を見ていて、その方の命に対する姿勢、命に対して慈しみを持っていること、命に対するあたたかいまなざしを感じ、感動して帰ってきました。どんぐりは公園にたくさん落ちているけど、あのどんぐりは、本当はこんな素敵な命なのだということを教わりました。

そんなことを考えていると、どんぐりの背比べということわざを思い出しました。そのことわざの意味は「どれも代わり映えのしない、ぱっとしない者同士が競い合っている様子。突出した者がいない様子」という意味です。よくよく考えると、ひどいことわざではないでしょうか。本当はひとつひとつ違う命です。確かにそこから芽が出る命です。しかしその命と、命の小さな違いを見逃し、まるで見下して、笑っているようです。

どこかこのことわざは、自分はどんぐりとは違う場所に居て、上に立ち、二人を比較し、評価するという視点を持っています。2つを見下す視点です。そして大きな違いがないことを笑っているように感じます。でも、どんぐりは命です。どんぐりも競い合っていいではないですか。どちらも大した違いがないと言われるが筋合いはありません。同じ様に見えて本当は全く違うはずです。2つの命の小さな違いが大事なのではないでしょうか。どんぐりは、小さくて踏みつけられそうな命です。違いがない、個性がないと笑われる命です。私はそんなどんぐりをひろって育てる、命をはぐくむ者でありたいと思いました。捨てられてしまうどんぐりに命を見出し、温かいまなざしを注ぎたいのです。

命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。この命を大切に思うことが、平和の始まりです。競い合ってよいのです。私はこう違うということを、どんぐりの背比べをしても良いのです。

大事なのは何を競うかです。相手を自分の下に置いて、評価し、笑うこと、命に差をつけること平和ではありません。私たちはそうではなく、この命をどれだけ大切にできるのか、命への慈しみを競いたいのです。命を大切にする人を見て「ああ、私もあの人のように、あの人よりもっと命を大切にしたいと思う」そんな競い合いをしたいのです。

それがたとえどんぐりの背比べのような違いでも、私たちは少しでも命を大切にするまなざしをもって生きる、そのような群れになりたいのです。その命の慈しみから平和が生まれてくるのです。

今日は聖書で競い合う弟子を見ます。誰が一番、偉いかを競うどんぐりの背比べです。しかしイエス様はその競い合いを、この命をどれだけ大切にできるかという競い合いに変えるお方です。イエス様はどちらが偉いかを競い合う弟子に、この命を大切にする様を見せました。今日私たちはイエス様の命への慈しみ、まなざしを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書はマルコ9章33節~37節です。イエス様と弟子たちはカファルナウムのある家に滞在することになります。そこでイエス様が弟子たちに聞きます。「途中で何を議論していたのか?」弟子たちは口ごもってしまいます。帰り道で自分たちの中で誰が一番偉いかを決めようとしていたからです。自分たちに序列をつけようとしていたからです。

イエス様はそのような弟子12人を呼び集めて言います。35節「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。ここで注目をするのは、イエス様は競い合うことはやめなさいとは言っていないことです。「いちばん先になりたいのなら」と、競い合うこと自体は否定しないのです。お前たちが頑張ってもどうせ、どんぐりの背比べだとは言わないのです。私たちは競い合ってよいのです。私たちには切磋琢磨という言葉があります。私たちは競い合い、励まし合い、お互いを高め合うことができるのです。

イエス様は「先になりたい者はすべての者の後になり、仕えるように」と言います。イエス様はまず「すべての人の後となるように」と言っておられます。後になるとはどんなことでしょうか。それは先を競うのではなく、後を競うということでしょう。競うのは、自分が先に行くことではなく、自分が後ろ行くことです。大事なのは後ろに目を向けてゆくことです。

後ろの人とは、どんな人のことでしょうか。集団について来れずに遅れてしまう人のことでしょうか。いつも後回しにされてしまう人の事でしょうか。早く走れない人のことでしょうか。他にどんな人が後になっているでしょうか。この世界で、私たちの住む町で、生活の中で、教会の中でどんな人が後になっているでしょうか?

イエス様は私たちにすべての人の後になりなさいと言っています。すべての人の後になるとは、いつも後回しになってしまう人たちに目を向け、手を取って共に歩んでゆくことでしょう。イエス様はそのことをする人が偉いと言います。先になりたいなら、置き去りにされてしまう命を大切にし、命をはぐくむことが大事だと言ったのです。それが「すべての人の後になる」という意味です。

そして36節を見ましょう。私にはこの個所、この中で誰が一番偉いかという競争に、イエス様も参加したように見えます。一番偉いとはどんなことかをイエス様ご自身が示したのだと思います。その様子が36節に書かれています。当時はこどもの命とは、今よりずっと大切にされない命でした。いつも大人優先で、後回しにされてしまう命でした。こどもの命は親の所有物だったのです。

 

イエス様はここでどんな人が偉いかを具体的に示そうとします。それは自分が先になることではありませんでした。イエス様が示したのは、いつも後回しにされてしまいそうな命をかえりみることでした。そしてイエス様の動作に目を向けましょう。イエス様はこどもの手を取りました。手をつないだのです。それはその命に対する慈しみであり、思いやりであり、連帯でした。いつも後回しにされてしまう命に、足を止め、温かいまなざしを持って見つめたのです。

さらにイエス様を見ましょう。次はこのこどもを人々の真ん中に立たせたのです。隅に、はじっこに、後ろに立たせたのではありません。人々の真ん中に立たせたのです。いつも隅に追いやられ、叱られ、後回しにされるこどもを、真ん中に呼んだのです。それがイエス様の命へのまなざしです。

さらにイエス様をみましょう。次はこどもを抱き上げます。こどもを抱きしめたのです。愛をもってその命を自分の腕の中に迎えたのです。この命を慈しみをもって迎えたのです。大切だ、大事にするよ、それが相手に一番伝わる行動を起こしたのです。

これがイエス様です。これがもっとも偉いお方の姿です。私には競い合うなら、こう競え、そう言っている様に聞こえます。この命をどれだけ大切にできるか競いなさい、そう言わんばかりに、こどもを抱きしめたのです。私たちもすべての命、その命を大切にするように競い合いたいのです。手を握り、真ん中に招き、抱きしめてゆきたいのです。

そしてイエス様は最後にこう言いました。「この命を大切にすることが、神様を受け入れる事だ。」「この命を受け入れる者は、神様に受け入れられる」そう語ったのです。もちろんそれは、こどもの命だけではないはずです。後回しにされてしまう命、見過ごされてしまう命、遅れて取り残されてしまいそうな命、大した違いがないと笑われる命、物のように扱われる命、踏みつけにされる命、イエス様はこのような命こそ、受け入れるお方です。命への慈しみを持つお方なのです。

私たちもそれぞれの命に目を向けましょう。命を大切にすることが、命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。どんぐりと笑われる命があるでしょうか。どんなに笑われても、それは命です。どこにでもあるような命かもしれません。でもそれは命です。イエス様はその命を大切にはぐくむお方です。イエス様はその命と手をつないで、真ん中にして、抱きしめて下さるお方です。それがイエス様の愛です。

私たちはどんぐりのように小さいかもしれませんが、背を比べたいのです。お互いがどうやって互いの命、こどもたち命、後回しにされてしまう命を大切にできるか競い合ってゆきたいのです。

平和はそこから始まります。殺すことの反対は殺さないことではありません。殺すことの反対は命をはぐくむことです。私たちは殺さないだけではなく、命をはぐくむことを大切にしてゆきましょう。それが平和を実現させてゆくはずです。お祈りします。

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「命をいつくしむ神」マルコ9章33~37節

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

マルコ9章35節

 

今月は平和について考えています。先日私はどんぐりの種から芽が出た苗をいただきました。苗を見ていて、その方の命に対する姿勢、慈しみ、あたたかいまなざしを感じました。どんぐりが本当はこんな素敵な命なのだということを教わりました。

どんぐりの背比べということわざがあります。どれも代わり映えのしない者同士が競い合っている様子をあらわすことわざです。ひどいことわざではないでしょうか。本当はひとつひとつ違う命です。このことわざは自分はどんぐりとは違う場所に居て、上に立ち、二人を比較し、評価するという視点を持っています。2つの命の小さな違いが大事なのではないでしょうか。どんぐりは、小さくて踏みつけられそうな命です。私はそんな捨てられてしまうどんぐりに命を見出し、温かいまなざしを注ぎたいと思います。命をはぐくんでゆくことが平和の始まりだからです。

今日は聖書で競い合う弟子を見ます。どんぐりの背比べです。イエス様はどちらが偉いかを競い合う弟子に、この命を大切にする様を見せました。今日私たちはイエス様の命への慈しみを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

イエス様は35節で「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言います。イエス様は競い合うこと自体は否定しません。私たちには切磋琢磨し、励まし合い、高め合うことができるのです。

イエス様は「すべての人の後となるように」と言っておられます。後になるとは先を競うのではなく、後を競うということでしょう。後ろの人とは、集団についてこれずに遅れてしまう人、いつも後回しにされてしまう人の事でしょうか。他にどんな人が後になっているでしょうか?

イエス様は私たちに、後回しになってしまう人たちに目を向ける人が偉いと言います。そして36節は私には、この中で誰が一番偉いかという競争に、イエス様も参加したように見えます。どんな人が偉いかを具体的に示そうとしたのです。イエス様はこどもと手をつなぎました。さらにイエス様はこどもを人々の真ん中に立たせます。いつも隅に追いやられている者を、真ん中に呼んだのです。さらにイエス様はこどもを抱きしめます。愛をもってその命を自分の腕の中に迎えたのです。それがイエス様の命へのまなざし、もっとも偉いお方の姿です。

そしてイエス様は最後に「この命を大切にすることが、神様を受け入れる事だ。」「この命を受け入れる者は、神様に受け入れられる」そう語ります。後回しにされてしまう命、見過ごされてしまう命、遅れて取り残されてしまいそうな命、イエス様はこのような命こそ、受け入れるお方です。命への慈しみを持つお方なのです。

私たちもそれぞれの命に目を向けましょう。命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。イエス様はその命を大切にはぐくむお方です。イエス様はその命と手をつないで、真ん中に招き、抱きしめ、愛して下さるお方です。お祈りします。

 

【全文】「パン種に気をつけなさい」マルコ8:14~21

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝します。また今日はこのあと、水遊び会も予定しています。たくさんのこどもたちが来てくれるように祈っています。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもに一番必要な平和を大切にする教会です。今日もこの礼拝で、こどもたちと共に平和を覚えてゆきましょう。この1ヶ月は平和をテーマに宣教をしています。

77年前の7月16日の夜、平塚大空襲がありました。72年前の今日は、空襲が終わり、一面が焼け野原になり、空襲の被害が明らかになってきた時間でしょうか。この中にもその空襲を経験された方、その話をよく聞いた方がいらっしゃると思います。多くの人の命が奪われたことと平和の大切さを覚えて礼拝をしましょう。

戦争は、小さなことがきっかけで起こります。小さなことに対しての気持ちが、どんどんエスカレートしていって、大きくなってゆくことで戦争は始まります。戦争は私たちの中にある小さな気持ちから始まるのです。そしてだんだん「自分たちを守るためだ」「戦争もしょうがない」そのような思いへと高まって戦争が始まってゆきます。戦争は誰か一人が始めるものではありません。一人一人の小さな思いから始まってゆくものです。小さな思いが大きくなって戦争になります。戦争は悲惨です。戦争こそもっとも大きな「罪」と言えるでしょう。

そして小さなことが大きくなってゆくのは、平和も同じです。平和もだれか一人が実現させるものではありません。平和はみんなの小さな「平和は大切」「戦争は嫌だ」という気持ちから、どんどん広がってゆきます。平和は大事さを確認しあうことで、広がってゆきます。そのように小さな平和の気持ちがどんどん大きくなって、広がって、世界の平和が実現してゆきます。だからこそ小さくても、私たちが平和を求める気持ちを持っていることが大切です。

私たちは小さな平和を持ち寄って、大きな平和を実現させてゆきましょう。すぐに世界の平和を実現させることはできないかもしれません。でも何かお互いの平和につながることはできないでしょうか?小さなことが大事です。ちゃんと挨拶をする、いつもしてもらっていることに感謝を伝える、落ち込んでいる人に励ましの言葉をかける、困っている人と分かち合う、ゆっくりと話を聞く、こどもを大切にする・・・。私たち一人一人の生活の中で、お互いの中で、どのような平和を造り出すことができるでしょうか?大きなことでなくて構いません。小さなことが大事です。神様は平和への気持ちをきっと大きくしてくださるお方です。そして神様は全員が満たされるような平和を下さるはずです。神様は平和を実現するものとして、私たちを用いて下さるはずです。自分ができる平和に思いを巡らせて、祈ってゆきましょう。

今日は聖書から、イエス様は「戦争はしょうがない」そういう気持ち、罪を小さくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。イエス様はそういう気持ちに気を付けなさいと、私たちに注意をしてくださいます。そしてイエス様は「平和は大切」そう思う小さな気持ちを大きくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。イエス様は私たちの心にある小さな平和の思いを大きくしてくださるお方です。聖書を読んでゆきましょう。

 

今日はマルコによる福音書8章14節~21節をお読みしました。今日の個所では14節、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れています。そして16節では何かを論じ合っています。パンを忘れたというほほえましい小さな出来事が、弟子たちの間で大きなイライラに発展してゆきます。パンを忘れた責任はだれにあるのか、誰が食べて、誰が食べないのかを議論していたのでしょうか?

イエス様は15節で「パン種によく気をつけなさい」と言います。パン種とは、パンを膨らませるための、パンのひとかけらです。当時は、前に食べたパンのかけらを取っておいて新しく作るパンに混ぜ、パンを膨らませました。パン種とはどんな意味でしょうか?

聖書においてパン種は善いたとえにも、悪いたとえにも使われます。善いたとえの例は、ルカ13章21節にあります。神の国はパン種のようなものだ。パン種は一度生地の中に入り込むと、その影響を止めることはできません。どんどん膨らんでゆきます。このようにパン種は、神の国がイエス様という一人の人から、大きく広がってゆくのだというイメージで使われています。

そしてパン種は悪いイメージにも使われます。パン種は腐敗すること、罪の象徴です。ひとたびパン種がパンの中に入り込むと、小さくてもその人全体、その社会全体に影響し、全体の性質を変えてしまうというイメージです。罪や汚れが入り込むと、人間全体に影響するという意味です。

今日、パン種が具体的に何のことを言っているのかわかりませんが、悪いイメージの方で使われているのは確かでしょう。何か小さな悪いものが、自分たちに入ると、大きく広がっていくということに注意を促しています。他人を責める思いが知らぬ間に自分たちの中に入ってきて、大きくなって、私たちの自身の考え方、そしてメンバー全員の気持ちが変わってしまうことに注意しなさいと言っています。

おそらくイエス様はパンを忘れたときの、弟子たちの反応を見て、この言葉を語ったのでしょう。ほほえましい小さな出来事から誰が食べるのか、誰の責任か、そのような大きな思いへと広がっていることを見抜いたのでしょう。今、自分の中にある悪い思い、パン種、罪に気をつけなさいと言ったのです。

パン種は罪とも言い換えることができるでしょう。罪とは人を傷つけたり、人から奪ったり、人を利用したり、怖がらせたり、独占しようとすることです。そのようなことが小さくてもお互いの中で大きくなり、いつのまにかそれが当然のことになってゆくのです。

小さなパン種がパン全体を変えるように、自分たちの罪が、周囲の人々も変えてしまうのです。周囲の人を巻き込んで本当は間違っていることを、正しいこと、しょうがないことと思うようになってしまうのです。他の人もやっているし、このくらいいいやと思ってしまうのです。今日の場面で言うなら、自分がファリサイ派やヘロデ派の考え方と同じなってしまうということが起こるのです。小さくても間違った事を繰り返し見ていると、いつのまにか正しいように感じ、自分もそれをしていいと思ってしまうのです。イエス様はそのことに注意を向けています。

イエス様は自分の身近に起きている罪、人を傷つけている事に注意するようにと言っています。そしてそれがパン種のように自分の中に入ってこないように気をつけなさいと言っているのです。困った時にふと思う悪い思い、一人一人の中にあるパン種、罪に気を付けなさいと言っているのです。

ではイエス様が目を向けさせようとしているのは何でしょうか?イエス様が目を向けて欲しいのは19節「あの時パンが増えたではないか」ということです。イエス様はパンの奇跡のことを思い出させようと繰り返し問いかけています。5000人に配った時はいくつ余ったのか、4000人の時はいくつ余ったのかと聞いています。これは何を意味するのでしょうか?みなさんもパンの奇跡を思い出してください。あの奇跡は圧倒的に足りなかったもの(5つのパンと2匹の魚)が、不思議と増えて、満たされて、余るほどになったという奇跡でした。イエス様は今度は、善いものが増えるイメージを語っています。圧倒的に不足しているもの、小さな善いものが増えてゆくイメージを思い出させているのです。イエス様はここで2つのイメージを語っています。悪いものが増えることへの注意と、良いものを増やす神様の働きです。

イエス様はここで2つのイメージを語っています。1つはパン種が全体に影響するように罪が大きくならないように、気をつけなさいというイメージです。そしてもう1つは5000人の食事のように、イエス様はこれしかないと思うような小さな思いを大きくしてくださるというイメージです。ここでは神様は小さくても、少なくても良いものを大きく広がるようにしてくださると伝えているのです。

平和への思いも同じです。それぞれが持っている平和への思いはすごく小さいかもしれません。みんなを平和にするには本当に小さいかもしれません。できることは目の前の人との平和だけかもしれないけれども、でもイエス様はその本当に小さな平和を大きくしてくださるお方です。

今日私たちは小さな平和を大切にしたいのです。イエス様は「あまったパンはカゴいくつだったか」そう呼びかけ、私たちの小さな思いを大きくしてくださること、小さな平和への思いを大きくしてくださることを約束してくださっています。そして私たちは小さくても悪・罪に注意をしたいのです。イエス様は今日私たちに「パン種に気を付けなさい」と呼びかけているからです。

この世界でもっとも大きな悪、罪は戦争をすることです。戦争も小さな、戦争を容認する気持ちから始まります。私たちはそのパン種、自分の中の気持ちに気を付けてゆきましょう。

平和をもっと願ってゆきましょう。小さくてもいいのです。自分たちの目の前のことでもいいのです。平和を願って隣人と接してゆきたいのです。イエス様がきっとそれを大きくして、世界にありあまるほどにしてくれるのです。今日それを悟りたいのです。

イエス様は私たちに「悟りなさい」と呼びかけています。小さくても悪いものが大きくならないように、そして小さくても良いもがは大きくなるように、イエス様が導いてくださいます。私たちはその希望を持って、歩んでゆきたいのです。イエス様の声を聞き続けたいのです。そのように共に平和を祈って、イエス様に従って歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

 

「パン種に気をつけなさい」マルコ8:14~21

そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。マルコ8章15節

 

この1ヶ月は平和をテーマに宣教をしています。戦争は、小さなことがきっかけで起こります。小さなことに対しての気持ちが、どんどんエスカレートし戦争が始まってゆきます。戦争は一人一人の小さな思いから始まってゆくのです。小さなことが大きくなってゆくのは、平和も同じです。平和はみんなの小さな気持ちから広がってゆきます。私たちは小さな平和を持ち寄って、大きな平和を実現させてゆきましょう。一人一人の生活の中で、お互いの中で、平和を造り出してゆきましょう。自分ができる平和に思いを巡らせて、祈ってゆきましょう。

今日は聖書から、イエス様は罪を小さくしてくださるお方だということ、そしてイエス様は「平和は大切」そう思う小さな気持ちを大きくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。

今日の聖書ではパンを忘れたという小さな出来事が、弟子たちの間で大きなイライラに発展しています。イエス様は15節で「パン種によく気をつけなさい」と言います。聖書においてパン種は善いたとえにも、悪いたとえにも使われます。どちらも小さくても人間全体に影響するという意味です。今日の個所は悪いイメージの方で使われています。おそらくイエス様は小さな出来事が、誰が食べるのか、誰の責任か、そのような大きな思いへと広がっていくことを見抜いたのです。今、自分の中にある悪い思い、パン種、罪に気をつけなさいと言ったのです。困った時にふと思う悪い思い、一人一人の中にあるパン種、罪に気を付けなさいと言っているのです。

イエス様が目を向けさせようとしているのは19節「あの時パンが増えたではないか」ということです。5000人のパンの奇跡は圧倒的に足りなかったものが、不思議と増えて、満たされて、余るほどになったという奇跡でした。イエス様は今度は、善いものが増えるイメージを語っています。ここでは神様は小さくても良いものを大きく広がるようにしてくださると伝えているのです。

平和への思いも同じです。それぞれが持っている平和への思いは小さく、できることは目の前の人との平和だけかもしれません。でもイエス様はその小さな平和を大きくしてくださるお方です。イエス様は「あまったパンはカゴいくつだったか」そう呼びかけます。私たちの小さな思いを大きくしてくださること、小さな平和への思いを大きくしてくださる約束をお持出させてくださっているのです。そして私たちは小さくても悪・罪に注意をしたいのです。イエス様は今日私たちに「パン種に気を付けなさい」と呼びかけているからです。

イエス様は私たちに「悟りなさい」と呼びかけています。小さくても悪いものが大きくならないように、そして小さくても良いもが大きくなるように、イエス様が導いてくださいます。私たちはその希望を持って、歩みましょう。イエス様の声を聞きましょう。共に平和を祈って、イエス様に従って歩みましょう。お祈りします。

 

2022年7月17日水遊び会を開催します!

7月17日(日)13:30~教会の中庭で「みずあそび会」を開催します!!プールをたくさん出して水あそびをします。申し込みは不要ですので、ぜひ遊びに来て下さい。

 

去年の様子
去年の様子

【全文】「権力を監視する教会」 マルコ6:14~29

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集えたこと、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの平和の声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。先週まで長く、こひつじ食堂と福音というテーマで聖書から聞いてゆきました。たくさんの恵みに感謝します。今日からは8月14日の平和祈念礼拝まで「平和」をテーマに聖書を見てゆきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

平和というテーマでまず思い浮かぶのは、ロシアのウクライナ侵攻についてでしょう。一日も早くこの暴力が終わることを祈っています。特に私が心を痛めているのは、キリスト教のひとつであるロシア正教の最高指導者がこの侵攻を支持していることです。ロシア正教の最高指導者・総主教キリル1世は、この侵攻を正義と悪の黙示録的戦いだ、神の加護があると積極的に支持しています 。また総主教はウクライナの人々が同性愛を認めつつあることも侵攻の理由にしています。ロシアでは現在、司祭がウクライナに出征する兵士や戦車、ミサイルに聖水をふりかけ、祝福の祈りをし、軍隊を鼓舞しています。これは聖なる戦争だ、魂の救済だと語っています。EUではこの最高指導者は経済制裁の対象にもなっています。これがロシアのキリスト教の姿です。私たちもキリスト者としてこの戦争に対し無関係ではありません。宗教が戦争・平和にどのように関わるべきかをこの戦争からも痛感しています。ロシア正教のウクライナへの侵攻の支持はこの戦争に、宗教的お墨付きを与えるという役割を持っています。戦争が宗教上、善い事だと支持された時、戦争は「聖戦」とされ、激しさを増します。そしてロシアとロシア正教の場合もそうですが、多くの場合、国家と宗教が深く結びつくことによって、宗教が国家の戦争を支持するようになります。腐敗した権力と宗教が結びつくことによって、宗教も腐敗し、平和について妥協するようになるのです。まさしくロシアで起きていることでしょう。

権力は必ず腐敗します。どんなに素晴らしい人でも権力を手にすると、変わってしまいます。その権力は、監視され続けなくてはいけません。宗教は、権力と一体になるのではなく、誤った判断をするとき、違うと大きな声で反対しなければいけないのです。そのように宗教は政治に関わらないのではなく、監視し続ける必要があるのです。宗教の本来の役割は戦争の芽に誰よりも早く気づき、平和を訴えることです。どんな戦争も支持せず、毅然と反対をし続けることです。どんなに国家・国民が熱狂的に戦争を支持しようとも、宗教は最後まで戦争に反対することが役割です。そのために宗教は国家・行政と結びつくのではなく、監視を続けることが大事です。国家が平和に反する方向に進んでいないかを監視し、訴えてゆくことが教会の大切な役割です。

だからこそ、私たちがこの礼拝の中で平和について考えることは大事なことです。宗教が戦争に反対することは、戦争を未然に防ぐことに大きな効果があるのです。戦争を防ぐための非常に効果的な方法なのです。だからこそ一緒に礼拝で、平和を願ってゆきましょう。

私たちの国でも今日は参議院選の投票日です。ぜひそれぞれの1票を平和のために投じてゆきましょう。今回の選挙では、軍事費の倍増(GDPの2%)、敵基地攻撃能力の保有を公約として堂々と挙げている政党があります。私たちは軍事力による平和を求めません。私たちは剣ではなく、鍬を選ぶのです。私たちは戦うことではなく、命をはぐくむことを選んでゆきたいのです。それぞれの大切な1票を祈り、投じてゆきましょう。

私たちは平和に関わる責任があります。平和への大きな影響力があります。政治に目を向け、今平和が実現されようとしているのか、それとも戦争が開始されようとしているのかを見極めなくてはいけません。私たちの教会は、平和について日本・世界の中で果たす大切な役割があります。

私たちの信仰告白にもこうあります「教会は地上の権威、権力に常に目を注」ぐ。今日は地上の権力に目を注ぐこと、平和を求めてゆくことを、聖書から聞いてゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日の聖書箇所はマルコ6章14節~29節です。バプテスマのヨハネが殺されるいきさつが書いてあります。ある日、ヘロデはお友達を読んで、誕生日パーティーをしていました。国民から吸い上げられた税金は、国民の福祉のために使われたのではありません。誕生日パーティーのために使われたのです。パーティーには21節「高官や将校、ガリラヤの有力者」が集まりました。そこではコンサートとダンスショーが持たれています。権力の腐敗がよく表れている箇所です。蒸し返すのも嫌ですが、これはユダヤ版の「桜を見る会」です。税金で持たれた「桜を見る会」のように、権力者のパーティーに、お友達、その利権に群がる者どもが集まったのです。

腐敗した権力者はパーティーでも、失言をします。みんなの前で気持ちよくなった権力者が、自らの権力を見せつけるために口がすべったのです。ダンサーに23節「なんでもかなえてやる」と言ってしまったのです。腐敗した権力者は自分の発言が間違っているとわかっていても、取りけすことができません。自分の権力が失墜することを恐れ、決定を覆すことができません。自分の間違えを認めれば、自分の失敗を認めることになるからです。プーチン大統領が想定以上の犠牲がでても戦争をやめないのも同じでしょうか。腐敗した権力者は自分の発言や行動の誤りを認めることができないのです。ヘロデは、本当はヨハネのことを尊敬すべき宗教者だとわかっていたにも関わらず、パーティーを盛り上げるため、ダンスのご褒美とするため、そして自分の失言・失敗を隠すため、自分の権力を守るためにヨハネを殺しました。

一方のヨハネは権力者にも間違いをはっきりと指摘できる、宗教者のモデルです。彼が殺されたのは、権力者の近親婚に反対をしていたからです。彼は権力者の間違えを告発し、民衆にそれを訴えていたのです。だからヨハネは権力者たちにとって都合が悪く、殺されたのです。これも蒸し返したくありませんが、近畿財務局の赤木さんを思い出します。彼は権力の腐敗に抵抗しようとしました。命令された公文書改ざんを拒否し、抵抗をしました。しかし権力に都合の悪い者は、追い詰められ死を選ばされたのです。

この誕生日パーティーも同じです。権力者はお友達を優遇します。権力者は間違えを認めません。権力者は都合の悪い者を殺すのです。権力者にもヨハネを敬う善意があったかもしれません。しかしそれは野心と利権への妥協に飲み込まれました。権力はこのように腐敗をしてゆくのです。

今日の話はヘロデが、16節「首をはねたヨハネが復活したのではないか」とイエス様の事を恐れることから始まっています。イエス様はヘロデに、ヨハネの生き返りだと思われたのです。ヘロデはイエス様の姿にヨハネと同じものを見たのでしょう。権力者である自分を躊躇なく告発し、民衆に訴え、人々に大きな力を与えるのではないかと恐ろしくなったのです。自分の権力への危険を敏感に感じたのです。ヘロデにとってイエス様の奇跡とは、自分の権力を危険にさらすものでした。権力者にとってイエス様の奇跡はとても危険なものだったのです。その奇跡は権力への抵抗を含むものだったのです。その奇跡は人々に勇気を与えるものでした。人々を目覚めさせ、権力に変革を起こすものだったのです。

イエス様が具体的にヘロデにしたことは書かれていません。イエス様はこの後、十字架によって殺されてゆきます。イエス様は扇動された民衆とピラトによって殺されてゆきます。人々の目にさらされるように十字架にかけられてゆきます。ここでもヨハネとイエス様は重なります。

ヨハネもイエス様も権力に躊躇せず抵抗したことが重なります。そして殺されて首をさらされたように、イエス様は十字架に架けられ殺されてゆくのです。そして16節、イエス様はまさに復活したお方なのです。この16節はヨハネとイエス様の共通点が挙げられています。

私たちは今日の個所で、権力は必ず腐敗すること、権力は必ず人の命を踏みつけにしてゆくこと、どんな人間でも権力をもてば、そのようにふるまうことを学びます。そしてそれに反対をするのは、宗教の大切な役割だということを学びます。権力者がもっとも好むのは利害を共にするお友達です。そして権力者がもっとも嫌がるのは、声を上げる宗教者なのです。権力者がもっとも嫌がるのは宗教に監視されることです。権力者は宗教に口出しされるのが本当に嫌いです。ヨハネもイエス様も殺すほど、口出しされるのが嫌なのです。だからこそ私たちの教会は平和への監視を続けてゆきたいのです。それはもっとも権力者が恐れ、平和に向けて効果のあることなのです。

神様はこのようにヨハネを地上に遣わしました。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣したのです。そしてイエス様もそのように遣わしました。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣したのです。私たちもそのように遣わされています。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣されているのです。

私たちは平和を大切にしましょう。この礼拝で平和を考え、訴えてゆきましょう。常に権力が平和の実現に向かっているかどうか目を注ぎ続けてゆきましょう。お祈りいたします。

 

 

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「権力を監視する教会」 マルコ6:14~29

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。マルコ6章16節

 

今日から8月の平和祈念礼拝まで「平和」をテーマに聖書を見ます。ウクライナ侵攻について、特に私が心を痛めているのは、キリスト教のロシア正教会の最高指導者がこの侵攻を支持し、宗教的お墨付きを与えていることです。ロシア正教の司祭は兵士や戦車、ミサイルに聖水をふりかけ、祝福の祈りをし、軍隊を鼓舞しています。私たちもキリスト者としてこの戦争に対し無関係ではありません。宗教が戦争・平和にどのように関わるべきかをこの戦争からも痛感しています。

宗教は腐敗した権力と結びつくことによって腐敗し、平和を妥協するようになります。宗教の役割は戦争の芽に誰よりも早く気づき、平和を訴えることです。そのためには宗教が国家・行政の監視することが大事です。だからこそ、私たちはこの礼拝の中で平和について考えます。宗教が戦争に反対することは、戦争を防ぐための非常に効果的な方法なのです。私たちは平和に関わる責任と、平和への影響力があります。今日は地上の権力に目を注ぐ、平和を求めることを、聖書から聞きます。

ある日、ヘロデはお友達を読んで、誕生日パーティーをしていました。これはユダヤ版の「桜を見る会」です。権力の腐敗の象徴です。腐敗した権力者はパーティーでも、失言をします。そして自分の発言が間違っているとわかっていても、権力が弱まることを恐れ、決定を覆すことができません。ヘロデはパーティーを盛り上げるため、自分の失言・失敗を隠すため、自分の権力を守るためにヨハネを殺しました。

一方のヨハネは権力者にも間違いをはっきりと指摘できる、宗教者のモデルです。彼は権力者の間違えを告発し、民衆にそれを訴えていたのです。だからヨハネは権力者たちにとって都合が悪く、殺されたのです。このように権力者はお友達を優遇します。権力者は間違えを認めません。権力者は都合の悪い者を殺すのです。

ヘロデにとってイエス様の奇跡とは、自分の権力を危険にさらすことでした。その奇跡は権力への抵抗を含み、人々に勇気を与え、人々を目覚めさせ、権力に変革を起こすものだったのです。

私たちは今日の個所で、権力は必ず腐敗すること、権力は必ず人の命を踏みつけにしてゆくこと、そしてそれに反対をするのは、宗教の大切な役割だということを学びます。権力者がもっとも嫌がるのは、声を上げる宗教者なのです。権力者はヨハネもイエス様も殺すほど、口出しされるのが嫌なのです。だからこそ私たちの教会は平和への監視を続け、声をあげてゆきたいのです。それはもっとも権力者が恐れ、平和に向けて効果のあることなのです。

神様はヨハネ、イエス様、そして私たちを、平和のために、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように派遣しています。私たちは平和を大切にしましょう。この礼拝で平和を考え、訴えてゆきましょう。常に権力が平和の実現に向かっているかどうか目を注ぎ続けてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「地域の必要に応える教会」マルコ6章30節~44節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。マルコ6章41節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることに感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞き、感じながら礼拝をしましょう。2か月間、こひつじ食堂と福音というテーマで聖書を読んできました。新しく気づいた神様の姿があったと感じています。2月にまた地域との関わりについて取り上げてゆく予定ですが、今日がとりあえず最後です。

こひつじ食堂は、この教会は誰のためにあるのかということを教えてくれます。こひつじ食堂にたくさんの人が来るのを見て、この教会は私たちのためだけにあるのではないとうことを教わりました。この教会は地域の人のためにあるのです。私たちのためだけの場所ではないのです。私たちのためだけではなく、地域のためにこの教会は立っています。もしかすると教会はこれまで自分のことばかり考えていたかもしれないとも思います。

人をたくさん集め、教会を拡大しようとする教会があります。それは一体誰のためにしているのでしょうか。他者のためだ、神様のためだといって、本当は自分たちのためだったのではないでしょうか?自分の教会が成長し、大きくなることが第一の目的で、他者や地域をその手段・道具としてきたのではないでしょうか?教会を維持するためには伝道しかない。伝道しないと、この教会はなくなってしまう。献金が減っているから伝道する。会堂を建て替えるためには伝道しかない。神様のためだと言いながら、本当は自分たちのために一生懸命だったのではないでしょうか。こひつじ食堂は、自分たちにメリットはなくても、他者のために働くことの大切さ、他者と共に生きる大切さを、教えてくれました。神様はこひつじ食堂を通じて、自分たちの必要ではなく、地域の必要に応えてゆく大切さを教えて下さったのではないでしょうか。

今、私はこれまでとは違い、教会が必要とされている実感があります。教会が地域の必要に応えてゆく、地域が何を必要としているのかに目を向けることの大切さを思います。地域の必要に応えてゆくこと、きっとそれ自体が福音です。この働き、福音を続けてゆきたいのです。

教会が地域の必要に応えてゆくことは大切なことです。地域と困りごとを共有してゆくことが大事です。教会が地域の困りごとに一緒に向き合う時、人々は励まされ、生きる力を受け取ってゆきます。多くの人が他者のために生きることを知るようになるでしょう。

一方、人々の必要に応えない教会は、やがて役割を終えてゆくでしょう。なぜなら地域から必要とされない教会だからです。そこに建っていても、地域から孤立してゆくからです。必要とされない教会を何とか残そうと努力するのはむなしい努力です。必要とされないのに、ただ残そうとすることは空しいことです。しかしもし地域に必要とされるなら、地域が求める役割があるなら、様々な場所から残すための知恵と力が与えられるでしょう。地域から必要とされる教会はきっと残ります。神様がまだ使命・ミッションを下さっている教会は必ず残ります。しかし、神様から与えられた役割が終わった教会は必ず閉鎖します。

私たちの教会には希望も不安もあります。その時私たちは、地域の必要に耳を傾け、応え続けてゆきましょう。私たちにとって、何の得にもならなくても、疲れるばかりでも、そこからだれも礼拝につながらなくても、私たちは地域の必要に応えてゆきましょう。それが私たちの生き方です。もし神様がこれを私たちの地上での役割・使命・ミッションとしてくださるなら、私たちの教会はきっと残るはずです。

今日、このテーマで最後に見たいことは、神様は他者の必要に応えるように、私たちを導いているということです。神様は私たちに「他者のために生きよ」と語っている、そのことを見たいと思います。

 

 

今日の聖書は5000人の食事の場面です。他の福音書にも似た箇所がありますが、今日はマルコ福音書からこの物語を読みます。他の福音書でも似た記録がありますが、マルコ福音書が強調していることがあります。それは34節、イエス様が「深く憐れんだ」という事です。

聖書ではここの言葉(ギリシャ語では)は、イエス様はスプラグニゾマイしたと書いてあります。スプラグニゾマイは内臓を指す言葉です。内臓から来る強い気持ちを表します。日本語には「はらわたがちぎれる」という言葉があります。その言葉が最も近いでしょう。イエス様まさにここで、はらわたがちぎれる思いを持ったのです。イエス様には人々が飼い主のいない羊に見えました。イエス様は人々が孤独で、寂しい思いをしていることを深く知ったのです。そして人々のお腹が空いていることを、よく知ったのです。それはつまり、人々が今、何を必要としているのかを知り、自分の事の様に深く共感したということです。

一方、弟子たちも人々の必要は知っていました。お腹が空いていることは、よくよく知っていたのです。だから解散しようと言いました。それぞれの必要はそれぞれで解決するようにと考えたのです。この人々の必要を満たすのは私たちの役割ではないと考えたのです。弟子たちは深く憐れまず、スプラグニゾマイせず、共感せず、同じ痛みを感じようとしませんでした。

イエス様は37節で「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と言います。イエス様は弟子たちに向けて「あなた方の手で人々の必要を満たせ」と言ったのです。弟子たちに、人々の必要を知り、それに深く共感し、同じ痛みを感じ、人々の必要に応えるように伝えたのです。

しかし弟子たちはやはり、自分の必要にしか目がいきません。私たちには200デナリもない、もっていてもそれに他人に全部使うわけにはいかない。私には自分の分しかない。他者の必要を満たすことに関心と意欲がなかったのです。弟子たちを攻めるのもかわいそうかもしれません。みんな自分のことで精一杯だからです。他人よりまず自分です。自分がまずしっかりしなくてはいけません。自分を守ることに精一杯で、他人の事まで手も心も回らないのです。そのことは私たちがよくわかっていることです。だって私たちには5つのパンと、2匹の魚しかないのだから。これっぽっちじゃ何もできないのです。

でもイエス様の奇跡はそこに起きるのです。自分の必要にしか目がいかない弟子に、他者の必要には応えられないと思う弟子に、イエス様の奇跡が起こるのです。そこで不思議とパンと魚は増えて、全員が満たされていったのです。

パンが増えてゆく時の弟子たちに目を向けます。41節でイエス様は「弟子たちに渡しては配らせ」ました。弟子たちは配る係をしたのです。ここで弟子たちには大きな変化が起きています。

自分の必要にしか目がいかない弟子、他者の必要には応えられないと思う弟子たちは、他者の必要に応える者に変えられたのです。自分に何もできることはないという姿から、パンを配る者に変えられたのです。それはイエス様によって起こった変化です。イエス様は弟子たちを、必要に応える者に変えたのです。

この物語は、人々は食べて満腹した、5000人もいたと終わります。物語は人々の必要が満たされて終わります。必要を満たされた人がどう行動したのかは書いていません。これによってバプテスマ者が増えたとか、群れが拡大したとか、献金が増えたとは書いていないのです。最後まで弟子たちにメリットはありませんでした。でもそれが大事なことです。これはただ弟子たちが、他者の必要に応える者に変えられたということを伝えています。他者の必要の応える働きこそ、神様の働きなのだと伝えています。それができることが奇跡なのだと語っているのです。他者の必要に応えればメリットがあるという話ではありません。他者の必要に応えること、それ自体が与えられた役割だったのです。

私たちもこの弟子になりたいのです。他者の必要から目をそらすのではなく、他者の必要に応える者となりたいのです。自分の分さえ足りない私たちだけれど、でも他者の必要に応えてゆきたいのです。私たちには必ず奇跡が起きて、それができるはずです。

これから私たちは主の晩餐を持ちます。今日の41節は主の晩餐にも重なる箇所です。天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、渡すのは主の晩餐と同じ言葉遣いです。私たちもこの食事にあずかる者です。そして配餐、弟子がパンを配る奉仕に目を向けます。私たちの教会では主の晩餐の時、誰か直接、一人一人に配ったり、皆さんが一人ずつ前に出てきてパンをもらう形式をとりません。信徒の方2名がお皿を受け取って、みなさんに配るという形式を持ちます。これは受け取ったものを配るという奉仕が大切であることを表しています。弟子が皆に配ることが大事なのです。配餐の奉仕はただ配る係ではなく、他者の必要に応えるように変えられた弟子たちの象徴なのです。

私たちはこれから、パンと杯をいただきます。これは他者の必要を満たすことの大切さを覚えるために持つものです。私たちには自分の分しかないけれど、でも他者の必要に応えることができる、奇跡が起きる、そのことに信頼し、このパンと杯をいただきましょう。神様はきっと他者の必要を満たすということを私たちの教会の使命、一人一人の使命としてくださるはずです。私たちは地域の必要に耳を澄まし、必要に応える教会でありたいと願います。他者の必要を聞き、それに応える一人一人でありたいと思います。その時、神様の奇跡が私たちに起こるはずです。きっとできないと思っていたことが、私たちに起こる、できるはずです。それがこひつじ食堂ですでに始まっていることではないでしょうか?そこに希望を持ちましょう。お祈りをいたします。

 

 

「地域の必要に応える教会」マルコ6章30節~44節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。マルコ6章41節

 

こひつじ食堂を通じて、この教会は私たちのためだけではなく、地域の人のためにあると知りました。教会が地域の困りごとに一緒に向き合う時、人々は励まされ、生きる力を受け取ってゆくのです。

人々の必要に応えない教会は、やがて役割を終えてゆくでしょう。なぜなら地域から必要とされない教会だからです。地域から必要とされる教会はきっと残ります。神様がまだ使命を下さっている教会は必ず残ります。私たちの教会には希望も不安もあります。その時私たちは、地域の必要に耳を傾け、応え続けてゆきましょう。誰も礼拝につながらなくても、それが私たちの生き方だからです。今日、神様は他者の必要に応えるように、私たちを導いているということを見ます。神様は私たちに「他者のために生きよ」と語っていることを見たいと思います。

今日は5000人の食事の場面です。マルコ福音書はイエス様が「深く憐れんだ」という事を強調しています。イエス様は人々が孤独で、お腹が空いていることを知ったのです。それはつまり、人々が今、何を必要としているのかを知り、自分の事の様に深く共感したということです。一方、弟子たちも人々の必要は知っていました。しかしこの人々の必要を満たすのは私たちの役割ではないと考えたのです。

イエス様は弟子たちに向けて「あなた方の手で人々の必要を満たせ」と言います。しかし弟子たちはやはり、自分の必要にしか目がいきません。弟子たちを攻めるのもかわいそうかもしれません。みんな自分のことで精一杯だからです。だって私たちには5つのパンと、2匹の魚しかないのですから。

でもイエス様の奇跡はそこに起きるのです。自分の必要にしか目がいかない弟子に、他者の必要には応えられないと思う弟子に、奇跡が起こるのです。41節で弟子たちはパンを配る係をします。つまりそれは他者の必要に応える者に変えられたということです。イエス様は弟子たちを、必要に応える者に変えたのです。他者の必要の応える働きこそ、神様の働きなのです。それができることが奇跡なのです。

私たちもこの弟子になりたいのです。他者の必要から目をそらすのではなく、必要に応える者となりたいのです。自分の分さえ足りないけれど、でも他者の必要に応えてゆきたいのです。私たちには奇跡が起きて、必ずそれができるはずです。

これから私たちは主の晩餐を持ちます。弟子がパンを配る奉仕に目を向けます。配餐の奉仕はただ配る係ではなく、他者の必要に応えるように変えられた弟子たちの象徴です。この主の晩餐は他者の必要を満たすことの大切さを覚えるために持つものです。神様はきっと他者の必要を満たすということを私たちの教会の使命、一人一人の使命としてくださるはずです。私たちは地域の必要に耳を澄まし、必要に応える教会でありたいと願います。それがこひつじ食堂ですでに始まっていることではないでしょうか?お祈りします。

 

【全文】「再発見、近所の教会」マルコ6章1節~6節

 

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた

マルコによる福音書6章4節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。5月・6月と「こひつじ食堂」と福音について考えてきました。この食堂は私たちの会堂を会場にして行われる、誰でも歓迎の食堂です。1食200円でお腹も心もいっぱいになれる食堂です。「こひつじ食堂」と福音というテーマは今日と来週の1回で終えようと思っています。振り返ると、聖書のたくさんの個所が「こひつじ食堂」に重なる、つながる部分があったことを見てきました。「こひつじ食堂」は、とても聖書的な活動なのだと感じています。

「こひつじ食堂」を始めて近隣の方々のこの教会への注目度が上がっているのを実感しています。これまで多くの人が、自分と教会は関係ないと思っていました。しかし旗を立てて、食事を出し始めると多くの人が「教会が何か自分と関係があることをしている」そう思うようになりました。教会を身近に感じてもらえるようになってきました。

私は食堂の日も玄関に立つのですが、私が牧師ですと言うと驚かれます。牧師がエプロンを着た普通のおじさんだからです。牧師というと髭の生えた、カラーのついた服を着ている、白髪のおじいさんのイメージでしょうか。驚く相手からは「牧師が普通の人間だ」という表情が伝わってきます。食堂を通じて、教会のイメージが変わり、気軽さ、親しみやすさを感じてもらえることは、うれしいことです。利用される方は、近所に住んでいるけれど、初めて教会の内側に入ったという方が多いです。食堂は教会を身近な存在と感じてもらうきっかけになっています。礼拝ではなく食堂ですが「私はあの教会に毎回通っている」という人はものすごく増えています。

私たちはこの会堂の内側にいると気づかないのですが、この建物は立派です。風格があり、この通りのシンボル、この地域のシンボルです。しかし毎週、内側にいるからこそ気づかないことがあるのかもしれません。例えば、この風格だと入りづらい、のぞいてはいけないような気がする、そんな場所であるかもしれません。私たち内側の人間は、それに気づきづらいのでしょう。

でも一度、内側に入り、互いに交流し、楽しいことがあれば、教会がぐっと身近になります。怖い場所じゃない、私も行っていい場所なのだ、気軽に立ち寄っていい場所なのだと感じてもらえるのです。私はこの食堂を通じて、教会をすごく身近に感じてもらえるようになっていると感じます。そして気づかされるのは、教会は地域の人にもっと身近に感じてもらうということが必要だったということです。教会はもっと地域の人と関わる接点を持つことが必要だ、そう気づかされています。

いま全国のどこの教会でも、地域とどのように関わるかという模索が続き、苦戦をしています。私たちは「こひつじ食堂」によって、そのきっかけをつかみかけていると思います。そして教会を身近に感じるということは、キリスト教を身近に感じてもらうことでもあります。そしてどこかでそれはきっと、神様のことを身近に感じるということにつながるはずです。私たちの食堂では「布教活動」は一切しません。でもこの食堂を通じて、宗教が身近な存在であること、キリスト教が身近な存在であること、神様は身近な存在であることが必ず伝わってゆくはずです。

神様は身近にいる「インマヌエル(神は我々と共にいる)」。それを伝えることに私たちはすでに一部で成功しているのではないでしょうか。食堂を通じて、教会の身近さ、神様の身近さはすでにこの平塚に大きく広がってきているのではないでしょうか。この福音を、もっと広げていきたい、そう思っています。

今日、聖書を読みます。私が「こひつじ食堂」から教えられた、神様を身近に感じることの大事さ、そのことは今日の個所にも書いてあると思います。聖書を一緒に読みましょう。

 

今日の個所はマルコ福音書6章1節~6節です。イエス様は故郷に帰っていました。おそらくナザレでしょう。ナザレは小さな村です。旧約聖書には様々な町の名前が出てきますが、ナザレは一度もでてきません。それだけ小さな町、何もない町だったのです。誰もそんな場所からキリスト・自分を救ってくれる方が生まれるとは思わなかったのです。キリストがこんな場所に来るとも思わなかったのです。人々は、キリスト・救い主はもっと特別な人だと想像していました。そのような力の持つ人なら、きっと由緒正しいお生まれ、育ち、血筋に違いないと思ったのです。

そしてもし、キリストがいたとしても、自分なんかは決して近づくことができない、雲の上におられるはずだという思いがありました。たとえ近づけたとしても、自分はそれに近づいてはいけない、汚れた存在だとも思ったでしょう。ナザレの人々には神は身近なものではない、そんな思い込みがあったのです。

2節にはイエス様の話を聞いて驚いたとあります。これは否定的意味での驚きです。「そんなことあるはずはないではないか」という意味です。ナザレの人々はすぐ拒絶反応を示しました。地域の人はイエス様がキリストではない理由を挙げ始めます。あいつはマリアの子だという表現は、普通は父親ヨセフの子だと表現されます。おそらく、父親が分からない、父親の定かではない男のくせにという出生に対する侮辱でしょう。彼は大工ではないかというのは、祭司の家系でもなんでもない、ありふれた職業の人間ではないかという、職業への侮辱でしょう。きょうだいも普通に私たちと生きていると言っています。要は「お前は俺たちと変わらない、平凡な人間じゃないか」「そこらへんにいる普通の人間ではないか」そう言ったのです。

ナザレの人々は、高き場所にいる神、手の届かない場所にいる神、人間とは姿かたちが全く違う神を想像していました。しかしその神概念が信仰に入るのを妨げたのです。神様は自分の身近に、地元に、家族みたいに存在するものではないと思ったのです。だからナザレに現れた、目の前のキリストを信じることができなかったのです。

しかし神様はそうではありませんでした。神様は平凡さ、普通、日常の中にいたのです。生活のすぐそばに神様がいたのです。良く知っている場所、よく知っている人、近所のあの人のうちにおられたのです。それが今日、語られていることです。神様は近くにおられます。あなたの近くに、この地に、神様はおられるのです。神は我々と共にいる方、インマヌエルなのです。神様は私たちの日常の中にいたのです。先ほど、こどもさんび「祈ってごらんよわかるから」を歌いました。「小川のほとりでも、ひとごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神様は、今も生きておられる」とあるとおりです。神様は本当に近くに、身近におられるお方です。

もちろん神様は日常の中にいる存在というだけではありません。神様は奇跡を起こす方です。イエス様はたくさんの奇跡を起こしました。しかし今日の5節には、信仰の無い場所では神様の奇跡も、十分に働かなかったとあります。不信仰の中では、奇跡は大きな広がりがないのです。

決して私たちの信仰が奇跡を起こすわけではありません。奇跡はあくまで神様の自由な働きです。神様が起こす働きです。しかし、この個所にもあるように、人々の不信仰は神様の働きを小さなものとするのです。起こるべき奇跡が小さなものになってしまうのです。しかし逆に神様への信仰がある場所では、奇跡は大きく広がるということも意味するでしょう。奇跡は起こります。そして信仰の中に起る奇跡は、大きな広がりを見せるのです。

私たちは身近にいる神様にこそ気づいてゆきたいと思います。身近なところに神様の存在を発見してゆくことが大事なのです。地域の人々に伝えたいことはそれです。伝えたいことは、あなたの身近に教会があるように、あなたの身近に神様がいるということです。自分に関係ないと通りすぎていたところに、神様がいるということです。

そして信仰を持つ時、あなたに起こる、神様の奇跡はもっと豊かになるのです。ぜひ身近にこの教会を感じて欲しいと思います。そして、神様を身近に感じて欲しいと願います。「こひつじ食堂」からそれが起きて欲しいと思うのです。

そして、この教会の内側にいる私たちにも目を向けましょう。私たちこそ神の身近にいる者です。しかし今日の個所によれば、イエス・キリストに身近な者こそ、神様を理解できなかったとあります。神様の身近さを知らなかったのは、実はもっとも身近な者だったです。神様の身近にいる者こそ、神様のことをもっと受け入れ、知るべきだということです。

身近にいるのに信じられない者とは私のことです。私こそ、信じれない者、信仰の足りない者だったのです。私たちも、神様を信じて救われた者ではなく、神様を信じられない者としてこの物語を聞きたいのです。そして神様はすぐそこにいる、私たちと共にいるということを私たちも、もう一度発見したいのです。教会の中にいるからこそ気づかないことがあるでしょう。神様は身近にいるという発見を、私たちももう一度したいのです。

私たちは地域の人にもっと神様、教会を身近に感じて欲しいと願って「こひつじ食堂」をしています。きっとこの働きは神様の奇跡をもっと大きくしてゆくはずです。そして神様を身近に感じることは、私たちにとってこそ大事なことです。私たちこそ神様の身近さをもう一度見つめてゆきましょう。神様は私たちと共におられるお方です。お祈りします。

 

「再発見、近所の教会」マルコ6章1節~6節

 

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた

マルコによる福音書6章4節

 

5月・6月と聖書のたくさんの個所が「こひつじ食堂」と重なることを見てきました。教会は「こひつじ食堂」を始めて多くの人に身近に感じてもらえるようになりました。入りづらい教会でも、一度、内側に入り、互いに交流し、楽しいことがあれば、ぐっと身近になります。教会は地域の人にもっと身近に感じてもらうということが必要だったと気づきます。教会を身近に感じるということは、キリスト教を身近に感じてもらうこと、神様のことを身近に感じるということにつながるはずです。私たちの食堂では「布教活動」は一切しませんが、神様は身近にいる「インマヌエル(神は我々と共にいる)」ということを伝えることに、すでに一部で成功しているのではないでしょうか。神様を身近に感じることの大事さ、そのことは今日の個所にも書いてあると思います。

イエス様は故郷である小さな村ナザレに帰っていました。しかし誰もそんな場所からキリストが生まれるとは思いませんでした。人々は、キリストはもっと特別な人だと想像していました。そしてもし、キリストがいたとしても、自分なんかは決して近づくことができない、雲の上におられるはずだという思いました。ナザレの人々には神は身近なものではない、そんな思い込みがあったのです。地域の人はイエス様がキリストではない理由、出生、家系、職業を挙げ始めます。「お前は俺たちと変わらない、平凡な人間じゃないか」そう言ったです。ナザレの人々は、高き場所にいる神、手の届かない場所にいる神、人間とは姿かたちが全く違う神を想像していました。その神概念が信仰に入るのを妨げたのです。

しかし神様はそうではありませんでした。神様は平凡さ、普通、日常の中にいたのです。「祈ってごらんよわかるから」にあるように。「小川のほとりでも、ひとごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神様は、今も生きておられる」とあるとおりです。神様は本当に近くに、身近におられるお方です。身近なところに神様の存在を発見してゆくことが大事なのです。地域の人々に伝えたいことは、あなたの身近に教会があるように、あなたの身近に神様がいるということです。

この教会の内側にいる私たちにも目を向けましょう。私たちこそ神様が身近な者です。しかし今日の個所によれば、身近な者こそ、神様を理解できなかったとあります。私たちも神様を信じられない者としてこの物語を聞きたいのです。そして神様は私たちと共にいるということを私たちも、もう一度発見したいのです。

私たちは地域の人にもっと神様、教会を身近に感じて欲しいと願って「こひつじ食堂」をしています。そして神様を身近に感じることは、私たちにとってこそ大事なことです。私たちこそ神様の身近さをもう一度見つめてゆきましょう。神様は私たちと共におられるお方です。お祈りします。

 

「命どぅ宝 ー基地はいらないー」マルコ5章1節~20節

イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。

マルコによる福音書5章8節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、平和の声を聞きながら礼拝をしましょう。先月・今月と「こひつじ食堂」と福音について考えています。今日はそのことを少しお休みし、沖縄の事について考えたいと思います。なぜなら6月23日は沖縄慰霊の日だからです。私たちはこの日を「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」と呼んでいます。

第二次世界大戦末期、沖縄では激しく残酷な地上戦が繰り広げられました。沖縄の人々は本土のため、日本のため、天皇のために、死ぬことを求められました。アメリカにつかまるのは恥だ、それよりも死を選ぶべきだと、日本人全員が教えられ、信じていたのです。沖縄では多くの市民が洞窟の中に逃げました。しかし追い詰められた人々は自決を迫られました。しかしある洞窟では「命どぅ宝」、沖縄の言葉で「いのちこそ宝だ」と互いに言い合いながら、生きる道を選びました。決して死んではいけないと励ましあったのです。

私たちは戦争を始めると、命より大切なものがあるように感じてしまいます。命より戦うことが大事だと教えられます。誰かのために死ぬことは尊く、素晴らしい事だと教えられるのです。兵隊になり、一人でも多くの人を殺し、死んでゆくことを美しい事だと感じるようになるのです。私たちは「命どぅ宝」命こそ宝という言葉を大切にしたいと思います。命は神様からいただいたものです。敵でも味方でも殺してはいけません、誰でも殺されてはいけません。私たちは戦争ではなく、命を選んでゆくという選びを示すのが、命どぅ宝の意味です。「命どぅ宝」それは神様からいただいた命を大切にするということです。世界が命を大切にすることでつながり、平和を実現してゆくという願いです。バプテスト連盟女性連合では6月23日に合わせ「命どぅ宝」ツアーを開催します。

特に今は辺野古基地の問題を考えなければいけません。沖縄に米軍基地が必要だという声は、キリスト教内外で高まっています。ウクライナの姿を見て、日本にも脅威がある、だからもっと軍事費・武器・基地が必要だという声は日増しに大きくなっています。私はもっと強い軍事力が必要だとは思いません。むしろ、この地上から基地が無くなることを願っています。この地上から、暴力で現状を変えようとすること、暴力に対して暴力で守ろうとすることがなくなって欲しいと願っています。もちろん現実には、明日すぐに基地がなくなることはないかもしれません。でも1つずつでも減らすことはできないのでしょうか?普天間で一個なくしたら、辺野古に一個作らなければいけないのでしょうか。それならずっと基地はなくならないのです。基地をまず沖縄から減らしたいと思います。沖縄こそ基地を減らせるはず。

今世界は狂気に取り憑かれています。暴力で、世界を変えることができると信じている人・国がいます。そして暴力には暴力で徹底的に対抗するんだという人・国がいます。武器があれば世界を変えられると思う人、逆に武器を持っていれば安全だと思う人がいます。そのような軍事力の神話に、狂気に、世界全体が取り憑かれています。「命どぅ宝」という言葉はそれを私たちに問いかけているのではないでしょうか。私たちに、暴力と死に代わる問題解決の手立てはないかを考えさせる言葉ではないでしょうか。

今日は聖書から平和について聞いてゆきたいと思います。戦争はいらない、基地はいらない。そのことを聖書から見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日はマルコによる福音書5章1節~20節です。聖書には暗号の様に、隠れた背景をもつ話がいくつもあります。この話も軍事力、暴力を背景にした話だということを見ます。

イスラエルは当時、ローマ帝国が占領し、支配していました。もちろんローマ帝国の支配は世界最強の軍事力に基づく支配でした。ローマ帝国は世界各地に強力な軍隊を駐留させ、人々を軍事力で抑えつけたのです。世界中に基地を作ったのです。ローマ兵はたびたび、地域の住民を虐げました。多くの無実の人が暴力を受け、殺されました。多くの女性たちもローマ兵に傷つけられました。ユダヤ人たちはいつも、ローマの占領軍にこの国から出て行って欲しいと思っていたのです。

この様子が沖縄に重なるのは私だけでしょうか。激しい戦争があり、その後、占領軍の基地が作られました。沖縄では米軍の起こす事件が絶えません。特に1995年の沖縄米兵少女暴行事件は大きな衝撃を与えました。12歳の少女が被害にあい、日米地位協定がその解決を遅らせたのです。事件は沖縄で繰り返されています。そしてイスラエルでも同じことが繰り返し起きたことでしょう。

2節には「汚れた霊」という言葉がでてきます。「汚れた霊」「悪霊」とは一体何の事でしょうか?この暗号に隠されているのは「汚れた霊」とはローマ帝国のことだということです。ローマ帝国の帝国主義、軍国主義、軍事力によって世界を支配することを汚れた霊と呼んでいます。人間が生み出した軍事力は、人間とは思えぬ大きな力を持ちます。それは4節のように誰も鎖で縛ることができない、止められない力を持ちます。そして自らさえも傷つけるのです。そして10節、そこにとどまることを望むのです。軍隊は駐留し続けることを望むのです。この「汚れた霊」とはローマ、軍事力によって世界を支配しようとする考え、そのものです。

なぜそのような読み方ができるのか説明します。9節、この人に取り憑いていた「汚れた霊」の名は「レギオン」という名前です。ここでは人の名前の様ですが、レギオンとは本来、軍隊の単位を表す言葉です。6000人の部隊をレギオンと呼ぶのです。現代の軍隊では師団や旅団にあたる言葉です。このレギオンという名前が、この物語が軍事力に関係する話であること示しています。今日の場面ではゲラサの近くに駐留していた「レギオン」は、ローマの10個目の軍隊でした。第十師団、第十レギオンでした。このレギオンにはロゴマークがありました。それは豚と船でした。つまりこの「レギオン」とは、ゲラサの近くに駐留していたローマ第十師団を指すのです。

そのことを踏まえてこの話をもう一度見ると、暗示されていることが分かります。この話は鎖や足枷によっても押さえることができないレギオンという汚れた霊が、豚に入り、猛突進して、海になだれ込んでいくという話です。それが意味するのは、豚と船がロゴマークのローマ第十レギオンが、海に沈むように、去っていく、そのことを願うという意味です。ゲラサの人々はローマ第十レギオンがここからいなくなって欲しいという願いを持っていました。もちろんこのことは口には出すことはできませんでした。それを訴えれば、ローマ軍に殺されるからです。彼らは直接言えない平和の願いを、悪霊の話に置き換えたのです。軍事力こそ人を狂気にさせる力、「汚れた霊」だと譬えたのです。それが水に沈むように、いなくなれと願ったのです。

イエス様に目を向けます。汚れた霊はイエス様に7節「かまわないでくれ」と言います。我々の事は無視をしてくれ、考えないでくれ、確かにここにいるが、いないものと考えてくれと言います。イエス様に軍隊が駐留していることは無視し、関心を持たず、いないものと考えるようにと言うのです。それは沖縄のレギオン・沖縄の軍隊からも聞こえてくる言葉です。関心を持たないでください。考えないでください。その間に大きな基地を作ります。いないものと思ってください。そのような言葉です。イエス様は「かまわないでくれ」というレギオンに対してはっきり言います「汚れた霊、この人から出て行け」。汚れた霊とは、暴力、軍事力、基地です。イエス様ははっきりと言いました。ここに軍隊はいらないと。ここに基地はいらないとはっきりと言ったのです。

イエス様はこのようなお方です。イエス様はレギオン・軍隊はいらないとはっきりと言い、それを追い出す力を持つお方だったのです。基地、軍事力はしょうがない、これからますます必要だ、あった方がよいという考えは、汚れた霊です。イエス様はその汚れた霊を追い出すお方です。この物語は軍事力による支配からの解放、軍事力神話からの解放の話なのです。私たちは平和に生きよう、そのようなイエス様の導きが描かれた物語なのです。

2000年後の人間も全く変わっていません。軍事力で世界を占領したローマのように、相変わらず人間は軍事力という汚れた霊に取りつかれています。イエス様はそれを追い出してくださるお方です。沖縄にある、世界にある、基地と暴力へむけて「ここから出て行け」とおっしゃるお方です。今まさに、汚れた霊が世界を覆っています。やはり強力な軍事力が必要だ、基地が必要だ、そのような汚れた霊が世界を再び覆っています。それらはとてつもなく強い力で迫ってきます。どのような足枷も鎖も引きちぎり、どのような反対運動も引き裂き、軍事力は拡大されようとしています。まったく汚れた霊です。そして汚れた霊は自分にかまわず、基地問題を無視して生きるように誘惑をします。

しかし私たちにはイエス様がいます。イエス様は汚れた霊を豚に送り、海に沈めるお方です。イエス様は軍事力と暴力と基地を、必ず無くしてくださいます。そのような世界が必ずくるのです。そのことに信頼してゆきたいのです。だからこそ、私たちもイエス様と一緒に「出て行け」と声を上げたいのです。沖縄の平和を聖書から考えます。私たちには沖縄から、世界から軍事力、基地、軍隊が無くなって欲しいと願います。私たちはそのことを祈ってゆきましょう。

 

 

 

「命どぅ宝 ー基地はいらないー」マルコ5章1節~20節

イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。

マルコによる福音書5章8節

 

6月23日「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」、沖縄・辺野古基地の事を考えます。戦争ではなく命を選ぶ、それが「命どぅ宝」の意味です。私はこの地上から基地が無くなることを願っています。普天間で基地を一個なくすと、辺野古に一個作らなければいのでしょうか?それならずっと基地はなくならないのです。今世界全体が軍事力の神話、狂気に取り憑かれています。「命どぅ宝」という言葉はそれを私たちに問いかけているのではないでしょうか。今日は聖書から平和について聞いてゆきたいと思います。戦争はいらない、基地はいらない。そのことを聖書から見てゆきたいと思います。

イスラエルは当時、ローマ帝国が支配していました。ローマ兵はたびたび、地域の住民、特に女性たちを傷つけました。ユダヤ人たちはいつも、ローマの占領軍にこの国から出て行って欲しいと思っていたのです。それは沖縄と同じです。激しい戦争があり、軍の基地が作られました。沖縄では米軍の起こす事件が絶えません。

2節の「汚れた霊」とはローマ帝国のことです。軍事力によって世界を支配することを、汚れた霊と呼んでいます。なぜそのような読み方ができるのか説明します。レギオンとは6000人の部隊を表す言葉です。ゲラサの近くに駐留していた「レギオン」は、ローマの10個目の軍隊、第十レギオンでした。第十レギオンのロゴマークは豚と船でした。つまりこの「レギオン」とは、ゲラサの近くに駐留していたローマ第十師団を指すのです。暗示されているのは、豚と船がロゴマークのローマ第十レギオンが、海に沈むように、去っていく、そのことを願うという意味です。そして軍事力こそ人を狂気にさせる力、「汚れた霊」だと譬えたのです。

イエス様に目を向けます。汚れた霊はイエス様に7節「かまわないでくれ」と言います。関心を持たないで欲しいということです。沖縄のレギオン・沖縄の軍隊からも同じ声が聞こえてきます。無関心の間に大きな基地を作るのです。イエス様はレギオンに対してはっきり言います「汚れた霊、この人から出て行け」。ここに基地はいらないとはっきりと言ったのです。

2000年後の人間も全く変わっていません。相変わらず人間は軍事力という汚れた霊に取りつかれています。基地、軍事力はこれからますます必要だという考えは、汚れた霊です。イエス様はその汚れた霊を追い出すお方です。この物語は軍事力による支配からの解放、軍事力神話からの解放の話なのです。この物語は、私たちは平和に生きよう、そのようなイエス様の導きが描かれた物語なのです。

私たちにはイエス様がいます。イエス様は軍事力と暴力と基地を、必ず無くしてくださいます。そのような世界が必ず来るのです。そのことに信頼してゆきたいのです。私たちもイエス様と一緒に汚れた霊に向けて「出て行け」と声を上げたいのです。沖縄と世界からすべての基地が無くなること、平和を祈ってゆきましょう。

 

【全文】「真ん中に招く神」マルコ3章1節~6節

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

マルコによる福音書3章3節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に、声を聞きながら、礼拝をしてゆきましょう。今日はこの平塚バプテスト教会の創立記念礼拝です。この教会は1950年に創立され、72周年を迎えました。72年前にこの地に教会が建てられた時の思い、そしてずっと大切に守られてきた思い、変化を繰り返してきた思いを想像します。そしてそこにいつもあった主の護りに感謝したいと思います。

私たちはこの72周年の時、「こひつじ食堂」からの福音を聞いています。このこひつじ食堂は1食200円で誰でも利用できる食堂です。私たちはもっと食堂が豊かになるように修繕や建築をしたいと考えています。改めてこの教会の建築を見ると、礼拝のための会堂があって、その周りにトイレや分級室やこどもスペースがくっついている構造であることが分かります。私たちはまさにこの教会の中心である礼拝堂で、食堂をしているのです。

先日、食堂の様子をビデオに撮りました。ぜひ見てください。年齢や性別に関わりなく、いろいろな人が来ている様子が分かります。まず、こどもたちが座って食事をしているのが目に留まります。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを隅に追いやらず、中心にしてゆく教会、そのことがよく表されている風景でした。こどもたちは今、給食の際中は話してはいけない「黙食」をしています。だからここに集まって話をしながら食べるのが、楽しくてしょうがないのです。こどもたちがのびのびと、ニコニコしています。あの顔をみなさんにも見せたいです。

こどもたちは食べ終わったあと、こどもスペースで遊び始めます。この前は、こどもたちにはさみ将棋を教えて、いっしょにやりました。子どもたちが遊びに行くと、会堂に座っている中心はママになります。ママやパパにとってはこどもから少し目を離すことができる、安息の時です。ママ同士の会話も弾んでいます。最後にママたちが「これはママにとっても良い支援だ」と言いながら帰っていきました。よい安息の時となってよかったです。

ビデオには他にもいろいろな人が写っています。こどもたちを見守る温かいまなざしを向ける人がいます。食事を運びながら、いろいろな人に声をかけるボランティアさんがいます。

一人で来た人も写っていました。しかしよく見ると、いつの間にか誰かと相席になって、一人ではなくなっていて、話が弾んでいます。和やかで、にぎやかで、温かい空間、安息の空間となっています。

今日は創立記念礼拝です。私たちの教会が守られてきたことを感謝する時です。その日、教会の真ん中に何があるかを考えます。教会の真ん中にはイエス・キリストがいます。そして「こひつじ食堂」から見る時、教会の中心にはこどもや、子育てが大変な人がいます。一人で食事をする人がいます。教会はそんな人を教会の隅ではなく、中心に招きます。そしてそこでのびのびとした時間を過ごすのです。安息の時を過ごすのです。教会は、イエス様を中心とします。そしてこどもや、ママや、一人でいる人を中心に招きます。それが私たちの教会です。

今日も一緒に聖書を見たいと思いますが、今日はイエス様が誰を真ん中にしたのかを見ます。今日の話によれば、イエス様は手に障がいを持った人を中心としました。当時の社会では隅に追いやられてしまう人、そのような人をイエス様は中心に招いたのです。そのことを見てゆきましょう。

 

 

今日の聖書を見ましょう。今日の個所では、イエス様を会堂で待っている人々がいます。安息日という戒律で、一切の作業をしてはいけない日でした。遠くへ出かけたり、緊急でない治療はしてはいけない日です。そんな日に、人々は、あえて手に障がいをもった人を会堂に連れてきました。治って欲しいと願ったのではありません。人々は悪意を持っていました。イエス様が安息日という戒律と、癒しのどちらを取るのか、こいつを使って、見てやろうと罠にかけようとしていたのです。

非常に悲しいことに、人々から手の不自由な人への同情や、心配、励ましは一切ありません。人々はただ、自分たちの正しさを証明する「道具」として利用します。彼の苦労や不自由に耳を傾ける者はいません。人々の心は、そのような冷たい心、かたくなな心、硬い心でした。人の命に対する慈しみはありません。社会と会堂の隅に追いやり、一人にしておいたのです。

現代の社会も同じでしょうか。これでもだいぶましになったのかもしれません。しかし障がいをもった人が隅に追いやられるという状況は変わりありません。2000年たった今も弱い立場の人、助けを必要とする人が隅へ追いやられる社会は続いています。社会は、健康で、能力があって、お金がある人が中心とされています。そうでない人は、隅に追いやられ、小さくなって生きなければならない社会です。私たちの時代も同じです。

しかしそこにイエス様が現れます。そしてイエス様は3節で言います「真ん中に立ちなさい!」。イエス様はその人を立ち上がらせ、真ん中に招くのです。隅に追いやられていた人に、あなたは堂々と真ん中に立つように招くのです。彼は今まで隅に追いやられていました。彼はようやく招かれたと思ったら、誰かを陥れる罠・道具として招かれたのでした。誰も彼に目を止めようとしませんでした。

そんな時、彼が聞いたイエス様の「真ん中に立ちなさい!」という招きはどれほど、うれしかったでしょうか。この後、彼の腕が治るとありますが、声をかけられた時から、彼は大きな喜びを感じたのではないでしょうか。これまでずっと隅に追いやられていた自分が、直接声を掛けられ、立つように、真ん中に来るようにと言われたのです。それはまず彼の魂についた傷を、ボロボロにされた心の傷を癒したはずです。イエス様の呼びかけは、傷つけられた尊厳、人格を回復する呼びかけだったのです。その言葉をかけられた時、彼には安息が訪れたのです。

続いてイエス様は4節で「安息日に赦されるのは、善い事か悪い事か、魂を守ることか、殺すことか」と言います。イエス様はかなり両極端な選択肢を出します。魂は命とも訳せることばです。安息日は命を守る日か殺す日か、魂を守る日か殺す日か、二者択一です。ここでは中間の選択肢がありません。守りも、殺しもしないという選択肢はないのです。何もしないで様子を見る、事態を見守っていくという選択肢はないのです。今日の場面でもそうです。障がいをもった人がこのように利用されるとき、何もしないことは魂を殺すのと同じです。障がいをもっている人が隅に追いやられているのを見たとき、何もしないのは、その命・魂を殺すのと同じなのです。見殺しです。二者択一の問いは、何もしないことは、殺すことと同じだと言っています。

しかし4節の後半、それでも人々は黙っていました。誰一人言葉を発する者はいません。静寂と沈黙しかありませんでした。5節でイエス様は悲しんだとあります。そのかたくなさに激しく怒り、悲しみ、同情をしたのです。イエス様が悲しみを覚えたのは、もちろん不自由をもっている事だったでしょう。しかしそれ以上に、人々がそのことを利用し、隅に追いやろうとしたこと、助けることを訴えても沈黙し、何もしようとしないこと、それに深い悲しみを覚えたのです。そしてその時、奇跡が起きました。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言ったのです。そうすると、不自由だった手から、不自由さが取り払われてゆきました。

6節には、ここからイエス様を殺そうと相談が始まったとあります。このことが、イエス様への十字架へとつながっていくのです。今度はイエス様が排除されようとします。殺され、隅に追いやられようとします。イエス様はそれを受けとめたお方でした。今度は自分が隅に追いやられる者となってゆかれたのです。

私たちは今日、創立記念礼拝を迎えています。今日、私たちの教会は何を中心にするか、誰を中心にするかが問われています。私たちはこれまでもそうだったように、社会の隅に追いやられてしまいそうな人を大切にしてゆきましょう。特に私たちは今、こどもに強い関心を持っています。そしてそこからその周りにいる人にも目を向けます。こどもや、ママ、パパ、一人で食事をする人に目を向けます。私たちの教会は、さみしいと思う人こそ中心に招きましょう。

そして社会の中で、沈黙せずにいましょう。何もしないことは殺すことと同じです。命と魂を守ることを具体的な行動として、証しとして、続けてゆきましょう。それは「こひつじ食堂」で、あるいはそれぞれの生活の中できっとできるはずです。すべきことがあるはずです。今日、その力を神様からいただいてゆきましょう。

神様は私たちに奇跡を起こしてくださるお方です。私たちのかたくなな心にも、硬くなった心にも、不自由な心にも呼びかけて下さいます。私たちの心にも「伸ばしなさい」と呼びかけて下さいます。聖書の言葉によって、私のかたくなな心がほどかれて、柔らかくなるように、呼びかけて下さるのです。

神様は、弱き私たちを、中心へと招いてくださるお方です。隅に追いやられ、寂しい思いをしている人を中心に招いてくださるお方です。そして私たちのかたくなな心をまっすぐに伸ばしてくだるお方です。私たちはこれからもこの教会の中心としてたくさんの方々を招いてゆきましょう。お祈りします。

 

 

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「真ん中に招く神」マルコ3章1節~6節

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

マルコによる福音書3章3節

 

今日は創立記念礼拝です。72周年の時「こひつじ食堂」からの福音を聞いています。私たちはこの教会の中心である礼拝堂で、食堂をしています。こどもを隅に追いやらず、中心にしてゆく教会、そのことがよく表されている風景です。ママやパパにとってはこどもから少し目を離すことができる、安息の時です。一人で来た人も、いつの間にか誰かと相席になって、話が弾んでいます。創立記念礼拝の時、教会の真ん中に何があるかを考えます。「こひつじ食堂」から見る時、教会の中心にはこどもや、子育てが大変な人がいます。一人で食事をする人がいます。教会はそんな人を教会の中心に招きます。今日は聖書からイエス様が社会で隅に追いやられてしまう人を中心に招いたことを見たいと思います。

今日の個所で会堂の人々は悪意を持っていました。イエス様が安息日という戒律と、癒しのどちらを取るのか、手の不自由な人を使って、見てやろうとしていたのです。悲しいことに、人々は手の不自由な人への同情は一切ありません。人々の心は、そのような冷たい心、かたくなな心、硬い心でした。

しかしそこにイエス様が現れます。そしてイエス様は3節で言います「真ん中に立ちなさい!」。イエス様はその人を立ち上がらせ、堂々と真ん中に立つように招くのです。この招きはどれほど、うれしかったでしょうか。それはまず彼の魂の傷を癒したはずです。傷つけられた尊厳、人格を回復する呼びかけでした。その言葉をかけられた時、彼には安息が訪れたのです。

4節は「魂を守る日か殺す日か」という二者択一です。何もしないという選択肢はありません。何もしないことは魂を殺すのと同じです。しかし4節の後半、それでも人々は黙っていました。5節でイエス様は悲しんだとあります。そのかたくなさに激しく怒り、悲しんだのです。そしてその時、奇跡が起きました。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言うと、手から不自由さが無くなったのです。

今日、私たちの教会は何を、誰を中心にするかが問われています。私たちは社会の隅に追いやられてしまいそうな人を大切にしてゆきましょう。特に私たちは今、こどもに強い関心を持っています。こどもたち、そしてその周りにいる人、さみしいと感じている人を教会の中心に招いてゆきましょう。

神様は私たちに奇跡をお越してくださるお方です。私たちのかたくなな心に「伸ばしなさい」と呼びかけて下さいます。聖書の言葉によって、私のかたくなな心がほどかれて、柔らかくなるように、呼びかけて下さるのです。

神様は、弱き私たちを、中心へと招いてくださるお方です。隅に追いやられ、寂しい思いをしている人を中心に招いてくださるお方です。そして私たちのかたくなな心をまっすぐに伸ばしてくだるお方です。私たちはこれからも主イエスを教会の中心として、たくさんの方々を中心に招いてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「心も体も満たす神」マルコ3章20~30節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は「こひつじ食堂」から聞こえる福音について考えています。「こひつじ食堂」は1人200円で誰でも利用できる食堂です。200円でお腹一杯になることができます。

地域の方と食事を一緒にしていると本当に楽しいです。こどもには「おじさん何歳ですか?」と聞かれ「何歳に見える?」と話しながら食べています。ありふれた会話でも、話しながら食べるのは、とても楽しいものです。誰でもお腹一杯になると、自然と笑顔になるものです。

一方で、誰でもお腹がすくとイライラするものです。我が家で起こるいざこざもたいていお腹が空いている時に起ります。教会でも、お腹の空いている時に、集まって何かを議論したりしない方がよいでしょう。昼食前の会議はうまくいきません。仕事でも同じでしょうか。物事や人間関係がうまくいかない理由のひとつに「空腹だった」ということはあるでしょう。

広島県では40年以上、自宅で地域のこどもに食事を出し続けているおばあちゃんがいます。おばあちゃんはいわゆる非行少年を自宅に招き、無償で食事を提供し続けています。そのおばあちゃんは言います。「お腹がいっぱいになれば悪いことはしない」。戦争も同じです。貧困こそ戦争の大きな原因の一つです。アフガニスタンで働いた中村哲さんは言います。「飢えている者に必要なのは弾丸ではない。温かい食べ物と、温かい慰めだ」。

お腹が空いているということは、家庭でも、教会でも、社会でも、世界でもいろいろな衝突と紛争の原因となるものです。みなさんにも経験があるでしょう。満腹の時に赦せたことが、空腹の時は赦せなくなるのです。そう考えると、私たちが一緒にお腹一杯になる「こひつじ食堂」は、とても大事な活動ではないでしょうか。いっしょにお腹いっぱいになることは互いに愛し合うことにつながるでしょう。いっしょにお腹いっぱいになることは家庭、地域、社会の平和にもつながる活動でしょう。

自分の愛の無さ、罪深さを恥じることも大事です。しかしお腹一杯にしてから始めることも大事です。私たちの「こひつじ食堂」は小さいけれども、この地域でイライラをなくし、いざこざをなくし、愛と平和に向かって働いていると言えるでしょう。私たちはお腹がすいたままでは、なかなか他者を愛せないのです。お腹いっぱいになることは愛と、平和の始まりなのです。

今日は聖書から、お腹一杯になることの大事さをみます。このような聖書の読み方は「こひつじ食堂」があるからこそ想像できる読み方です。そして今日は教会の暦ではペンテコステです。聖霊、特にここでは赦しというテーマも見てゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。

 

 

 

教会の暦では今日はペンテコステです。ペンテコステとはイエス様が復活して50日後に弟子たちに聖霊が下り、力を与えたという出来事を覚える時です。ペンテコステは50日後という意味です。聖霊とは何かということを詳しく話すことは省略します。ただ羽の生えた妖精ではありません。簡単にいうと、神様との関係を感じさせるものです。

聖書を読むと、今日のイエス様はかなり厳しい言葉をかけています。特に「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というのは、死後も永遠に罰を受け続けるといったような厳しい印象も受けます。どう受け止めたらよいでしょうか。

まず28節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」とある箇所から読みましょう。そうです、神様はすべてを赦してくださるお方です。神様は私たちがどんなに悪いことをしても赦してくださるお方です。神様はどんな失敗も、連続殺人も銀行強盗も、どんな失敗も赦して下さるお方です。もちろん神様の赦しとは、神様が罪を水に流し、帳消しにし、無かったことにする、しょうがなかったねといってくれることではありません。神様の赦しとは、何回罪を犯しても、新しく生きるようにさせてくれるということです。もうするな。そして方向転換して、生きよと神様が呼びかける、それが神様の赦しです。このように神様はどんな罪も赦すお方です。

しかしこの赦しには、一つだけ条件が付いています。それは29節「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦され」ないということです。聖霊とは神様との関係を感じさせるものです。その聖霊を冒涜するとは、神様との関係を否定するということです。私は神様とは一切関係ありませんと言う人の罪は、赦されないということです。赦しの条件は一つです。神様の前で自分が悪かった、そう認めることです。逆に神様の前で自分が悪くないと思っている人、自分に罪はないと思っている人は永遠に赦されません。その人にとっては赦される必要がないとも言えるでしょう。神様は、私が悪かった、もう二度としないと思う時、どんな罪でも赦してくださるお方です。そして、もうするな、新しく生きろと呼びかけて下さいます。

29節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし聖霊を冒瀆する者は永遠に赦され」ないという意味は、神様は私たちが告白する罪をすべて赦してくださることを示します。新しく生きよと言ってくれることを示します。そして神様の前で私に罪はないと言う時、その罪は赦されないということを示します。

私たちもお互いを赦し合いましょうとは言いません。ここでは神様との関係が語られていて、人間同士の赦しは語られていません。教会はこれまで他者への赦しを強制しすぎてきました。何をされても「クリスチャンだから相手を赦しなさい」と強制してきました。それはかえって人を傷つけてきました。私が相手を赦すかどうかは私が決める問題です。相手が私を赦すかどうかは相手が決める問題です。でも神様は神様の前で罪を認める時、どんなことでも赦してくださいます。神は新しく生きろと言ってくださいます。人間が人間をすぐに赦す必要はありません。赦したいと思えた時に赦せばよいのです。謝罪と償いを受けてから赦せばよいのです。気が向かなければ、一生赦さなくてもよいのです。逆に、一生赦されないこともあるでしょう。ただ神様は赦すということだけが真実です。神様は失敗をした人に神様の前でそれを認め、新しく生きるようにと言っているのです。

22節にはエルサレムから律法学者が下って来て、イエス様を批判したとあります。彼らはエルサレムから下ってきました。エリート学者が上から下に下ってきたのです。彼らは病人には興味も示さず、目立っている人間を批判するためにだけに、上から下に下ってきました。彼らはまだ自分たちの罪に気づいていません。病気の人、お腹の空いている人を無視した罪にまったく気づいていません。むしろ寄り添い、癒しを行うイエス様を罪だ、悪魔だと大騒ぎするのです。神様はこの学者たちを、自分の罪を認めるまで永遠に赦さないでしょう。イエス様は今日そのことを28節・29節で宣言しています。

それにしても、イエス様はかなりイライラしている様子です。よく読むと20節には「一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。忙しくて食事をとっていない時の出来事だったのです。あえて食事をとる暇もないほどだったと聖書に書いてあるのも驚きです。きっとイエス様もお腹が空いていて、イライラしていたでしょう。いつもより厳しい言葉をかけています。

イエス様はいろいろな人と食事をしました。そしてその中で一人一人が神様との関係に気づいたのです。イエス様と共に食事をすることで、自分の罪に気づいたのです。お腹が満たされたとき、自分の罪を認めることができたのです。今日の場面ではそのような食事はありません。律法学者は批判し、空腹なイエス様たちは、それに強く反発をしています。だれも新しい人生を歩みだしていません。

やはり今日の場面を見て、私はいっしょにお腹一杯になることの大事さを思います。その時、自分の罪を認めることができるのです。非を知ることができるのです。新しい関係が生まれるのです。お腹が満たされて、わからなかったことがわかるようになるのです。他者を赦せるようになるのはお腹が満たされた時なのです。今日残念なのは、共なる食事がないまま、争いが続くことです。

今日私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。パンは小さくて決してお腹一杯にはなりませんが、記念として、象徴としてこのパンを食べます。このパンを食べて、イエス様が人々と一緒に食事をした様子を思い出します。そこには平和と愛があふれたでしょう。そして、一緒に食べると自分の罪に気づいたでしょう。神様に赦されていることにも気づくでしょう。そして相手を赦す気持ちに少し近づくかもしれません。

私たちはこの主の晩餐によって、共に満たされることを確認します。この主の晩餐から愛と平和が生まれてきます。まるで食堂で笑顔があふれるように、私たちはこの主の晩餐をいただきましょう。

神様は私たちを赦してくださるお方です。条件はひとつ、聖霊を認めること、神様との関係を認めることです。神様の前にそれが悪い事だったと認めることです。そうすればすべての罪は赦されます。新しく生き直す力をいただけます。お腹を満たし、神様との関係の中に生きましょう。神様は私たちのお腹も心も満たしてくださるお方です。お祈りします。

 

「心も体も満たす神」マルコ3章20~30節

 

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

マルコによる福音書3章20節

 

「こひつじ食堂」から福音を考えています。地域の方との食事は本当に楽しいです。誰でもお腹一杯になると、自然と笑顔になります。一方、誰でもお腹がすくとイライラします。非行少年に関わるおばあちゃんは「お腹がいっぱいになれば悪いことはしない」と、アフガニスタンの中村哲さんは「飢えている者に必要なのは弾丸ではない。温かい食べ物と、温かい慰めだ」と言います。空腹は家庭でも、教会でも、社会でも、世界でも衝突と紛争の原因となります。だからこそ私たちが一緒にお腹一杯になる「こひつじ食堂」は家庭、地域、社会の愛と平和の始まりなのです。今日は聖書から、お腹一杯になることの大事さをみます。そして今日は教会の暦ではペンテコステです。聖霊、特に赦しというテーマも見ます。聖書を読みましょう。

神様はどんな失敗も赦して下さるお方です。もちろん神様の赦しとは、神様が罪を無かったことにすることではありません。神様の赦しとは、何回罪を犯しても、新しく生きるようにさせてくれるということです。もうするな。そして方向転換して、生きよと神様が呼びかける、それが神様の赦しです。しかしこの赦しには、一つだけ条件があります。神様の前で自分が悪かった、そう認めることです。自分に罪はないと思っている人は永遠に赦されません。

またここでは、人間同士の赦しは語られていません。私が相手を赦すかどうかは私が決める問題です。赦したいと思えた時に赦せばよいのです。気が向かなければ、一生赦さなくてもよいのです。ただ神様は赦すということだけが真実です。

それにしてもイエス様は、忙しくて食事ができずお腹が空いていてイライラしています。普段イエス様はいろいろな人と食事をしました。そしてその食事の中で一人一人が神様との関係に、自分の罪に気づいたのです。今日の場面を見て、私は一緒にお腹一杯になることの大事さを思います。その時、新しい関係が生まれるのです。今日残念なのは、共なる食事がないまま、争いが続くことです。

今日私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。パンは小さくて決してお腹一杯にはなりませんが、記念として、象徴としてこのパンを食べます。このパンを食べて、イエス様が人々と一緒に食事をした様子を思い出します。そこには平和と愛があふれたでしょう。そして、一緒に食べると自分の罪に気づいたでしょう。神様に赦されていることにも気づくでしょう。相手を赦す気持ちに少し近づくかもしれません。

私たちはこの主の晩餐によって、共に満たされることを確認します。この主の晩餐から、愛と平和が生まれてきます。まるで食堂で笑顔があふれるように、私たちはこの主の晩餐をいただきましょう。神様は私たちを赦してくださるお方です。お腹を満たし、神様との関係の中に生きましょう。神様は私たちのお腹も心も満たしてくださるお方です。お祈りします。

 

【全文】「誰でも歓迎する食堂」マルコ7章24節~30節

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 マルコ7章27節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。特にこどもたちに関心を寄せて、礼拝し、様々な活動をしています。今日もこどもたちの声を聞き、感じながら共に礼拝をしましょう。今月、来月と「こひつじ食堂」から聞こえてきた福音に目を向けています。「こひつじ食堂」はこの会堂で行われている食堂で、1食200円で、誰でも利用できる食堂です。

全国には6000以上のこども食堂があります。こども食堂といっても、8割が子どもも高齢者も、誰でも参加できる、地域交流の場として運営されています。皆さんの家の近くにもきっとあるはずですから、訪ねてみてください。多くのこども食堂は、子どもの貧困問題に強い関心を持って始まりました。そのため、子ども食堂と聞くと、貧困の子供が行く場所というイメージがついてしまっています。ですから私たちは「こひつじ食堂」と名付けました。「こども食堂」と呼ばないのは、本当に誰でも歓迎する食堂だからです。こひつじ食堂はだれでも来ていい食堂です。貧しい人に限定しません。そもそも困っている人、貧しい人の定義は難しくなってきています。コロナで全員に10万円が配られた時代です。全員困っているから配られたのです。困っている人を探す必要はありません。私もあなたもみんな困っています。

そして食堂では、宗教の布教活動を一切していません。教会関係の方からはよく、チラシを配ったりしているか?食堂に来た方がどれくらい礼拝に来るのか?勧誘はうまくいっているのか?と聞かれます。私たちは勧誘を一切していません。この食堂の目的は隣人に仕えることであり、他者への奉仕で、自己拡大が目的ではないからです。だからこそ誰でも来て下さいと言えるのです。この食卓はすべての人に開かれているのです。所得や年齢は関係ありません。宗教や民族も関係ありません。悪人か善人かももちろん関係ありません。あらゆる条件を付けない、誰でも来ていい食堂です。

私たちは食堂で布教活動をしません。でも私はこの食堂は神様の愛をとてもよく表していると思います。食堂は神様の愛を証ししていると思います。私たちの食堂はすべての人が招かれています。おなかも心もいっぱいになれる場所です。違いがあっても一緒にいれる場所です。それは神様の愛をよく表している場所です。食堂こそ「神の国」と言えるのではないでしょうか。もちろんそこか教会に興味を持ってくれる人はいるでしょう。利用者の方は、教会の掲示物をよく読んでいます。

私たちはこのような格差の時代、経済的に苦しい時代、子育てがしにくい時代にあって、社会に強い関心を持っています。そしてだれでも来れる食堂を始めました。少しでも社会が変わって欲しいと願っています。そしてこれは私たちなりの証しです。ただの社会活動ではなく、私たちの証しです。神様の愛はすべての人に注がれていることを「こひつじ食堂」で証ししているのです。

今日の個所は私たちと重なります。この物語は、神様は社会とこどもたちに強い関心を持っておられること、そして神様の愛はすべての人に注がれることを示しています。今日の個所を一緒にお読みしましょう。

 

 

 

今日の個所の場面はティルス地方とあります。ここはユダヤ人よりも異邦人(外国人で宗教の違う人)がたくさんいる町でした。この母も異邦人でした。この母はイエス様を訪ねました。そして娘の病の癒しを、イエス様の足にひれ伏して願いました。しかしイエス様の返事は大変冷たい言葉でした。「まず、こどもが優先だ。犬は後だ」と言います。犬とは異邦人のことです。神様の働きはイスラエルの自国民が優先で、外国人は後だというのです。なんと民族主義的で、冷たい返答でしょうか!

しかしもう少し社会に関心をもってこの個所を読みたいと思います。場面となっているティルスは貿易によって豊かになった港町でした。いわゆる富裕層の町です。イエス様の宣教は貧しい地域が中心でしたから、ティルスに行ったということ自体、特殊な例と言えるでしょう。

ティルスは貿易で発展した町ですが、貿易をしていたのはイエス様が生まれたガリラヤ地方の穀物でした。要は穀物をガリラヤで安く買いたたいて、海外に売り飛ばすという商売です。そのようにして富裕層は生活をしていました。ガリラヤの人々は自分たち作物を安く買いたたかれ、貧しく暮らしていました。おかしいと感じますが、現代の世界の縮図でもあります。先進国は、貧しい国から安く大量に作物を買い付けます。貧しい国は貧しいままで、先進国は贅沢を続けるのです。それがガリラヤとティルスの関係でした。イエス様が27節で「子供」と言っているのはガリラヤのような貧しくされた地域のことです。そして「子犬」とはティルスのような、富を吸い上げ、搾取し、豊かになった地域のことです。イエス様が27節で言ったことは、まず貧しい国から穀物を安く買いたたくのを止めなさいということです。だからこそ、まず貧しくされている国への助けが必要だということを言ったのです。これはイエス様が貧しい人と共にいたという聖書の全体の姿とも重なります。

イエス様はこのように、社会に強い関心を持ったお方でした。豊かな街を見て、わたしもそうなりたい、すばらしいとは思わなかったのです。この豊かさの中で、誰か苦しんでいる人がいるはずだと感じたのです。それがこの冷たいように思える答えの意味です。

もちろん母親もただでは食い下がりません。28節の母は、「食べこぼしでもよいから、恵みをいただきたい」となんとか癒しを求めます。この母の発言は、貧しい国が優先され、そのあまりものを豊かな国が受け取るということです。イエス様が求めている、社会の在り方に呼応する発言でした。母の発言はさらに、大切なことを示していると思います。この神様の食卓が、ユダヤ人に限定されないはずだという指摘です。神様恵みは異邦人とか外国人とか異教徒にも、関係なく、すべての人に開かれているはずだと言っているのです。神様の食卓、神様の恵みはユダヤ人かどうか、キリスト者がどうかに関わらず、広がっていくはずだと訴えているのです。

このように、イエス様と母の会話には二重の意味があると言えるでしょう。一つは経済的な意味です。貧しい人が優先されることです。二つ目は神様の愛についてです。神様の恵みはユダヤ人だけに限定されないことを示しています。

イエス様は母の発言を、もちろん正しいと言いました。イエス様とこの母は、まず貧しい国が優先され、豊かな国はその後になるという世界観を確認しました。そしてもうひとつ、神様の恵みは民族や宗教を超えるということを確認したのです。そしてそれを確認するとイエス様は悪霊を追い払ったのです。

母の言葉がイエス様を変えたようにも見えます。母はイエス様に呼応して、世界の経済は変わるべきだと言いました。そして神様の恵みはユダヤ人だけではなく、すべての人に分かち合われるはずだとイエス様に訴えたのです。イエス様はユダヤ人が先だという部分について、自らの考えを変えました。神様も考えを変えるのです。

この物語は何を示しているでしょうか。イエス様が社会とこどもへの強い関心を持っていたという事を示しています。そしてこの物語は、すべての人に神様の愛と恵みがおよぶことを示しています。イエス様と女性の対話から、社会への関心と、神様のすべての人への愛が示されているのです。そこに神様の癒しが起こりました。

母がイエス様と出会い、対話し、こどもが癒された後、どのように生きたのかを想像してみましょう。想像力を持って読むなら、この女性はこの後、子ども食堂をはじめたのではないでしょうか。裕福な地域に生まれながら、病の子を持ち、子育ての大変さを知ったでしょう。イエス様と出会い、自らの裕福な暮らしがどのように支えられているかに気づいたでしょう。そして神様の愛はすべての人におよぶと強く確信をもったでしょう。この日から新しい生き方が始まったのです。そのことを誰かに伝えたい、表現したい、証しをしたい、そう突き動かされたとき、こども食堂を始めたに違いありません。ティルスに住むいろいろな人を集めて、どのような年齢、身分、所得の人も一緒に食事をしようと呼びかけたのではないでしょうか。誰かがパンくずを食べるのではありません。全員が神様のこどもとして、満腹できる食堂をティルスで始めたのではないでしょうか。

それはとてもよく神様のことを表す食堂です。メシア的食卓共同体です。地域にすばらしい証しとなったのではないでしょうか。私たちのしている「こひつじ食堂」とはまさにこのような食堂ではないでしょうか。私たちが社会に関心をもっており、その社会の中で神様の愛がすべての人におよぶ、食堂はそれを証ししているのです。

イエス様はこのように格差や不平等に反対をしたお方です。社会に強い関心を持っているお方です。そして、すべての人に恵があると、母とのやりとりでイエス様自身も変わったお方です。そして母も変わりました。私たち自身にもイエス様との出会いによって変化が起こるでしょう。イエス様に出会って私たちは証しをしたいと思うように変えられます。イエス様に出会い、豊かさを追い求めるだけではなく、社会に強く関心を持つように変えられます。そして神様がすべての人に食べ物、平和、愛を注いでくださることを知るように変えられるのです。

私たちはこの食堂で、地域に神様の愛を証しをしています。この食堂は神様の愛を豊かに表現した食堂です。この集まりにもっとたくさんの人、様々な人が集うことができるように、祈り、礼拝し、働いてゆきましょう。お祈りします。

 

「誰でも歓迎する食堂」マルコ7章24節~30節

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 マルコ7章27節

 

今月来月と「こひつじ食堂」から福音を考えています。多くのこども食堂は、子どもの貧困問題に関心を持って始まりました。しかし実際は誰でも利用できる食堂です。私たちも様々な人に利用してもらうため「こひつじ食堂」と名付けました。

そしてこの食堂では、宗教の布教活動を一切していません。この食堂の目的は隣人に仕えることで、自己拡大ではないからです。だからこそ誰でも来て下さいと言えます。所得や年齢、宗教や民族も関係ありません。誰でも来ていい食堂です。でも私はこの食堂は神様の愛をとてもよく表し、証ししていると思います。私たちの食堂はすべての人が招かれています。おなかも心もいっぱいになれる場所です。違いがあっても一緒にいれる場所です。食堂は地域への私たちの証しです。今日の物語は、神様は社会とこどもたちに強い関心を持っておられること、そして神様の愛はすべての人に注がれることを示しています。一緒に読みましょう。

ティルス地方は異邦人の町です。異邦人である母は娘の病の癒しをイエス様に願いました。しかしイエス様は「まず、こどもが優先だ。犬は後だ」と応えます。犬とは異邦人のことです。なんと民族主義的で、冷たい返答でしょうか!

しかしティルスは穀物をガリラヤで安く買いたたいて、海外に売り飛ばし、豊かになった町です。イエス様が27節で「子供」と言っているのはガリラヤのような貧しくされた地域のことです。まず貧しくされている国への助けが必要だということを言っています。これはイエス様が貧しい人と共にいたという聖書の全体の姿とも重なります。イエス様はこのように、社会に強い関心を持ったお方でした

対する28節の「しかし、食卓の下の小犬も」という母の発言は、貧しい国が優先され、そのあまりものを豊かな国が受け取るということです。イエス様が求めている、社会の在り方に呼応する発言でした。そして母の発言はさらに、大切なことを示しています。神様の恵みはすべての人に開かれているはずだと言っているのです。

この物語は何を示しているでしょうか。イエス様が社会とこどもへの強い関心を持っていたという事を示しています。そしてこの物語は、すべての人に神様の愛と恵みがおよぶことを示しています。イエス様と女性の対話から、社会への関心と、神様のすべての人への愛が示されているのです。この母がこの後どのように生きたのかを想像します。母はきっと子ども食堂をはじめたのではないでしょうか。

私たち自身にもイエス様との出会いによって変化が起こるでしょう。イエス様に出会って私たちは証しをしたいと思うように変えられます。私たちはこの食堂で、地域に神様の愛を証しをしています。この食堂は神様の愛を豊かに表現した食堂です。この集まりにもっとたくさんの人、様々な人が集うことができるように、祈り、礼拝し、働いてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もいっしょにこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

私たちは今月と来月、こひつじ食堂と福音について考えています。こひつじ食堂は毎月第三と第四金曜日にこの会堂で開催している、だれでも来てよい食堂です。1人200円でおなか一杯の食事ができます。いろいろな人と食事をするのは、本当に楽しいことです。まだ来たことのない方はぜひ食べに来て下さい。お弁当も販売をしています。また今日の礼拝後の信徒会ではこの活動についても皆さんと相談をさせていただきます。

全国でこども食堂の活動は広がっています。先日あるインターネットの記事に目が留まりました。記事のタイトルは『独身の86歳男性は「死ぬまでひとり飯」なのか…SNS以上、しがらみ未満でつながれる「こども食堂」の魅力 』 というものです。

記事よれば、あるこども食堂では86歳おじいちゃんが1人で食堂を利用しているそうです。このように私たちの食堂も含め、ほとんどのこども食堂はどんな年齢の人も歓迎しています。この男性はお連れ合いに先立たれて一人暮らしです。自分で料理もするし、一人でしっかりと生活をされています。にもかかわらず、地域のこども食堂に顔を出しています。

おじいちゃんはこども食堂でたくさんの方の顔を見ながら食べることを、言葉ではいえなくらい楽しい、最高だと語ります。やはり、一人で食べるのと、誰かと一緒に食べるというのは、ぜんぜん違うのです。記事にはさらにこう続きます。高齢化とともに交友関係は減るということ、コロナ禍でさらに交友は狭まっていること、コロナの影響で多くの地域交流が停滞していること、そこにこども食堂のニーズがあると書かれていました。さらに高齢の方々の子どもたちも「親が地元で、話をする人はいるのか」を心配している。それは政府の現金給付でどうにかできるものない。高齢の方々にも、自分には関係ない場所だと思わずに、ぜひ近所の「こども食堂」=「地域食堂」のドアを叩いてみてほしい。そのように記事には書いてありました。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが、貧しい人だけが対象ではありません。どんな人も、どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたい、そう思っています。

しかし振り返ると教会はずっと昔から「一人ではない」と思える場所だったのではないでしょうか。礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。2000年間、あるいは私たちの教会の70年間、毎週礼拝し、一人ではないと確認をしてきました。神様が共にいる、仲間が共にいる、それを毎週礼拝で確認してきたのです。互いの声を聞き、一緒に賛美をしてきたのです。

私たちは寂しいと思っている人や、人生に困っている人に出会ったとき、一緒に教会に行きませんかと誘ってきました。もちろん困っていない人も、どなたでもどうぞと教会にお誘いしてきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は食堂にしろ、礼拝にしろ、その他のことにしろ、誰かの居場所になるのが得意です。

教会はいつもあなたと一緒にいたいと伝え続けてきました。困っていても、困っていなくても、一緒にいようと誘って来ました。そのようにして少しずつ礼拝の輪が広がってきました。そしてそれと同じように、今食堂の輪が広がってきています。

食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは教会で起きていることです。神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。その延長線上に食堂があります。私はそのように感じています。

今日は私たちは、こひつじ食堂や礼拝で起きていることを聖書から見てゆきたいと思います。食堂や礼拝は、神様のもとで集い、仲間になってゆくこと、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書個所を見ましょう。まず目に留まるのはイエス様と家族の関係の難しさです。少し前の21節には身内の人々がイエス様のもとに来て「あの男は気が変になっている」と言って、取り押さえようとしたとあります。イエス様の活動は血縁関係のある家族に、まったく理解されなかったのです。イエス様の行動は家族にとっては迷惑で、気持ちの悪いことだったのです。家族だから理解し合える、信仰を分かち合えるというわけではなかったのです。

家族に理解されないということが、私たちにもあるでしょうか。自分の行動や信仰が家族に理解されないということが、あるものです。あるいは逆に、私たち自身が家族の行動や信仰を、理解できないと思うことも、あるものです。信仰を家族と分かち合うこと、家族と理解しあうことはとても難しいことです。家族と理解し合えないのは寂しいものです。イエス様も寂しさを感じたはずです。33節に「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とあります。私はそこにイエス様の寂しさを感じます。

そして従った人々の多くも家族のいない人、家族と離れている人だったと言われています。従った人の多くは干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族とばらばらになってしまった人々だったと言われます。家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。自分はこの後どうなるのだろうと不安に思っていた人々がイエス様に従ったのです。家族がいないことの寂しさは、家族と分かり合えない寂しさよりも、もっと大きいものでしょう。喧嘩する相手も、わがままを言う相手もいないことは寂しい事です。

この物語の登場人物は家族と分かり合えない寂しさを持つイエス様と、家族とばらばらになってしまって寂しさを持つ民衆です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族とも思えるような、不思議な集まりになっていったのです。

この集まりは、いろいろな家族関係を持った人、家族を持たない人が、寂しいと感じた人が、親戚の集まりの様に集い、祈りあう集まりでした。自分は一人ではない、共に生きていると実感できる集まりでした。そのような集いがイエス様を中心に生まれたのです。本当の家族と同じくらい大切な仲間ができたのです。

34節でイエス様は『周りに座っている人々を見回して言われた「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」』と言います。イエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。この集まりは私たちの教会と似た集まりです。私たち一人一人もいろいろな家族関係をもっていますが、毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。

イエス様の様に、周りに座っている人々を見回して思うのです。教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会は2000年前からずっとこのような集まりを続けてきました。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。この礼拝の雰囲気が、食堂の雰囲気につながっているでしょう。ここに来ればたとえ家族と離れていても、家族がいなくても、寂しく思っていても、誰かとつながれるような気がするのです。一人ではないと感じることができるのです。それが教会の食堂の特徴です。

教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。そこで共に食事をすることは、誰かとつながるには最高の場所といえるでしょう。礼拝も食堂も、誰かとつながっていたいと思う人に最高の場所です。

友達や家族と疎遠になりがちな高齢の方々に最高の場所です。ぜひこの輪に入って欲しいのです。若者はSNS、インターネット、YouTubeでつながっています。でもそれ以上のつながりを持ちたい若者に、最高の場所です。ぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。一緒に礼拝をしたい、一緒に食事をしたいのです。

34節には「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とあります。神の御心を行う、それは今私たちの教会にとってはこひつじ食堂を続けてゆくというでしょう。教会はこひつじ食堂を通じて、地域とつながりを持ってきています。誰かと一緒にいるということを、これからも続けてゆきましょう。きっとそれが御心です。あなたは一人ではないということを私たちは伝えてゆきましょう。礼拝と食堂の御心を続けてゆきましょう。

私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。御心を行う人が神様とつながっている人です。誰かとつながろうとするとき、神様とつながっているとも言えるでしょう。

私はこの食堂のような、たくさんの人が集まり、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。いろいろな人が来て、一人ではないと思える礼拝がしたいと思っています。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。

 

 

「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

こひつじ食堂と福音について考えています。先日読んだある記事に、独身のおじいちゃんがこども食堂でたくさんの人と食べることが、楽しい、最高だと感じていると書いてありました。やはり一人で食べるのは寂しいのです。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが対象ではありません。どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたいと思っています。

しかし振り返ると、ずっと昔から礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。教会は70年間、毎週礼拝を繰り返してきました。私たちは寂しいと思っている人を教会に誘ってきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は誰かの居場所になるのが得意なのです。礼拝の輪が広がってきたように、今食堂の輪が広がってきています。食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。今日は食堂や礼拝は、神様のもとで集い、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

イエス様の活動は家族に、まったく理解されませんでした。家族と理解し合えないことに、イエス様も寂しさを感じたはずです。従った人々の干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族のような、不思議な集まりとなりました。

34節はイエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。周りに座っている人々を見回すと、教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。高齢の方々にも、若者にもぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。

私はこの食堂のような、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。

 

【全文】「断食か、食堂か」マルコ福音書2章23節~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。     マルコによる福音書2章27~28節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月とこひつじ食堂から福音を聞いています。先日4月15日(金)は慌ただしい一日でした。お弁当を124食販売しました。特に忙しかったのは、午前中はいただいたタケノコのあく抜きがあったこと、午後は120人分のホイコーローづくりでした。

さらにこの日、特別忙しかったのは、4月15日(金)がキリスト教の暦では、受難節の「受難日」であったからです。イエス様が十字架にかけられ死んでしまったことを覚える日です。「聖金曜日」とも言われます。多くの教会ではこの日の夜、受難日祈祷会を持ちます。以前私のいた教会では、ろうそくの明かりで聖書を読み、十字架のイエス様を追いながら、ろうそくを1本ずつ消す「消灯礼拝」を持ちました。受難節は別名レントとも呼ばれます。レントはラテン語で「断食」を現わす言葉です。日没まで食事を抜いて、イエス様の十字架の苦しみを私たちも感じようとする期間です。本当に断食を行う人はあまりいませんが、この期間は何かを我慢する、例えばコーヒーを飲まない、カフェインを取らないといったことをするクリスチャンは多くいます。

私たちの教会でも受難日祈祷会を持ちました。食堂を中止することはできないので、午前の仕込みと、午後の調理との間に持ちました。本来この期間はレントであり、断食の期間です。にもかかわらず私たちは、120人のお弁当を販売するために、朝から夜まで働いたのです。多くのクリスチャンが食べること、飲むことを控え、祈っている日です。受難日、聖金曜日です。その聖なる日に私たちは一体何をしているのでしょうか。いつも祈祷会が行われている部屋では料理が作られています。礼拝する会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られています。よく考えると、この教会は何をしているのかと恐ろしい気持ちになります。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!レントの聖金曜日に、食堂をするという意味を考えさせられます。私たちの選択は正しいのでしょうか。

私たちの選びの意味は、誰かのために何かを「する」ことの大事さを現わしているのではないでしょうか。何かを我慢して、一緒に苦しみを味わうだけでは何も変わらないのです。その痛みを知ったならば、状況を変える、他者を助けるための行動を起こすことが大事です。聖なる時間は大事です。手を止め、足を止め、祈ることは大事です。でもそれをしているだけで、何かをした気持ちになってはいけないと思います。宗教は特にそのような危険があります。礼拝すると他者の痛みに目が向くかもしれません。気分は落ち着くかもしれません。でもそこで終わってしまうことがあります。祈って気分が落ち着き、その後、行動を起こさなくても良いと思ってしまうことがあります。誰かの必要に応えることを忘れてしまうのです。

私たちは聖なる金曜日に、朝から働き、祈り、午後また働きました。それが私たちの聖金曜日の過ごし方でした。そうですこの聖なる体は、誰かのために使う時、本当に聖なる体となるのです。この聖なる会堂は、誰かのために使われる時、本当に聖なる会堂となるのです。私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味ではないでしょうか。

ちなみにその日の13時からの受難日祈祷会は多くの方が集いました。私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝する。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働く。そんなことが凝縮された1日だったと思います。

今日は祈り、礼拝することの大切さを覚えます。そしてそれぞれのできることを働いてゆくことの大切さを覚えます。神様は私たちに、今日祈り、明日からまた善き行動を起こすように促している、そのことを見てゆきたいと思います。ご一緒に聖書を読みましょう。 

 

 

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の聖書の個所では安息日が問題になっています。今でもユダヤの人々の一部は安息日を守ります。多くの人が安息日・土曜日は働かず、礼拝に行ったり、家で家族と過ごしたりします。さらに厳格な人は、安息日にはあらゆる作業・労働をしません。例えばエレベーターのボタンを押さない、スマホも使わないという人もいるそうです。しかしよく言われる、凝り固まった形式主義という批判はまったくの的外れです。律法を他者批判の道具にしてはいけません。彼らはその日を大切に守っています。現代ならなおさらこの日は大事です。スマホをしない日、しなくてよい日はとは、とてもうらやましく思います。

もちろん律法より命が優先されます。安息日でもお医者さんは働きます。命にかかわることは、なにより優先されます。私たちキリスト教では日曜日が安息日にあたります。他の事はせず、礼拝に集う日として、聖なる日として、私たちも安息日を大切にしていると言えるでしょう。

本来、安息日は1週間に1度、あわただしい日常から離れ、休み、神様からもう一度、生きる力をいただく日です。しかし、今日の聖書箇所24節を見ると、ある人がまた安息日を誰かを批判する道具にしています。安息日は本来、礼拝すべき日、神様から力をいただく日です。しかしこの人たちは違いました。彼らは戒律を破っている人がいないか、あら捜しに出かけたのです。

聖書には旅人が麦畑の麦を食べるのは許されるとあります 。お腹の空いた旅人は畑の麦を勝手に食べることが許されたのです。本来律法とはこのような他者への慈しみのためにありました。命を守るために多くの律法がありました。

しかしこの人たちはそれを批判の道具とします。麦をつまんだ事を、安息日に麦を刈り取る労働だ、律法違反だと言いがかりをつけたのです。そしてその批判は当事者の弟子ではなく、イエス様に向けられました。

イエス様はその人たちにダビデの逸話を話し始めます。この話はサムエル記上21章に出てくるエピソードです。ダビデという人が、王様から命を狙われて逃げる時、おながが空いて、神殿を訪ねました。そこにいた祭司は供えてあったパンを分かち合ったという話です。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。祭司にとって供えのパンは聖なるものです。しかしそれをダビデと分かり合いました。それは良いことをするのは物や、日時を選ばないということを示すでしょう。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。

この個所でイエス様は、戒律を守る、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。私たちは日曜日、礼拝をします。他の事をしません。日曜日は仕事や用事を入れず、予定を調整し、礼拝に参加します。しかし大事なことは何をしないかだけではありません。何をするか、すべきことをするということも大事でしょう。

 

私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。それは変えません。守り続けます。そしてその1週間、私たちは何をすべきでしょうか。善き事をしたいのです。今日、たくさん祈り、1週間を始めましょう。そしてこの1週間、誰かの悪い箇所を探すのではなく、私たちはいままでとは違う、善き事をしたいのです。

27節に「安息日は人のためにある」とあるのはそのような意味ではないでしょうか。安息日は誰かを悪者にするスタート、悪者を探すスタートではありません。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。人のために何かしたいのです。人のお腹と心が満たされるような何かをしたいのです。今日いっぱい祈り、その1週間をスタートしたいのです。

私は受難日・聖金曜日のこひつじ食堂通じて、何をすべきかを問われました。断食なんてしなくていいということではありません。祈らなくてよい、礼拝しなくてよい、善い事をしていればよいのではありません。礼拝と祈りは誰かの心、痛みを想像するために必要なのです。祈りと共感が必要なのです。神様からの力が必要なのです。でも私たちはそれだけではありません。そこで終わりません。痛みをもった人々と具体的に共に分かち合うのです。善き事を行うのです。私たちは、祈りと行動のどちらかだけを求められているのではありません。祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。私たちがこの体、あるいはこの会堂を、祈りの場として以外に、どんな善い事のために使うかということはとても大事なことです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日は私のためにあるということです、そして安息日は他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。

聖なる会堂、聖なる体が祈り、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日からスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

 

「断食か、食堂か」マルコ福音書2章23節~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。     マルコによる福音書2章27~28節

 

こひつじ食堂から福音を聞いています。4月15日(金)「受難日」「聖金曜日」多くの教会で受難日祈祷会を持ちました。その聖なる日に私たちは食堂をOPENしました。いつも祈祷会が行われている部屋で料理が作られ、いつも礼拝している会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られました。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!

私たちの選びは、誰かのために何かを「する」ことの大事さを示しているのではないでしょうか。聖なる時間は大事です。祈ることは大事です。でも私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味です。

私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝します。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働くのです。今日は、神様は私たちに、祈り、明日からまた善き行動を起こすように促していることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。 

イエス様は律法違反を指摘する人たちにダビデの話を始めます。祭司は供えてあったパンを分かち合いました。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。それは良いことをするのは物や、日時や場所を選ばないということです。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。

この個所でイエス様は、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。

私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。そして私たちはそこで終わらず、この1週間善き事をしたいのです。27節に「安息日は人のためにある」とあります。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。

私たちは、祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日が私の魂ためにあるということ、そして安息日が他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。

聖なる会堂、聖なる体は、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日から1週間をスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「調理で元気にする神」マルコ1章29節~32節

 

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした

マルコによる福音書1章31節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月はこひつじ食堂から見えてきた福音を共に分かち合ってゆきたいと思います。先週は5000人の食事とこひつじ食堂と主の晩餐の共通点を見てきました。今日はボランティアさんとの関りから、神様が私たちにどのように力を与えて下さるのかということを見てゆきたいと思います。

こひつじ食堂にはたくさんのボランティアの方々が集まっています。先日は旗が立っているのを見てボランティアに加わってくださる方もいました。多くの方は、平塚市の商工会議所青年部(YEG)が作ってくださったホームページを見て、平塚教会のボランティアに応募をしてくださっています。

ボランティアに加わる方には1時間程度、趣旨説明の面談をしています。これまでに20名近くの方々と面談をしました。面談の最後ではボランティアさんが、こひつじ食堂を手伝おうと思ったきっかけや動機を教えてもらっています。ボランティアの方々の動機は本当にさまざまです。

Aさんはお母さんの介護のために最近、お仕事を退職されました。家での介護が続く日々に煮詰まっていました。本当は仕事をしたいと思っているのだけれど、介護のことを考えると、確実な曜日や時間が決められず、働くことができなかったそうです。そんな時にこひつじ食堂のボランティアの募集を見て、自分が行ける時だけのボランティアならできる、そう思って連絡を下さいました。

Bさんは障がいをお持ちで、なかなか就職をする自信が出ないそうです。でもその日の体調が良い時だけ、月に1・2回だけでいいなら、自分にもできると思って、ボランティアを始めたいと訪ねてこられました。この方はお料理が得意で、本当に助けられています。教会の包丁を研いでくださり、よく切れるようにしてくださいました。

Cさんはシングルマザーの方です。お子さんが大きくなって、ようやく手が離れてきたそうです。これまで本当に育児と仕事の両立に追われてきたと教えて下さいました。やっとこどもも大きくなって自分の時間ができた、さあ何かしたいと思った時に、こひつじ食堂の存在を知ったそうです。私が大変だったあの時にもこんな食堂があったら良かったなぁ。そうだこの食堂を手伝ってみよう。そう思ってボランティアに応募して下さったそうです。

いろいろな動機があるものですが、どれも「何かしたい」「誰かのためにしたい」そんな気持ちから手伝って下っています。そしてとても活き活きと、笑顔で手伝ってくださっています。

それぞれの方が、決して楽ではない時に手伝ってくださっています。きっと人生の中で、大変な時にも関わらずボランティアをしたいと、言ってくださっています。逆にボランティアさんに少ないのは、今時間にも体力にも余裕があるという方です。そういう方はボランティアではなく、一般的な就職をするのでしょうか。私たちのボランティアさんは私も含め、決して強くたくましい人ばかりではありません。不自由や痛みを経験したり、悩みを抱えた人ばかりです。でもだからこそ、人一倍、誰かのためにこの働きに加わろうとする気持ちはある方たちです。食堂のこの1食は、地域のみんなの、そんな思い、小さな力が少しずつ集まってできています。

地域の人の多くが、誰かの力になりたいと願っていると知りました。そして誰かのために働く、手伝うこと、それ自身がその人の活力になることを知りました。教会は何かを提供するのではなく、教会と言う場所が、やりがいと、力を出せる場所となっているとことをうれしく見ています。教会で活き活きと働いてくれることをうれしく思います。

これはきっと神様の働きでしょう。神様は見えない力で一人一人を教会に引き寄せて下さっています。神様が、教会で体を動かすように招き、一人一人を元気にしてくださっています。神様は調理するということを通じて、みんなを元気にして下さっているのです。そして神様はそれを食べる人も元気にしてくださっているのです。

今日の聖書を読みたいと思います。高熱で立ち上がることができない女性がいました。その人はイエス様によって癒され、立ち上がることができました。そして立ち上がった後を見たいのです。彼女は立ち上がるとすぐに、他者のために働こうとします。私はこの姿がボランティアの人々に重なります。イエス様はそのように人々に活力を与えてくださるお方です。今日はそのことを見てゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を見ると、ある女性がいました。彼女は熱にうなされています。でも彼女の周りには優しい人がたくさんいました。彼女を心配し、その病が癒されるように願い、具体的に行動を起こす人、祈ってくれる人が周囲にたくさんいたのです。その中の一人が、イエス様なら彼女を助けてくれると信じました。そしてイエス様に話をしたのです。

イエス様はそのような場所に、イエス様の方から来て下さるお方です。女性はいのちからがら、藁にもすがる気持ちでイエス様を訪ねたのではありませんでした。いちばんしんどい時、仲間が祈り、イエス様が来てくれたのです。そばで手を握ってくださったのです。

私たちも熱を出すときがあるでしょうか。その時きっとイエス様は私たちの心に来て、共にいて下さいます。手を握ってくださいます。あるいはもっとこのことを広く解釈することができるでしょう。私たちの人生にも高熱を出しているような、しんどい時期があるものです。人生で立ち上がれない、食事がのどを通らない、眠れない、混乱し、誰かの助けが必要、そのような時期が人生にはあります。

その時、イエス様は私たちを訪ねてくださるお方です。私たちの手を取って癒してくださるのです。そして私たちがもう一度立ち上がることができるようにして下さるのです。体調を守り、立ち上がる気力、活力をイエス様がくださるのです。

今日の立ち上げられた女性の続きを見ます。女性は31節すぐに「もてなした」とあります。これはもともと「食事の提供をする」「給仕する」という意味の言葉です。聖書では多くの場合、イエス様に「仕える」という意味で訳されます。しかし男性だったら「仕える」と訳されている言葉が、女性だと食事を「もてなす」と訳されます。これは女性は家庭で、男をもてなすものだという考えに基づいた発想・翻訳です。新しい翻訳では男でも女でも、仕えるに修正されています。しかしもちろん、仕えることの中には、食事を作り、運ぶことが含まれます。彼女は「仕えた」のですが、料理をふるまったかもしれません。むしろ私は料理でもてなす彼女の様子を想像します。

こひつじ食堂を通じて、私は誰かに料理を作り、手渡すことの喜び、あふれてくる活力を知っています。きっと彼女は活き活きと料理をしたのではないでしょうか。私はこの物語をさっきまで熱にうなされていたのに、治ったらすぐに誰かのために働きたくなる女性の話と読みます。物語はこうです。ある時、いつも元気なあのおばちゃんが高熱になりました。近所の人、周りの人、教会の人がみんな心配しました。そして信仰のある一人がイエス様に祈りました。するとイエス様がその人を訪ねて、そばに行き、手を握り、祈り、癒したのです。

するとどうでしょか。そのおばちゃんは早速起き上がってしまいます。みんなに何か作って食べさせるんだと言いだします。周りはいくらなんでも、もうちょっと休んだ方がいいと止めたでしょう。でもおばちゃんは、絶対作ると言い張ります。みんなはしょうがないので作ってもらうことにしました。だってあのおばちゃん、いつもみんなに料理を作るのが、本当に楽しそうだから。誰かのために働くこと、働けることで、おばちゃんがもっと活き活きとし、元気になるのを知っていたのです。みんな心配しながらも、その料理をおいしく食べたでしょう。治って良かった、またおばちゃんの料理が食べれて良かったと言いながら、笑いあったでしょう。

そういう事がここで起きたのではないでしょうか。そういうことをイエス様が、ここで起こしたのではないでしょうか。イエス様は病や弱さを持っていた人を、起き上がらせました。そして、また元気にさせ、活力を与え、またみんなのために仕える人に変えた。それがイエス様が起こした奇跡ではないでしょうか。熱はしんどかったけど、熱を出す前よりももっとみんなとの関係、イエス様のとの関係は深くなりました。イエス様はそんな奇跡をここで起こしたのではないでしょうか。

イエス様は私だって誰かのために、何かしたい。体と時間の許す限り、誰かのために生きたい、そんな女性の願いをかなえ、立ち上がらせ、働く者とした。私はこひつじ食堂を見ていると、そのように感じます。

今日私たちは聖書を見ました。神様は苦しいとき、私たちを訪ねて下さるお方です。手を握り祈ってくださるお方です。私たちもそのように、苦しむ人がいる時、共に歩み、神に祈りましょう。そして神様は傷と苦しみから、私たちを癒して下さるお方です。もう一度立ち上がらせてくださるお方です。そして神様は私たちをもう一度活躍できる、誰かのために働けるようにしてくださるお方です。誰かのために祈れる者としてくださるお方です。誰かのために生きる者としてくださるお方です。私たちに生きる活力をお与えくださるお方です。そして神様はもう一度、私たちを強く結びつけてくださるお方です。私たち、この神様を信じましょう。共に従ってゆきましょう。力をいただき、誰かのために働き、祈ってゆきましょう。お祈りします。

 

 

「調理で元気にする神」マルコ1章29節~32節

 

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした

マルコによる福音書1章31節

 

こひつじ食堂から見えてきた福音を分かち合っています。こひつじ食堂にはたくさんのボランティアの方々が集まり動機は様々です。みなさん、とても活き活きと、笑顔で手伝ってくださっています。ある方は障がいをお持ちで、なかなか就職をする自信が出ないそうです。でもその日の体調が良い時だけなら、自分にもできると思って、ボランティアを始めたいと訪ねてこられました。

誰かのために働くこと、それ自身がその人の活力になることを知りました。教会は何かを提供するのではなく、教会と言う場所が、やりがいと、力を発揮できる場所となっていることをうれしく見ています。これはきっと神様の働きでしょう。神様は調理するということを通じて、みんなを元気にして下さっているのです。

今日は聖書から、立ち上がった女性がすぐに、他者のために働く姿を見ます。私はこの姿がボランティアの方々に重なります。イエス様はそのように人々に活力を与えてくださるお方なのです。今日はそのことを見てゆきましょう。

今日の聖書箇所で、女性は熱にうなされています。イエス様はそのような場所に、イエス様の方から来て下さるお方です。私たちの人生にも高熱を出し、立ち上がれない、しんどい時期があるものです。その時、イエス様は私たちを訪ねてくださるお方です。そして私たちがもう一度立ち上がることができるようにして下さるのです。

立ち上げられた女性は31節すぐに「もてなした」とあります。こひつじ食堂を通じて、私は誰かに料理を作り、手渡すことの喜び、あふれてくる活力を知っています。きっと彼女は活き活きと料理をしたのではないでしょうか。

イエス様は病や弱さを持っていた人を、起き上がらせました。そして、また元気にさせ、活力を与え、みんなのために仕える人としました。それがイエス様が起こした奇跡です。熱はしんどかったけど、熱を出す前よりももっとみんなとの関係、イエス様のとの関係は深くなりました。イエス様はそんな奇跡をここで起こしたのです。

イエス様は私だって誰かのために、何かしたい。体と時間の許す限り、誰かのために生きたい、そんな女性の願いをかなえ、立ち上がらせ、働く者とするお方です。私はこひつじ食堂を見ていると、この聖書の個所をそのように感じます。

神様は苦しいとき、私たちを訪ねて下さるお方です。私たちもそのように、苦しむ人がいる時、共に歩み、神に祈りましょう。神様は私たちをもう一度活躍できる、誰かのために働けるようにしてくださるお方です。誰かのために祈れる者としてくださるお方です。誰かのために生きる者としてくださるお方です。私たちに生きる活力をお与えくださるお方です。そして神様はもう一度、私たちを強く結びつけてくださるお方です。私たち、この神様を信じましょう。共に従ってゆきましょう。力をいただき、誰かのために働き、祈ってゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「5000人食堂」ルカ9章12節~17節

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。ルカ9章16~17節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは毎年「主題聖句」という1年間大切にする聖書の言葉を決めています。週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会で読み合わせています。昨年度までの3年間はルカ9章48節でした。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」この聖句から、私たちはこどもを大切にする教会ということを追いかけてきました。

今年はルカ9章16節・17節としました。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」

もちろんこれからもこどもを大切にしつつ、この聖句から今取り組んでいる「こひつじ食堂」を大切にしてゆきたいと思っています。「こひつじ食堂」とは毎月第三・第四金曜日、17時~19時まで、この教会を会場にして行われている食堂です。一人200円で、だれでも利用することができます。貧しい人だけが来る場所ではなく、誰でも、寂しいと思う人、誰かと会いたいと思う人、節約したい人、誰かの役に立ちたい人、すべての人に食べて、満腹になってほしいと思っています。こひつじ食堂の様子から、大勢で食事をする聖書の場面を主題聖句としました。

市内には他にもこども食堂があり、似たことをしています。その人たちにやり方を教わって始めました。しかし私たちにはきっと別のルーツがあります。そのルーツというのは聖書です。聖書の中に記される、イエス様がいろいろな人といろいろな場所で食事をしたことが「こひつじ食堂」のルーツです。聖書には食事がきっかけで、イエス様のことを知ることができたり、仲間ができたりする場面がたくさんあります。だからこそ、私たちは一緒に食事をすることを大切にするのです。

さらにこひつじ食堂は教会のメンバーだけではなく、地域の人と一緒に食事をする場所になりました。分かち合いをする場所になりました。一緒に働く場所になりました。

このことをきっかけに私たちは今、地域協働計画を進めています。今、私たちはもっと地域と一緒に食事をし、一緒に活動してゆく教会を目指しています。そしてそのような願いを持って聖書を読む時、きっと新しくみ言葉をいただくことができると思います。私は最近、聖書を読んでいるとどうも、読む個所、読む個所にこひつじ食堂のことが書いてあるような気がしています。今日から2か月この「地域協働」「こひつじ食堂」をテーマにして、聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

 

今日の聖書箇所は、イエス様がパンを増やしたという「奇跡」に目がゆきがちです。イエス様がマジシャンの様にパンと魚を増やすことをもって、イエス様は信じるに値する人だと言われることもあるでしょうか。イエス様に従えば、奇跡が起きて、飢えることなく、満たされるのだと言われるでしょうか。不思議だけどそれを信じるのが信仰だと教わって来たでしょうか。あるいはこれは食事や腹が満たされるという低い次元の話ではなく、心の内面、魂が満たされたのだと言う人もいるでしょうか。

しかしこひつじ食堂をはじめると、もっと違う読み方ができるのではないかと思います。私は5000人の食事を想像すると、今こひつじ食堂で一緒にしている食事と重なってくるのです。

たしかに聖書の言葉は人々の心の活力になるでしょう。私にとってはそうです。でも私はこひつじ食堂を始めて、言葉だけではない、食べ物を分かち合うことが、どれほど多くの人の励ましになるかを知りました。1食の食事を分かち合うことの喜び、力強さを知りました。

ここで注目をしたいのは、マジックのように食べ物が増えた、あるいは言葉を聞いて満たされたということではありません。ここで注目をしたいのは、食事を分かち合う、一緒に食べるということを通じて、人々の心、体、関係など様々なニーズが満たされていったということです。今日この個所を、食事を分け合った、一緒に食べたということを強調点として見てゆきたいのです。みんなが一緒に食べて、元気になったこと、それは奇跡によってパンが増えたことよりももっと大切なことではないかと思うのです。

食べ物の分かち合いによって、5000人のにぎやかな食事によって、おなか一杯、楽しく食事をした人々はもう一度、生き生きと歩んだでしょう。励まされて、自分の元いた場所に心の余裕を持って戻ったでしょう。ストレスが解消されたでしょう。もしかするとストレスからくる病気がすこし良くなったという人もいたかもしれません。

もちろん増えたパンも気になります。しかしそれももしかすると、私たちの食堂から考えると、人々が持っているパンを分け合ったのではないかと思えてきます。私たちの食堂がそうであるように、どこからか余っている食べ物が届けられたのではないかと思うのです。

13節にはイエス様が「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言ったとあります。この食事の主催者はイエス様です。イエス様がこの食事をするようにと弟子に命じました。それがこの食事の始まりでした。すべての始まりはイエス様の言葉です。イエス様はみんなばらばらに食事をするのではなく、全員で食べようじゃないかと言いました。弟子の役割はそれを準備することだとイエス様は言います。イエス様のこの言葉からこの食事は始まったのです。この言葉は2000年前の言葉です。でもこれは私たちへの言葉でもあるでしょう。「あなたたちが準備しなさい」これがこひつじ食堂のルーツです。

そしてここにはイエス様の招きも記されていると思います。イエス様に従った人々は自分の食べ物すら持たずに従った人でした。着の身着のまま従った人でした。準備の無い人が食事の輪の中に招かれたのです。神様とはそのような招きをするお方です。神様は準備のない人、持ち合わせのない私を、無条件に食堂に招いてくださるお方です。

14節には「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」とあります。この5000人はもともとバラバラの5000人でした。しかしバラバラだった5000人はイエス様の指示によって50人ごとのグループにされます。イエス様はお互いの顔が見えるグループに分けます。そしてそこに座らせるのです。50人は互いがおなかが空いているのを表情から知ったでしょう。名前の知らいない人と名前を教え合ったでしょう。50人の中にかつての友人を見つけ、共通の友人を見つけたでしょう。そうしているうちに奇跡とも言える分かち合いが起きたのです 。

このように神様は、準備の不十分な私たちを、招いてくださるお方です。そして一緒に向き合い、食事をするようにと命じます。弟子が準備するようにと命じます。私たちは顔を見て、分かち合い、一緒に食事をし、互いに励まし合います。そしてお互いにまた力を受けて、それぞれの場所へと戻るのです。私はそのような姿が、5000人の食事でも、こひつじ食堂でも起こっていると思います。

16節には「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」とあります。今日の個所は主の晩餐として行われていることは明白です。「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」とあるのは、主の晩餐の際によく使う表現です。イエス様はこれを主の晩餐として持ちました。

この5000人の食事が主の晩餐だとするなら、私はすべてがつながります。5000人の食事と、こひつじ食堂と、主の晩餐がすべてひと続きのものとしてつながります。実は私たちがしているこひつじ食堂は、5000人の食事であり、主の晩餐なのではないでしょうか。あるいは逆に、5000人の食事や主の晩餐とは実はこひつじ食堂の様な食事だったのではないでしょうか。私たちの食堂は、主の晩餐がルーツだともいえるのではないでしょうか。

今日私たちもこのあと主の晩餐式をもちます。久しぶりに小さなパンとぶどうジュースを皆さんと分かち合います。これから持つ主の晩餐はまさに5000人の食事の出来事です。そしてこひつじ食堂とも似た出来事です。今日それをともにいただきましょう。

私たちは今、イエス様から主の晩餐に招かれています。これを食べる・飲むことによって、バラバラの私たちは、顔の見える、分かち合いの関係の中に入ります。イエス様のもとで分かち合う5000人になります。50人になります。共に食べることによって、こひつじ食堂のように、励まされ、またそれぞれの場所で力強く歩むようになるのです。もしかしたら、このことで病気が楽になる、治る人がいるでしょうか。

私たちの教会では、パンと杯は、バプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンの方とともに食べるとしています。しかし私はいつか17節「すべての人が満腹した」とあるように、すべての人に加わって欲しいと願っています。イエス様はすでに招いておられます。一人でも多くの方が、これに加わって欲しいと思っています。賛美の後、ともに主の晩餐をいただきましょう。私たちは一緒に食べる教会として、地域と共に歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

「5000人食堂」ルカ9章12節~17節

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。ルカ9章16~17節

 

今年度の主題聖句をルカ9章16~17節としました。市内には他にもこども食堂があり、私たちの「こひつじ食堂」もその方たちに教わりながら始めました。しかし私たちにはきっと別のルーツがあります。イエス様がいろいろな人といろいろな場所で食事をしたことが「こひつじ食堂」のルーツです。

私は最近、聖書を読んでいると読む個所、読む個所にこひつじ食堂のことが書いてあるような気がしています。今日から2か月「こひつじ食堂」をテーマにして、聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

今日の聖書箇所を読みます。今日はイエス様がパンを増やしたという「奇跡」よりも、一緒に食べるということを通じて、人々の心、体、関係など様々なニーズが満たされていったということに目を向けます。

人々は食べ物の分かち合いによって、5000人のにぎやかな食事によって、おなか一杯、楽しく食事をしました。そしてもう一度、生き生きと歩んだでしょう。励まされて、自分の元いた場所に心の余裕を持って戻ったでしょう。ストレスが解消されたでしょう。病気がすこし良くなったという人もいたかもしれません。

13節には「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とあります。この食事の主催者はイエス様です。イエス様がこの食事をするようにと弟子に命じました。すべての始まりはイエス様の言葉です。この言葉は2000年前の言葉です。でもこれは私たちへの言葉でもあるでしょう。この言葉がこひつじ食堂のルーツです。

14節には「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」とあります。バラバラだった5000人はイエス様の指示によって50人ごとのグループにされます。50人になって、交わりを持ち互いにおなかが空いているのを表情から知ったでしょう。そうしていると奇跡とも言える分かち合いが起きたのです 。

16節は主の晩餐の際によく使う表現です。イエス様は5000人の食事を主の晩餐として持ちました。この5000人の食事が主の晩餐だとするなら、私はすべてがつながります。5000人の食事と、こひつじ食堂と、主の晩餐がすべてひと続きです。実は私たちがしているこひつじ食堂は、5000人の食事であり、主の晩餐なのです。私たちの食堂は、主の晩餐がルーツだともいえるのです。

今日私たちもこのあと主の晩餐式をもちます。これを食べる・飲むことによって、バラバラの私たちは、顔の見える、分かち合いの関係の中に入ります。イエス様のもとで分かち合う5000人・50人になります。共に食べることによって、こひつじ食堂のように、励まされ、またそれぞれの場所で力強く歩むようになるのです。

私は17節「すべての人が」とあるように、いつか食堂にも主の晩餐にもすべての人に加わって欲しいと願います。賛美の後、ともに主の晩餐をいただきましょう。

 

【全文】「はじめての教会」マルコ1章16節~20節

 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

マルコによる福音書1章17節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもをたいせつにする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

先週はイースター礼拝を持つことができました。宣教でマルコの最終章が1章につながっているということを見ました。イエス様のガリラヤの姿を見ることで、私たちは復活の主に出会うことができるのだと、聖書を読みました。ですから今日はマルコ1章のガリラヤのイエス様と弟子の最初の出会いを見てゆきたいと思います。

教会には絶えず、新来者、初めてこの教会の礼拝に来たという方がいます。多い時期、少ない時期があります。4月は比較的多い時期でしょうか。わたしたちはこどもを大切にする教会ですが、たいせつにするのはこどもに限りません。こどもをはじめ、すべての人を大切にする教会です。初めてきた人も大切にする教会です。

見知らぬ場所、見知らぬ人に会うのはとても緊張して、勇気がいるものです。初めて教会に行くという時、あらかじめ電話をしてきて「自分なんかが行ってもよいのか」と確認する方も多くいます。初めての場所、特に宗教がらみとなれば、当然いろいろな不安があるものです。よく聞かれることは、私も行ってよいのか?どんなことをするのですか?どんな服装でいけばいいのか?お金はいくら払ったらいいのか?と聞かれます。

私は、準備は必要ない事、緊張しないで、手ぶらで普段着でお越しくださいと伝えるのですが、どんな言葉をかけられても、見知らぬ人の集まる場所に行くのは、とても緊張するでしょう。興味はあるけど、入る勇気はないという人はたくさんいるものです。教会はそのような方たちを温かいまなざしを持ってお迎えしたいと思います。よくある失敗は「あなたの名前は?お住まいは?家族は?仕事は?」と質問攻めにしてしまうパターンです。初めての方を知りたいと思う気持ちで、悪気はないのです。しかし聞かれた側としては「その前に、あなたは誰ですか?」と感じるものです。私たちは教会の中で、相手が自分のことを知っている前提で話をしてしまうものです。

私たちはまず自分から自己紹介しましょう。「私は平野と言います、豊原町に住んでいます。こどもが2人います。牧師をしています。今日はよろしくお願いします」そんな風に声がかけられたら良いと思います。聖書や讃美歌を開くというのも、お手伝いください。初めはページ数を言われても開くことができないものです。そっと前後左右に座った方に教えてあげるようにしてください。

私たちは初めて来た方も大切にする教会です。見知らぬ人の中にいて、不安に思う人を大切にする教会です。今日はYouTubeで、来ることを不安に思う方、来るのに勇気がでないという方も見ているでしょうか。その方たちに伝えたいのは、あなたはここにいて、ここに来てOKということです。すべての人がこの礼拝にくるのにふさわしい人です。失敗はありません。とにかくこの時間を一緒に過ごしてくれればOKです。ぜひ一緒に礼拝しましょう。

話が難しくてわからなかったと思うかもしれません。大丈夫です。周りの方はわかったような顔をしていますが、意外とわかっていないものです。牧師自身もそうです。わかったような話し方していますが、わからないことがたくさんあるまま話をしています。とにかく私たちは聖書の事もお互いの事も、わからないながらも、この場所にいよう、人生を一緒に歩もうとする集まりです。少しずつお互いと、神様の事を知ろう、そんな集まりです。どうぞゆっくりと、一緒に過ごしましょう。そんな気持ちで今日、礼拝を共にしましょう。

今日は聖書から、イエス様のこと、全部わかるわけではないけど、私たちは神様に招かれているということ、そしてイエス様と一緒に歩みましょうということを聞きたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日はマルコ福音書1章16節~20節(新約聖書61ページ、後半三分の一あたりの61ページ、小さい16という番号からの箇所)です。イエス様が四人の漁師を弟子にするという場面です。

先週は、マルコ福音書には大事な復活のありさまが書かれていないということを見ました。今週も肝心なことが書いていないと思います。それは弟子たちの葛藤です。弟子たちはこんなにあっさり、見知らぬ人について行ってしまったでしょうか。初めて会った人について行くのに葛藤はなかったのでしょうか。多くの人は教会に初めて来るということに、とても慎重です。しかし、この人たちは初めて出会った見知らぬ人についていくということに一切の迷いがありません。それ以外にも仕事辞めて大丈夫なのか?家族は置いて行って大丈夫なのか?いろいろと疑問に思います。

今日の個所にはそのような心配や不安や葛藤、イエス様について行く際にあっただろう途中経過が一切書いてありません。葛藤したけれども従うことにしたのだという記載の方が、力強い印象を与えるはずです。しかしそれは書かれていません。見知らぬ人に声をかけられ、ついていってしまう危険な話です。

経緯が記されないでいると、印象に残るのは、やはり直前の言葉です。それは「私についてきなさい」という言葉です。「ついてきなさい」という言葉は、聖書のもともとの言葉をみると「一緒に歩む」という意味のある言葉です。つまり「ついてきなさい」とは「一緒に歩もう」という意味です。イエス様は見知らぬ人として4人の前に突然現れ「一緒に歩もう」と言うのです。

「人間をとる漁師になろう」とは少々乱暴な印象を持つ言葉ですが、人間に罠をかけて捕まえるような強引な布教をするということではありません。「たくさんの仲間を作ろう」という意味です。私たちはイエス様の網の中にある、元気な魚です。4人はこのような出会いをしました。ある日突然、仕事をしていると、見知らぬ人が現れて「一緒に歩もう」と言われるのです。そしていろいろ都合があったのだけれども、一緒に行ってみようと決めたのです。

イエス様はそのように弟子たちに現れたお方です。まずイエス様は、イエス様の方から会いに来てくださるお方です。何の準備もないもない、知識もない者に声をかけるのです。イエス様の方から弟子にならないかと招くのです。私たちは一生懸命、教会に来る、イエス様に従うために一生懸命ですと思うかもしれません。でも神様は私たちに、神様の側から会いに来てくださるお方です。

イエス様は私たちに、そのように現れるお方です。神様は最初は誰にとっても、名前も知らない人です。見知らぬ人です。でもその方に「一緒に歩もう」と誘われ、一緒にいるようになるのです。そして一緒に歩むことで、毎週少しずつ、神様のことがわかるようになるのです。私たちは神様の事よく知らないかもしれません。いろいろな準備ができていなかもしれません。でも神様が、神様の方から私たちに現れてくれるのです。私たちが知らなくても、準備できていなくても神様は私たちに現れくださるのです。

そしてイエス様が現れる場所も見ておきたいと思います。イエス様はなんと仕事中に突然現れるのです。神様は日常生活の中に現れると言えるでしょう。イエス様が私たちに会いに来てくださるのは、教会や神殿や、パワースポットだけではないのです。神様は私たちの日常に現れるお方です。職場や毎日いる場所に現れるのです。神様はそのように自分を現わすお方です。私たちはそれぞれ1週間過ごす場所で神様に出会うでしょう。職場や学校や、デイサービス、日々私たちの行く場所に神様は現れるのです。

それは職場の同僚や上司、友人知人、一緒に過ごす人を通じてとも言えるかもしれません。出会う人の輝きや、痛みや苦しみを知り、神様がきっとここに働くと感じことになるでしょう。神様は私たちの毎日にそのようにして、誰かを通じて現れて下さるお方でもあります。

そしてもうひとつ見ておきたいのは、神様は特別な人に現れるのではないということです。神様は当時ありふれた職業だった漁師に現れました。知恵と理解力とパワーのある人に現れたのではありません。労働者に、普通の人に、ごく一般人に、私に現れるのです。初めての人にも現れるのです。それが神様の選びです。神様は偉い人、賢い人を選ぶのではありません。神様の温かいまなざしは毎日を生きる私たち、全員に注がれているのです。

「ついていく」という言葉をすなわちそれは教会の奉仕を頑張ることだ、牧師になることだ、そう理解されてきた歴史もあります。もちろんそういう事も含むでしょう。しかしそれだけではないはずです。毎日の生活の中で、神様は私に、私たちに「一緒に歩もう」「仲間といよう」そう呼びかけておられるのです。

神様はこのようなお方です。神様は見知らぬ私に突然、出会いに来て下さるお方です。神様は私の日常に出会いに来てくださるお方です。神様は特別な人にではなく、あなたを、私を選ぶお方です。

今日、私たちはそのイエス様に「一緒に歩もう」と呼びかけられています。私たちはそれに応えてイエスさまと一緒に歩みましょう。この仲間と共に歩んでゆきましょう。神様は私たちの日常に、先に、すでにおられるお方です。先週見た「先にガリラヤへ行かれた」とはそのような意味です。私たちの主は、私たちの日常に先に行っておられます。今週もそれぞれの場所で、共に主イエスと出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

「はじめての教会」マルコ1章16節~20節

 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

マルコによる福音書1章17節

 

先週はマルコの最終章が1章につながっているということを見ました。ですから今日は1章、ガリラヤのイエス様と弟子の最初の出会いを見てゆきたいと思います。

教会には絶えず初めて礼拝に来たという方がいます。わたしたちは初めて来た人も大切にする教会です。準備は必要ありません。緊張せず、手ぶら、普段着で結構です。見知らぬ場所、見知らぬ人に会うのはとても緊張して、勇気がいるものです。来るのに勇気がでないという方がYouTubeで、見ているでしょうか。その方たちに伝えたいのは、あなたはここに来てOKということです。すべての人がこの礼拝にふさわしい人です。失敗はありません。とにかくこの時間を一緒に過ごしてくれればOKです。ぜひ一緒に礼拝しましょう。教会はそのような方たちを温かいまなざしでお迎えします。私たちはまず自分から自己紹介をさせていただきます。

とにかく私たちは聖書の事もお互いの事も、わからないながらも、この場所にいよう、人生を一緒に歩もうとする集まりです。今日は聖書から、イエス様のことを全部わかるわけではないけど、私たちは神様に招かれているということ、そしてイエス様と一緒に歩むということを聞きたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

今日はマルコ福音書1章16節~20節です。今週も肝心なことが書いていないと思います。それは弟子たちが従うまでの葛藤です。経緯が記されないと、印象に残るのは、やはり直前の「私についてきなさい」という言葉です。

「ついてきなさい」という言葉は「一緒に歩もう」という意味のある言葉です。つまり「ついてきなさい」とは「一緒に歩もう」という意味です。まずイエス様は、イエス様の方から会いに来てくださるお方です。何の準備もないもない、知識もない者に声をかけるのです。神様は最初は誰にとっても、名前も知らない人です。見知らぬ人です。でもその方に「一緒に歩もう」と誘われ、一緒にいるようになるのです。

そしてイエス様が現れる場所も見ておきたいと思います。イエス様はなんと仕事中に突然現れるのです。神様は日常生活の中に現れると言えるでしょう。

そしてもうひとつ見ておきたいのは、神様は特別な人に現れるのではないということです。知恵と理解力とパワーのある人に現れたのではありません。ごく一般人に、私に現れるのです。初めての人にも現れるのです。それが神様の選びです。神様の温かいまなざしは毎日を生きる私たち、全員に注がれているのです。

今日、私たちはそのイエス様に「一緒に歩もう」と呼びかけられています。イエスさまと一緒に歩みましょう。この仲間と共に歩んでゆきましょう。

神様は私たちの日常に、先に、すでにおられるお方です。先週見た「先にガリラヤへ行かれた」とはそのような意味です。私たちの主は、私たちの日常に先に行っておられます。今週もそれぞれの場所で、共に主イエスと出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「終わりじゃない、終わり」マルコ福音書16章1節~8節

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節

 

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音をたくさん聞きながら共に礼拝をしましょう。そしてイースターおめでとうございます。イースターを共に祝うことができること感謝です。

何より転入会が起こされたことを大変うれしく、歓迎します。証しを聞きました。17という数字もこの出会いきっかけでした。家族で過ごした最後の17日間。命日だった3月17日。そして私たちの信仰告白の日付が3月17日でした。そして今日は4月17日。そして今日は初めて来たクリスマスから17週間後。今年は初めて教会に通ってから17年目だそうです。不思議なめぐり合わせです。

信仰を改めて強く意識したのは、お連れ合いの死に直面した時だったでしょうか。お連れ合いを天に送ってしばらくは活力がわかない日々が続いたそうです。しばらくして、このままではいけないと思って、そして不思議に予定が巡り合わされこの教会へと導かれました。

誰かの死は人を大きく変えると感じます。特に親しい人の死は私たちの心を大きく動かします。死は人を悲しませ、人の気力を長く奪います。しかし同時に死は、人を動かします。遺された者の生き方を変えるのです。私たちは誰かの死に突き動かされることがあります。

2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとっても、新しいスタートになります。私たちの大切な人の死は、私たちを立ち止まらせます。でもそれはスタートになります。新しい歩みのスタートになるのです。私たちは誰かの死、あるいは自分の死で終わるのではありません。そこから新しくスタートする歩みがあるのです。終わりと思う場所は、終わりではありません。それはスタートにつながっているのです。

終わりの様に見える死も、終わりではありません。お連れ合いは最後に「また、会おうね」と天に召されていったそうです。終わりの様に見える死は、終わりではありません。その証しをこのイースターに聞くことができたのは大きな喜びです。

今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日の個所はもう一度スタートをしたくなる、そんな終わり方をしています。それは「終わりじゃない終わり」です。この個所は終わりの様で、始まりなのです。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。

 

今日の個所を読みましょう。今日はマルコ最終章16章の1~8節です。聖書がお手元にある方は開いて見て下さい。9節以降には人々がどのように復活の主と出会い、宣教へと派遣されてゆくのかが描かれています。特に「結びの二」の個所を見ると、素晴らしい終わり方だと思います。イエス様が現れて弟子たちは朽ちることのない福音を広めていったと書いてあります。めでたしめでたしのハッピーエンドです。

しかし、実は9節以降を見ると〔カッコ〕でくくられています。ひとつ目のカッコは9節~20節まで、そして二つ目のカッコは結びの二の個所です。聖書の言葉がカッコでくくられている意味は、当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。聖書のオリジナルの言葉ではなないのだけれども、後から付け加えられ、聖書と同じように読まれてきた箇所という意味です。聖書なのかどうか、すこし曖昧な箇所でもあります。ここで2つのカッコがあるのは3通りの結末、いろいろな終わり方があったということを示しています。

一つ目はオリジナルです。8節で終わる終わり方です。2通り目は後の時代の人が20節までを付け加えた終わり方です。そして3通り目は、8節の後に結び二を付け加えた終わらせ方です。3通りの終わり方がありましたが、いずれにしても当初はこの8節まででマルコ福音書は終わっていました。

マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたと考えられます。だとするとどのような意味がそこにあるでしょうか。お手元に聖書がある方は9節からを手で覆って、隠してみてください。そうするとわかることは、もともとのマルコ福音書は復活のありさまについて記していないということです。8節は女性たちが恐ろしく思ったということで終わっているのです。イエス様は復活しないで終わります。もしここで福音書のドラマが終わるとしたらどんな印象を持つでしょうか。とても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいました。確かに結びの二の方が終わりにはふさわしいでしょう。しかし福音書の著者はあえて8節で終わらせたのです。

もちろん著者は復活の出来事を知っていたはずです。しかしあえてそれを書いていないのです。あえて肝心な部分を書いていないのです。これでは結末として不十分ではないでしょうか。まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。え、ここで終わり?と感じるのです。大事なことが書かれていないのです。

しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることだと思います。え、ここで終わり?ここで終わりではないよね?そう思わせるために、途中で終わらせたのではないでしょうか。

著者は、復活の事をよく知っていたにも関わらず、復活がどのように起きたのかを詳しく描写することをあえて辞めました。この後何が起きたのかを詳しく書くのをあえて辞めたのです。復活をわざと描かなかったのです。

このようにあえて中途半端にマルコ福音書が終わっているとしたら、最後に印象に残るのは何でしょうか。それは終わる直前でしょう。白い長い衣を着た若者が言った7節の言葉が印象に残ります。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という言葉です。

マルコはイエス様がガリラヤに先にいっているという印象を残して終わっています。それ以降は描かないのです。弟子も何も行動を起こさないのです。なぞはなぞのまま終わり「イエス様はガリラヤに先にいる」という事だけが示されて終わるのです。

テレビドラマだとしたらこの最終話は視聴者を混乱させます。視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。

つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。ですからこの16章8節は1章1節へとつながってゆきます。「イエス様は先にガリラヤに行っている」という姿が終わりで指し示される時、私たちはもう一度、イエス様のガリラヤの歩みを読むように促されているのです。

ガリラヤのイエス様の姿を思い浮かべます。イエス様はガリラヤで貧しい人と共にいました。ガリラヤで病を負った人と共にいました。寂しさを抱える人と共にいました。ガリラヤで差別をされる人と共にいたのです。弟子と一緒に食事をしました。罪人と一緒に分け隔ての無い食事をしました。その姿を私たちはもう一度読みます。そしてきっと私とも共にいてくださるだろうと気づくのです。

再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。

私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?

十字架を知った私たちが、もう一度ガリラヤのイエス様の姿を知る。私たちはそのことを私たちの中にイエス様が「復活」したと言うことはできないでしょうか。十字架で終わってしまった、弟子たちも怖がって終わってしまった物語です。しかしそこから私たちがもう一度ガリラヤのイエス様の姿を読むとき、イエス様は復活し、私と共にいる、そう感じることはできないでしょうか。

今日私たちはマルコ福音書を16章まで読み進めてきました。でも私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。そのような意味で、今日の個所は終わりじゃない終わりです。終わりですが、スタートの日です。今日の最終章は終わりではありません。ガリラヤのイエス様の姿を指し示しています。もう一度ガリラヤのイエスを見よと指し示しています。そしてもう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示しています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。

今日、私たちはイースターを迎えています。新しいスタートをした仲間をうれしく思います。そして、終わりは終わりじゃないと感じます。終わりはスタートにつながっています。ガリラヤの姿、復活へとつながっているのです。

今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが、すでに、先に、復活の主イエスは聖書の中に、ガリラヤの姿に記されています。神様はそのようにして、私たちを、復活の主と出会わせて下さいます。ガリラヤに先におられるのです。終わりとスタートは結び付けられているのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。

 

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「終わりじゃない、終わり」マルコ福音書16章1節~8節

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節

 

転入会を歓迎します。誰かの死は人を大きく変えると感じます。死は人の気力を長く奪います。しかし同時に死は人を動かします。2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとって新しいスタートになります。終わりと思う場所は、終わりではなく、スタートにつながっているのです。

今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。

9節以降の〔カッコ〕は当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたのです。その後の復活のありさまについて記していないということです。これはとても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいたのです。

まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることです。あえて8節で終わらせイエス様が「ガリラヤに先にいっている」という印象を残して終わっているのです。

テレビドラマだとしたら視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。

つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?

私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。もう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示めされています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが神様はこのようにして、私たちを復活の主と出会わせて下さいます。終わりとスタートを結び付けてくださるのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「十字架に向かう神」マルコ14章32~42節

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることをうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、泣き声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは受難節の中の受難週、イエス様が十字架へと向かってゆく姿を覚える時を迎えています。

そして毎日ウクライナのニュースに心が痛みます。特に心が痛むのは、戦闘機やミサイルが狙っているのは、軍事施設ではなく幼いこどもや、病院にいる人を標的にしていることです。こどもたち、病院にいる人たちが戦争の中に置かれた恐怖を思うと、押しつぶされるように心が痛みます。

ウクライナでは自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。死の恐怖の中で、祈る人がいるでしょうか。私たちはそのような恐怖を感じている人と同じ世界に住んでいます。彼らが恐怖で眠れない時、私たちは毎日静かに眠っています。私たちの肉体は弱いものです。祈りが続かないものです。しかし今は、祈りたいと思っています。イエス様が待っているようにと言ったあの時は寝てしまったけれど、今私たちは現実をしっかり見て、祈り続けたいと思っています。

私たちもこの戦争に恐怖を感じています。それは次は私に爆弾が飛んでくるかもしれないという恐怖ではありません。私が今、もっとも恐ろしいと思うのは、人間はこのような戦争を起こすことができるということです。人間とはこのように人間を殺すことができるのかということに驚き、恐怖を覚えています。戦争の恐ろしさとは、人間が戦争によって、このように人間を殺すことができるということです。戦争を起こす人間そのものに恐怖を感じます。

このような戦争を見る時、私たちはいつも神はどこにいるのか、神は今何をしているのかを問いたくなります。いったい今神はどこにいるのでしょうか。早くこの戦いを終わらせてくれないのかを問いたくなります。

しかし神様はまだ今日もこの戦いを終わらせてはくれません。神様は沈黙しておられます。私はそこにも恐怖を覚えます。人間がどんなに残酷な戦争をはじめても、神様は止めて下さらないのです。私たちがどんなに平和を祈っても、神様は沈黙しておられるのです。そのような中で、神様がどこにいるのかを聞きたくなるのです。神様はこの状況に沈黙している、神様はいないのではないかと恐怖を感じるのです。

一方、今日の個所から思い出すことがあります。それは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。神様は苦しみを避け、死を避けてゆくのではありません。十字架に向けて、ご自身から向かい、そのただなかにおられるのが、私たちの神様なのです。

私たちの神様は、私たちが「神はどこにいるのか」「神などいない」と思う、その場所におられます。その苦しみの中心に、神はいないと思うその中心に、神様はおられるのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。苦しみのある場所、苦しむ人のいる場所に神様おられます。そこに心を向けたいのです。共に、目を覚まして祈りたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。 

 

 

今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。私たちが従おうとする神様は苦しんでいます。神様はこのように苦しむお方なのです。でも、なぜイエス様はこの場面で苦しみもだえ、死ぬばかりに悲しむのでしょうか。実はその理由ははっきりしません。

弟子たちが眠っていて、一緒に祈ってくれないから悲しいというのは、この後の37節の出来事です。イエス様は弟子たちが眠ってしまった、祈っていない以前から、すでに苦しみ、悲しみを持っているのです。ですから弟子たちの弱さが、悲しかった、苦しかったのではありません。

ではやはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。それももちろんあるでしょう。この後の十字架によって自分が死ぬということはとても怖かったのでしょう。何度も自分は死ななければならないと語り、その運命を知っていたとしても、それは近づけば近づくほど、もだえ、苦しむほど恐ろしかったでしょう。

しかし今日私はイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。自分の死や、孤独だけがこの悲しみ、恐怖の原因ではないでしょう。その悲しみは個人の痛みではなく、もっと深い痛みであったと思うのです。イエス様の悲しみをもっととらえたいのです。

おそらく、イエス様の深い悲しみは、この死が一人の人間の死ではないということと関係するでしょう。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、御心にかなう人の死であり、救い主として地上に遣わされた人が殺される死です。それは神の子の死です。神ご自身の死でした。

十字架が目前に迫っている今、人間は神の子を殺そうとしています。神を殺そうとしています。人間にはそのようなことができるのです。人間は戦争であのような残酷な攻撃ができるように、神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様はそのことに恐怖を感じたでしょう。自分が殺される、仲間は祈ってくれないということ以上に、人間が神の子さえも、救い主さえも殺そうとしている、その人間に恐怖を感じたでしょう。

イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。人はこのように残酷になることができるのです。人間が殺すことができるのは、人間だけではないのです。人間は神すら殺すことができるのです。人間とはそのように、恐ろしい存在です。イエス様はその人間の罪の大きさを感じ、ひどく恐れてもだえ始め、死ぬばかりに悲しんだのでしょう。そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が何も語らないということです。恐ろしいことに神様はイエス様の祈りに対して、ずっと沈黙をしているのです。イエス様は36節で苦しみを取り除いて欲しい、でも御心が叶うようにと祈っています。イエスは神様に必死に祈りました。地面にひれ伏してまでも祈りました。神の御心が叶うようにと祈ったのです。

しかし神様はイエス様に何かを応えたのでしょうか。今日の個所には神様の発言は記されていません。神様はひたすら沈黙を続けてゆきます。その沈黙は十字架までずっと続きます。イエス様が「わが神、わが神、なぜあなたは私を見捨てるのか」そう叫んだときも、神様の声は聞こえませんでした。神様は沈黙しておられたのです。

イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。大きな困難が迫っている。でも私に向けて神様は直接話しかけたり、救い出したりしてくれないのです。神様これでいいのでしょうか。これが御心なのでしょうか?その問いに神様は答えないのです。そして同じように、私たちも神様の声を聞いたりすることは少ないでしょう。

では神様はいないのでしょうか。どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちはそのことを知っています。

神様はそのようにして沈黙し、苦しみます。神様は沈黙し、その苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、十字架で死んでゆくのです。神様の声は聞こえなかったでしょう。

でも神様は確かにそこに、十字架にいたのです。それが私たちの神様です。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいる、その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。

今、私たちの世界で、最も痛み、もっとも恐怖を感じているのはウクライナの人々でしょう。人間は残酷です。神様はどこにいるのでしょうか。神様の声と業で戦争が止まらないでしょうか?それは今日まで起きていません。

しかしそのような現実にあって、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。ウクライナの攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。

神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。それがイエス様の十字架が示していることです。

一方、神様がいない場所があります。それはどこでしょうか。それは墓の中です。神様は墓の中にはおられません。墓にとどまらず3日後に復活をしたのです。それは地上の悪や罪、人間の残酷さが、勝利しないことを示しています。

神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方です。命は墓に閉じ込めておくことができません。戦争は、暴力は人を殺すことができない、命は永遠に続く、そう神様は示したのです。

神様はこのように、沈黙しながら、苦しみもだえ、そして苦しむ人と共にいるお方です。苦しむ私たちと共にいるお方です。私たちもそうありたいのです。私たちも苦しいけど、苦しい人に目を向けてゆく、目を覚まし祈ってゆきたいのです。

今日の最後の個所42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。「十字架にさあ行こう」と、イエス様は弟子たち、私たちに語っています。十字架に行こう、それは共に苦しみの道を歩もうということでしょう。そして苦しみを感じている人に目を向け祈るということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし、祈り続けましょう。お祈りします。

 

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「十字架に向かう神」マルコ14章32~42節

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節

 

ウクライナで戦争が続いています。自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。私は人間がこのような戦争をすることを恐ろしいと思います。そしてもっとも恐ろしいのは、戦争の中でも神様が沈黙しておられることです。

一方、今日の個所から思い出すことは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。

今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。イエス様は弟子たちが眠る前から、すでに苦しみ、悲しみを持っていました。やはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。

しかしイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、神の子の死です。人間は神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。

そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が沈黙を続けているということです。今日の個所には神様の発言はなく、ひたすら沈黙を続けています。イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。

そのとき神様どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいるのです。その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。

今、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。そして神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方なのです。

42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。十字架に行こうとは共に苦しみの道を歩もうということ、そして苦しみを感じている人に目を向け祈ろうということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし祈り続けましょう。

 

【全文】「神は計画を変える」マルコ9章2~10節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。マルコ9章2~3節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。特に今日は礼拝に集い、また賛美を再開することができてうれしいです。久しぶりに声を合わせて賛美することができる恵みを感じています。

先週はお休みをいただきありがとうございました。また教会の働きに励みたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

今日から新年度に変わります。今年はいよいよ教会にとって大きな一歩を踏み出してゆく年になるでしょう。特に地域と共に働く、地域協働、こひつじ食堂の広がりを大切にしたいと思っています。地域と共に、地域の中で歩む、一緒に食べることを大切にしてゆきましょう。

私たちの始めた「こどもプロジェクト」は大きなうねりになってきています。私たちが自分の予定を変えて、他者のために動き出すとき、大きなうねりが起こりました。私たちは自分のためではなく、他者のために、特にこどもたちのためにこれからも歩んでゆきましょう。

新年度、新しい計画を始める前に確認しておきたいのは、物事を進めてゆく時には必ず紆余曲折があるということです。計画には浮き沈み、うまくいく時とそうでない時があるものです。

そして元の計画は必ず変更になります。問題が出てくるたびに、いちいち右往左往し、三歩進んで二歩も三歩も下がります。一つの問題を解決すれば、別の問題が出てきます。最後に完成した姿を見ると、最初の計画とは似ても似つかない、違うものになっていたということはよくあることです。

現状とは案外、いろいろなバランスがとれているものです。それを変えようとするとき、様々な場所でバランスが崩れるはずです。だから現状維持が楽です。でも一歩歩み出したい、これまでと違う一歩、できなかった一歩を歩みだしたいと思っています。「計画はコロナ次第で変わります」という事も増えました。教会の計画も、人生の計画もコロナ次第で、振り回されています。あえて良かったといえる事は、計画が変わることに慣れたことでしょうか。期待しすぎないこと、今できなくても必ずいつかできること、それを待つことができるようになりました。必ずできると信頼して待つことができるようになりました。

計画というのは直線的であっても、実施は柔軟な曲線のようなものになるでしょう。私たちが祈るのは、計画が私たちの考えた通り、まっすぐ直線的に実現されることではありません。この計画に神様の力が働いて、変えられて、私の計画が曲げられて、神様の計画が実現されてゆくことを祈りたいと思っています。

新年度、一人一人の人生の計画も残念ながら思い通りにはいかないこともあるでしょう。思い描いていたこと、一直線に描いた計画は、思っていたものとは違うものになるでしょう。でも変化を受け止めてゆくことが大事です。私の計画は実現しないかもしれないけれど、神様の計画が実現してほしい、そう祈って歩みましょう。

私たちの人生でも最後に目にするのは、最初に私が願っていたのとは違うものかもしれません。でも神様の計画はきっとそのように実現します。神様の計画が実現することを祈ってゆきましょう。そして計画が変えられる時、その中で神様がいつも共にいてくれることを忘れないでいましょう。

今日は私たちの人生には良いときも悪いときも、神様がいつも共におられることを見ます。そして神様は私たちの計画を変えながら、導いてゆかれることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。 

 

 

今日の個所は「キリストの変容」と言われる箇所です。3節でイエス様は、山の上で真っ白に輝きだします。その白さはどんな人間の力さえも超える白さでした。この場面は、イエス様の地上の人生で、もっとも神の栄光を受けている、まさしく輝いている瞬間と言えるでしょう。イエス様はイスラエルの偉大な預言者モーセとエリヤと話をしています。イエス様がただの人間ではない、神の子であるということが、示されています。

受難節にこの栄光に包まれるイエス様の姿を読むとまた違った印象を持ちます。それは、今日の場面はイエス様の地上の人生でまさしく最も輝いている場面ですが、イエス様の人生は紆余曲折の連続だったということです。

紆余曲折を図にすると次のとおりです。イエス様が最初に地上に生まれたのは貧しい家畜小屋でした。それは、神と等しい身分に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられ(フィリピ2:6-7)た出

来事でした。しかしそのイエス様は今日の場面で、山の頂に登り、偉大な預言者と並んで、神の栄光を受けています。そしてこの後、十字架にかかり、さらに復活をするのです。イエス様の歩みはこのように紆余曲折するのです。

この紆余曲折はすべて神様によって起こされた事です。家畜小屋も十字架も復活も、すべて神様が起こしたことです。そしてもちろん今日の変容も神様が起こしたことです。2節にはイエス様は「変わった」とありますが、ここは正確に翻訳すると「変えられた」という訳になります。このような表現を神的受動態といいます。神によって〇〇されるという表現です。イエス様は自分で変わったのではありません。神様から力を受けて「変えられた」のです。神はこのように人を変えるお方です。地上へと遣わし、変化させ、苦難をとおし、復活へと導くお方です。

そして神様は7節で雲の中から「わたしの愛する子、これに聞け」と呼びかけます。それは輝く姿を見たかどうかではなく、その言葉、聖書の言葉をよく聞けということでしょう。み言葉を聞きないさいと言われています。

変えられたイエス様は、山頂にそのままずっと留まったのではありません。この後イエス様は山を下ります。そして14節からは病気を持った人に出会ってゆくのです。そのように人間と苦難を共にしながら、十字架へと向かってゆきます。十字架に架けられて、どん底と思える無残な死に方をしてゆくのです。そしてその後にはイースター・復活があります。再び神の栄光を受けるときが来るのです。

このようにイエス様の人生は紆余曲折します。上下し、大きく揺れ動きます。それがイエス様の人生です。人間の計画が実現してゆくのではなく、神の計画が実現してゆくのです。私たちの人生も、教会の計画も紆余曲折してゆくでしょう。またコロナで何かが中止・変更になるかもしれません。もっとこひつじ食堂が広がってゆくかもしれません。私たちの計画も上下してゆくでしょう。神はそのように計画を変えて導かれるお方です。

今日、このような人生と計画が紆余曲折してゆくという場面でも覚えておきたいことがあります。それは、私たちの人生の紆余曲折の中にイエス様がいつも共にいるということです。一つ目の谷、イエス様誕生の出来事も、まさに神様が地上で人間と共にいるということでした。地上に生まれることによって、神様は私たちと共にいるお方になったのです。そして今日の個所からもそれを読みとることができます。イエス様は今日の場面によれば、一人で山に登ったのではありません。2節、弟子たちを連れて上ったのです。連れて行ったという言葉は聖書の言葉で、担ぎ上げること、運び上げることを意味します。弟子が一生懸命に登るのではかったのです。イエス様が弟子が引っ張って、連れて行ってくださったのです。神様が栄光の場所へと共に連れて行ってくださる、一緒に来て下さるのです。神様はそのようにして、人間にできないことを、計画にないことを見せて下さるのです。

この山頂の栄光は復活の栄光に似ているといえるでしょう。山頂の変容は、復活の先取り、予告ともいえるでしょう。神様は人間がたどり着けない、計画をしない事柄を起こすお方だということが示されています。私たちの知っている現実とは、違うことが神様の働きによって起こるのです。そしてそこへは神様が連れて行ってくださるのです。

イエス様の歩みをさらに追っていきましょう。9節には「一同が」山を下りるとあります。ここからわかるのは、その下り坂も弟子たちだけで行くのではなかったということです。イエス様は共に、山から下りてきてくださるお方です。それはイエス様がベツレヘムの家畜小屋に生まれてきてくださったことと似ているでしょう。人間の住むこの世界に、イエス様は私たちと共にいてくださる、下ってきてくださるのです。10節、弟子たちは下り坂の歩みで、論じ合いました。私たちが今見た栄光は何だったのだろうか、復活とはなんだろうか、意見を言い合いながら、山を下ったのです。私たちもそのように歩みましょう。つらいことが起こる時、人生の下り坂のとき、計画がうまくいかないと思うとき、神様はどんなお方なのか、互いの言葉を聞き合ってゆきましょう。その先にはきっと希望があるはずです。

このようにして神様は私たちと共にいて下さるお方です。人生の紆余曲折の中で共にいて下さるお方です。そして神様は、私たちの思う計画を変えるお方です。神様ご自身の計画を実現されるお方です。私たちの人生は、私たちの教会の計画は一直線に実現するのではないでしょう。神様が計画を変えるでしょう。

神様が私たちに与えた道はグネグネと曲がっている道です。良いことも悪いこともあるでしょう。一直線ではないでしょう。でも最後に希望があること、その時までずっとその道をイエス様が一緒にいて下さること、そのことを忘れないでいましょう。神様は私たちの思い描く計画を変えるでしょう。そして私たちと共にいて下さるでしょう。そのことを覚えてそれぞれの1年を歩みだしましょう。お祈りいたします。

 

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「神は計画を変える」マルコ9章2~10節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。マルコ9章2~3節

 

今日から新年度に変わります。新しい計画を進めてゆく時には必ず紆余曲折があるものです。元の計画は必ず変更になります。最後に完成した姿を見ると、最初の計画とは似ても似つかない、違うものになっていたということはよくあることです。

計画は直線的であっても、実施は柔軟な曲線のようなものです。私たちが祈るのは、計画が私たちの考えた通り、まっすぐ直線的に実現されることではありません。この計画に神様の力が働いて、変えられて、私の計画が曲げられて、神様の計画が実現されてゆくことを祈りたいと思っています。

今日は、私たちの人生には神様がいつも共におられること、そして神様は私たちの計画を変えながら、導いてゆくことを見てゆきます。

今日の個所は「キリストの変容」と言われる箇所です。受難節にこの個所を読むとイエス様の人生は紆余曲折の連続だったことを知ります。その紆余曲折を図にすると次のとおりです。この紆余曲折はすべて神様によって起こされた事です。2節にも正確に翻訳すると「変えられた」という神的受動態が使われています。そして変えられたイエス様は、山頂にそのままずっと留まったのではありません。山を下り十字架へと向かってゆきます。そしてその後には復活があります。再び神の栄光を受けるときが来るのです。このようにイエス様の人生は紆余曲折します。神はそのように人の計画を変えて導かれるお方です。

今日、このような人生と計画が紆余曲折する中で覚えておきたいことは、私たちの人生の紆余曲折の中にもイエス様がいつも共にいるということです。

イエス様は一人で山に登ったのではありません。2節、イエス様が弟子が引っ張ってくださったのです。神様が栄光の場所へと共に連れて行ってくださるのです。神様はそのようにして、人間にできないこと、計画にないことを見せて下さるのです。

9節には「一同が」山を下りるとあります。イエス様は共に、山から下りてきてくださるお方です。それはイエス様がベツレヘムの家畜小屋に生まれてきてくださったことと似ているでしょう。人間の住むこの世界に、イエス様は私たちと共にいてくださる、下ってきてくださるのです。

このようにして神様は私たちと共にいて下さるお方です。人生の紆余曲折の中で共にいて下さるお方です。そして神様は、私たちの思う計画を変えるお方です。神様ご自身の計画を実現されるお方です。私たちの人生は、私たちの教会の計画は一直線に実現するのではないでしょう。神様が計画を変えるでしょう。

そのことを覚えてそれぞれの1年を歩みだしましょう。お祈りいたします。

 

「こひつじ食堂」ボランティア募集

こひつじ食堂(こども食堂)ではボランティアさんを募集しています。ご興味のある方は「お問合せ」または、電話(0463-33-2320)にご連絡ください。

 

<募集は以下の通りです>

 毎月第三金曜日または第四金曜日いずれかで、10時~20時までの間の1時間以上で、調理や配膳のお手伝いをしてくださる方。調理経験などもなくてもOKです。

 

事前に担当より、1時間程度こひつじ食堂の趣旨説明や登録を行ってからボランティアに加わっていただきます。(宗教等は問いません、勧誘等も一切ありません)

 

まずはボランティアの説明を聞いていください。ボランティア申し込みフォームまたはお電話にてご連絡ください。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

【全文】「もう十字架を背負わせるな」マルコ8章27~38節

 

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マルコ8:34

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。受難節の時を共に過ごしましょう。ウクライナの戦争のことを、なかなか言葉にできずにいます。21世紀にこのような戦争が始まったことをどのように受け止めたらよいのか戸惑っています。どう祈ったらよいのかわからない気持ちでいます。

多くの人と同じように、ウクライナに武器をたくさん送って、ロシアをやっつけて欲しい、プーチンを倒して欲しい、そのように応援したい気持ちもあります。しかしそのような思いを持ちつつも、やはり私は非暴力の観点から、平和の観点から、私の信じているイエス・キリストの観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持することができません。「この状況で非暴力による解決が役に立つのか」という質問は厳しい質問です。自分たちの国土を守ると必死になっている人に、攻撃をするなと声をかけることは難しいことです。しかしウクライナ・ゼレンスキー大統領の、国のために全員が武器を取って戦おうという呼びかけは、私がもっとも反対してきた言葉です。全世界から武器を集めて戦おうとする姿勢は勇敢なヒーローに見えます。しかし、どのように平和を作るかはもはや議論されていません。お互いを一人でも多く殺すことにしか目標は置かれていないのです。

確かなことは、一度戦争が始まってしまうと、それを止めることは難しいということです。一度戦争を始めると、日本がそうであったように終わらせることはとても難しいのです。遅かれ早かれ私たちが考えなければいけないことは、この状況になる前にできることはなかったのかということです。こうなる前にまだたくさんのことが非暴力によってできたはずです。ロシアの言い分からすればロシアは歴史的にいつも西側諸国からの脅威を受けてきました。フランスのナポレオンに侵略され、ナチス・ドイツに侵略されてきました。もちろん、だからといって自分たちが侵略することは許されません。こうなる前に互いが脅威と感じる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったのではないかと思います。

しかしロシアやウクライナは、あるいは国際社会は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。殺し合って、負けた側が勝った側の言うことを聞くという方法を選び取りました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し、よりたくさん殺された方が、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。

多くの人の命が戦争、殺し合いにささげられています。どのような状況でも、戦争を支持すること、暴力を支持すること、それに協力すること、これは明白な間違えです。たとえ戦争の勝敗がついて、どちらかが勝利をしたとしても、平和は訪れません。家族が殺されたことは何世代にもわたって大きな憎しみを残します。戦争が終わっても、平和・シャロームは戻ってきません。貧しさ、憎しみ、復讐、テロが残されるでしょう。

この状況で何を祈るべきか戸惑います。しかし私がまずこの状況で祈りたいと思っているのは、ウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事です。多くのこどもたちの命が傷つけられて犠牲になっています。私がまず祈りたいのは、戦争にウクライナが勝つというような勝敗がつくことではありません。私が祈りたいのは銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲にされる人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。

新しい憎しみを生み出す戦争が一日も早く終わるように祈ります。そして避難する人々、命を脅かされている人に、食べるもの、着るもの、安全な場所、薬などの必要が満たされるよう祈ります。そして魂の平安が与えられるように祈ります。希望をもって生きることができるように祈ります。そして特にウクライナのこどもが大切にされるように祈ります。世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことができる様に祈ります。

都合の悪い者を殺し合うという暴力に反対し、犠牲とされる人々の痛みを覚えて、自分たちが何をすべきか祈りたいと思います。私たちは防弾ベストを送るのではなく、互いが平和に生きることについて支援ができなかを探し、祈りたいと思っています。私たちは受難節を迎えています。イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。

 

今日の個所にはイエス様の質問から始まった、弟子との激しい会話が記されています。そうです私たちとイエス様との関係は激しい葛藤の関係です。私たちとイエス様の対話は、暴力と戦争に満ちた社会の中で、どのように生きるべきなのかという激しい対話、葛藤なのです。そのような中でイエス様は27節で周りの人々はどのように言っているのかを聞きます。そして、あなた自身はどう思うかを聞きます。

戦争の事をニュースでどういっているか?各国はどんな立場を表明しているでしょうか。そしてあなた自身はどう思うでしょうか?そのように質問されることは葛藤を生むでしょう。私たちはその質問から、戦争から、自分の信じているものが何なのかを問われています。一人一人が葛藤の中でその答えを探したいのです。イエス様とペテロの対話はそのような葛藤の対話です。

31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス様が十字架にかかることが予告されます。しかしイエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。私たちの罪を贖い救うためでしょうか。この個所ではイエス様は人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのだ、それによって愛を示すのだという事は書いてありません。ここに書いてあるのはイエス様が十字架にかかるのは、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、殺される出来事なのだということです。しかもそれをはっきりお話になったと書いてあります。イエス様の十字架は長老、祭司長、律法学者という権力者たちによって、起こされた殺人だったというのです。

34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。しかしイエス様ご自身に十字架を背負わせたのは誰でしょうか。それは長老、祭司長、律法学者という権力者たちです。権力者たちは、平和を求め、貧しい人たちに希望を与え、勇気付け、権力を批判したイエス様が邪魔でしょうがありませんでした。権力者たちにとってイエス様は非常に都合の悪い人物でした。だから権力者はイエス様に十字架を背負わせよう、殺そうと決めたのです。戦争と同じです。自分の都合の悪い者は、理由をつけて殺してしまえという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。十字架を背負わせるとは権力者にとって都合の悪い事を消し去るという出来事でした。そのようにしてイエス様は十字架を背負わされたのです。

私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。自分に都合の悪いからと言って、その人を犠牲にして自分たちを守ってはいけません。都合が悪いからといって十字架を背負わせ、殺してはいけません。戦争とはまさしく誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。戦争とは他者に十字架を背負わせることです。

十字架を背負わせられる運命にあるイエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。イエス様がペテロに言う「自分の十字架を背負う」とはどんなことでしょうか。

それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。あなたが誰かの犠牲になれということではありません。あなたは自分の十字架を自分で背負いなさい、誰かに背負わせてはならないということです。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。ペテロがもし自分の十字架を背負わず、それを誰かに背負わせるのだとしたら、彼は他者の痛みに目を向けない、他者の痛みを無視する人間となるでしょう。それが十字架を背負わないということです。自分の命だけを救いたいと思い、他者の命をないがしろにする人は、自分の十字架を他者に押し付け、背負わせるのです。イエス様は自分の十字架を背負えと言います。

プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。彼には人間性が欠けているのではないかと考えています。自分の命を失うことになるとは、そのようなことです。世界を手に入れたとしても人間性が失われるのです。たとえ世界を手に入れても、他者から奪い、殺し、押し付けて手に入れるなら、あなたの人間性は失われます。自分の十字架を他者に押し付けて、十字架を負わす者、誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。「自分の十字架を背負う」とは自分にとって都合が悪いと思う現実も受け止め、対話してゆくということでしょう。それを誰かに押し付けないということです。そしていま押し付けられている人に目を向けてゆくということ、連帯をしてゆくことが大事です。

命が傷つけられようとしている人、他人の十字架を負わされて痛む人が誰なのかを知ること、それが自分の十字架を背負うということではないでしょうか。イエス様はこのような暴力の時代に、暴力しか解決方法がないと言われる時代に、私の平和のことばを恥じるなと言います。今の私たちも残念ながら同じ時代に生きています。暴力でしか解決ができないと思われる時代です。そのような時代、イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。

ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。

 

「もう十字架を背負わせるな」マルコ8章27~38節

 

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マルコ8:34

 

ウクライナの戦争について、私はイエスの非暴力の観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持しません。こうなる前に互いの脅威となる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったと思います。しかし世界は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し合い、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。

私がまずウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事を祈ります。銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲とされた人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。そして世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことを祈ります。私たちは受難節、イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。

31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。ここには人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのとはありません。権力者から排斥されて、殺される出来事なのだとあります。34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。イエス様ご自身に十字架を背負わせたのは権力者たちです。それは戦争と同じです。自分の都合の悪い者は殺すという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。

私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。戦争とは誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。

イエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。

イエス様はこのような暴力の時代に私の平和のことばを恥じるなと言います。今も同じ時代です。イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。

 

【全文】「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。3月2日(水)から受難節が始まっています。改めてレント・受難節とは何かというと、キリスト教の伝統的な暦で、イースター、主イエスの復活の日の前の40日間を言います 。多くの教会ではこの期間をキリストの苦難、十字架を覚える時としています。そして40日間という期間は今日の個所から来ています 。

週報にも記載していますが40日間の間で転入会、バプテスマを準備する方、準備を始める方を特に歓迎する期間としようと思います。共にイエス・キリストの歩みを学び、クリスチャンとなる、この教会のメンバーとなる、その学びを受け付けています。希望される方はぜひご相談ください。

私たちにとっては誰かがバプテスマを受けること、転入会をすることは、私たちの信仰の仲間が増えることです。仲間ができることはとてもうれしく、また心強いものです。しかしクリスチャンになると私たちと同じ考え、同じ人間になるということではないでしょう。私たちは引き続き、それぞれ違う人間です。

私たちは同じことでも感じ方が違います。感じ方には間違いというものはありません。そして感じ方には正解もありません。同じようにこの交わりには間違いも正解もありません。だから私たちは、交わりによって相手を変えることを目的としていません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。ですから私たちはこの交わりに仲間が増えること、また異なるあなたが加わってくれることを心強いことだと思っています。どうぞこの交わり、信仰に加わってください。

また受難節はすでに私たちの教会に属しているという方にとっても、もう一度改めて信仰の決心をするのにふさわしい時でしょう。もう一度、この交わりの中で共に、主の道をスタートしてゆきましょう。

私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。勝手に相手を敵とみなし、同じになるように迫り、一部とし、力でそれを押し付けようとしています。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはより詳しい説明があり、私たちはその様子を想像するかもしれません。マタイ、ルカではイエス様は霊によって荒野に導かれ、悪魔からパンや繁栄についての誘惑を受けます。そしてイエス様はその誘惑に勝利し、悪魔が離れ去るというのがマタイ・ルカの物語です。

どの福音書でも共通しているのは、バプテスマを受けると苦難がなくなるというわけではないということでしょう。でも私たちはみ言葉によって励まされ、荒野と思える場所でも生きてゆくことができます。それがクリスチャンとして生きるということでしょう。

今日はマルコ福音書の特徴、40日間特徴を見てゆきます。まず12節には「霊に送り出される」とあります。この「送り出す」という言葉は本来「投げる」「放り出す」という意味です。イエスはどうぞどうぞと導かれたのではありません。荒野に放り出されたのです。バプテスマを受けてまず、苦難に放り出されてしまったのです。

マルコ福音書には他の福音書に書いていないことも多く書かれています。まずどのような誘惑があったのか書いていません。パンの誘惑、繁栄の誘惑もありません。そして肝心のイエス様が悪に勝利する場面が一切書かれていないのです。マタイ、ルカにはサタンが離れたと書いてありますが、マルコにはサタンが離れたという言葉は見当たりません。もしかするとサタンはこの後もイエス様と共にいたのでしょうか。

一方、マルコにだけに記載がある事柄もあります。それは40日間、野獣と共にいたということです。イエス様は40日間どんなことを体験したのでしょうか。マルコによれば、イエス様はサタン・野獣をやっつけたのではありません。野獣を蹴散らし、勝利したとも書いてありません。マルコ福音書にはただ40日間「サタンからの誘惑があった」「野獣と一緒におられた」とだけ書かれてあるのです。

ここから示されていることは何でしょうか?それはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。それがイエス様の苦難の40日間だったということです。自分を傷つける人、気が合わない人、悪、敵と40日間も一緒にいるのは、なんという苦難でしょうか。

パンがない試練、富への誘惑も試練でしょう。でも、自分を傷つける、自分とは違う他者と共に過ごすことも、大きな試練、苦痛なのです。イエス様はそのように自分の敵と一緒に過ごす苦難を40日間味わったのです。そしてそこでイエス様は何をしたのでしょうか。マルコによれば相手を打ち倒したのではありません。そこでただ一緒にいたのです。

イエス様はこの後の15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」とは何でしょうか。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りにできる、支配できる場所、それが私の国、私の領土です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。私たちは「神の国」を求めています。

イエス様にとって神の国が近づいたとはどんな意味でしょうか。この直前の様子から考えると、それは自分とは違う野獣と一緒に生きるという事でした。神の国とはマルコによれば、敵を打ち負かしたりすることではありません。異なる者が一緒にいるということなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。イエス様の試練とはそのようなことだったのです。

その神の国が「近づいた」とあります。イエス様はこの異なる他者と共に生きることを「神の国が近づいた」と言ったのです。神の国とは、私の国ではありません。私の自由に思い通りになる場所ではありません。神の国は、神の願いが叶う場所です。それは、この苦難の様に、敵対する者が傷つけあうのではなく、共に生きる場所のことです。

私たちも荒野に神様の霊によって放り出されるでしょう。バプテスマを受けた後、そして毎週ごとに霊によって、嫌い、苦手、自分とは違うと思う人と出会う場所に放り出されるのです。そして私たちは苦労しながらも、そこで一緒に生きようします。でもそれが神の国なのです。

放り出される場所とは、苦しい、神様なんていないと思える所かもしれません。でもみ言葉が励ましてくれるでしょう。40という数字が私たちを励ましてくれるでしょう。モーセは40年間荒野をさまよいました。この40年間、神様はどこにいたのでしょうか。神様は確かにイスラエルの人々と共にいました。イスラエルの民とは「ここに神などいない」と感じましたが、神様は40年間確かに一緒にいたのです。

40という数字は私たちが自分と異なる人と出会い、共に過ごす時、神様は必ず共にいて下さることを象徴する数字です。私たちはそのように、神様と共にある苦難、異なる他者と出会う苦難に送り出されてゆくのです。違う他者と生きる苦難を私たちはいただきます。そしてそこに神様が共にいて、そこに神の国があるのです。

一人一人、そして教会も同じです。教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会いが大事です。そして教会は相手を変えたり、相手を打ち倒し、勝利するのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

イエス様の地上での苦難とは何も、十字架にかかったことだけではありません。異なる他者と生きる、その苦難も受難節で覚えたいのです。

そして最後にもう一つ、私たち自身をイエス様に重ね合わせる読み方に加えて、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができない者です。イエス様の教えに反して、いつも傷つけあっている者です。私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

私たちの一人一人が、苦しいけれど、異なる他者と共に生きる、神の国となりたいと思います。そしてこの教会が、世界か異なる他者と共に生きる神の国になりたいと願います。私は他者が私と同じになること、私の国が実現することではなく、違っていても一緒にいることができる、神の国が実現することを願います。

今週もそのように私たちはそれぞれの場所へと派遣をされてゆきましょう。それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごし、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。

 

 

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「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

受難節の40日間、転入会やバプテスマの準備を始める方を特に歓迎する期間としたちと思います。私たちにとって仲間ができることは心強いものです。私たちの交わりは相手を変えることが目的ではありません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはなく、マルコにだけに記載があることがあります。それは40日間「野獣と共にいた」ということです。マルコによれば、イエス様はサタンと野獣をやっつけたのではありません。40日間「野獣と一緒におられた」のです。ここから示されていることはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。

イエス様は15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りに支配できる、それが私の国です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。イエス様が言う「神の国」とは異なる者が一緒にいることなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。

教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会い自体が大事です。教会は相手を変え、打ち倒すのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

最後に、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができず、傷つけあっている者、私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

今週も私たちはそれぞれの場所へと派遣をされ、それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごします。そのようにして、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。

 

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【全文】「さよなら原発」マルコ10章42~45節

しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、

皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

マルコ10章43~44節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。そして私たちは今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝として持っています。1年に一度ですけれども、あの災害を覚えて、いまだ苦しみの中にある人を覚えて礼拝をしましょう。

あの日からもうすぐ11年が経過し、出来事を忘れかけてしまっている私たちです。失われた家は再建されたかもしれません。失われた街並みが戻って来たかもしれません。しかし失われた命は戻ってきません。そして失われた交わりも戻ってこないものです。多くの人は新しい場所、新しい環境で生き、新しい交わりを持とうと苦労をされてきました。しかし誰かと信頼関係を築くということに、11年という歳月はまだまだ短いといえるでしょう。その方々の困難と痛みを想像します。

そして今日は特に、今も失い続けているものがあるということを覚えたいのです。私たちがあの日以前から今日まで、私たちが奪い続けているものがあることに目を向けます。私たちは原発の問題を知らなければなりません。原発の問題はあの日から全く解決しないまま、むしろ問題は拡大し続けています。

福島第一原発では、今日も壊れた原子炉を冷やすために、注水が続けられています。使われた水は放射能に汚染されるため、除去装置にかけます。しかしトリチウムという放射性物質は取り除くことができません。この処理水はタンクに貯められ増え続けています。

政府は以前「地元の理解なしに海洋放出はしない」と説明していました。しかし、まだ地元の猛反対があるにも関わらず、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。政府によれば「放出までに理解を得る」のだそうです。

トリチウムに健康被害はないと言われています。しかし健康被害がなければ放出してよいのでしょうか。自分たちの海に処理水が捨てられるのは誰だって嫌です。科学的に云々よりも、嫌なものは嫌なのです。風評被害があれば東京電力が補償すると言っています。「お金なら払います」と言われると、ますます嫌です。そしてこの放出は30年~40年続くそうです。福島の特に漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。

爆発した原発の廃炉も進みません。今年からいよいよデブリの取り出しが始まります。まずは1g採取する予定です。ちなみにデブリの総量は880トンです。しかしデブリを取り出せたとしても、その核のゴミを廃棄・保管する場所は決まっていません。誰かがこのデブリを引き取らなくてはならないのです。期間は数百年です。もうある程度取り出したところで、そのまま埋めてはどうかという議論も始まっています。これから先も誰かが犠牲になってゆくでしょう。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。次の世代、数百年後まで、どれほどの犠牲が生まれるのでしょうか。

原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。まず都心部に原発がないのは、爆発しても最小限の犠牲で済むためにです。そして事故が起き、福島が犠牲になりました。東京への電力の犠牲となったのです。福島の人も本当はそんなもの作りたくなかったはずです。しかし東京が必要としているから、村の財政が潤うから、仕方なく作りました。しかし事故が起き、その本当の犠牲の姿が明らかになりました。人々はその土地を捨てるように、離れなければならなかったのです。

世界には原発回帰の流れもありますが、私はもっと世界に日本の現状を見て欲しいと思っています。原発があまりにも大きな犠牲の上に成り立つ発電であることを、もっと世界に理解してほしいのです。

私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。もうこれ以上の犠牲は出してはいけないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にしないことを求めて、今も犠牲になり続けている人の解放を求めて、この礼拝を持ちたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。3月2日から受難節が始まりました。十字架を覚える40日間です。今日の個所はイエス・キリストの「贖罪(しょくざい)」として受け止められてきた箇所です。

贖罪とは「イエス様は私の罪の身代わりとして十字架にかかり、私のために死んだ」という信仰理解です。「イエス様が私のために十字架で犠牲の献げ物となってくれたことによって、私の罪は赦されて、神の愛を知ることができる」という信仰理解です。このような理解を贖罪論といいます。

私のために誰かが犠牲になったという印象は強烈ですし、わかりやすいでしょうか。パウロの信仰理解にも一部でそのような贖罪の理解というものがあります。キリスト教では古くからこの贖罪論が信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人としては少し苦手な理解です。贖われるとは、一体どのようなことを言っているのか、実感を持つこと、うまく説明をすることができません。

そして思うことは、この罪の贖い、贖罪論には注意をしなければいけないこともあるということです。贖罪論を強調しすぎると、犠牲を容認することにつながるのです。イエス様は人間のために犠牲の死を選んだ、だから私たちも誰かの犠牲になることがあるという発想につながるのです。

贖罪論は、イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたいないと考えることにつながります。それはお国のために死ぬことは良いことだ、理不尽でも誰かのためにあなたが我慢するのはしょうがないことだという考えにつながってきます。犠牲を容認することにつながってゆくのです。

私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。罪が清められるとか、それによって贖われ、救われたということよりも、イエス様が十字架の上で苦しみ死んでいったことに目を向けたいのです。

イエス様の十字架の犠牲の痛みを、もう二度と、この世界で絶対に起こしてはいけないものとして受け止めたいのです。それによって私たちは確かに愛を知ったかもしれないけれども、それはとても大きな犠牲で、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。だからもう誰かが犠牲になるのは、このイエス様の十字架で十分なのです。

受難節、私が大切にしたいのは、贖われたかどうかということよりも、もうこれ以上の犠牲はいらないということです。

今日の個所の42節には「支配者とみなされる人」とあります。おそらくローマ皇帝の事でしょう。ローマ皇帝はユダヤの人々、世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にし、その上に君臨していました。「偉い人」も同じです。世に言う「偉い人」は権力を振りかざし、人々に犠牲を強いて、巻き上げ、生きていました。

そんな世界の中でイエス様はこう語っています43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」「あなた方はそれではいけない」と語っています。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの便利さ、快適さ、安さ、利益を追いかける、あなた方はそうではないということです。

本当に偉大な人とは、誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの利益を追いかけてゆくのではないのです。イエス様は本当に偉い者とは43節「仕える者」なのだと語っています。この「仕える」とは食事を運ぶことに由来する言葉です。「仕える」という言葉それは、作った食事を運ぶ、自分のところにある食べ物を誰かに渡してゆくということです。その食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくこと、それが「仕える」ということです。逆に仕えさせるとはどんなことでしょうか。無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。

私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」と言われています。それは44節「すべての人の僕」となってゆくことです。それはあなたが犠牲になりなさいということではありません。あなたたちは共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいということです。

45節「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために・・・来た」とあります。イエス様は誰かを犠牲にするために来たのではありません。人々に、神様に仕えるため、共に分かち合い、共に担い合うために来たのです。そしてイエス様は「自分は」命を献げると言いました。イエス様は犠牲となるのは自分が最後だ。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。

イエス様は人々が犠牲になること、それはこの1回限りの十字架で最後としなくてはならないと語ったのです。だから犠牲はもうイエス様の十字架で十分なのです。この1回で私たちは誰も私たちのために痛み、苦しむことはもう二度とあってはいけないと知ったのです。これ以上の犠牲はいらないと知ったのです。誰かを犠牲にするのではなく、互いに担い合い、支え合い、仕え合わなくてはいけないと知ったのです。

私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。沖縄もそうです。そこに目を向けてゆきたいのです。そして広く、長く、たくさんの犠牲を生み出すこの原発に反対をしてゆかなければならないのです。

受難節、私は罪が贖われたかどうかより、イエス様の十字架が苦しいものであったことを覚えます。十字架の血によって清められたということよりも、その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。

今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

 

 

 

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「さよなら原発」マルコ10章42~45節

しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、

皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

マルコ10章43~44節

 

今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝とします。今日は特に原発の問題を覚えます。福島第一原発の処理水は、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。福島の漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。廃炉も進みません。核のゴミ、デブリを誰かが引き取らなくてはならないのです。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。

原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にならないことを求めてこの礼拝を持ちたいと思います。

「イエス様が私の罪の身代わりとして十字架にかかり、それにより私の罪は赦され、神の愛を知った」という理解を贖罪論といいます。贖罪論は古くから信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人は苦手で、贖いをうまく説明をすることができません。むしろ贖罪論には注意が必要です。強調しすぎると、犠牲を容認することにつながります。イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたがないないと考えることにつながります。

私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。贖いよりも、十字架の上で苦しんだことに目を向けたいのです。十字架の犠牲の痛みを、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。

今日の個所の42節には「支配者」あります。ローマ皇帝は世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にしていました。そんな世界の中でイエス様は43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」といいます。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの快適さを追いかけてはいけないということです。本当に偉い者とは43節「仕える者」です。「仕える」とは食事を運ぶことに由来します。食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくことが「仕える」です。仕えさせるとは無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」、共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいと言われているのです。

イエス様は「自分は」命を献げると言いました。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。

私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。受難節、私は罪が贖われたかどうかより、十字架の苦しさを覚えます。その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。

今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「信教の自由の荒波」マルコ4章35~41節

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。

今月は信教の自由というテーマで宣教をしてきました。今日はその最後です。これまで信教の自由をバプテスト、靖国神社、天皇制の視点から考えてきました。今日は戦時中の教会の姿、特にホーリネスというグループのことから考えたいと思っています。

先日2月11日に神奈川連合の集会に参加し、戦時中に弾圧されたにホーリネスのお話を聞きました。戦時中にホーリネスは信教の自由を訴えたグループです。天皇を崇拝することに反対をしたグループだったのです。

日本は戦時中(そして一部では今も)天皇を中心とした国でした。そのような時代の中で、ホーリネスの人々は天皇を崇拝しない非国民として、政府や軍の監視対象とされていました。そして今回の集会で聞いたことですが、監視をしていたのは政府や軍だけではなかったそうです。地域の人々からの目も監視のひとつでした。日本全体が天皇制を中心とするように迫った時代、多くの教会は「天皇かキリストか」それを政府だけではなく地域からも監視され、迫られたそうです。

なにか危機が起こる時、お互いのことを監視するようになるというのは、今の私たちもよくわかることです。コロナが始まり、営業している飲食店はないか、熱のある人はいないか、お互いを監視するようになりました。戦時中もきっとこんな雰囲気だったのでしょう。日本全体が天皇を中心として戦争をしているとき、天皇制に反対する者はいないか、戦争に反対する者はいないか、相互に監視されました。ホーリネスの人々は白い目で見られ、指さされ、差別されました。中には逮捕され、拷問され、死んでいった人もいたのです。

当時の大半の教会は、おそらく「天皇もキリストも両方信じる」という立場でした。天皇制と折り合いをつけて礼拝を守りました。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、教会が生き残ることを選びました。多くの教会は国家の指導に従いました。自分たちの信仰を変えたのです。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。礼拝は皇居に向けて一礼してから始めました。それが戦時中の教会でした。教会はその時代に抗うことが十分にできなかったのです。自分たちの信仰を貫けなかったのです。

しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。自分たちの「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。

その時、周囲の教会・教派はどうしたでしょうか。多くの教派はホーリネスを批判しました。自分たちは天皇制を支持していて、あんなホーリネスとは違うと批判したのです。信仰の仲間を切り捨て、自分たちを守る足がかりとさえしたのです。

これが天皇制で起きたことです。これが戦争で起きることです。私たちは忘れてはいけません。キリスト教は気づいたら、自分たちの信教の自由、信仰を捨てていたのです。そして信仰を守る仲間を見捨てていたのです。

多くのホーリネスの牧師は逮捕されました。そしてその中に長尾三二という人がいました。彼は戦後バプテストに加わり、この平塚バプテスト教会の初代牧師となりました。私たちはそのような歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。

私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。そして世界で信教の自由が守られているかに目を注いでゆきたいのです。それは私たち、特にホーリネスの流れを持つ平塚バプテスト教会の大切な使命ではないでしょうか。そして、この平塚の地の信教の自由を守ってゆく大きな役割が私たちにあるのではないでしょうか。

今日は嵐の中の舟の話を読みます。この話から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

今日の個所を見ると、もともとこの船旅は、イエス様ご自身が「向こう岸に渡ろう」と言って始まった旅です。しかしイエス様に従ったにも関わらず嵐にあいます。それはイエス様に従うと平穏無事、凪のような人生が約束されるのではないということを示します。イエス様に従っても人生に嵐は起こるのです。

旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります 。ヨナの乗った舟が沈みかけた時、そこで人々はこの災難は誰のせいなのかと指をさし合いました。この舟でもそのようなことが起きたでしょうか。誰の悪事のせいで嵐になっているのか、犯人捜しが起きたでしょうか。コロナのような犯人捜しが起きたでしょうか。ヨナ書では人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も、そのようなことを起こします。嵐よりも恐ろしい、人間の分断を呼び起こすのです。

舟には何度も大波が襲い掛かり、水が溜まってゆきます。弟子たちは必死に舟から水を汲み出したでしょう。少しでも舟を軽くするため、大切な荷物を捨てたでしょう。必死で波と戦ったのです。人間のできうる努力をすべて試みたのです。そして自分の力では対処できないと感じた時、弟子たちは叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。

これは元の言葉では破滅を表すことばです。「私が破滅してもかまわないのですか」という叫びです。困難にある時、私たちは神様が何もしてくださらないと感じる時があります。この時もそうです。振り返るとイエス様は寝ていたのです。私たちの神様は、このように私たちの危機の時、眠っているのでしょうか。神様はこの状況から、弟子たちを助けようとしません。

弟子たちがイエス様に叫んだのは、おそらく嵐からしばらくたったころでしょう。荒波にもまれ、舟の底から水をだし、必死だった彼らは、死と破滅を覚悟するまで、イエス様に声をあげませんでした。

自分たちの経験や知識で対処しようとしたと言えるでしょう。その人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、弟子たちは初めてイエス様に声をあげたのです。破滅を覚悟した時、初めて、舟の後ろにいた、イエス様を振り返り、呼びかけることができたのです。

私は改めてこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。なぜ眠っていたのか、本当に眠っていたのでしょうか。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、じっと私たちを見ている、そのまなざしを感じるのです。イエス様は自分に声をかけるその時まで待っていたのではないでしょうか。

イエス様は眠っています。しかし本当は全ての状況を知っておられるのです。その気配を私は舟の後ろから感じます。そして、いつ弟子たちが自分に声をかけてくるのか、じっと待っている。そんな気配を感じるのです。

大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということではないでしょうか。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくこと。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたと思うのです。この物語は荒波にもまれる時、私たちの舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと語っているのではないでしょうか。

私たちには時代の荒波が必ず押し寄せてきます。災害のような困難が襲ってきます。信教の自由を奪おうとする嵐、戦争の嵐、私たちの生活を脅かすコロナという嵐がすでに押し寄せています。私たちはそれに対してどう向き合えばよいのでしょうか。

舟が沈まないようにしないといけません。生き残ってゆかなければいけません。そのために必死に努力をするでしょう。教会を守ろうと必死になるかもしれません。しかし、危機の時こそイエス様を振り返りたいと思うのです。眠っているように見える、イエス様に振り返りたいのです。

私たちが振り返る時、舟に一緒に舟に乗っておられる方がいるということが分かります。そしてその方は私たちを待っているのです。嵐の中で振り返ること「自分の力では破滅しそうで、あなたの力が必要です」そう告白することを待っているのです。それがこの物語です。

戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯だったように見えます。あらゆる努力をし、舟を守りました。仲間を見捨てながら、自分たちの大切なものを捨てながらなんとか生き残ろうとしました。しかし本当にそれが正解だったのでしょうか。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。

私たちもこのことをよく覚えてゆきたいのです。危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして覚えていましょう。危機の時にも、必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。

そばにいないように感じても、確かに私たちを見て、何が起きているのか知っておられるのです。イエス様は私たちが振り返ることをずっと舟の後ろで待っておられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。

ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こしてゆきました。そしてこの教会もその一つです。この平塚教会があるということが、その嵐を乗り越えたという証しなのではないでしょうか。私たちにも大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、私たちの信仰を守ってゆきたいのです。

信教の自由について1ヶ月見てきました。どんなことをお感じでしょうか。時代の荒波の中、信教の自由が脅かされる嵐の中でも、私たちはイエス様に信頼してゆく、このことを貫き、大切にしてゆきましょう。お祈りいたします

 

 

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