「気づき・感謝・証し」 ルカによる福音書17章11ー19節

私たちは、意識するとしないとに関わらず、往々にして、「その宗教がどれだけ役に立つか」、「礼拝がどれだけ役に立つか」という基準によって判断したり選択したりすることがある。すなわち「神と取引し、自分のニーズに応じて教会や礼拝に関わる」ような意識や行動が、知らず知らずのうちに侵入してきている。だからこそ、私たちはそうした危険に取り囲まれながら、信仰生活や教会生活を送っていることを常に意識し続けていなければならない。

 礼拝は人間と神が「取り引き」する商売ではなく、教会もそのための商店ではない。聖書は、あらゆる私たちの人間的な思いに先立って、神ご自身が私たちに本当に必要なものをご存知であると告げている。マタイによる福音書6章25節以下を読むと、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とある。

 私たちを創造し、私たちを恵み、私たちを見守ってくださる神は、全て必要なものを私たちに与えてくださる方である。私たちが必要とするものを全て喜んで与えてくださる方に対して、どうして「取り引き」する必要があるだろう。礼拝とは、何かを獲得するために人々が集まる場ではなく、私たちに本当に必要なものがすでに与えられていることを知って感謝する人々の集いなのである。

 このことを今日与えられた聖書の箇所、ルカ福音書17章11節以下に記されている「重い皮膚病を患っている十人の人の癒し」から教えられたいと思う。この話は、当時のユダヤ社会で大変嫌悪された「重い皮膚病」にかかっていた十人の人が、主エスによって癒され、それぞれ社会復帰を遂げることができたことを語っている。十人は全員が健康になった。しかし、聖書によれば、この癒された十人のうちで主イエスのもとに戻ってきて感謝し、神を賛美した人はたった一人しかいなかったという。宗教改革者ルターはこの物語について、礼拝とは「癒されるための条件」ではなく、「癒された者の感謝の表現」なのだと説いた。

 特にここで注目したいのは、十人すべてが癒されたという事実である。感謝した者もしなかった者も、全員その願い通りに癒されたのである。それにもかかわらず、神をほめたたえるために戻ってきたのは、たった一人だったというのである。ここには、神と人間との関係を理解する上で、また礼拝とは何かということを理解する上で、とても重要なカギがあるように思う。キリスト教は、旧約聖書以来の伝統に沿って、次のことを主張する。「すべての人間は神の恵みによって創造され、すべての人間は神の恵みの中に置かれています」。しかし、すべての人間がこの恵みに気づいているわけではない。この恵みに気づいた者は感謝する。しかし、気づかない者は感謝しない。気づいた者は礼拝する。気づかない者は礼拝しない。

 私たちの時代は礼拝しない人間の時代である。人間が自分の力に頼ることしか知らず、「神の愛」を信じることのできない時代である。「自分に役に立つか立たないか」を基準にしてすべてを決定し、お互いがお互いを利用する「利己主義の分かち合い」によって生きているような時代である。しかし、そのような世界の中では、人間は本当に人間らしく、安心して生きていくことは出来ない。

 キリスト者が礼拝に参加するのは、神から何かを獲得したり、神と取り引きしたりするためではない。私たちが礼拝に参加するのは、神がすでに私たちを愛してくださっていることに気づき、それに感謝するためである。そしてさらに言えば、このような気づきと感謝の中で礼拝することを通して、私たちはこの世に向けて、神に感謝する生き方があること、人間は神の恵みによって生きるということを証しする。私たちの礼拝とは、そのような広がりの中で行われる「神の民」の喜びの告白であり、同時に宣教の業であることを忘れないようにしたいと思う。

「あなたは聖書をどう読んでいるか」 ルカによる福音書10章25ー37節

 このお話は「善きサマリ人」の話としてよく知られている話だが、話のつながりとしてはその前の個所において、主イエスと弟子たちが天に名前が書き記されていること、言い換えるならば「永遠の命」を喜びあっているときに、ある律法学者が「永遠の命」を受け継ぐためには「何をしたらいいのか」と質問した話の流れになっている。

 律法学者は、実は答えを知っている。「試そうとして」とあるように、律法学者は自ら「知恵ある者」(10:21)として答えを持つ者であると自負している。主イエスは、問いをそのまま彼に返す。「律法には何と書いてあるか?あなたはそれをどう読んでいるか」。すると、律法学者は「…あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた。律法学者の答えはユダヤ教、つまり律法の中核を成すもので、誰でもよく知っている教え。しかし、主イエスはそこで終わらず「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と話を続けられる。これは律法の行いによって命を得なさいと言われているのではなく、話の流れから言えば、天に名前が書き記され、永遠の命に生かされている人の生き方として、そのように行いなさいと招いておられるのである。

 この話の中心的なポイントは、主イエスが彼に「あなたはどう読んでいるのか」と問いかけたこと。当時の律法学者たちは、律法の言葉を大切にしているようでいながら、むしろ逆に、彼らの読み方、解釈などの言い伝えによって、律法が本来伝えている神の御心を矮小化していた(マルコ7章参照)。

 律法学者はさらに主イエスに「自分を正当化しようとして」、「では、私の隣人とはだれですか」と質問する。律法学者たちの解釈では「隣人」とは「ユダヤ人の同胞」という意味であり、そのような隣人愛を実行してきたことを自負する律法学者は、自分を正当化しようとしたのである。そのような彼らと主イエスは、神学論争はされない。むしろ、だれともよくわからない人が助けられたシンプルな物語を語ったのちに、ただ一言「誰がその人の隣人になったか」と問われ、律法学者から「その人を助けた人です」という応答を引き出された。

 追いはぎに襲われた人は「ある人」と書かれている。その人がユダヤ人であるとは記されていない。何者かわからないということがポイント。サマリア人は、倒れている人が「ユダヤ人だから」助けたわけでなく、また「ユダヤ人にもかかわらず」助けたわけでもない。サマリア人は、相手が何者であろうと、倒れている人を「憐れに思って(はらわたのちぎれる思いに駆られて)」介抱したということが重要である。

 「祭司」はエルサレム神殿の宗教儀式をつかさどる聖職者。「レビ人」はその祭司の下で奉仕する人たちで、民衆の教育にも当たることがあった(歴代誌下17:8-9)。彼らが追いはぎに襲われた人を助けなかったのは、倒れているのがユダヤ人かどうかわからなかったからでもあり、ユダヤ人だと分かれば彼らは隣人愛を実行しただろう。「隣人とはだれか」という考え方自体が問題なのである。主の祈りに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」とあるが、この「我ら」にはだれが入るのか。

 イエスが問題にしたのは「隣人とはだれか」ということではなく、「あなたは誰の隣人になるのか」ということ。律法に何が書いてあるかを知ることも大事だが、それを「どう読んでいるのか」こそが問われているのである。

 主イエスは、愛について語るのではなく(定義)、具体的な愛の行為こそが重要なのだ、と言われたのだ。そこには民族や宗教の相違を超えた愛が、隣人観における「内」と「外」を超えた隣人愛が語られている。要するに、彼が傷つき倒れていて、助けを必要としているゆえに、サマリア人は立ち止ったのである。「隣人とはだれか」ではなく、「誰がその人の隣人となったか」と問われているのである。ここに主イエスの普遍主義的愛のあり方を見ることが出来る。今一度、立ち止まって、私たちの信仰生活を吟味してみよう。自分は聖書をどう読んでいるか。

「キリストにおいて一つとなろう」 マタイによる福音書16章13ー20節

私たち人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みの中で疑問や迷いを抱き、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるという。神が私たちに問われる。主イエスを通して神が私たちに問うている。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の答えになるのだ。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」という問い。主イエスはそう問いかけた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があると言ってよいと思う。聖書はその問いかけのために書かれているといってよいだろう。

 人生には確かにいろいろな問題がある。例えばトラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなる。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来る。

 主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。今朝、皆さんは教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのである。

 では、一体、教会とはどんな群れだろうか。それは、どんな時にも、この主の問いかけとシモン・ペテロの答えが生きて、力を発揮しているところである。この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いがあると考えたり、もっと別の答えがあると思ったとき、教会はその命を失い、力を失う。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをする時、教会はどんな時にも力を発揮する。

 主イエスは言われた、「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴して、選んだのである。神の民が新しく建てられ、集められるために主イエスは来られ、十字架にかけられた。

 新しく神の民が集められるにはどうしたらよいだろうか。何によって民は集められ、一つにされるのだろうか。私たちは罪によって自分自身失われた人間。また、罪によって他者を失う人間である。自己中心のあまり、愛することができない人間である。それにもかかわらず、教会は新しい神の民としてどのように建てられるのだろうか。呼び集められた人間の群れ、教会も愛に失敗するのではないだろうか。その教会が罪と死に打ち勝つところと、どうして言えるのだろうか。天の国に通ずるとどうして言えるのだろうか。それは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」、この主への信仰告白によって可能にされる外はないのである。

 「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死から生き返らされる。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされている。私たちも答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と、そう答えることが可能である。天の父がそれを可能にしてくださる(17節)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。

 平塚教会も今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と、大胆に信仰告白していく群れとして、祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めていこう。

「神による神への犠牲」 ヘブライ人への手紙9章11ー15節

 今日一般には、「犠牲(いけにえ)」という言葉はあまり使われてないのではないだろうか。死語になっている。「犠牲」という言葉が使われるとしても、例えば酔っ払い運転の「犠牲」と言うように、その人自身の責任でないのに禍を受ける場合で、避けることができれば避けたかったというような、否定的な意味合いで用いられる。「犠牲」に積極的な意味があるとは理解されていない。だから、「犠牲」という言葉は、現在では宗教的な次元でも、神との関係において理解されていないし、それが持っている積極的な意味も理解されていないと思う。しかし人間の生き方には、「犠牲」なしには成り立たないところがある。家庭生活でも職場でも、福祉や医療や教育の現場でも、権利の主張だけでは成立しない部分がある。「犠牲」という言葉を死語の中から救い出し、積極的な意味合いで理解する必要があるように思う。

 特にイエス・キリストの十字架の理解には、この「犠牲」という言葉は不可欠である。イエスの十字架の死をどう理解し受け止めるべきだろうか。聖書によるといくつかの意味、いくつかの受け取り方がある。今朝はその中から、主の十字架は、私たちの罪のための贖いの「供え物」「祭壇に供えられた犠牲(いけにえ)」だということについて、わずかなりとも理解して、受難節の信仰生活の糧を与えられたいと思う。

 「犠牲」としての十字架は、「キリストの血」を強調している。「血」は「いのち」の象徴。そしてそれは、「大祭司キリスト」(11、25節)という興味深いキリスト理解と結び付いている。「大祭司」は、神と人間の間の仲保者、取り次ぐ者として働く。さらにその「犠牲」は、「ただ一度」(12、26、28節)のこととも言われている。だから、イエス・キリストの十字架が「犠牲(いけにえ)」だということは、主イエスご自身が「大祭司」(仲保者)として、「ご自身の血」(いのち)を「祭壇」に注ぎ、ささげられたということである。それはもはや二度と繰り返すことが出来ない。それはもはや繰り返す必要のない仕方で、ただ一度にして「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられるのである。

 「犠牲」は祭壇において、神にささげられる。それは「神との和解」のため。真実の「生きた礼拝」が出来るようになるため。そのためには「罪が取り去られ」なければならない。「罪」は人間を神から引き裂く。この「罪」が「取り去られる」必要がある。そのための「犠牲」である。現代人に「犠牲」という言葉があまりぴんとこないのは、この「罪によって神から引き離される」ということの深刻さがぴんとこないということだろう。人間の本当の問題は、神問題なのである。神から引き離されていることなのである。しかしそれがなかなかぴんとこない。「神なしで生きられる」「信仰なんてなくても幸せ」。しかし、ぴんとこようとこなかろうと、神から離れていることこそが、人間と社会の根本問題なのである。こうも言えるだろうか。ぴんとこようとこなかろうと「神があなたを愛しておられる」ということは真実なのだということ。そのことに気づかないだけなのだということ。

 さらに、14節に「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神にささげられたキリストの血」とある。キリストの「犠牲」は「永遠の霊」の働きだというのである。ということは、それは神ご自身の御業ということである。「大祭司キリスト」が神に「ご自身の血」をささげる。そのことは「永遠の霊」によったのだ。主イエスの十字架は「神による神の十字架」なのだ。「神による神への犠牲」である。キリストの「犠牲」は「罪を取り去る」ため。というのは22節「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」からである。しかし、それは神による神への犠牲だった。そこに「ひとたびにしてまったき犠牲」と言われる理由がある。「永遠の贖い」と言われる理由もある。神によるのでなければ、罪の赦しはあり得なかった。私たち自身が罪の者だからである。しかし、「一度にしてまったき犠牲」がある。だからこそ、今日も私たちはそのキリストの犠牲のゆえに罪を取り去られ、礼拝の恵みにあずかることが出来るのである。私たちのどの礼拝も、どの説教も、どのバプテスマも、どの主の晩餐も、どの祈りも、この主の「ひとたびにしてまったき犠牲」によらなければ成り立たない。

 このことは私たちの信仰生活に決定的である。私たちの人生はどこまでいっても主の十字架によるほかない。「主の十字架によって御国に入るまで」、日々主の十字架によるのである。御国に入っても、その根底には主の十字架がある。主の犠牲によって真の礼拝があるのだから。この後、賛美する新生讃美歌543番の4節では「世にある中も、世を去るときも、知らぬ陰府にも、審きの日にも、千歳の岩よ、わが身を囲め」と賛美している。「千歳の岩」は1節にある「裂かれし脇の、血しおと水に、罪も汚れも、洗い清めよ」とあるように、主の十字架である。その「犠牲」である。その主の十字架の犠牲は、世にあるうちだけのものではない。世を去るときも、主の犠牲に囲まれている。知らぬ陰府にも、審きの日にもである。私たちは知っている、キリストの犠牲とその愛を。いや、知らされている、気づかされたのである。キリストの血による犠牲によって罪赦された者とされたことを。だから、そのことを覚え、感謝し、献身の思いを持ってこの受難節を過ごしていきたいと思う。

「今も共に歩まれるイエス」 コリントの信徒への手紙二2章5-11節

ここでパウロは「悲しむ」という言葉を使っているが、何か教会の中で不祥事があったようだ。詳しいことはここではわからない。それはパウロ自身にとっても大きな悲しみであり、同時に、それは教会のすべての人々を悲しませたのだ。パウロはここで、不祥事を起こしたその人に対する自分の思いを述べているのだが、それを「悲しみ」という言葉で表現している。そして、その悲しみの感情をあなたがたも持ってほしいというのだ。ひどいことをしてくれた、おかげで自分たちは恥をかいた、そういう怒りや憎しみではなく、あるいは、もうあきれ果てて突き放してしまう、という思いでもない。「悲しみ」である。

 人は、自分のしたことに関して、怒りや憎しみを人々から受けて、そこで反省をして自分の非を認める、ということはあまりない。自分自身の非というものはわかっている。わかっているけれども、素直に認められない。非はわかっていても反発をしてしまう。自分だけではないではないか、というふうに思う。ほかの人間もそういうことがあるのではないか、というふうに考える。しかし、自分のしたことに対して悲しまれるとき、人は苦しくなる。あるいは、そうやって自分のしたことに対して他の人が悲しんでいるということを知ったときに、自分の非、つまり間違いを思い知らされる、認めさせられるという経験をする。

 ルカによる福音書に、イエス・キリストが捕らえられて裁判を受け、死刑の判決を受ける場面がある。その時、弟子のペテロはその裁判を遠くから見守りながら、大勢の人々の中に混ざっていたのだが、あなたはあの人の弟子ではないか、あの人と一緒にいたのではないのかと言われて、彼は「知らない」と三度否認したと書かれている。その時のことがこう書かれている。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。これは裏切ったペテロを見た悲しみのイエス・キリストのまなざしである。そのまなざしの中で、ペテロ自身は自分のやったことを本当に心底知らされたのである。自分のしたことに対して周りの者が悲しむ、あるいは肉親が悲しむというのは、だれにでも何かの経験があると思うのだが、悲しまれて初めて自分の罪悪を知り、あるいは自分のやったことに対する自分自身の痛みを経験するのである。それが「悲しむ」ということである。その悲しみによって、人は自分の罪悪を認めさせられる。

 パウロはここでこう言っている。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」(6-7節)。る。「多数の者から受けたあの罰」というのは何なのかは、書いてないのでわからないが、おそらくいろんな人から何らかのことを言われたのだろう。あるいは注意をされたり、叱責をされたのだろう。しかし、それで十分だとパウロは言う。それ以上追い詰めてはいけないと言う。そうでなくて、「赦して、力づけるべき」だと言うのである。そして「愛するようにしてください」(8節)とも書かれている。赦すということは、痛みを自分も負うということを意味している。自分が痛むことも苦しむこともなく人を赦すなんてことは普通はできない。赦すということは、自分も痛い思いをし、苦しい思いをすることである。特に、自分に関わる出来事、自分が赦さなくてはならないときには、何らかの傷を自分も受ける。

 無償で赦すということはない。人々からの責めをそのそばに立って一緒に受ける。赦すということは多分そういうことだろうと思う。そして「力づける」というのは、ただ「がんばれ、しっかりやれ」と言っているのではない。痛みを共有している、一緒に苦しんでいる、その罪のために、そのやったことのために、一緒に苦しんでいる者として力づけるのである。

 なぜパウロがこういうことを言っているのかというと、これはイエス・キリストの私たちに対する関わり方であるからである。イエス・キリストは私たちの罪をご自分の痛みとして身に負い、そうして一緒に悩む方として私たちを励ましてくださる、あるいは力づけてくださる方である。向こう側から、離れたところから、「がんばれ」と言っているのではない。あるいは、上の方から「しっかりしろ」と声をかけているのでもない。私たちの悩みのただ中で、一緒に罪を担いながら、共にいて、そして励ましてくださるのである。これが、イエス・キリストが私たちの救い主であるということの意味なのである。かつて私たちを救ってくださったという、そんなことではない。今も私たちの救い主でいてくださる、私たちの罪を担っていてくださる、今も一緒にこの道を歩いてくださる。そういう中での励ましをいただきながら、私たちは生きているのだ。ただただ主の恵みと感謝である。

「聞くことから確信へ」 使徒言行録16章6-10節

俳人の種田山頭火の句に次のような句がある。「まっすぐな道でさみしい」。含蓄のある一句だ。私たちは曲がりくねっている道より、まっすぐな道を選ぶ。曲がっているとすぐまっすぐにしたくなりトンネルを掘ったりする。曲がりくねった人生の歩みより、効率のいい無駄のない人生の歩みをどこか望んでいる。それを山頭火は「まっすぐな道はさみしい」と言うのだ。人生、山あり谷あり。一寸先は闇。何か危機的状況や想定外なことが起こった時、私たちはどのように受け止めて生きていけばいいのだろうか。

 ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはただここで北に西にさまよい歩いているように見えるが、ただ足の赴くままに、のんきに旅を続けているのではない。彼は妨げられているのである。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを私たちは忘れてはいけない。何か思うようにいかないときは、神が「否」と言われているのではないかと思う気持ちの余裕を持ちたいもの。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心も、いかなる賢い知恵も、力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。閉じ込められるのも福音の内、妨げられることさえも聖霊の御業。神はしばしば不確かの闇の中にその聖霊の使者を立たせることがある。それは福音宣教の働きが、人間の手の業ではなく、恵みの御業であることが明らかになるためにほかない。

 パウロは、途上で何度も問うたことだろう。「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことを忘れない。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達する。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。

 この夜、パウロは幻を見た。夜それは、しばしば人が道を失い、あるいは多くの人々が歓楽に耽り、またある者は不安におののく時である。時代の夜、不安の夜、人々はなんとそれにおののくことだろうか。しかし、人間の計画が崩れる時、神の計画がなるのである。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。パウロが幻のうちに見た、マケドニア人の叫び「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。それは新しい戦いの始まる時であった。福音が初めてアジアからヨーロッパに渡る時、歴史的な時であった。「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟った。「神が私たちをお招きになったのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちをお招きになったのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、聖霊の助けに素直に従うなら

「神はすべてのものを良しとされた」  マルコによる福音書10章13-16節

キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教のいうところの「愛」とは何だろうか。それは「神の愛」のことだが、それはどんな愛なのだろうか?まず、「神の愛」とは、愛の対象はすべての人であること。そして無条件で一方的で、無限、永遠にあるものである。それは神の本質そのもの。神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である。神イコール愛。愛イコール神。そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と続く。神はすべてのものを良しとされた。これが究極の愛です。愛の表現である。

 卑近な例でお話ししよう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すりながらあやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった、いい言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」の「よし」はもちろん「良い」という意味の「よし」だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されているのである。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って言う。「おお、よしよし。すぐに良くなる、すべて良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるからね。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」。

 私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているけれど、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではなかったか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのだ。

 今日の聖書箇所もそうである。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。だから、叱ったのだ。「女子供の来るところではない」。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。

 その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。いわゆる「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。

 わが子が泣いているのに、なぜ母親は微笑んでいるのだろうか。親は知っているからだ。今泣いていても、すぐ泣き止むことを。今つらくともすぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日が来ることを。親は泣き叫ぶ子にそう言いたいのだ。

 「おお、よし、よし。大丈夫、心配ない。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱きしめなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれども生きることは本当に素晴らしい。大丈夫、心配ない。おまえを愛しているよ、おお、よし、よし」。

 存在の孤独に、生きていることの孤独に胸を締め付けられるような夜は、生みの親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくるのである。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところ。

「福音に仕える喜び」 エフェソの信徒への手紙3章7-13節

神はどんな人にも、その人でなければ果たせない使命を与えておられる。すなわち人は誰でも与えられた「命を使って」生きている。生まれてから死ぬまことだけにしか使わない人は使命を果たしたとは言えない。使命を果たすとは、自分自身の利己心や虚栄心や物欲を制して、自分のためだけではなく、自分以外のたで、人は与えられた命を自分の命として使うことが出来るが、その命をただ自分のめに役立てることだ。それは私たちをこの地上に遣わされた方の御旨に従い、神のために自分に与えられた務めを果たすことだろう。では、神の御旨とは何か。一言で言えば「神を愛し、隣人を愛すること」だ。そのことの具体的な実践は色々あるが、要は私たちがいかなる状況のもとにあっても、全世界よりも尊いこの命を何のために用い、また何のために捧げて生きるかが問われているである。

 ドイツ人で上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン先生は「死の哲学」という本の中で、「美しい人間の生きざま、死に方について」書いておられるが、他者のために「生きる」、生きるとは他者のために生きるということである、とはっきり書いておられる。さらに、デーケン先生は、「大きな使命感を感じながら生きていけたら、もっと人生も意味あるものとなるだろう」と言われる。

 パウロはこの使命について、揺らぐことのない確信を持っていた。今日の聖書箇所は、パウロが与えられた神からの使命とその内容について語っている。パウロは神のため、そして異邦人のためにその使命に生きた。パウロは、7節で「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました」と言う。福音に仕えるとは、福音に押し出されて止むに止まれず福音を宣べ伝えたいということである。パウロはまた、第一コリント9:16で次のように告白している。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。

 キリストを信じる者となったとき、そのキリストを他の人に、特に異邦人に宣べ伝えるということは、パウロにとっては「そうせずにはいられない」ことであったことがわかりる。真実な信仰とは必ず何らかの形で表現されずにはいられないものである。それが真実に私たちの心をとらえているなら私を動かさないはずがない。「神は愛である」と聞いても、ああそうですか、という程度の理解では、それは確かに何の力もない観念であり、知識でしかない。しかしこの神の愛がイエス・キリストを通して自分に迫っている、そのように受け取る者にとっては、この感動はもはやどこかに表現せずにいられないものとなるのである。

 使徒パウロも、はじめはユダヤ教徒だったから、キリスト教徒を迫害していた。その最中に復活のキリストに出会い、一つのことを真実に経験したのだ。それは自分がかつてはどうにもならない罪のとりこであったこと、しかしこの自分をキリストは赦し、神のみ前にとりなし、自由と使命を与えて下さったという事実である。パウロはこのキリストのゆえに神に感謝せずにはいられなかった。だからまた、自分はこの事実を告げ知らせずにはいられないという魂への迫りがあった。この確信こそ、パウロをして伝道者たらしめ、またパウロの全生涯をただ伝道のために使い果たさせたところの究極の力であった。

 私たちに与えられているのもまた、これと同じ恵みの経験ではないだろうか。そしてこの恵みの経験こそが私たちを伝道に駆り立てる最も純粋な、最も力強い動機となるのである。「異邦人に福音を宣べ伝えなさい」ということが、もし全員講壇に立って説教しなさいというのであれば、「私にはできません」という人があるかもしれない。しかし「あなたに与えられた恵みを語りなさい」という証しならできるのではないか。また、神を紹介することなら出来るのではないか。教会にお誘いすることなら、チラシ配りなら、とりなしの祈りなら、会堂のお掃除なら……。主に示されたことにチャレンジしてみよう。

 使徒パウロと共に、神の恵みを無にしないで、土の中に隠さないで、恵みに押し出されて、福音に仕えることを喜び、それぞれに与えられた賜物を用いて、実践に励んでいこう。

「打ち倒されても滅ぼされない」第二コリント4章7-15節

 今朝の聖書箇所には、神を信じる者の生きる姿が描かれている。この手紙を書いたのは使徒パウロ。彼は8-9節でこう言っている。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。ということは、逆に考えれば、神を信じるから苦労しないとか、生活が楽になるとかということではない。信仰を持っているから物事がうまく運ぶとか、成功するとか、そういうことでもない。おそらくここで書かれていることはすべて、パウロ自身がずっと経験してきたことだろう。信仰を持って、ずっと生きてきた。しかし、四方から苦しめられる、人から虐げられる、あるいは途方に暮れる。これからどう進んでいいか、生きていったらいいかわからなくなる。

 その中でパウロはこう言っているのだ。四方から苦しめられても行き詰まらない。道が全く見えなくなって途方に暮れることがあるけれども、それでも失望しない。あるいは人々から虐げられる、ひどい目に遭う。しかしそれでも自分が見捨てられないのだ、と彼は言う。打ち倒されても自分は自分の底力によって立ち上がるというのではない。どんなにひどく打撃を受けてもそこにしっかり自分は立ち続けるというのでもない。打ち倒されるのだ。立っていられない。しかし滅びない、と彼は言う。倒れてそこで終わりだというのではない。滅びない、あるいは滅ぼされない。打ち倒されても滅びないというのは、神が自分を滅ぼされないという意味である。つまり、絶体絶命の中で、しかし滅ぼされはしない。追い詰められてしまうけれども、しかしそこで終わらない。そこで生きるというのである。パウロは、神を信じる者は、まさにその状況の中で生きる、とここで言っているのである。つまり、そのどん詰まりの場所で、神を信じる者は生きるのだと。虐げられて弱り果てている。しかし見捨てられはしない。神に見捨てられてはいない、と彼は言う。それが彼の支えなのだ。だから彼はそこで生きるのである。

 彼はさらにこう言っている。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10節)。イエスの死を体にまとっていますと言う。生きながら絶えずイエスのために死にさらされています、と彼は言う。つまりあのイエス・キリストが歩かれたように、試練にさらされながら歩いていくのだ、と言うのである。迫害や誘惑や敵するものやそういうものにさらされながら生きていくのだと言うのである。信仰というのは、安全地帯ではない。あるいは無風地帯に入ることでもない。つまり、信仰とはあらゆる危険から身を守るシェルターのようなものではない。試練のただ中で生きるのである。あるいはそこで生かされるのである。それが信仰。それは、精神力ではない。つまり自力ではない。神がそこで生かしてくださる。私たちの力尽きたところ、私たちの知恵の及ばない場所、この世の圧力に抗しきれなくなって倒れてしまうところ、そこで神が受け止めてくださる。打ち倒された私たちを神が支えてくださる。それが信仰によって生きているということである。
 
 詩編46篇2節にこういう言葉がある。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。神は私たちが苦難の中にいるときに、私たちを天から見守っておられるというのではない。苦難の中に必ずそこにいまして助けてくださる。だから私たちは苦難の中で生きることができるのである。神が共にいてくださるから。それはイエス・キリストの約束だと言われた。神が、この私たち罪人と一緒にその場所にいてくださる。四方がふさがっても、逃げ道がもう何も見えなくなったとしても、生きる道がある。あるいは、生きる道がそこに生まれる。必ずそこにいまして私たちを助けてくださる。パウロは「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」と書いている。

 死ぬはずのこの身に、終わるはずのその場所に、イエスの命は現れるのである。行き詰ったところで死なず、倒れたところが終わりではなく、そこで神に出会い、交わり、そこで生きる。そこが私たちの原点になる。生きていく原点になる。追い詰められたその場所が、私たちが倒れてしまったその場所が、私たちが生きていく原点になる。新たな出発点となる。より深い恵みの世界への出口になるのである。

 いつも共にいます主が、私たちと出会い、私たちを受け止めてくださる。だから私たちは試練の中にあっても生きられるのである。終わりではない。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの港に着くのである。試練なしで、いいことばかりあって、楽をして、どこかいい場所に着く、そんなことはないのである。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの場所に私たちは押し出される。その世界に私たちは導かれる。それが試練というものの私たちにとっての意味。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:4)。

「みんなも呼びな 神さまを呼びな」詩編23篇1節 マタイ福音書6章25-34節

 八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。

 赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段ももっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきか、教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべもしらない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えたもう手段は、神に呼び求めることだった。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまない。神への信頼、要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらある。私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。

 有名な詩編23篇1節にこうある。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。これは、自分が羊であるという自覚を歌っている。羊というのは、羊飼いの守りと導きの中で生きるし、その中でしか生きることができない。その羊飼いが自分の前にいてくださる。だから自分には乏しいことがない。それで自分には十分だと歌っているのだ。人間としての満ち足りた生き方がそこに描かれている。

 しかし、私たちは、あれがあればこれがあれば満ち足れる、自分の生活は安定するのではないか、と考える。しかし、実はそうではなくて、私たちが導かれて生きるということの中に、私たちの満ち足りた人生があるということがこの短い言葉の中に歌われているのではないか。だから、私たちが何か道を開拓するというのではない。神に導かれながら私たちは歩いていくのである。導かれながら、一つひとつ前に開かれていく道を歩いていく。これが人間本来のあるべき姿。私たちはそれを信仰と言うが、信仰というのは特別なことではなくて、人間が本来あるべき姿、歩き方のことであろう。

 イエス・キリストは言われた。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)。明日は私たちの手の中にはない。よく言われるように一寸先は闇。一寸先は何もわからない。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからないということ。その通りだ。私たちの人生は誰にとっても、不安といえば不安、頼りないといえば頼りない。だから、私たちは明日というものを自分のもとに確保しようと思う。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩む、のだ(25,31節)。その私たちに対して主イエスは言われる。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(27節)とはっきり言われる。明日の命は、私たちの手の中にはない。といって、明日のことまで思い悩んでもしょうがないではないか、と短絡的に主イエスは言われているわけではない。

 その前に、前提がある。空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる、野の花を装ってくださっているではないか、というのである。さらにまた32節で、あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である、といわれるのである。

 これらの言わんとすることは、要するに、天の父、父なる神によって私たちは養われている、そういう存在だということである。命は私たちの手の中にはない、それは神の手の中にある。ヨブ記1:21「神は与え、神は奪う」とあるとおり。だから神は創造者としての責任と愛をもって養ってくださる。必要なものは与えてくださるお方であるということ。だからその神に求めなさい。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのだ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と約束されている。

「あなたはどこにいるのか」創世記3章8-13節

創世記3章には、アダムとエバが食べてはならないと禁じられていた木の実を食べた後のことが描かれている。神の方からアダムとエバのところに近づいて来られた。アダムとエバをご自身の下に呼び寄せるためだ。しかし、アダムとエバは、主なる神の顔を避け、園の木の間に隠れたと、書いてある。すると、神が「どこにいるのか」と問われた。アダムは答える。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。知恵の木の実を食べて、彼らは目が開けて、賢くなった。そして、目が開けて、これまで全く見えなかったものが見えた。あるいは、これまで全く気がつかなかったことに気がついたわけである。

 神が恐ろしくなった。神に対して丸裸。すべてが見られている存在と気づく。自分たちが神に対して逆らった行為がすべてばれていると気づく。とがめられるに違いない。今までは、彼らは神が近づいてきたら、おそらくそのもとに駆け寄ったと思う。ちょうど、子どもが、母親が帰ってきたら、母親の下に駆け寄るように。しかし、目が開けて、彼らは神のように賢くなって、そして、神が恐るべき存在だということが、わかるようになった。

 神のように賢くなったということは、神と対等、あるいは神の知恵と対抗できるくらいに賢くなったという意味である。今まで、神の知恵に守られ、神の知恵の下で生きてきた人間が、自分の知恵で生きるようになった。神が「こうしなさい」と言うと、人は「いや、自分はこういうふうに思うんだけども」と答え、神に「こちらに行きなさい」と言われると、人は「いや、あちらだっていいのではないか」と答える。それは、たとえて言えばこういうこと。親は自分の子どもについて、「こうしちゃいけないよ」と教える。「あっちに行ってはいけないよ」「ここは走ってはいけないよ」と。それは、子どもが心配だからだ。つまり、子どもの命を守るために禁じるわけである。あるいは「こちらへ行きなさい」と言う時には、子どもが正しく育っていくためにその道を示すわけである。

 創造された人間、神によって造られた人間は、いわば神の前には子どものような存在である。しかし、賢くなった人間は抗うのである。「そうは言うけれども、こっちの道を選んだ方がいいのではないか」「神はそういうけれども、こちらの道だっていいのではないか」「神のおっしゃることよりも、自分の考えの方が合理的ではないか」。そういうように、神と並び、そして神に対抗するようになると、神は恐ろしい存在になる。時に敵になり、嫌な存在になる。自分のしたいことをさせてくれない。だから、神が近づいたときに隠れたのである。自分が追及されるのではないかと恐れたのである。
 
 神に見られたくない、知られたくない。それが罪の罪たるゆえんなのだろう。罪の本質は、間違えたことをするというよりも、神に対して自分を隠すということである。つまずくこともあるし、失敗することもある。してはいけないことをすることもある。人を傷つけることもある。とっさに嘘をついてしまうこともある。それは誰にでもある。あるけれども、それを隠す。ごまかす。それが罪。間違いや過ち、それを認めない。間違いや過ちを抱いたままで、逃げ続ける、そして、逃げ続けることによって、その罪が人間を追い詰めていく。人間は自分の罪によって追い詰められて、行き詰ってしまう。

 キリストは言われた。「すべて疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私たちは逃げて疲れている。言い訳して、自分を正当化し続けて、疲れてしまっている。重荷にあえいでいる。イエス・キリストは、その私たちの荷を負う救い主として、この世に来られた。私たちの罪をその体に背負い、十字架につけられ、そして私たちを受け入れ、赦す。そういうメシア、救い主。だから、何もかも打ち明けていいのだ。罪を告白してもいいのだ。その時に、神は私たちを受け入れてくださる。その時に、真っ暗いところに光が差し込む。イエスは言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。

 逃げ続けて、そして落ち続けていた人間が、その時初めて生きるようになる。立ち上がる。つまり、光を受けて初めて、人は生き始める。自分のことを神の前にさらして、自分が神の光に照らし出されて、初めて人はそこから生き始める。人が生きるということは、そこからしか始まらない。光をこの身に受けるというところからしか、私たちは生き始めることはできないのである。パウロは言う。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ローマ13:12)。

「無条件の赦し」マタイによる福音書6章12節

 朝、目覚めて憂鬱になることがある。職場や家族、学校、友人などの人間関係による嫌な思いや心の痛み、悲しみ、悔しさによって暗く、憂鬱な気分になってしまうことはよくある。「赦すことのできない」苦々しい感情を引きずったまま、一日を始めないといけないことが私たちには時としてある。誰かのことを赦すことのできない人間関係は、私たちの生活を非常に窮屈な苦しいものとしていく。

 幼いころから親に傷つけられて、親のことをずっと赦せない人がいる。その赦せない思いが、やがて自分が親になったときに、自分の親にされたと同じように、自分の子どもにしてしまうということも起こり得る。赦すことのできない思いは、赦せない罪の連鎖を生み出す。

 しかし、今日の主の祈りの言葉は語る。「私たちも私たちに罪を犯してきた人を赦しますから、私たちの罪をお赦しください」。これはどういう意味だろうか?何かの取引のように見えるが、そうではない。私たちが、主の祈りに従って、私たちに罪を犯した誰かのことを赦そうとした時、そう簡単に赦せない自分に必ず出会う。そして赦せない自分の弱さにぶつかって、赦せない自分の罪に出会うのである。だから、まず何より、自分の罪の赦しを神さまに求める以外に、解決の道がないことを知らされるのである。

 主の祈りを教えてくださった主イエスは、私たちが赦せない人間関係に苦しみ、赦せない自分の罪に苦しみ続けることがないように、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください」と祈られ、私たちの罪を赦してくださったのである。だから、私たちは、まず「赦せない」自分の罪を正直に認めたいと思う。そして赦せない自分を、神の前に差し出していく。このことから、この主の祈りは始まっていくのである。

 よく言われることだが、「本当に赦されたという経験がないと、赦すことはできないものだ」ということ。それと同じことは、「本当に愛された経験がない人は愛することができない、また愛することがどういうことかわからない」ということである。人間は自分が経験したこと、いわゆる身に着けたこと、学習したことしかできないということでもある。

 赦すということはなかなかできないことであり、限界がある。私たちは「もういいよ、赦したよ」と言いながら、本当のところは、その人を赦していないことがある。そして、そのことを誰よりも知っている。私たちが誰かを赦そうとしたとき、赦せない自分に出会う。その時、真の赦しは、神の赦し以外にないことを知るのである。十字架の赦しを受け取らない限り、この赦しの中に生きない限り、私たちは本当の意味で赦しを知ることができない。人を赦すことができずにもがき続けている私たちの限界の前に、神からの本当の赦しをもって、あなたを赦そうとする神の愛が、私たちの目の前に差し出されているのである。

 主イエスの赦しは、十字架の上でなされた。主イエスは自分を殺そうとする者たちを前にして、祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。この赦しを前にしたときに、今までの自分の赦しがどれほど小さく、本当の赦しにはほど遠いかを知る。そして、いまだに赦せない自分自身の罪深さをも知らされることになる。

 この無条件の赦しが、私たちのために先立って祈られている。自分で自分をどうすることもできない私たちのために、今も祈られている主イエスの祈り。この主イエスの祈りを聞きながら、私たちは赦された安心、平安の中を過ごすことができるのである。

 さらに、ここで祈られているのは「彼ら」と複数形。主イエスを十字架につけるような「彼ら」という、私たちの赦せない人間関係のために祈ってくださっている。この祈りがあるからこそ、私たちは祈ることができるのである。「私たちは赦します」「私たちを赦してください」と。主イエスの無条件の赦しの中に生きることが許されていることを覚え、感謝してこれからも歩んでいこう。

「宣教という愚かな手段」コリントの信徒への手紙一1章18-25節

十字架の言葉の愚かさ、それは下降するということである。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことである。神が罪人の下にまで下降するのであるから。
 
 福音書の中に、100匹の羊の中の失われた1匹を捜し求める羊飼いの話がある。いなくなった羊を捜すために、羊飼いは羊が迷って行った同じ道を辿らなくてはならない。道なき道であり、雑草やいばらの生い茂っている道である。迷った羊が傷ついたように、捜し求める羊飼いも傷つく。この場面を描いた有名な聖画がある。足を滑らせて谷を滑り落ち、灌木に引っかかっている羊。羊飼いは谷に身を傾けてその羊に手を伸ばしている。自ら危険に身をさらして危険に瀕している羊を見出すのである。傷ついた十字架の主イエスを暗示している場面である。キリストの十字架の右と左に処刑されようとしている強盗。彼らは罪の当然の報いを受けている人間。それ以外の結末はあり得ない人間。その人間の場所に、キリストは降りられるのである。

 十字架の言葉の愚かさ、それは降りていく愚かさである。自ら、あえて選んで降りていく愚かさである。それは人の知恵では理解できない。しかも、神がそういう道を選ばれるということを人は納得できない。なぜなら、人の知恵は必ず上に向かうものだからである。人の賢さは高みに向かうことしか知らないからである。高みに向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めないからである。その意味で、十字架の言葉はまことに愚かである。

 しかし、「わたしたち救われる者には神の力です」と言われている。私たちはあの放蕩息子のように罪によって深く転落した。神はその私たちを追い求められる。ただ追い求めるのではない。聖なる神が罪の汚辱のただ中に身を投じられるのである。そのために神の全能の力は振り絞られなければならなかった。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。ここには振り切る神、振り捨てる神が示されている。独り子を振り捨てるために神の力は振るわれた。罪人を何としてでもご自身の下に引き寄せるために、御子を振り捨てるのである。十字架によって救われる私たちにとって、それは神の力そのものである。神の激しい力、罪人を追い求めるために振るわれる力である。この神の渾身のメッセージを伝えるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言うのである。十字架の言葉も愚かだが、それを伝えるためにも愚かな手段を選ばれた。世に救いをもたらす業をご自身の圧倒的な威力で進めようとはされなかった。人間を用いて進めようとされる。

 五千人の給食の話が福音書にある。夕暮れ時、大勢の飢え渇く群衆が追ってきたとき、弟子たちはうろたえた。群衆の激しい飢え渇きを受け止めきれないと思ったのである。群衆を解散させてくださいと主イエスに求めた。しかし、主は言われた。「あなたがたの手で食べ物をやりなさい」。弟子たちが持てる物は「五つのパンと二匹の魚」。

 主イエスはその弟子たちの持てる物を用いて、ご自身の御業を進めることを望まれた。救い主は、この弱い、限界のある、肉の罪ある人間を用いて、神の国の業を進めることを望まれた。それは、弱い、もろい、限界のある罪の人間に近づくイエス・キリストの謙遜の方法である。弱い者に弱い者を通して語りかけるのである。罪赦された人間が罪人の隣に身を置いて語りかける、それが神が選ばれた宣教の仕方である。「宣教という愚かな手段」である。「あなたがたの手で食物をやりなさい」。あなたがたにその実力があるからという意味ではない。あなたがたを私が用いるから、という意味である。あなたがたを用いて、私が神の国の働きを進めるという意味である。神の国の働きは他の仕方では行われない。この働きは神とともにあってなされる。この働きは神の御計画であり、主が進められる。今年も神とともに、主を信頼して宣教の働きに励もう。

元旦礼拝  「新しい歌を主に向かって歌え」詩篇98編1-9節

人間の時(ギリシア語でクロノス)は2種類あるという。一つは直線的な時。過去、現在、未来という流れの中の時間。もう一つは循環する時。朝、昼、夜と巡り、また新しい朝が来る。今日はそういった意味で巡る暦の上で新しい年の始まり。新しい時を迎えたとき、今年こそはと心に思い定めるよい機会である。

 しかし、私たちはもう一つの時を生きている。それは神の時(ギリシア語でカイロス)。神の時とは、永遠、決定的なかけがえにないその時、という概念を含んでいる。聖書でいう「永遠の命」、あるいはキリストが十字架にかけられた時は決定的なその時である。一回だけのその時。その両方とも神の時、神の御計画の中にある時。時間、歴史をも支配しておられる神の時。私たちもその神の時に生かされている。

 今日の説教題の「新しい歌を主に向かって歌え」という「新しい」は神の時による新しい時の新しい歌のことである。聖書によれば、キリスト者はキリストによって新しく造り変えられた者である。パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント5:17)と書いている。人間の文化は成長や進歩向上を遂げつつ新しさを形成するが、信仰の新しさは神の恵みによる新しさである。恵みによる新しさは、予想することもなく、計画によってでもなく、瞬時に与えられたというべき変革である。神の介入による新しい時。

 キリスト者はこの神の恵みによる変革によって、わが身をすっかり新しくされていることを驚きと感謝のうちに受け取るのである。この詩篇の作者は、「今」というこの時に神の恵みによって変革した自分自身を発見して、「新しい歌を主に向かって歌え」と言っている。

 ルカ福音書1章のマリヤの賛歌と、この詩篇とが共通しているところから、これは旧約のマリヤの賛歌と呼ばれている。「主は驚くべき御業を成し遂げられた」とあるのは、イスラエルの人々のバビロン捕囚生活からの解放のことである。それは政治的にはペルシャのキュロス王の台頭によってもたらされたものであったが、イスラエルの人々は歴史を支配しておられる神の業と見たのである。遠い異国バビロンでの捕囚生活は、彼らにとって非常な苦しみであったが、それにも増して彼らを苦しめたのは、ひたすら寄り頼んできた神への信頼のゆらぎであった。本当に神は私たちのことを覚えていられるのだろうか、本当に神はあるのだろうか、本当に神は契約(約束)されたのだろうか、そういう思いが次々と起こってきて彼らを悩ました。それだけに神は覚えていてくださった、3節にあるように「慈しみとまことを御心に留められた」という喜びは限りなく大きかったに違いない。そこから、この「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」という喜びにあふれた賛歌が生まれてきたのである。

 マリヤの賛歌で、マリヤがあのように高らかに神をほめたたえたのはなぜか。それはこの卑しい女をさえも心にかけてくださったということを知ったからであり、その神の愛に気づいたとき、彼女はもう自分の全存在をかけて神をほめたたえずにはおれなかったのだ。この、そうせずにはおられない福音信仰が、恩寵宗教いわゆるキリスト教の根幹なのである。

 神の救いのみ業は神の勝利(口語訳)である。全地が歌うべき、すべての人に関わる勝利である。礼拝は、どんなに小さいものであっても、この勝利(神の救いのみ業)を歌い、いつも新しい歌によって作られていくのである。神の救いのみ業は日々なされているのである。神の時から考えれば、私たちは日々新しくされて、生かされているのである。神の恵みは日々私たちに与えられているのである。だから、日々新しい歌をもって神をほめたたえよう。この新しい一年も一日一日、「驚くべき御業」「くすしきみわざ」を覚え、感謝を持って歩んでいこう。

歳晩礼拝  「無駄な祈り、労苦はない」 ヨハネによる福音書21章1-14節

 キリスト者にはたくさんの祈りや労苦がある。そして、この祈りや労苦が、応えていただけていないような気がするのである。ほんの少しは応えていただいたかもしれないが、あんなに祈ったのに、あんなに苦労したのに、その結果をまだ見せていただいていないのではないかと思うのである。しかし、すべての労苦は受け止められているのだ。すべての祈りは聞いていただいているのだ。目には見えないが、復活のキリストがいつも共におられるのだから、無駄な働き、無駄になった祈りはないのである。すべては収穫につながっている。やがてキリストのおられる岸辺で、そのすべてを引き上げる時がやってくる。この「時」というのは、「神の時」(ギリシア語でカイロス。私たちの時はクロノス)で、それは永遠で、決定的な時を指す。私たち人間にはわからない。

 11節にこう書いてある。「シモン・ペテロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」。自分たちの労苦がどれほど報われているか、それを見せていただく時が来る。自分たちの祈りがどれほど聞かれていたかを見せていただく時があるのだ。その時に私たちは、あの働きの一つひとつに意味があった、あの祈りの一つひとつが受け止められていたんだということを、あのキリストがおられる岸辺で見せていただく。その日があるから、その日に向けて、わたしたちは今を生きているのだ。私たちの労苦や祈りというものは、どこかに、空中に消えていくようなものではなくて、復活のキリストがそれをすべて受け止めてくださっているのである。そしてその収穫は、必ずイエス・キリストが私たちに見せてくださる時がある。私たちはその時に、自分が祈ったこと、自分が苦労したことへの収穫を見るのだ。それが神の約束である。

 7節にこう書いてある。「イエスの愛しておられたあの弟子がペテロに『主だ』と言った。シモン・ペテロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。なぜ飛び込んだのだろうか。キリストの前で逃げも隠れもできない、弁解も言い訳もできない、裸同然の自分がそこに照らし出された、ということだ。私たち人間同士の場合、いくらでも弁解できる。「泥棒も三分の理」という。お互い生身の人間、脛に傷を持った人間。不完全で弱さも隠し持っている。しかし、キリストの前では、弁解はできない。この私のために十字架に死んでくださった救い主、この罪人に命を与えるためによみがえってくださったキリスト。この方の前に出たら恥ずかしいことがいっぱいある。申し訳ないことがいっぱいある。合わせる顔がない自分が見える。

 だからペテロは裸同然の自分を恥じて、上着を着て、湖に飛び込んだ。そういうペテロを、キリストは岸辺で待っておられた。そういうペテロを、キリストはご自身の御業のために用いてくださるのである。考えてみれば、わたしたちも裸同然である。ほかの人にはどんな言い訳ができたとしても、私のために生き、苦しみ、死によみがえってくださった、この救い主キリストの前に立ったら、私たちには何の言い訳もできない。恥多き自分が見える。しかし、その私たちをキリストは御用のために用いてくださるのである。だから、この罪人である私たちの労苦が無駄になることはない。私たちの祈りが無駄になることはない。必ず主はそれに伴って、働いて収穫につなげていてくださる。主がいつも共にいてくださり、主が働いてくださっているからである。

 コリントの信徒への手紙一の15章58節に、「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです」とある。主に結ばれているならば、自分たちの労苦は無駄にはならない。私たちは復活の主に結ばれているのである。私たちはあの復活の朝の世界に生かされているのだ。無駄な労苦はない。無駄な祈りはない。この人生のすべてが、必ず収穫につながる。そういう朝に、私たちは今生かされている。そういう約束に満ちた命を、私たちはみんな、今ここで生きて、いや生かされているのだ。主に感謝して、主の御用のために励もう。

「恐れからの解放」 ルカによる福音書1章39-56節

受胎告知を受けたマリアは妊娠初期と思われる体の危険をかえりみず、大急ぎで山里のエリサベトのもとへ行く(39節)。マリアをそのような行動に駆り立てたものは何か。一つは愛。マリアは落ち着いていない。急いでいる。36節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と知らされる。マリアは放っておけなかった。長い間「不妊の女」とさげすまれてきたエリサベトにお祝いの言葉を伝えたかった。愛は落ち着くことをゆるさない。
 
 もう一つの理由は不安。私たちは不安の中に落ち着いてじっとしていられない。38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったが、そこに不安な気持ちがあっただろうと思う。喜びがなかったとは言えないが、マリアの口から讃美の言葉が出てくるのは46節からである。マリアのエリサベトに対する挨拶には、自分の不安を正直に打ち明ける言葉が含まれていたと思う。その不安に対してエリサベトの語ったことは、マリアが体験するのは主の祝福の出来事なのだということ。不安でなかなか一歩を踏み出せない時に、一つの言葉にポンと肩を押されて、前に出られることがある。マリアの口から讃美の言葉があふれ出てくる。

 讃美は主の恵みへの応答であり、祈りであり、信仰告白である。マリアの讃美で主の恵みである「偉大なこと」(49節)は複数形になっている。私たちは主の恵みをいくつ知っているだろうか。恵みはすぐに恵みとわからず、マリアのように戸惑い、不安になるものかもしれない。しかし、主の恵みと分かったなら、心からの讃美をしたいものだ。主の恵みは、すでに起こったものもあり、これから起こるものもある。私たちはこれからの事についても確信して、讃美をもって応答できるのである。

 「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:47-48)。「目を留め」、文語訳では「そのはしための卑しきをも顧みたまえばなり」である。神がこちらを向き、目を留めてくださるなどとは思ってもみなかったのに、こちらへ振り返ってくださった。思いがけない喜びがある。しかも、この後マリアが歌う歌は、堂々たるものである。ルターは、「身分の低い」という言葉を「無きにひとしい」とさえ訳している。顧みに値するものは何もなかったのである。そのような者が神のまなざしの中に立ったとき、揺るぐことなく、畏れることなく、讃美に生きたのである。

 マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも」と言います。そのマリアに神は「目を留めてくださった」のだった。さりげない告白のようであるが、ここには思いがけない恵みを発見した者の正直な告白がある。恵みは数えるものだといわれるが、過去を振り返ってみなければ分からない。私たちには、恵みを受ける資格も条件もあらかじめ持ち合わせていない。私たちの人生に神が働いてくださった事実があるのみである。私に働いてくださった神は、私が理解や納得するように働いてくださるとは限らない。よくよく人生を振り返ってみると、その歩みのところどころ、方々に思いを越えた神の働きを見るのである。それこそ恵みの事実がそこにあるとしか言えない。マリアは、わが身に起こった神の働きの事実をそのまま、人々に伝えたのだった。彼女がいかに神を信じたかではなく、起こった事実を語っているのである。それこそ生の信仰告白ということができるだろう。

 クリスマスは、神の愛の出来事を共に感謝し、喜び、讃美すること。この一年の間、わが身に起こった数々の神の愛の出来事、恵みを数えつつ、感謝と喜びと讃美を持ってクリスマスを迎えよう。

「アドベント・新しい備え」 ルカによる福音書1章5-25節

アドベント、待降節。クリスマスの前、4週間を指す。アドベントとは、ラテン語のアド「~に向かって」、ベント「来るべきもの」から来ている。「来るべきもの」とは「救い主」キリストなので、「救い主に向かって」の日々、すなわち待降節と呼ばれる。「待つ」とは漫然と無為に時間を過ごすことではなく、キリスト・イエスに向かって「待つ」こと。

 また「待つ」とは、先日の新聞に書いてあったが、自分ではどうにもならないこと、また自分以外のところでの事柄なので「待つ」ということが起こるのであり、だからこそ、祈りが生まれるのだとあった。なるほどと思わされた。ユダヤの人たちは預言者が預言した救い主を長い間待ち望んできた。祈り続けてきた。イエスのご降誕は、その祈り、待ち望んできた預言が成就された出来事であった。それは、自分たちでどうすることもできない、ただただ神のなさる出来事として実現したのである。そこにイエスの誕生の大きな意味がある。

 神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。そのことは、ザカリヤの記事でも示されている。ザカリヤが香をたいているとき、御使いが現れた。私たちは神に仕え、神に献げ物をしたり、香をたいて神の喜ばれるようなことをするのが、宗教であると思いやすいのだが、ここでは神がザカリヤに御使いを送ってこられたのだ。神のために人間が何かしていくと思っていたのに、神の方から近づいてこられたのだ。聖書が私たちに訴えているメッセージとはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違いがある。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのがキリスト教である。「成就された出来事」というのは、大事な言葉である。神がなしてくださった。そこにすでに著者であるルカのイエス・キリストに対する信仰の告白がなされている。

 ヨハネの父ザカリヤとその母エリサベツは、「二人とも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人であった。旧約の思想では、正しい人は神から祝福を受ける。例えば、子どもがたくさん生まれるとか、あるいは事業が繁栄するとかいうことを神の祝福のしるしと見ていた。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには子どもが授からなかった。それは理解できないことであった。

 私たちはよく「どうして」と問う。神に対してもそれを言うことがある。「どうして、そんなことが、私にわかるでしょうか」(口語訳1:18)、マリアも「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」(1:34)と言っている。それは神を自分の秤で計ろうとしているからだ。私が理解し、納得できたら信じようという生き方である。そこでは神ではなく自分が主人になっている。

 私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにある。エリサベトは「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(1:25)と言っている。マリアも「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」(1:48)と。私たちが神を信じるのは、自分の成長のため、また人生の問題で悩んだり、苦しんだりした時には、どうしても助けや慰めがいるからだ、と言う人がいるが、信仰とはそのようなものではない。苦しい時の神頼みではない。仮にそういうことが動機であっても、やがて、神はこの私を心に掛けて下さっていたことに気づくところから、ほんとうの信仰が始まる。41節「私の魂は

「あなたがたといつも共にいる」 マタイによる福音書28章16-20節


 場面はガリラヤ。なぜガリラヤかというと、イエスは生前に弟子たちに「私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(26:32)と言われていた。また、葬られた墓に向かった二人の女性は天使と復活されたイエスに出会い、弟子たちにガリラヤに行くように告げられた(28:1-10)。それを聞いた弟子たちはガリラヤに出かけ、イエスと出会う。ガリラヤは、ヘブライ語で「ガーリール」辺境という意味の言葉に由来する地名。当時の中心であるエルサレムから遠く離れた辺境の地であるガリラヤ、そこはイエスが宣教をはじめられた場所でもあった(4:12,7)。イエスの宣教の始まりの地に弟子たちは集められた。そして天に昇られる前の最後の場面で今度は、弟子たちに全世界に行って宣教するように言われるのである。

 出会う場所は「山」。マタイ福音書では山はかつてイエスが説教された場面(山上の説教)を記している(5:1-2)。弟子たちはかつてイエスが山で語られた教えを想起したことだろう。

 ここで弟子たちは「イエスに会い、ひれ伏した」とある(17節)。ひれ伏すとは礼拝するということ。「しかし、疑う者もいた」(17節)。疑うは迷っているさまを言い表す。復活したイエスに出会ったことに疑い迷っているさまが目に浮かぶ。そのような弟子になんとイエスは「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」(19節)と伝道へと派遣されるのだ。大丈夫かいな、そんな軟弱な弟子に命令して?と思う一方で、この言葉が私たちにも向けられていることを知るならば、私たちも思わず尻込みをするのではないだろうか。こんな私が伝道なんて、証しなんて…。

 しかしイエスはさらに言われる。「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19節)。教える?とんでもない。自分にできないことを人に偉そうに教えるなんてとてもできることではない。

 なぜ、イエスはそう言われるのだろうか。ポイントは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。私がいつも共にいるから大丈夫、と言ってくださっている。その私であるイエスはどんな方だろうか?18節に「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とはっきり弟子たちに言われている。その方がいつも共にいてくださるというのである。ということは、その伝道の働きは主イエスの働きによってなされていく、ということではないか。

 さらにイエスは言われる、「父と子と聖霊の名によって」と。「あなたの名によって」、あなたの責任によってそうしなさいとは言われていない。三位一体の神によってそうしなさいと言われているのだ。責任は神にあるということだ。宣教に働きすなわち教会の働きは神によってなされ、神が責任を取ってくださる働きだということだ。私たちはその神に信頼して、従い、言われたことを忠実に行うだけだ。結果は神にゆだねればいい。私の手柄でも業績でもない。すべていつも共にいてくださる神のなせる働きである。私たちはただそのような神に感謝し、神

「愛のありかた」 マタイによる福音書25章31-40節

今回、ある機会が与えられて、改めて自分の牧師としての牧会について振り返ることができた。教会員やその家族、あるいは教会に集う方々に対しての牧会だけでなく、出会ったホームレスの方々や生活困窮者に対する支援活動もしてきたが、私にとってそれは同じ地平線にあり、同じ理念、方針、考え方でやってきたし、その違いはないと思っている。ではその根底にあるものは何か?

 それは何といっても、聖書のみ言葉である。では多くのことを教えられ、励まされ、支えられてきたみ言葉は?と考えて、すぐ頭に浮かんだのが次の5つのみ言葉だった。マルコ12:28-34「最も重要な教え」、マタイ25:35-40(今日の聖書箇所)、マタイ9:35-38「群衆に同情する」、マルコ2:17「医者を必要とするのは…」、マタイ7:7-12「求めなさい…」である。

 私はこれらのみ言葉に聞きながら、牧会や相談、世話活動をしてきたと言っていい。支援する、される関係ではなく、ともに神に生かされている人間として接しよう。当事者の生きざまを尊重しつつ、相談、困りごとに耳を傾けよう。できるだけ共にいる、共に生きる(共生)関係でいよう(寄り添う、伴走する)。できることとできないことをはっきりさせながらフォローしよう。できないことは関係機関へつなげよう。積極的に協力者や助言者を求めよう。そして神にゆだねる。一人で背負いこまない。自分を大事にしないで隣人を大事にすることなんかできない。自分をも愛せないものが他人など愛せない、とも思う。神にいのちを与えられ、神によって生かされている、それはみな同じ。そして、そのままで丸ごと受け止めてくださる神への信頼、信仰にしっかり立っていこう、などなどである。これらの出どころはみんな、先ほど挙げたみ言葉などから導き出されたものである。

 さらにそこで今度、新しく教えられたのが、今日の聖書箇所である。神を愛するとはどいうことだろうか、また隣人を愛するとはどいうことだろうか、と今まではどちらかというと別々に考えていた。今日の聖書箇所に出てくる「正しい人たち」も私と同じように別々に考えていた節がある。ところが、主イエスは同じことだ、神を愛することは隣人を愛することであり、隣人を愛することは神を愛することなのだと、はっきり言われるのである。これで今まで私の中でもやもやしたものがすっきり整理された。これからも、できることは限られているが、精いっぱい神を愛し、隣人を愛する信仰生活に励みたいと改めて思った次第である。

「神に栄光を帰す感謝」ルカによる福音書17章11-19節

「病を患っている十人の人」が、ある村の入り口で主イエスを出迎えた。彼らは「遠くの方に立ち止まったまま」、「声を張り上げて」「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんで下さい」(13節)と叫んだ。イエスは彼らを見られた。この叫びを挙げるとき、主はご覧になってくださる。主は「重い皮膚病を患っている人たちを見て」言われた。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)。重い皮膚病の人の辛さは、社会から見捨てられることにもある。彼らは、信仰共同体(生活共同体でもある)の群れからも排除されるのである。祭司たちのところに行って見せるのは、癒されたことを示して、共同社会に復帰させてもらうためである。彼らは、主の言葉に従って、「そこに行く途中で清くされました」。

 その中の一人はサマリア人。そのサマリア人は、自分が癒されたのを知った。主イエスが自分たちに目をとめてくださったあのまなざしとあの御言葉によって癒されたのだ、と。そこで彼は「大声で神を讃美しながら戻って来た」(15節)。さっきは「声を張り上げて」「憐れんで下さい」と言った人が、今は「大声で神を讃美しながら戻って来た」のである。彼は主イエスの憐れみの中に神の憐れみ、恵みが働いているのを知った。それは彼には神の栄光の働きに見えた。だから大声で神を讃美したのである。「そしてイエスの足もとにひれ伏して感謝しました」。こういう「感謝」がある。こういう感謝に私たちも生きたいと思う。
 
 「大声で神を讃美しながら戻って来た」。もちろん主イエスの元に戻ってきたのだ。この人は、祭司のところに行き、社会復帰の手続きをする前に、主イエスのところに戻ってきた。人々との関係を取り戻すその以前に、彼は主イエスとの関係に深く入った。「イエスのところに戻って来た」ということは、主イエスが彼の人生の起点になったということである。出発点であり、中心であり、支えになったということである。「イエスの足もとにひれ伏して感謝する」。それは主イエスの中に神の臨在を見たからである。天地を創造し、病むものを癒す神の全能の力が働いているのを見たのである。それが恵みの力であることを知ったのだ。主イエスこそわが主、わが神と信じたのだ。

 このサマリア人が得たものは何だろうか。彼は「重い皮膚病」から「清くされ」た。病は癒された。癒されて日常の生活に戻された。心の底で、大声で神を讃美しながら戻って来たのだ。そして魂の深みにおいて「イエスの足もとにひれ伏して感謝しています」。主イエスの憐れみの中に、そのまなざしと御言葉の中に、神の大能の御力と栄光を見ているからだ。神の恵みの働きを見ているからだ。そして神との生き生きとした関係の中に置かれている。信仰の「感謝」は、そのように主イエスのもとに戻ってくることである。神に感謝している人は、神に立ち返っている。主イエスをわが人生の出発にし、中心にしている。感謝はまた、讃美と切り離せない。神の栄光を誉め歌うのである。信仰の感謝は主イエスの中に恵みの神を発見している。「今あるは神の恵み」。「神が共にいる生活」になっている。

 「ひれ伏して感謝する者」に今日も主イエスは言われる。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(19節)と。「救い」は「癒し」以上である。「救い」は「健康」以上である。そこには日常生活の回復以上のことがある。憐れみの主イエスご自身との親しい交わりの中に生きることができるのである。主イエスは今日も私たちに言われる。あなたは清められただけではない。あなたは救われた者として、立ち上がって、行きなさい、と。

「自己の再発見」 マタイによる福音書22章34-40節

聖書に登場する人々の多くは、「彼らは自分自身の存在の根拠を問い、それを見出した人々なのだ」という思いがする。「存在の根拠」、生きていくうえでのよりどころ。「現代人の抱えている最大の問題は、自分の生きる根拠を見出せないことではないのか」ということがよく言われる。根無し草。どこに立って生きているのか、生きていけばよいのか。ふわふわしている自分。そして、存在することの不安。そのような自己を見失って不安に陥った時、「存在の根拠」を見出すなら、もう一度自己を再発見し、生きていく力が出るのではないだろうか。

 聖書に登場する人々は、その「存在の根拠」を教えてくれているように思える。彼らは、「人間は神の前に立って初めて存在することができるのだ」と強烈に主張しているからだ。彼らは、あらゆることを通じて、まず何よりも、根源者、神との関わりの中に、人間の存在の根拠のあることを教えている。しかし、聖書の人物たちの主張はそれだけではない。彼らはその神との愛の関わりの証を現実生活の人間同士の愛の中に示そうとしている。ここに第二の存在の根拠の主張がある。人は神との関わりのみならず、人間同士の愛し愛される関係の中にも存在の根拠があるのだ、と主張する。

 今日の聖書の箇所は、律法学者がイエスに質問した話である。「先生、律法の中で、どのいましめが一番大切なのですか」。すると、イエスはこう答える。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』これら二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている」。イエスもまた、神との関係、人との関係、この二つこそ、最重要なものであると断言しているのである。

 神との関係がいわば縦の関係とするならば、人間との関係は横の関係にあると言える。人間は神との縦の関係、人間との横の交わりという、二つの座標軸に位置づけられ、縦横に織りなされている。そのどちらかとの関係を失った時、人は宇宙の中に存在位置を失って、不安と焦燥にかられる。自己を見失う。現在、人の抱えている問題は、突き詰めれば、まさしくこの問題なのではないだろうか。

 二つの戒め、「心全体、魂全体、思い全体」で神を愛すること。「あなた自身を愛する」ように隣人を愛すること。果たして、私たちはそんな愛し方ができるのだろうか。私たちが「愛する」ということにおいて、この二つの教えの前に立つとき、私たちの本性、エゴ、自己中心の姿があらわにされる。しかし、そこに「私は成就するために来た」との言葉が響き渡る。「十字架の光」が差し込む。イエスは全存在をかけて、「神を愛すること。隣人を愛すること」を私たちにもたらして下さった。この事実を抜きにして、私たちには「愛すること」は行い得ないのではないか。 

 40節に「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とある。「基づいている」、この言葉は新約では7回使われており、そのうち4回は「(十字架に)かける」で使われている。口語訳聖書では「かかっている」。本来の意味である十字架刑に関わる動詞がここに登場することを見逃したくはない。それは、律法全体と預言者が神を愛し隣人を愛することによって立つ、その根拠をイエスに見出すからである。「私が来たのは律法や預言者を完成するため」(マタイ5:17)、こう宣言されたイエス自らが「十字架にかかり」、その宣言を愛を持って実現して下さった。私たちが「愛せよ」との命題に取り組む根拠もイエスの十字架に「基づいている」のである。

 では、イエスが私たちに示された「愛」への応答として、私たちは、「愛の業」をどう始めたらいいのだろうか。水野源三さんを思う。水野さんは脳性小児麻痺であったが、お母さんとの共同作業で、素晴らしい詩を作り出した。詩集「わが恵み汝に足れり」に次のような短い詩がある。
 
 『有難う』
 物が言えない私は 有難うのかわりにほほえむ 朝から何回もほほえむ
 苦しい時も 悲しい時も 心から ほほえむ

 自分に残っている力、見る力と聞く力をフルに働かせて、水野さんは人生を生きたのだと思う。
 
 私たちが「愛する」ことができるのは、神の愛の恵みへの応答としてである。神の愛を受け入れ、その感謝として励む愛の働き。与えられた賜物を生かしつつ精いっぱい愛する生活に励みたい。

「主にある平安」  ヨハネの黙示録21章1-4節

 日本は高齢社会となり、最近テレビや新聞などで高齢社会に関するものを多く目にするようになった。先日もNHKの「クローズアップ現代」で遺品整理の話題を取り上げていた。お金を払って遺品整理業者に任せて片が付くようなことでもなさそうだ。形見分けだの、もったいないから売ろうとか、親しい人に使ってもらえたらとか、何かと大変そうだ。

 一方、当事者の高齢者の側からは、今、終活ということが話題になっている。どのように死を迎えるか。俳優の樹木希林さんが9月に亡くなられたが、彼女が2年前に広告で「終活宣言」をして「死ぬ時ぐらいは好きにさせてよ」というフレーズで話題になった。実際の彼女の終活は自分で事前に用意周到に準備して置いたそうだ。もちろん家族にも伝えて同意を得ていた。そうして、最後の最後まで、立派に仕事をやり通したのだった。見事、というほかない。

 先々週の新聞では「最期は好きにさせてよ」という特集が載っていた。三人の識者の意見が載っていた。「おひとりさま」で有名な社会学者の上野千鶴子さんは「おうちで死ねる社会に」と言い、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんは「自宅が幸せ」幻想では、と言うし、在宅医療に取り組む医師,遠矢純一郎さんは、死に場所、家族で話そう、と言っていて、「最期は好きにさせてよ」と言ってもそれぞれに言い分があり、なかなか難しい問題だと思った次第。

 その家族に同意を得る、または話し合っておくのに、カードで楽しくゲームをしながらやるというのがある。「もしバナゲーム」というカードだ。新聞で紹介されていて、すぐカードを購入した。最近、全国の介護施設などで広がっているカードゲームだそうだ。「余命半年」と宣告されたら何を優先して生きるか。トランプのような36枚のカードでゲームをしながら考えるのだ。自分らしい最期を迎えるため、早いうちから終末期について家族らと話し合っておくことは大切。でも、なんとなく「縁起でもない」という理由で避ける傾向がある。このカードゲームのいいところは、ゲーム感覚でそんな難しい話題を家族や友人と考えたり話し合うことができることである。

 このゲームは、カードに「誰かの役に立つ」「痛みがない」「家族と一緒に過ごす」などと書かれているので、自分にとって大事なこと、希望するカードを選ぶ。そしてなぜそれを選んだか理由を考え、家族や友人に説明し、話し合う。自分と他人との死生観や価値観の違いが分かり、大変面白いゲームだ。私たち夫婦もやってみた。まず私が自分にとってとても重要、ある程度重要、重要でないと36枚のカードを分ける。同時に連れ合いは「私がどう思っているか」を想像して、同様にカードを分ける。そして、互いの選んだ「とても重要」を比べる。私たちの場合、とても重要の10枚のうち5枚が一致した。多いと思うか少ないと思うか微妙なところ。一致したカードは、確かに日ごろ私が連れ合いに言っていたことだった。その後、なぜそれを選んだの?そんなことはあまり重要ではないよ、などと話が弾んだ。確かに楽しい。今度は子どもたちと親子の関係でやってみたい。 

 その36枚のカードの中には「祈る」「宗教家やチャプレンと会って話せる」「神が共にいて平安である」といったカードも入っている。私はもちろん3枚とも重要なことだと選んだ。その中でも特に望むのは「神が共にいて平安である」というカード。しかし、人生は自分が考えているようにはなかなかうまくいかない。クリスチャンだって同様。クリスチャンになっても、私たちの中で最高の信仰生活をしていると思っている人は一人もいないと思う。むしろこれではだめだと自分にむち打つような思いを皆持っていると思う。

 今日の聖書箇所、ヨハネの黙示録21章4節には、時の流れの終わりを「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」という言葉で締めくくられている。私たちの人生には、最後に死が待ち受けている。しかも死は、これでよしとする答えをもたらしてくれない。物事の推移に伴うあいまいさと不確実さ、そして未解決の問題は、人生につきものだ。それらをよしとする答えを持ち得ないまま終わりの幕を閉じる。それをどのように取り繕っても、肉の存在としての私たちの現実から取り去ったり、解決することはできない。だから、死を迎えるとき自分の努力で平安を得るなどということは大変難しいと言わざるを得ない。

 けれども聖書は、死が終わりを告げる時、向こう側からやっておいでになるキリストを指し示す(2~4節)。向こうからやってこられるのだ。そして、このキリストは死が残した問いのすべてを引き受けてくださるというのである。だから、そのお方にゆだねることを知る者、信頼する者は死が残す問いがあったとしても恐れない。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界をキリストに見るからである。だから平安なのだ。平安が与えられるのである。そのような平安が得られる信仰をしっかり持ち続けたいと願っている。すべてを主にゆだね、従っていく人生を全うしたいと願っている。主にゆだねよう。そして残りの人生、精一杯生きていこう。

「主はすぐ近くにおられる」フィリピの信徒への手紙4章2-9節、詩編46編

ここでパウロは、「主において常に喜びなさい」(4節)と言っている。常に喜びなさいといってもそんなことできるだろうか。難しい。ただし、ここでパウロは「主において」と前提した言い方をしている。さらに6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と勧めている。しかし、私たちの日常は、教会、仕事、健康、家族、お金、人間関係と実にさまざまな事柄に思い悩む日々である。「どんなことでも」と言われると、一層難しさが増す。

 思い煩っているとき、私たちはどういう状態にあるだろうか。思い煩っているとき、私たちは問題を自分の中に抱え込んでいる。自分の中に抱え込んで、誰にも打ち明けることができない場合が多い。思い煩っているとき、私たちは多くの場合、孤独である。親しい人にも打ち明けられない。辛い状態なのに、神にも打ち明けない。しかし、聖書は「思い煩いをやめなさい」という御言葉の後に、「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言っている。思い煩っているときの私たちは、思い悩んでいるそのことを感謝を込めて祈れないでいるからだ。問題を自分ひとりに抱え込んでいるということは、感謝をもって祈り、そして神に願い、打ち明けることをしていない。つまり、まるで神などいないように振舞っているわけである。これが思い煩いの正体である。自分にとって神がいなくなっている。自分が自分の主になっている。自分の未来も自分でどうにかしなければならないと思っている。本人は大変苦しい状態なのだが、結局それは神を否定して、まるで自分が神の役を演じているかのよう。神を神としていない。

 そういう思い煩いをやめなさいと聖書は言う。「常に喜びなさい」とも言われている。出来るだろうか。「常に」とあるのは、嬉しいときだけではなく、嬉しくない時にも「喜びなさい」ということだ。「常に」とか「どんなことでも」というのは、問題はその人の気分の問題ではないし、いいことがあった時のことではない。その人の性格や気質によることでもない。だから「常に、喜びなさい」と言い、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言うのである。その理由として語られているのは、「主はすぐ近くにおられます」という事実である。主イエス・キリストの近き存在に理由を持っているのである。そのことは「主において常に喜びなさい」という「主において」という言葉と響きあう。さらに、7節の「あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう」という言葉とも響きあう。

 このように繰り返し「主において」とか「キリスト・イエスによって」と言われている。キリストが共におられるのだから、常に喜びなさい、思い煩うのをやめなさいと言われるのである。私たちはもう既にイエス・キリストの贖いの力、執り成しの力、そして裁き、赦す力、主イエス・キリストの恵みの力の中に生かされているのだ。キリストの力の圏内に生かされている。神の愛の支配に入れられている。そこから、あなたは愛されている、というメッセージがでてくる。だから、「常に喜びなさい」であり、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」という勧めがなされているのである。「主はすぐ近くにおられます」、だから「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。

 ルターが愛唱した詩編46篇に「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」(2節)とある。口語訳では「神はわれらの避けどころまた力である。悩める時のいと近き助けである」と訳されている。神は「いと近き助け」なのだ。だから恐れるな。私たちの避けどころであり、私たちの砦となって下さり、苦難の時、必ず近くにいて助けてくださる神なんだ、とこの詩人は告白している。だから、そのあとの11節で「静まって、私こそ神であることを知れ」と言っている。そのような神であることを知れ。言い換えるならば、そのような神を信頼しろ、ゆだねよ、私たちの思い煩いをすべて神にゆだねて、平安を得よ、喜びを得よ。そして感謝して励めよと私たちに勧めているのである。

「不信仰も主のもの」 ルカによる福音書22章54-62節

 ペテロは漁師だった。聖書に描かれている彼をみると、何か特に優れたものを持っていたとは思えない。むしろ、弱さが目につく人物だ。しかし、そのペテロをイエスは愛され、初代教会の基礎を築く一人にされた。そもそも軟弱なシモンにイエスがペテロ、つまり、「岩」という名前をつけられたことから考えると、私たちもまた、イエスが用いられる時、ふさわしい者に変えられることを暗示する。

 ペテロは、イエスに22章33節で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言う。しかし、イエスからは、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」と離反の予告を受ける。そして、この場面で見事にイエスを裏切ってしまう。ペテロはここでも人間の弱さを代表している。それでも、イエスの身を案じ、大祭司の家まで行ったのは、他の弟子の真似の出来ない勇気ある行動だった。一緒に死んでもいいという思いは、あながち嘘ではなかったのだろう。しかし、大祭司の庭で焚き火に照らし出されたペテロの顔をじっと見つめていた女中が「この人も一緒にいました」と言ったとき、とっさに身の危険を感じた彼は、「私はあの人を知らない」と答えてしまった。

 おそらく、私たちも、こうした場面に遭遇したら、このペテロのようになることだろう。そうだと答えれば、その場で捕まえられるのは目に見えているからだ。誰がペテロを責められるだろうか。私たちも同じ弱さを持っていることを思い知らされる。そして、さらにペテロは二人の者から、イエスの仲間であることを指摘される。ペテロは、いずれの場合も知らないとしらを切る。しかし、3度目の時、「あなたの言うことがわからない」という言葉も言い終わらないうちに鶏が鳴いたのである。

 他の福音書にもこの場面は描かれているが、「主は振り向いてペテロを見つめられた」と書かれているのはこのルカ福音書だけである。ルカはこの言葉にどんなメッセージを込めたのだろうか。ペテロは、イエスに誓ったその誓いを守ることができなかった。イエスを裏切ったのだ。ペテロは、鶏が鳴いたときに始めて我に返った。そして、イエスの振り向いた眼差しを見たのだ。彼は、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことを悟った。己のことしか考えられなかった弱い自分に対して深く絶望してしまったことだろう。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出す。そして外に出て、激しく泣いたのだ。

 しかしながら、ルカ福音書では、こうしたペテロの裏切りに対して、とても優しいイエスの姿を表している。ペテロがいつでも帰ってこられるようにしてあげている。それはペテロの離反を予告した22章32節で「わたしはあなたのために、信仰が無くならないよう祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という御言葉である。すでにイエスはペテロの裏切りを予見され、その事態に至ったときに彼がいつでもイエスのところへ立ち戻れるようにしてあげていたのだった。そういった意味では、イエスが見つめられたときの眼差しには、彼を責める思いなど微塵もなく、ペテロの弱さに対する憐れみだけがあふれていたのである。イエスはペテロの弱さを見つめられたのだった。ペテロの弱さをもまなざしの中に入れておいでになっていたのだ。そこには信仰が無くならないように祈っている主がおられる。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の12章9節で「すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っている。さらに続けて、10節で「私は弱いときにこそ強いからです」とまで言っている。これは私たちの弱さを主は十分に分かっておいでであり、その私たちの弱さを主ご自身が自ら引き受けて下さっておいでになるという信仰に立っているからこそ、言える言葉だと思う。私たちの弱さを主ご自身が自ら引き受けてくださったというのはもちろん十字架を指し示す。パウロの信仰とは十字架の信仰。

 私たちも、何とかして一人を導きたい、この教会を主にふさわしく建てたいとの願いに心は燃える。とはいえ、肉は弱く、欠けだらけで、疲れが残る。また私たちの生活の中でのつまづきや後悔、苦難や悲しみ、孤独感、あせりなど、様々な思いに押しつぶされそうになる。弱さを見せつけられ、落ち込んでしまうときがある。しかし、主はそのことをよくご存知であることを、「主は振り向いてペテロを見つめられた」という、主イエスの眼差しに見る。あたかも不信仰ではないかと思う部分も主のものとされている、そしてその部分をも含めて、私たちのため十字架の死を遂げてくださったのだ。それをこの主イエスの眼差しに見るのである。

「キリストの心を心とせよ」 フィリピの信徒への手紙2章1-11節

マルコ福音書1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、主イエスが、ガリラヤで伝道を始められた時の最初の言葉だ。ここに福音を正しく理解するための大事な鍵が示されている。すでに神の救いと解放のみ業はあなたの手の届くところで始まっているよ。だからあなたも「福音を信じなさい」という促しである。しかし、それが出来るためには一つだけ条件があるという。福音が信じられるようになり、その結果、生活を改めることに本気で取り組めるようになるための条件である。確かに、福音が確信をもって信じられない限り、生活も改まるものではない。その条件とは「悔い改め」、ギリシア語で「メタノイア」。

 メタは「越える」とか「移す」を意味する前置詞。ノイア(原形ヌース)はものごとを考えるときの「筋道」、判断するときの「視点、立場」のこと。だから、「悔い改めなさい」とは、あなたが考えたり判断するときの視点、立場を移しなさい、ということである。では、どこへ視点、視座を移すのか。主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)。わたしたちの「道」であるキリストが自ら置かれた視点まで低くするのである。

 今日の聖書箇所5節は文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されている。そのキリストは続く6節で「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とある。キリストに倣って、視点を社会で最も弱い立場に置かれている人々のところへ移すのである。詩編にもこうある。「主は御座を高く置き/ なお、低く下って天と地を御覧になる」(詩編113編5-6節)。

 視点を低く据えることによって初めて、神がお選びになった人々、社会の底辺に追いやられた人々の中で、主ご自身が苦しまれ、救いと解放のために働いておられることが見えてくる。すなわち、福音が信じられるようになる。

 これは、福音宣教の四要素といわれる、相手を理解し、受け入れ、苦しみを分かち合い、協力していくことの第一のもの、「相手を理解する」に通ずる姿勢。相手を理解するとは、相手よりも下に立つこと(アンダー・スタンディング)だからである。言い換えれば、苦しんでいる人、さげすまれている人と共にあろうとするとき、「教えてあげる」ではなく、「教えていただく」という姿勢、「支援する」ではなく、「支援させていただく」姿勢こそ相手を理解する条件であり、福音が信じられるようになるための条件、メタノイアであるといえる。

 だから私たちは、社会の中の最も弱い立場に置かれている人々の中で、人々と共に働いておられる主ご自身から、救いと解放の業への協力の仕方を教えてもらうところから始めなければならない。南アフリカのドミニコ会神父アルベルト・ノーランの言葉。<私たちは貧しい人々から学ぶ必要に直面しているのです。彼らには特別な洞察力があり、私たちにない知恵があります。私たちにそれがないのは、はっきり言って、貧しくもなく、抑圧されるとは一体どういうことかを経験したこともないからです。><神学的な言い方をすれば、世界を変えるために神が選ばれた道具は、あなたや私のような者ではなく、貧しく、抑圧されている人々であるということに、私たちは気付かなければなりません。>

 世界中のすべての人、すべての被造物に救いと解放がもたらされるために、最も弱い立場に置かれている人々に学び、連帯し、協力することこそ、私たちキリストを信じる者のとるべき姿勢ではないだろうか。そのために、私たちに最も必要なことは「キリストの心を心とする」こと。社会の中に、苦しみと死から復活の解放へと過ぎ越しておられる主キリストを観想する目である。それは福音に根差した信仰と祈る心から生まれてくるものである。

「痛みの共感から始まる」 マタイによる福音書9章35~10章7節


 救いの業の完成者であるイエス・キリストは、人々の苦しみと痛みへの共感から、本格的な宣教活動に入られた。主イエスは貧しく、疲れ果てた群衆といつも共におられた。ファリサイ派の人々や律法学者たち、正業について規則正しい生活を送る敬虔なユダヤ人たちからは軽蔑と怒りと非難の視線を受け続けていた。しかし、疲れ果てた群衆と共にいることによって、彼らがいかに「弱り果て、打ちひしがれているか」(9:36)をご自分の目と肌で感じ取り、胃が痛くなるほどの共感を覚えられた。「深く憐れまれた」(9:36)と訳されているが、岩波訳では「はらわたがちぎれる想いに駆られた」と訳されている。「断腸の想い」である。そこで主イエスは12人の弟子を選び、ご自分の協力者として彼らを派遣する。やむにやまれぬ内からの突き上げとして宣教活動を開始されるのである。主イエスは、苦しむ民と共におられ、その痛みをご自分のものとされることを身をもって私たちに示されている。

 私たちにとっても苦しむ人々の痛みの共感こそ、福音宣教の力である。痛みの共感があったとき初めて、仕事だからとか、決まりだからとか、あるいはタテマエとしてではなく、本気で主のみ業に協力したいという思いに駆られるものである。それは神と主イエス・キリストが抱いておられる痛みの共感に参与することなのである。その意味で、痛みの共感は恵みでもある。この恵みは、苦しみと痛みのさなかにある人々と立場を共にすることなしには、決して与えられることはないだろう。

 ある本の中で、次のようなことが紹介されていた。ある宣教師の奥様がご主人を突然の交通事故で亡くすということが起こった。残念ながら、一番慰めにならなかったのが教会のクリスチャンの言葉だったと書かれている。それは、「ご主人の出来事は、すべて神様の御手の中にあるのだから悲しまないで」とか、「あなたのご主人がこういうかたちになったのは、あなたのお子さんが主に立ち返るためだった」というもので、この方をとても傷つけたそうだ。

 では、この宣教師夫人に対して一番の励ましになったのは誰だったか。残念ながら、教会のクリスチャンでなくて、近所の八百屋のおじさんだった。ある日、袋いっぱいの野菜や果物を持ってきて、目に涙をいっぱいためながら、「こんなことが起こったら、奥さんもおちおち外出する気になんかなれないでしょう。たいしたことはできないけれど、家にあるもの持ってきたからこれでも食べなよ」と言って帰っていった。

 また、次のような話も書いてあった。長い間、結婚生活で苦しんでおられた方が、その悩みをカウンセラーに打ち明けたそうだ。ところが、そのカウンセラーは、「ご主人様にも、いろいろな言い分があるのでは……」と逆に諭すように話してしまった。その方は、カウンセラーに「出て行ってください!」と叫んで、ひとりで部屋に閉じこもってしまわれた。ずいぶん後で彼女は、「『辛かったですね』のひとことだけで、私は良かったの」と言われたそうである。
 
 私はこれらの話を読んで、本当に共感する、その状態を受け入れて共にある、共にいることの大切さ、素晴らしさを覚えると共に難しさも教えられた。確かにそれは難しい面もあるが、しかし、まるっきりできないことでもなさそうだ。大それたことを考えなくても、私たちの周りには、実に多くの悲しみの中にある人々、苦しみの中にある人々、癒されず慰めを求めている人々、さびしい思いをしている人々が大勢おられる。共にいる、共に歩むことなら出来そうである。いや、すでに行っている。礼拝は共に神の前で賛美し、祈り、み言葉をいただく。祈祷会は共に祈る。教会学校は共に学び分かち合う。「みんなのカフェ」は共にお茶やコーヒーを飲む。「サロン虹」は高齢者の方々と共に食事をしおしゃべりする。「手芸の会」は共に手を動かし、口も動かす。子育てサロン「こひつじひろば」は共に子どもをも見守る。どれも共にいる、共に歩む。それは平塚パトロールの野宿者の見回り、炊き出しの食事、シェルターの働き、様々な生活弱者、生活困窮者の相談や支援活動もその延長線上にあり、本質的には同じ共にいる、共に歩む働きだと考えている。

 今日話したことが全てではない。いろいろな段階に応じた適切な支援、援助があると思う。しかし、やはり最初は共にいる、そして共感していく。そのためにはそこへ降っていく、共に悲しみ、共に涙を流し、ともに祈り、そしてそこで何をなすべきかを知らされていく。その知らされたことをできるところから始めていけばいいのではないだろうか。痛みの共感から始まる。そのためにも共にいる、共に歩む働きは教会にとって大事にしたいことではないだろうか。

「深い淵から主を呼ぶ」 詩編130編1~8節

 信仰をもって分かったのだが、クリスチャンになる前の私は(私だけでなく、無宗教の多くの日本人は)、試練の時、悲しみにある時、絶望的な状況に置かれた時に、この詩人のように「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と呼び掛ける対象を持っていない。この詩人は呼びかける対象を持っている(それは同時に応答があると信じていることを意味する)。この詩人は、深い淵から主を呼ぶ。呼びかけられる対象があるのだ。それは答えてくださる神だ。だから「あなたを呼びます」ということができる。祈ることができるのだ。

 この詩は苦難、苦悩の奥底から神に助けを呼び求める言葉をもってその歌を始めている。この詩人はそういう中から神に呼ばわっている。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます」(3~6節)。罪という問題から深淵というものを感じ、その所から神に呼ばわって、神のゆるしを待ち望んでいるのである。

 言うまでもなく旧約の神は義の神であり、もろもろの人の罪を処罰せずにはおられない厳しさを持っている。しかしそれ以上に憐れみの神であり、赦しの神である。神の義は常に神の愛に包まれている。神学者で牧師であった浅野順一先生は、次のようにある本で書いておられる。「義は義によって義であるのではなく、義は愛によって始めて、真に義であることができる。そうでなければ義はしばしば憎しみに変わる。主イエスの教えるごとく敵をも愛する愛、そこに神の義が成り立つ」。

 詩人の今ある状況は深淵にたとえられているほどに厳しく暗くあった。しかし暁は近いのである。詩人が主を待つと言っているのは、主の「いつくしみ」「あがない」を期待するからであり、そこに赦され難き不義なる罪も赦される根拠があり、救われる理由があるのである。そのためには人間の側において何の保証も努力も必要としないのである。使徒パウロが神の憐れみと慈しみについて、ロマ書9:15-16で「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と言っていることに通ずるであろう。

 神のゆるしを待ち望むことを新約への預言とするならば、それはイエス・キリストを待ち望むことであり、本当に神に赦されるよりほかに私たちの新しい人生はあり得ないのだということをこの詩人は知らされ、待ち望んでいたのである。そしてその神の御言葉が肉体を持って宿ったのがイエス・キリストであり、十字架の上から「あなたの罪はゆるされた」と宣言してくださるのである。ゆるしを感謝して受け取ろう。そして信じて新しい希望の世界に生かされていこう。「主に望みを置いて待つ」という信仰である。

「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25~34節

今日の聖書箇所の最後の場面で、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われているが、文字通り理解すれば、彼女自身の信仰によって、彼女自身を救った、ということになる。いわゆる自力本願か。では、本当に彼女は自らを救ったのか。キーワードになる彼女の信仰とは何だろうか。彼女は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と記されている。さらに「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)とその動機が記されている。そこに彼女の信仰を見て取れないだろうか。

彼女の置かれていた状況を見てみよう。彼女は「十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけだった」(25~26節)とある。それ故、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思った」というのはよく理解できるし、自分だってそうしただろと思う。皆さんもこれ以上、説明はいらないと思う。押さえておきたいのは、彼女は「イエスのことを聞いて」(27節)、決断し、そのような行動を起こしたということである。彼女はあらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「イエスの服に触れ」る行為をしたのだ。ここに彼女の決断、すなわち信仰を見ることができるだろう。

私たちはこの時、彼女がどれだけ大きな障害、妨害、躊躇、ためらいを越えたかということを知らなくてはならないと思う。信仰とは、まず「聞いて」、そしてあらゆる障害、妨害を越えて決断し、行動していくことだ、ということを教えられる。

私たちに主イエスにもっと近く触れることを妨げるどんな障害があるだろうか。自分は無資格だ、無価値だ、能力がない、罪深い生活をしている、あるいは周囲の人々が妨害している、身近な人々の無理解がある、将来の不安があるなど言い訳がどんどん出てくる。しかし信仰はそれらのどの障害をも越えてイエスに接近する。「イエスのことを聞いて」、「『この方の服にでも触ればいやしていただける』と思った」という彼女のイエスに対する確信、信頼こそ、あらゆる障害をも越えてイエスに接近させた。逆に言えば、彼女は主イエス・キリストの愛に捉えられたのだ。この主の愛を妨害できるものは何もない。全ての障害は有限なもの。どんな躓きも限りあるもの。しかし主イエスの愛は無限。恵みの愛は無限である。この無限な愛と恵みと救いの力に捉えられて、限りある障害を越えていったのだ。

信仰は誰にとっても、常に、障害を越えて行かなければならないものだ。信仰生活で試練を受けない生活はない。しかし越えることの出来ない障害は何一つないのも事実。主イエス・キリストの愛に捉えられ、癒しを受け取る信仰にとって、越えることのできない障害は、何一つない。主の愛と癒しの力が、あらゆる障害を越えて、私たちを捉え、生かしてくださるからである。

このように見てくると、救われた本当の意味で彼女を救ったのは、彼女自身の力ではなく、「主イエスご自身の中に働いている癒しの力」だった、ということがわかる。30節に「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とある通りである。29節に「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とある。この女性は、主イエスの癒しの力をその身に感じた。自分の体、自分の内に、キリストの力の働きを感じ取ることが出来た。彼女は、自分自身の力を感じたのではない。主の力を感じ取ったのだ。それこそ信仰の偉大な能力である。信仰によって主の力が感じ取られ、救いが「私のもの」となったのだ。罪を赦され、神の子とされ、生かされているのを自分のこととして受け取り、感じ取ることができる。それが癒しを受け取る信仰の能力である。
 
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主の言葉を受けて、家路につける人は幸いである。その人は喜びを持って生きることが出来る。主の恵みの証人として、前進することが出来る。私たちもこの女性のように、あらゆる障害を越えて、確信を持ち、主に信頼して、安心をもって前進したいと思う。

「福音は驚きの連続」マルコによる福音書2章1~12節

福音は私たち人間にとって驚きである。主イエスの教え、御業はどれをとってみても驚きである。私たちは主イエスの話を聞いて、とても素晴らしいお話でしたとか、立派なお話でよく分かりましたということもほとんどない。当時の人々もひたすら驚いていた。マタイ福音書7章28節にも「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とある。今まで聞いたことのないことを耳にした人々の反応がうかがえる。今日の箇所もそう。12節に「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」とある。神の言葉や御業は、そのような反応を人々に起こすのだということである。神の言葉が語られるところでは、人々の心も揺さぶられ、騒ぎ立つのである。

 もともと神の言葉は人間にとって異質であるばかりか、むしろ受け入れ難いものである。立派な教えです、有難いことですと歓迎して受け入れられる類の心地よいものを持っていない。「そんなことは聞いたことがありません」と言うのが正直な私たちの反応ではないだろうか。もし神の言葉を聞いて、「よく分かりました」という程度のものであれば、それは人間の言葉の範疇にとどまるだろう。神の言葉は、人間の理解を超えている。その意味では、聞いて驚くのが自然の反応である。驚かなければ、逆に神の言葉ではない。

 さて、私が今日の聖書の箇所で驚くのは、「イエスはその人たちの信仰を見て」と語られていることである。主イエスが、中風の人の信仰を見られて、というのではない。あるいはまた、中風の人が悔い改めて主イエスの所に来たので、というのでもない。中風の人が何かをしたとは全く語られていない。自分で主イエスに近づいたというのではない。本人は何もしていないのである。でも、救いはその人のところに来たのである。「その人たちの信仰」によってである。驚くべきことだ。

 「その人たちの信仰」とは中風の人を運んで来た四人の信仰である。中風の人の床を持ち上げ、重い床を徴税人の所まで引きずってきて、屋根にまで高く運び上げて、屋根をはがして、綱をつけて、主イエスの足下にまで男を降ろした四人の信仰である。この四人がいなかったら、中風の男はどうなっていただろう。いつまでも自分の居場所に居続けて、生涯の決定的な転機を経験することもなかっただろう。完全に救いのない生涯、祝福されない人生。しかし、この中風の男のために労を惜しまず運んでくれた四人がいてくれたということが、この人に救いをもたらしてくれた。これは驚きの出来事であると同時に、私たちにとって希望の物語となる。自分の努力や修行や業績ではなく、救いは向こうからやってくる。主イエスからやってくる。そのためのとりなしをしてくれる者がいるということ。まさに希望である。

 ドイツの神学者ボーレン教授は、『天水桶の深みにて』という本の中で、妻が深く心を病んだ時、その傍らにあった自分の労苦、悩み、そして罪を語っている。病む妻がみ言葉を読むことも、祈ることもできなくなった時、何とかして自分でそれを回復するように励ましても無駄であった。その時、自分がなすべきであったことは、代わりに読み、代わりに祈ることであった、と述懐されている。代わりに祈る。それこそが「とりなし」である。誰かのために祈ることは、その人に代わって、ということである。

 もう一つ、この中風の男の物語で、私が驚くのは、主イエスがこの中風の男にこう言われたことだ。「子よ、あなたの罪は赦される」。連れてこられたのは病人。癒しの業を行われるのかなと思っていたら「子よ、あなたの罪は赦される」だ。私たちには驚きと同時に理解できない。罪の赦しなんかより、癒して欲しい、それが人間の本音ではないだろうか。なぜ主イエスはそう言われたのだろうか?

 それは人は癒される以上に、まず救われなければならないことを明らかにされるためである。中風を病む人の癒しに先立って、主イエスは罪の赦しを宣言される。すべての人は、罪人であって赦しの対象である。健康であろうと病気であろうと、幸福であろうと不幸であろうと人間としては罪人なのだから赦しを受けねばならない。中風の人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われるのは、病人である前に人間であることを主イエスは認めておいでになるのである。そして赦しはその人の全存在を包むもので、しかも永遠の命に結ばれるのだから、生き死にを越えた出来事としてその身に起こる。癒しは、それに反してあくまでもこの世のことであり、肉をもって生きている限りのことである。いかに癒されたとしても死ねば、そこまでのこと。癒されただけでは救われたことにはならないのである。

 福音は驚きである。しかし、このようにそこに神の真実、神の愛が隠されている。この愛を聖霊の助けをいただいて受け入れ、救いの確信を持つ者となろう。

「イエスは今も呼びかけておられる」 マルコによる福音書1章14ー20節

シモンとアンデレは漁師だった。ガリラヤ湖で魚をとって生計を立てていた。これを比喩として読むならば、ユダヤの民にとって、山は神の住む世界である。例えば、シナイ山でモーセは十戒を受け、タボル山でイエスは変容された。またイエスは山の上で教えを述べられた(山上の説教)。それに対して、海は世俗悪の世界を象徴している。例えば、レビヤタンという怪獣は海に住んでいる。それは基本的に、ユダヤ人が陸の民で、海の民ではなかったからだと言われている。この二人が漁師だったということは、世俗の世界に関わっていた人間のあり方を象徴している。つまり、私たちが毎日の生活で、お金儲けに忙しく働いたり、何かと心を煩わせている生活そのものを意味している。イエスが湖のほとりを歩いておられるとは、神自らが私たちの人間の世界に関わってくださることを意味している。だからこそ、神の国が私たちに近づいているのである。

 注意すべきは、人間が神の国の方に行くのではない。逆である。主イエスが人間の方に来てくださるのである。神の国の方が勝手に私たちの方に「近づいて」くるのである。極端に言えば、探し求める必要は何もない。ただ向こうから来ているものに気づくだけでよい。日本人の宗教観と大きく食い違う点がここかもしれない。日本人の宗教心の原点は求道心である。道を求める者がそれを見つけていくことを指す。発心して仏門に入るというのが普通である。座禅でもお稽古ごとでも、まず道を求めるものが門をたたいて、師匠に入門が許される。聖書の世界は逆である。まず、神が人間を求めている。神の国が向こうから近づいてくる。主イエスが私たちの方に歩いてくるのだ、生活のただ中に、そして突然に。ということは私たちの中に何の準備も用意もなく、ということだ。それは無条件で、神さまの方から来てくださることを意味する。

 主イエスは彼らに声をかけられる。主イエスがかけた言葉は「わたしについて来なさい」である。私も確かに同様の呼び声を聞いた。いつ、どこで、どのような状況の中で主の呼びかけを聞いたか、気づいたかは、人それぞれ違うだろう。多くの方からそのような体験の証しを聞くことがある。それはすべてユニークな体験である。祈りの最中、賛美しているとき、喜びの体験の中で、悲しくつらい最中に。実に様々な違う状況でその声を聞くのである。主イエスは今も呼びかけておられる。

 主イエスについていくとは、どういうことだろうか。人間をとる漁師になることだと主イエスは言われる。今までは魚という世俗のできことに関わる生活だった。そこから人間相手の仕事へ。愛に方向付けられた生き方へ。神の国の広がりを手伝う仕事へと向かっていくのだ。ただ世俗的な繁栄を求める生き方から、神の国の繁栄を求める生き方へ。方向転換。それには主イエスが人間に近づかれたように、私たちも人間に向かっていく生き方へとシフトしていくように呼ばれている。

 また彼らは、「網を捨てた」とある。網とは、それによって今まで生きてきた手段であり、方法。それなくしては生きることができなかったものである。時として、価値観であったり、考え方であったりするかもしれない。主に従うときには、もはや不要となるものである。これからは主御自身が彼らの「網」となってくださる。だから人間をとる漁師となるのである。それは主御自身の働きである。私たちはその主の働きに信頼して、従っていくだけである。

「愛することは降りてゆく行為」 マルコによる福音書1章1ー13節


 マルコは1章2節からいきなりイエスの公生涯を書き始めている。他の福音書にある誕生物語はない。2節から13節はイエスは救い主(キリスト)ということを確証する三つの出来事を記している。

 一つ目は2節から8節。「先駆者としてのバプテスマのヨハネの出現、登場」である。当時の人々は救い主が現れるときには、その備えをするためにかつての預言者エリアが再び現れると考えていた。そこで、そのエリアがあのバプテスマのヨハネだというわけである。ヨハネの服装は旧約聖書に出てくる(列王紀下1:8「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」)エリアの姿を当時のユダヤ人たちに思い起こさせるだろう。そして、その後すぐにイエスが登場する。だから、このイエスこそ「あの救い主」だということになる。

 二つ目は9節から11節。「バプテスマの時の神の声」。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とある。「天」とは神の住まわれる所、その天から父なる神がご自分と地上のイエスが一つであることを示されたわけである。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉は、イエスが誰であるか、どんな方であるかをよく表している。同時に、父なる神ご自身がイエスのバプテスマを喜んでおられる。さらに、そのことが神のご意志であることを宣言なさっておられるのである。天が開かれること、神の声、聖霊の降ることはイエスが終末の時の救いをもたらす者であることを示している。特に天からの声は「神の子」としてのイエスの身分を宣言する。イエスは終末の時の救いをもたらすキリスト(救い主)、神の子にほかならないと宣言している。

 三つ目は12~13節。「荒野でのサタンに対する勝利」。13節に「サタンから誘惑を受けられた」とある。そして、すぐその後に「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とある。この御言葉はサタンに勝利したことを示している。獣たちとの平和的な同居は、来るべき終末の時には野獣は人間に害を加えず、従うであろうということを意味する。さらに、当時のユダヤの人々は「荒野」は終末の救いが現れる場所とも考えていたので、今や、イエスの到来とともに、この終末の救いの時に対する待望が荒野において実現すると言いたいわけである。このようにここでもイエスが救い主として到来し、サタンに勝利する者として描かれている。

 以上三つの出来事をみてきたが、マルコはこの三つの出来事だけを書いて、イエスが神の子、キリスト(救い主)であるということをイエスの全生涯のプロローグとして、この箇所を書いたわけである。

 私たちは今朝、このプロローグを通して、私たち人間が天に昇るのではなくて、神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということ。さらに、神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられた、そのイエスが神の子・キリストであるというマルコの信仰告白が私たちに何を一番物語っているかを聞きたいと思う。それは、神がまず私たち罪ある人間を受け入れ、愛して下さっているということ。そして、そのことをご自身の愛するひとり子、イエスを私たちにこの歴史のただ中においてお遣わしになったということ、神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということである。このメッセージこそ、福音、よい知らせなのではないだろうか。「愛することは、降りてゆく行為」であることがわかる。
   
 この「愛するとは、降りていく行為である」という言葉は、20世紀の神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』という書物に書かれている。この言葉に学生時代に触発された人がいた。北海道医療大学教授の向(むかい)谷(や)地(ち)生(いく)良(よし)さん。彼はソーシャルワーカーでもある。彼はもちろんクリスチャンだが、この向(むかい)谷(や)地(ち)生(いく)良(よし)さんがリーダーとなって立て上げた精神障がいを持つ人々が共同生活する「べてるの家」という施設が北海道浦河にある。この「べてるの家」の理念の一つが「降りてゆく生き方」である。この理念のもと向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。
 
 「あなたは私の愛する子」。このメッセージに込められている私たちに対する神の愛に応えて、「愛することは降りてゆく行為」「降りてゆく生き方」に励みたいと思う。あなたにとって「降りていく行為」「降りてゆく生き方」とは何だろうか。思いをめぐらしてほしい。祈りつつ考えてみてほしい。きっと神さまから、具体的にこうすることだよ、とそれぞれにふさわしい「降りていく行為」「降りてゆく生き方」が示されるだろう。

「一人でイエスの前へ」 マルコによる福音書7章31-37節

 人々は、耳の聞こえない人に「手を置いてくださるように」(32節)と主イエスにお願いしたのに、主イエスは男の耳に指を差し入れ、そのあと指に唾をつけて相手の舌に触れられた。この行為は、古代における一般的な治癒行為で、魔術的なものではなく、相手の苦しみに対する共感と癒しの意図を伝えるためであった。

 また、「天を仰いで」は祈りを指し、そして、このように祈ったのも、この男にこれから行おうとしていることが、天の力によるものであることを示すためでもあった。「深く息をつき」とは、「うめく」とも訳せる。「うめく」と聞くと、ローマ8章23節を思い出す。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。 相手の心に共感し、その苦しみを共にする憐れみの心を読み取ることが出来る。主イエスの病人に対する深い同情が示されている。

 「エッファタ」は、当時、主イエスたちが日常的に話されていた言葉であるアラム語。福音書はギリシャ語で書かれているが、この場面ではあえて主イエスの生の声を再現している。主イエスの力強い言葉の響きをとどめたかったのだろう。

 そして、最後の37節は、救い主到来の時の光景を描いているイザヤ書35章5節を引用している。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」。マルコは、今こそ救いの時が始まったのだと訴えている。マルコ1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」のみ言葉がここでも響いてくる。

 主イエスが救い主であるのは、奇跡を行うからではない。奇跡は一つの「しるし」にすぎない。主イエスが救い主であるのは、十字架の死によって、私たちの罪をにない、それによって、私たちが赦されたということによるのだ。だから、主イエスは自分が「奇跡的な癒しをする人」、単なる「超能力者」として知れ渡ること、そしてその力を用いて政治的解放者、指導者になって欲しいという人々の期待を拒否なさったのだ(36節)。

 私たちは、このお方に何を求めてもよいのだが、その全てが与えられるわけではない。主イエスが最終的に与えようとしておられるものの妨げになるのであれば、主イエスは私たちの求めには応じようとはなさらない。しかし、どんな人でも決して拒まれることのない求め、主イエスが最終的に私たちに与えようとしておられるものは、主イエスと共に生きる新しい命である。

 この男が与えられたのも新しい命。今までは、自分の世界に閉じ込められていた。しかし、主イエスに呼ばれて出て行き、主イエスに信頼して自分の身を任せた時に、思いもかけない新しい生き方が彼を待っていた。一歩、前へ出て、主イエスに信頼して生き始めることが、古い自分に死ぬこと。その時、自分が神から心をかけられており、自分の存在を神が喜んでおられることを知らされ、新しい命に生き始めるのである。

 主イエスと共に生きる新しい命をいただくためのヒントが33節の「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」という言葉に示されている。主イエスは、全く個別に関わりをもたれる。一人ひとりを大切にし、その人の痛みに心から共感される。主イエスは、結果的には多くの人を癒されたけれど、あくまでも、その時その時一人ひとりに心を用い、必要な助けを与えられたのだ。決して癒しを見世物にはなさらなかった。これは、立場を逆にしてみれば、私たちはみな、一人ひとり主イエスの前に立つことを求められているということだ。自分が呼ばれていることを知って、従って行くという生き方が求められている。そこでこそ主イエスと出会い、主イエスとの深い交わりに、すなわち救いに入れられるということが起こるのである。

 信仰の友に支えられながらも、ひとり主イエスの前に出るということが大切である。その時、主イエスが耳に指を入れ、舌に触れてくださり、私たちが「はっきり」(35節)と主を讃美して生きることを可能にしてくださるのである。

「将来から現在を見る」 ローマの信徒への手紙8章18-25節

 今日の聖書個所は、「将来の栄光」、すなわち神の約束によって将来、被造物には救いがもたらされる、ということが示されている。ここでのパウロの視点は、現在と将来について考えた時に、救いの完成、被造物が救われる、贖われる将来を確信し、その将来から、現在を逆に見ている。

 普通我々は、現在から過去や将来を見る。しかし、パウロは、現在を将来の視点から見ている。こういうまなざしの転換、ものの見方の転換がここでは非常に生き生きと述べられている。被造物は今ここでうめき、産みの苦しみを味わっている。しかし、被造物だけでなく、「霊」の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいるのである。将来から見て、希望によって救われる、と語っている。それは見えないが、ここに信仰がある。

 このように信仰は、現在から将来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということだ。現在から暗中模索して将来を問い尋ねるのではなくて、将来から現在を見る。これは因果応報論の反対である。因果応報の考えというものは、「人の善悪の行いに応じて、その報いが、必ずあるということ」。「過去にこういうことがあったから、自分はこうなった」「こういうことをしたら、きっと将来こうなってしまう」と、どうしても人間は因果応報論に落ち入りやすい。あるいは、自分はこんなに良いことをしたから、将来きっと報われるだろうと日常的に考える。クリスチャンにもそれはあると思う。こういうキリスト教の修行をして、いい仕事をしたから、神様はきっといいものを下さるだろう。これも因果応報論の一つである。

 しかし、私たちの信仰は、現在から未来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということ。実は、キリスト教の強さは、このような価値観の転換、ものの見方の転換にある。いつの日か、キリスト教徒は、再臨したキリストの審判によって救われるという確信を持っていて、救われるという将来の現実から、現在を見ることによって、試練や苦難に、積極的な意味を見出すことができるからである。

 請求書の祈りから、領収書の祈りへという話がある。何のことかと言うと、かつてアサヒビールの会長さんだった樋口廣太郎さんが、ある本の中で書いていた話である。樋口さんはクリスチャンだが、神に祈る時に、「~してください」「~をください」というお願いの祈りを一度もしたことがないそうだ。聖書には、祈りは、祈った時に神によって必ずかなうと書かれている(ヨハネ一3章22節、5章14節参照)。樋口さんはその神の約束を確信し、ただ感謝の祈りをしたそうだ。いわゆる「請求書」の祈りではなく、「領収書」の祈りである。「お願い」の祈りではなく「感謝」の祈りである。

 樋口さんがアサヒビールに来た時、市場でのシェアは一ケタで、会社は潰れる寸前だった。そこで、取引銀行から再建のために送られてきたのが樋口さんだったのである。その時、彼がどう祈ったか。「神さま、どうか私をライオンにしてください。なぜなら、キリンを食い殺したいからです」とは祈らなかった。彼は次のように祈ったそうだ。「神さま、シェアが一番になりました。これで従業員もその家族も喜び、またそれを飲んでくれる人も喜んでくれます。ありがとうございました」と「領収書」の祈りをし続けたという。私なら「シェアを一番にしてください」と祈るところだが。

 なかなかできることではないが、信仰の根幹にかかわる真実を表わしている。領収書の祈りは、主イエスもされている。死んだラザロをよみがえらせた時の祈りである。主イエスは墓の前に立ち、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」(ヨハネ福音書11章41節)。願い事が本当にかなう前に感謝している。

私たちの信仰生活は感謝する祈りが大切である。すでに恵みをいただいているのだから(恵みの先行)、まず感謝しよう。そうした祈りを重ねていくと、きっと違った景色が見えてくるはず。不安や悩みの中にあって喜びと希望がわいてくる。神の約束、神の希望に生きる者となろう。

「シャローム」 マタイによる福音書5章1-12節

 平和とは、単に戦争がないという状態を指すのではない。平和とは、社会的にも、人間精神においても、満たされた安らかな状態が維持されることを意味する。しかし、現実的に考えた場合、このような平和を人間の力によって実現することは大変難しい。なぜなら、聖書が繰り返し述べているように、人間が原罪を負っているからだ。罪から悪が生まれる。その悪には、人間の精神を錯乱させること、社会に騒擾をもたらすこと、戦争を行うことなどが含まれている。とにかく、この世界の平和は人間が引き起こす悪事で簡単に壊されてしまうのである。それだからこそ、聖書が私たちに伝える福音は、平和を実現するために、神のひとり子で、罪を持たないイエス・キリストが十字架の上で死ぬ必要があった。そして、このイエスの犠牲としての死があったおかげで、人間は平和を享受できるようになった、ということである。

 そして、最も真の平和は、イエスが再臨し、最後の審判を行った後に実現する、と聖書は記す。このような終末論的平和観がキリスト教の基本である。だから、私たちは、終末、来るべき将来の希望、平和から、現在の希望、平和を考えることになる。具体的にいうならば、今日、私たちに与えられた聖書のみ言葉をどのように受け取っていくかということになるだろう。

 イエスの話されたたとえに「よきサマリア人のたとえ」がある(ルカ福音書10章)。この「よきサマリア人のたとえ」のテーマは「隣人となる」ということである。このたとえから、私たちの問われているのは「私たちの隣人性」である。多くの争い、戦争は隣人性の欠如からきているといってもいい。

 戦争への道は憎しみと恐怖心をかき立て、隣人性を奪い取っていく。安倍政権は、隣国北朝鮮が核兵器開発やミサイルを発射したりしていることをもって、必要以上に北朝鮮を仮想敵国とみなし、国民に恐怖と憎悪を掻き立てることに躍起である。これでは、拉致問題や国交回復は残念ながら進展するはずもない。アメリカのトランプ大統領もそれ以上に北朝鮮に対して挑発的に敵対心を露骨にぶつけていた。ところが、歴史的な米朝首脳会談が行われた。この首脳会談によって、確かに今までのところ、世界が注目し期待したような北朝鮮の核兵器廃絶は進んではいない。いないが、少なくとも仲良くしようと握手したのだ。だから、以前のような両国指導者による敵対心むき出しの応酬はなくなった。高官レベルの交渉、対話が進められている。そうなると互いの忍耐と努力、妥協が必要だが、この道こそが「隣人となる」努力であり、聖書の教える平和への道ではないだろうか。

 ヘブライ語でシャローム」という言葉がある。旧約聖書の時代、今から何千年も前から、この言葉はイスラエルの人々の挨拶の言葉として使われてきた。今も使われている。「シャローム」、それは「平和」という意味。イスラエルの国では長い間、戦争に巻き込まれたり、争いを繰り返したりしてきた。たくさんの人々が殺されたり、傷ついたりして、大きな悲しみを何度も経験した。大切な家を焼かれたり、大事に育てていた牛や羊なども奪われたりした。人々は「こんにちは」「さようなら」の代わりに「シャローム」と挨拶し合った。「平和がきますように」と心からの願いを込めて挨拶をした。
長い間、平和を待ち続けていた人々は、次第に「神さまは私たちに必ず強く正しい王様を与えて下さるはずだ。そしてその王様が平和な国を作ってくれるのだ」と思うようになった。そこに現れたのが主イエスだった。

 主イエスは、神の教えをやさしく正しく人々に伝えた。病人や苦しんでいる人々に手を差し伸べた。主イエスはいつも困っている人々と神のことを一番大切に考えた。決していばることはない。主イエスは「平和を作りだす人々はさいわいである」と人々に教えられた。ところが、人々はその平和とは、敵の軍隊に勝って、手に入れるものと思っていた。今日に至るまで人々はずっと「平和のために」と言いながら戦争をしてきた。しかしそれでは、何千年たっても本物の平和を手に入れることができない。
 
 主イエスは、平和を作りだすのに強い軍隊も武器も必要ないと言っておられる。必要なのは、まず私たちの心を神さまに向けることだ、と言われている。すると必ず心が平和で穏やかな気持ちになる。キチンと神さまのほうを向いていれば、他人をむやみにねたんだり、いばったり、欲ばったりする気持ちにはならない。そんな気持ちの人々の集まった世界には戦いは起こらない。

 心が神のほうを向いていれば本当のシャロームがやって来るということを、今も主イエスは私たちに根気強く語り続けておられる。
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」。

 私たちはしっかりと神に向き合って、世界の平和のために祈り、隣人と向き合い平和を作り出していこう。

「朽ちることのない教え」 ヨハネの手紙一2章7-11節

ヨハネは「わたしがあなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである」(7節)と記している。ヨハネの手紙とヨハネ福音書の間には関係があると言われている。だから、この「古い戒め」とは、ヨハネ福音書に記録されている「イエスの告別説教」にある戒めと考えられる。ヨハネ福音書15章12節に「私の戒めは、これである。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とある。「古い戒め」とはこの「互いに愛し合いなさい」という教えだといえるだろう。

 ここで、ヨハネがあえて「古い戒め」と記しているのは、教会に混乱をもたらした異端者たちが、教会に伝えられてきた教えを「古いもの」と言っていたからだ。つまり、異端者たちは「互いに愛し合いなさい」という教えはすでに古くなった過去のものだからもう捨てても構わないと教えたのだ。そしてそれは、キリストの弟子たちが互いに愛し合うことを否定することだった。

 異端者たちはイエスの教えを古くなったと退け、自分たちの教えを新しいものであり価値のあるものだと教えた。そしてその教えによって教会の中に対立が起こり、教会の交わりが壊れ憎しみが起こった。その教えは「愛」を欠くものだった。

 パウロはコリントの教会を悩ませた異端者たちを「自分で自分を推薦する人」(第二コリント10:17)と指摘しているが、ヨハネの教会に現れた異端者たちにも同じ傾向にあったようだ。彼らの関心は、自分を推薦すること、自分自身で光り輝くことだった。私たちも「光り輝きたい」「認められたい」「愛されたい」という思いを持っている。しかし、自分自身が光り輝くために他者を否定するということは許されない。異端者たちは「兄弟を憎む」、つまり他者を人格的に否定したのだ。ここには愛が欠けている。

 ヨハネは「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、闇の中にいるのである」(9節)と言う。異端者たちは「私たちは光の中にいる」と主張していたのだろう。そして異端者たちは「(私たちは)彼を知っている」(4節)と言い、「(私たちは)彼におる」(6節)と言った。この彼とはイエスのことだ。異端者たちは自分たちこそイエスのことを知っている者であり、イエスに属していると主張したのだ。これに対してヨハネは「イエスを知っているという者は、イエスの戒めを守るものである」(4節参照)と記す。また、「『彼(イエス)におる』という者は、彼(イエス)が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(6節)と記している。

 ヨハネは、この世に肉の体を持ってこられたイエスの歩みに目を向けることの大切さを示している。ヨハネ福音書によればイエスは最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗い、「主であり、また教師である私が、あなた方の足を洗ったからには、あなた方もまた、互いに足を洗い合うべきである」(13:14)と言われた。イエスは行いによって御心を示し、ご自身の行いに倣うことを弟子に求められたのである。

 異端者たちは歴史の中を歩まれたイエスの姿を見ようとしなかった。もし、イエスの地上の生涯に目を向けるなら、イエスが愛を第一にして行動していたことがわかるだろう。イエスのようには歩めない人間の現実、しかし、イエスに倣って歩もうとする者は、私たちに注がれた神の愛の尊さを知る者となるだろう。

 ヨハネの教会のメンバーの中には、新しいものを求めた人がいた。そして、彼らは異端の教えを受け入れてしまった。ヨハネはそのような人たちを「自分ではどこに行くのかわからない」人々であると言う。第一コリント13章の「愛の賛歌」には「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(13節)とある。「互いに愛し合いなさい」という教えは、常に変わることのないイエスの教えである。真理は変わることがない。

 原点を見失ったとき人は自分がどこにいるのかも、どこに向かっているのかもわからなくなってしまう。ヨハネは教会の人々に、古くて新しい教え、教会の交わりの原点となるイエスの教えを伝えたのである。

「光の中を歩むために」 ヨハネの手紙一1章5-10節

ヨハネの手紙が書かれた時代はまだキリスト教の歴史も浅く、指導者の数も限られていた。各地に礼拝を共にする集会があったが、その一つ一つに指導者はいなかった。指導者は集会を巡回して回り、時にはヨハネのように手紙という手段を用いて指導する場合もあった。このような状況の中で、指導者不在の集会に異端的思想を持った人が入り込んできた。彼らは教会の人々にヨハネをはじめとする指導者たちから教えられたことと違う教えを語った。ある者はその教えを拒否したが、ある者はその教えに魅力を感じ、ヨハネから伝えられたことを捨ててしまった。そのため、教会の中に深刻な対立が生じ、この対立は教会を分裂させ、ある者たちは福音を捨てて教会から飛び出していった。

 それでは、教会に分裂をもたらした異端的思想とはどういうものなのか。それはいわゆるグノーシス主義と言われるもので、ギリシア哲学に影響を受けた二元論に立つ思想である。人間を霊と肉に分け、それを対立的に考える。すなわち霊は真理であるが、肉は偽りと考えるのである。従って、神が偽りである「肉」をとってイエスとなったということ(受肉)を否定するのである。そこで、ヨハネは「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について」(1:1)と記している。この言葉は、神の子イエスが肉体を持った人となり、世に来られたことを表している。分裂をもたらした人々は、この事実を否定していた。このようにキリストが人として生きられたことを否定する思想を持った熱狂主義的な巡回指導者やそれに影響された人々が、教会を惑わせていたのだ。

 そこで、ヨハネは、罪の自覚の重要性を示す。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くこと」と記す(1:8)。一方、教会に分裂をもたらした異端者たちは「私たちには罪がない」言っていた。グノーシス主義者にとって肉は偽りである。だから肉体が犯した罪は実態のない偽りであり、責任は問われないというのだ。これは人間の現実を無視している。私たちも、罪というマイナスの評価を受け入れたくないために、現実から逃げようとすることがある。

 私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことだ。それは、罪人という人間の現実と向かい合うことを意味する。この現実を受け入れたところにこそ真の救いがあるのである。私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことだ。しかし、異端者たちは神の光の中を歩むことではなく、自分自身が光り輝くことを願った。そして自らの正しさを示すために、他者を見下したのである。

 ヨハネ文書には「光と闇」というように二つの対立する場を示す特徴がある。例えば、ヨハネ福音書の1章5節には「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」とある。ヨハネの第一の手紙の著者であるヨハネも、神と交わりを持つ者は光の中を歩み、神に反する者は闇の中を歩む(5~6節)と「光と闇」という対立する場を示す。そして、光の中を歩む者は「互いに交わりを持ち」「御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのである」(7節)と書く。つまり、光の中を歩むというのは罪の赦しの中に生きていることなのだ。

 聖書の言葉、神の光は私たちの罪を指摘する。しかし、その光は罪をあぶりだすことにとどまらない。自分の罪を受け入れた人に、その罪を赦す神の愛を示す。ヨハネ福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とある。もし自分には罪がないと言い張るなら、この愛の尊さと、永遠の命の価値を知ることはできないだろう。そしてそれは福音を拒むことなのだ。

 ヨハネ福音書8章の「姦淫の場でとらえられた女」の記事で、イエスは女に「私もあなたを罪に定めない」と言われた。イエスがこのように言われたのは女に罪を認めないというのではない。そうではなく、「あなたの罪は私が負う」という福音の宣言ではないだろうか。

 自分自身を受け入れるというのは、自分を良い者とするのではない。内なる罪、欠けを事実として認めることこそ自己を受容することである。ここに罪の告白の必要があるのだ。ヨハネは「もし、私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださる」(9節)という。イエスの十字架と復活はこの「赦し」と「清め」なのだ。

 私たちは自分の罪と向かい合うとき、イエスの十字架の血による贖いを自分自身のこととして受け止めることができる。神の光の中を歩むというのは、神の愛の中を歩むということ、福音に生かされているということなのである。

「愛には恐れがない」 ヨハネの手紙一4章7-21節


 ギリシア語には「愛」を表わす言葉が四つある。主に男女の愛を表わす「エロース」。友情、友愛を示す「フィリオ」。親が子を愛する愛「ストルケー」。そして神の愛「アガペー」。十字架によって示された神の愛を表わすのに、「エロース」も「ストルケー」も「フィリオ」も適当ではなかった。なぜなら、これらの愛はどれも自分にとっての価値あるものに対する愛だったからだ。しかし、神が人を愛するというのは、相手の価値を問わない愛なのだ。この価値なき者への愛という、新しい意味を「アガペー」という言葉で表した。

 「アガペー」に示された神の愛は、対象によって起される愛ではない。「エロース」の愛などは、愛する対象の美しさや魅力といった相手の価値によって引き起こされる愛である。しかし、神の愛は対象によって引き起こされる愛ではない。「神は愛なり」(4:8,16)といわれる神からあふれ出る愛なのだ。

 ヨハネは神の愛が私たちの愛に先立っていることを示している。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、…」(4:10)とある。私たちの常識は、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考えがちだが、聖書は、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まるとするのである。しかも私たちが愛されたとは、私たちの罪を贖ういけにえとして御子が遣わされたことだとヨハネの手紙は言う。神の愛の後ろには、私たちの罪のために死んでくださるお方がおいでになるということは、決して尋常なことではない。ここで言われる罪(ハマルティア、的外れ)とは、神への背信を意味する。にもかかわらず、不信仰なる者のために御子であるお方のいのちが捧げられたということは本当に尋常なことではないことが分かる。それが神の私たちへの愛の形である。私たちはこれをお願いして、そうしてくださいと言ったわけではない。それどころか、そんなことが私たちのためになされたということすら知らない。それが私たちへの神の愛し方であると言われているのである。これが聖書の常識で、この常識をわがものとすること、我がこととして受け入れ、信じることが信仰である。

 さらに、この神の愛は「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(4:18)と書いてある。愛とは、徹底して相手の存在を肯定すること。神が私たちを愛してくださったとは、まさしくそのことを意味する。存在を肯定するとは、ある事をすればよしとされ、違うことをすればだめだとされるのと違う。愛は相手の価値を問わない。どのような在り方があろうと、そこに「いる」ことがよしとされる、それが存在を肯定されることである。神の愛とは、そういう愛である。99匹の羊を野に残して、一匹を探す羊飼いの姿にこの愛を見るだろう(ルカ15章)。
 
 どこまで行っても「いる」ことが愛されている、これが神から愛されていることだと信じる信仰はどのようなあり方をしていようと、安心感を持つ。たとえ心配で眠れない夜を過ごすようなことがあっても、「いる」ことが肯定されていれば、心配をしなくなるというより、心配をする自分を受け入れることができるだろう。さらに言えば、そのような事態になれば、心配をしないならば事は解決をしないのだから、むしろ心配をするのが当然であるという心境に至ることができる。その心配する私という存在をそのまま丸ごと愛してくださるお方がおられる。何と心強いことだろう、なんという慰めだろう。それこそ、「完全な愛は恐れを締め出す」と言えるだろう。

「あなたがたは神の神殿」 コリントの信徒への手紙一3章10-17節

 パウロは教会のことを様々な言葉で表現している。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」(10節)と言い、自分を建築家、教会を建物にたとえている。そして、この建物で要となるのはイエス・キリストという土台であると。

 しかし、次に問題となるのは、この土台の上にどのような素材を用いて家を建てるかだ。例として、金、銀、宝石、木、草、わらの六つがあげられているが、それぞれの家が試され、真価を問われる日が来る。それは「かの日」(13節)、つまり、キリストの再臨される日で、その日に各々の建築家の仕事ぶりが火によって試されるのだ、という。

 パウロはその話を何のためにしているのか。教会の働きの中身が問題だ、ということだろう。「あなたがたは……知らないのですか」(16節)とパウロは問うている。そして「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(16節)と教え、教会は神の霊の住みたもう神殿、聖なるものである(17節)ということ、これこそ決定的に重要なことだ、と言うのである。

 ここでパウロは「あなた方」と複数形で言っている。教会はギリシア語で「エクレシア」という。「神から召し集められた者」という意味を持つ。イエス・キリストによって召し集められた人々の集まりをいう。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません、あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と、パウロが書いている。また、主イエスは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われている。それが教会。

 私たちの教会は、交わりの中に祈りがあり、神の霊が住んでいてくださり、聖なるもの、神のものとされているだろうか。教会はこの聖霊によって生かされている。先週の説教で話したが、教会の土台としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに、教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくということ。同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちは教えられた。その私たちの祈りの交わりの中に聖霊が働き、私たち一人ひとりが生き生きとされていくのではないだろうか。そのような一人ひとりが輝いて生きる群れとしての教会を建て上げていきたいものだ。

「キリストによる和解」 エフェソの信徒への手紙2章11-22節

ここでパウロはエフェソの人々に向かって、かつてキリストを知らなかった時、神の民に属さず、歴史の支配者である神の約束とも関係なく、この世での希望を持たず、神の慰めや平安、約束、希望などと遠く離れて生きていた「異邦人」であったと言う。ここでいう「異邦人」とは、ユダヤ人以外の人を指し、「割礼のない者」「律法を持たない者」とも呼ばれ、ユダヤ人からは救いとは無縁な者とみなされていた。

ここには、ユダヤ人から見た差別と偏見、その裏返しの彼らの選民意識と特権意識が背景にある。彼らユダヤ人は神から選ばれた民、神の救いを約束された民であるという意識だ。それが彼らに自分たち以外の民族を異邦人とみなして、差別、偏見を生み出していった。それは、民族間だけでなく、ユダヤ人同士の中にも「隔ての壁」をいくつも作っていくことになった。それは、神殿の作りからも見て取れる。その壁を打ち破ったのがイエス・キリストであった。どのようにしてか。それは「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(13節)である。「血によって」、「肉において」(14節)、「十字架」(16節)の出来事によってである。
 
そのように神から遠かった異邦人(私たち)が、今や、キリストの十字架の出来事によって、神に近い者、神を知り、神と共にある者、キリストによって生きる者、希望を持って生きる者とされたと、言うのである。この十字架の出来事、救いの恵みは、今はすべての人々に開かれている。すべての人々を主は今招かれているということである。

 そのことを以下、具体的にパウロは述べていく。「実に、キリストは私たちの平和であります」(14節)という意味が、「二つのものを一つにし」「隔ての壁を取り壊し」「律法を廃棄した」という三つの文章で示されていく。

「一つ」とは一致とも訳されるが、それは画一化ではなく、むしろ和解の意味である。「二つのもの」とはここではユダヤ人と異邦人との二つのグループをさしている。「二つのものを一つにし」、そこに主イエスの言葉が響く。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)という主の言葉である。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのだということである。

 次に「隔ての壁」とは、ここでは異邦人をユダヤ人から隔離し、差別していたエルサレムの神殿の壁のことである。当然その壁は双方の敵意の象徴であった。この他にも女性をさえぎり閉め出す壁、祭司以外の人を入れない壁などがあった。このように人々を「規則と戒律ずくめ」(15節)にして、がんじがらめにして、差別を助長し、救いを独占し自己絶対化するような律法を、キリストはご自身の生き方を通して廃棄された。

さらに、パウロは、この人々の和解と平和と一致について、キリストによって新たに造られた教会を通して具体的に語っていく。キリストによって新たに造られた教会。そこにおける人々の和解と平和と一致という交わりが、国籍、家族、建物という三つのたとえで語られている。しかしそれらの言葉はまったく新しい意味で用いられている。家族や国籍という言葉は偏狭な民族主義や血縁的なものにつながりやすいものだが、そのような「血」を乗り越える意味もこめられて、13節でキリストの血が強調され、その血によって新たに造られる共同体としての家族や国籍という言葉が使われている。「神の家族」という言葉は、主イエスの言われた言葉を思い出させる。「神の御心を行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのです」(マルコ3:35)。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのである。

 またよく体にたとえられる教会は、ここでは建物、聖なる神殿、神の住まいにたとえられている。当時の建築方法では、隅に「かしら石」を置き、次に礎石、その上に段々に石を組み合わせて積み重ねていき、最後に、最上部に建築完成の決め手とも言うべき「要石」をはめ込んだ。「かなめ石」(20節)とは、最も基礎になる「隅のかしら石」(口語訳)と最後の「要石」(新共同訳)の二説があるが、そのどちらでも、また両方とも指すと考えても意味深いものがある。つまり、教会の基礎としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに、教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくというのである。この「成長し」という概念は教会が常に途上にあることを示していて、同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちに教えている。

 私たちは神との和解を受け、キリストによって一つとされた神の家族。そのことはすべての人々に開かれており、隔てはない。神の家族の教会に、すべての人々を主イエスは招かれている。この神の家族である教会につながり、「実に、キリストは私たちの平和である」といわれるキリストにつながって歩みたいと願うものである。

「疑いは信仰のはじめ」 ヨハネによる福音書20章19-29節

「疑いは信仰のはじめ」 ヨハネによる福音書20章19-29節

 トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネによる福音書だが、最もよく知られているのは、イエスの復活をめぐる物語のところだ。トマスは弟子たちの「私たちは主を見た」(25節)という復活の報告だけでは納得せず、実際に手と脇腹に触れてみないと信じないと、懐疑的な態度を示したという話だ。この物語で、ちょっと不思議なのは、12弟子であるにも関わらず、主が、復活の日の夕刻、弟子たちに姿を現されたときにトマスがそこにいなかったということだ。
 
 不在の理由は書かれていないので、あくまで推測だが、もしかしたら、ある聖書学者たちの言うように、トマスはイエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく、「傷心のあまり会うに忍びたかった」のかもしれない。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れといってもよいだろう。悲惨な現実に触れて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人だと思われがちだが、そうではなく、むしろ心の優しい人ではないだろうか。言い換えれば、トマスは愛の深い人だったということ。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからだ。

 では、そのトマスがイエスの復活の知らせを聞いたとき、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」(25節)と言ったのだろうか。ここで人はトマスに「懐疑論者」というレッテルを貼る。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということではないか。信じられる証拠が欲しいということは、何としても信じたいというあらわれではないか。はなから信じる気持ちのない人は疑うこともない。だから、疑うというのは逆説的ではあるが信仰のもう一つの側面でもあるといえる。対象との関係が深いと言ってもよく、これは人間関係でも同じ。好きな人ができたなら、その人の名前は、住所は、どんな性格か、自分のことをどう思っているだろうか、友だちになれるだろうかと心配と疑いが出てくる。愛や信頼が形成されていく過程では疑いや不安、問いの波も同時に生じるものなのだ。

 全人医療を提唱した医師ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑から免れることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(「強い人と弱い人」)と言っているが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度である。
 
 さて、今まではトマスに照準を合わせて、この復活の物語を見てきたが、今度は主イエスに照準を合わせて見てみよう。主は私たちに何のメッセージを語っているだろうか。先ほども見てきたが、弟子トマスは、他の弟子たちから、主の復活についての証言を聞いた時、そのお方の手の釘跡、脇腹の槍傷を見て触らなければ、信じないと言い張った。トマスは、よく知っているイエス、そのお方に間違いないかどうかを確認したかったのだ。その思いに応えて、主イエスはどうされただろうか。「お前はなんと疑い深いのだ。滅んでしまえ」などとは言われない。むしろ、主イエスはトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」と言われ、トマスに手と脇腹をお見せになり、触ることすらも許されたのだ。なぜだろうか。それは、主ご自身の方からなんとしても「手と脇腹の傷跡は、あなたの罪の赦しのためのものなのだ」ということをトマスに知らせようとされたからではないか。主イエス自ら、惜しみなくすべてを相手にさらけ出し、お与えになっておられる。だから、トマスは思わず「私の主、私の神よ」と告白をせざるを得なかった。その後で、主はトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
 
 トマスは主イエスを見る前に、弟子たちの復活の証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならないのだ。私たちもまた、「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)というパウロの言葉を思い出す必要があるだろう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われていることを知らねばならない。「見ないのに信じる人は、幸いである」。

「神は私たちの避けどころ」 詩編46篇1-12節

詩編46篇に繰り返し告白されるのは「万軍の主は私たちと共にいます」(8,12節)という信仰告白である。「万軍の」というのは、「力に満ちた」という意味。「力みなぎる主が私たちと共にいます」ということ。このことが私たちの人生と世界の混乱や危険の中で、あるいは動乱の予感や不安の中で、私たちの避けどころとなり、私たちの砦となっていると告白しているのである。「万軍の主が私たちと共にいます」。だから、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」(2節)のであり、これを信じて、「私たちは決して恐れない」(3節)と詩人は歌うのである。
 
 私たちの人生にも、いろいろな危険や混乱がある。現在だけでなく、将来の不安もある。個人の生活だけではなく、超高齢社会となり少子化の進む日本はこれからどうなるのだろうとか、あるいは中東をはじめあちこちの紛争はどうなるのだろうか、地球温暖化は、資源の枯渇は…、不安や心配はきりがない。しかしこの詩人はこう歌う。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、あるいはすべての民が騒ぎ、国々が揺らぐとも、「苦難の時、必ずそこにいて助けて下さる」(2節)、それゆえ「私たちは決して恐れない」(3節)。そのように心に信じ、周囲に告白している。危険を見くびっているのではない。神が「私たちの避けどころ」であり、「万軍の主は私たちと共にいます」から、「決して恐れない」ということができるのであり、それは生きる力、勇気、希望、平安が与えられるからこそであり、だから今度は自分の人生や社会の様々な混乱、不安、問題に立ち向かうことができるのである。

 重大なのは「神が共にいます」という「現実」がどこにあるかではないか。そしてその現実の中にどう生きるかだろう。どうしたら「神が共に、万軍の主が私たちと共にいます」という現実が分かり、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と分かるのか。神がその中にいます「場所」があるという。「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」(6節)と詩人は告白している。普遍的で超越的な神、天地の創造者である神が、「ある場所にいる」というのは不思議なことかもしれない。この世の中には神をとどめておけるような場所はどこにもないはず。しかし超越的で自由な神が、身を低くして「その中にいまして」くださるのである。そして「万軍の主は私たちと共にいます」「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」という現実を与えてくださるのである。一方的な憐みによってご自分を低くし、私たちに顔を向け、私たちと共にいてくださるのである。

 どこで?「いと高き神のいます聖所に」「神の都に」とあるように、「神の」とあるから、神が支配される場所で、その意味で神の国の栄光にあずかっているところとして、それを教会の中に、礼拝の中にと受け取ることはできないだろうか。教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭であるといわれる。その教会では、み言葉が語られ、祈りがささげられ、主が賛美され、感謝と献身の思いがささげられる。さらにキリストの体に共に与る聖礼典が行われる。それは神が共にいて下さり、神の愛の配慮と導きがあってのことである。万軍の主であるイエス・キリストによって実現しているのことである。イエス・キリストがおられ、その言葉、その働き、その十字架、そしてその復活の体に与るところ、それが教会、それが礼拝。その教会につながるとき、それはイエス・キリストにつながるときであるが、「神は私たちの避けどころ、苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と告白することができる。主イエスにつながるとき、「私たちは決して恐れない」と言うことができる。それは主ご自身が万軍の主であり、主ご自身が戦って下さるからである。主ご自身がすべてを引き受けて下さるからである。その主にすべてをゆだねるのである。

 「力を捨てよ、知れ、私は神」とも書かれている。「力を捨てよ」とは「手出しを止めよ」と訳してもいい。主にゆだねよ、主に任せよということになるだろう。肩の荷を下ろそう。肩の力を

「疑いによって救われる」 マタイによる福音書14章22-33節

「主よ、助けてください」。ペテロが叫ぶと、主イエスは助けてくださった。その時、あの恐るべき言葉を主イエスはペテロに語られた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それは、私たち誰もが人から言われたくない言葉でありながら、私たちの多くが同じ言葉を毎日のように自分自身に投げかけている言葉でもある。なぜ、私にはもっと信仰がないのか。なぜ、すべてを神にゆだねることができないのか。なぜ、疑うのか。この私が神のみ手の中にあると信じ、そのみ手がよき手であることを信じている。それなのに、失業したり、だまされたり、事故にあったり、様々な試練や困難に出会うと、私の信仰も一緒に失せ果てて、私は沈み始める。

 私たちは、神が共にいて下さること、この世界で生きて働いておられることを信じている。それでも、私たちの社会ではひどい事件が次から次と起こる。新聞の見出しやテレビのニュースなど、そのどれを読んでも聞いても、嵐はいつまでも静まらないように思える。波は私の足に絡みつき、沈み始めていくのだ。

 なぜ私たちは疑うのだろう。怖いからだ。海はあまりにも広大であり、私たちはあまりにも小さいから、嵐はあまりにも凄まじく、私たちはあまりにも簡単に沈んでしまうから、人生はあまりにも私たちの手に負えず、私たちはその中であまりにも無力であるからだ。なぜ私たちは疑うのだろうか。それは怖いからだ。私たちに信仰があるときでさえも。そう、私たちには信仰がある。まったく信仰がないわけではなく、いくらかの信仰ならあるのだ。ペテロと同じように、私たちにもいくらかの信仰があり、それは全くないよりもずっと良いことだ。その信仰が、私たちを救うには十分ではないように思えることが、時にあるとしても。

 ペテロのように、私たちは、信仰がありながら疑い、主イエスと共に歩こうとしながら失敗し、ほんのわずかだけ歩きながら沈む。そして、「主よ、助けてください!」と叫ぶのだ。私たちが叫ぶと、主は助けてくださる。そのみ手を差し伸べて下さると同時に、叱責の言葉をもって。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それを聞いて、私たちのほとんどは自分が落第者だと決めつける。けれども、私はこうも思うのだ。もし、この物語が別の方向に向かっていったら、どうなるのだろうか。

 もしも、ペテロが沈まなかったらどうなるのだろうか。もしも、ペテロが完全に信頼して、舟から飛び降り、波の向こうの主イエスに微笑みかけ、主のもとへ全く躊躇することなく滑るように行ったとしたなら、どうだったのだろう。もしも、他の弟子たちもペテロに続いて舟から次々と降りてきて、嵐が猛威を振るい風が帆を叩きのめし、頭上では闇夜に稲妻が炸裂する中を、全員が完全な信仰のうちに水の上で大はしゃぎしたとするなら、どうだったのだろう。

 それでは、まったく別の物語になってしまっていたことだろう。確かに素晴らしい話かもしれないが、それは私たちの物語ではないだろう。私たちの真実の姿はもっと複雑なのだ。私たちの真実の姿は、従い、そして恐れ、歩き、そして沈み、信じ、そして疑うのだ。本当に複雑だ。どれが本当の自分か本人でもわからない。そのどちらか一方というのではなく、両方してしまうから。私たちの信仰と私たちの疑い、その二つは併存しないものではない。その二つは私たちの中に同時に存在して、私たちを支え、引き降ろし、私たちを勇気づけ、恐れさせ、人生の荒海を歩く私たちを下から支え、石のごとく沈める。どちらも本当の私なのだ。

 だから、私たちには主イエスが必要なのだ。だから、私たちは、主イエスがおられないのであれば、水の上になど決していたくないのだ。恐怖と疑いは、私たちを縮み込ませるが、それは同時に、主の救いのみ手を求める叫びを私たちに促してくれるものでもある。それならばどうして、恐怖や疑いは悪いものでしかない、と言えるだろうか。もしも、私たちが決して沈まなかったなら――もしも水の上を自分の力でわけなく歩いていけたなら――救い主を求める必要はなかっただろう。私たちは、独立独歩で生きていけただろう。疑いは、私たちに恐れをもたらすものだが、いったい自分が誰なのか、自分はだれのものなのか、そして、私たちの人生において私たちが救い出されるために、いったい私たちはだれを必要としているのかを、私たちに思い起こさせてくれる。ペテロのように、そして、私たちの誰もがそうであるように、私たちが沈んでいくとき、私たちの主はみ手を伸ばして私たちを捕まえ、まず恵みをもって、それから裁きをもって応えてくださる――「なぜ疑ったのか」――。しかし、それは決して拒絶ではない。主は私たちを舟に戻してくださる。主は、すっかりご存知なのだ。私たちがそもそも舟に乗っているのは、信じているからだということを。信じたいと願っているからだということを。そして、疑いに満ちた日々の中にあっても、主に従うつもりでいるからなのだ、ということを。

 主は私たちを舟に戻してくださる。私たちの仲間たちが、襟首を捕まえて舟に引き上げてくれる。感謝にあふれると同時にへとへとになった私たちは、滑りやすいデッキの上に倒れ込む。たちまち風は止み、波は静まり、夜が明けようとする畏怖すべき静寂の中で、この舟に乗っている私たち皆が、ともに主イエスを礼拝し、言うのだ。「本当に、あなたは神の子です」。疑いのあるところに救いはある。

「祈りはすでに聞かれている」 マタイによる福音書6章5-14節

 人生、自分の願い通りに事が運べば、どんなにか気を楽にしていることができるだろう。けれども現実は意のままに生きることを許してはくれない。そんなことは言われなくてもわかっていると言われるだろうが、大事なのは、そのことから目をそらさないということ。目をそらさずにいると、信仰的転換を体験することができる。では、信仰的転換とはどういうことか。

 私たち信仰者はことあるごとに神に祈るが、別にクリスチャンでなくても人間は誰でも祈ることはする。そして思う。果たして祈りは聞かれるのか。それが私たち人間の思い、考えのありようでないだろうか。それがいけないというのではない。それは私たち人間のもっている自己中心の当然の思いである。でも、先ほども言ったように、現実は意のままに、願いのままにならない。では祈りは無駄か。そうとも言い切れない。そんな揺れ動く思いの中で過ごしているのが私たちの現実ではないだろうか。その現実にも目をそらさないことだ。

 そんな私たちに聖書は次のようなメッセージを告げる。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタイ6:8-9)。これは主イエスが弟子たちに祈りを教える場面で、次に主の祈りが続いている。祈りはすでに聞かれているという意味がここにはある。もしそうであるなら、もはや祈る必要はないではないかと訝しむことがあるかもしれない。しかし、主イエスは聞かれているからこそ祈るのだと言われているのである。

 キリスト者詩人の八木重吉の詩集『貧しき信徒』の中に、主の祈りについて歌ったところがある。「祈りの種は天にまかれ、/さかさまに生えて、地に至りてしげり、/しげり、しげりて、よき実を結び/また種となりて天にかえりゆくなり」。 神は必要なものをすでにご存じであって、祈るときは、すでに祈った結果を手にしているという意味がここには歌われている。

 信仰は祈り。そして祈り続けるということが目をそらさずにいることでもあるが、そのような祈りの信仰は、「私」の生き方を最も良い方向へと転換させる。しかし私たちは注意しておかねばならない。それは信仰を持てば万事OKというような単純な楽観主義ではない。日々の生活の営みの中で、願い事を心にもって祈ることもあるだろう。しかし、願い通りにならず、意に反した結果が待ち受けていることも一度や二度ではない。しかし意に反したことであっても、信仰を通してよく見るなら、結果は、最も良い実が「私」のために結ばれていることに気付くだろう。これが信仰的転換である。

 信仰的転換を実生活の中に経験しようとするなら、わが身に起こったことが意に反する出来事であればあるほど、そこから目をそらさないこと。意に反することは地上の生活では付きもの。しかし、19世紀のドイツの神学者、牧師のブルームハルト曰く「地上のことから目をそらすな、神は地上の神である」という言葉を思い出す。神は地上で働くお方であることを信じるなら、地上で私の意志に反したことが起こっていたとしても、神の意志に反したことは起こっていないのである。

 祈りが聞かれるとは、願い通りに祈りが聞かれることとは違う。真剣に祈っても願った通りにならないこともあるだろう。結果が意図しないことであったり、場合によっては願いと全く逆のことであったかもしれない。けれども最も必要なものをご存知であると信じて祈った結果がそこにある。結果はどうであれ、私にとって最も必要なものが与えられる、それこそ信仰による祈りである。目をそらさずというのは、神から目をそらさずということでもある。そうすることによって神の意志というか思いに気づかされ、知らされて、感謝と希望に生きるものとされていくのである。祈り続けよう。神から目をそらさずに。

「神の愛の奥深さ」 コリントの信徒への手紙一4章3-5節

常に私たちが恐れているのは他人の目であり裁きである。人はどう思うだろうか。人はどう言うだろうか。批判されはしないだろうか。結局、人間がいつも頭を悩ませているのはそのことである。人の一生は人からの裁き、評価との闘いだといってもいいほどである。気を使って、闘って、疲れ果ててしまうのである。 

 使徒パウロはきっぱりとこう言う。自分は人から裁かれようと、人間の法廷に立たされようと何ら気にしない、と。人に何と言われようと、自分には自信がある、というのではない。パウロは言う。自分で自分を裁くこともしない、と。何もやましいことはないけれども、それで自分が正しいわけではない、と。いわゆる、自分を客観的に相対的に見ているのである。自分を絶対化しない。すべてを超越しておられる絶対者なる神の存在を信じる信仰がそのような自己を相対的に見ることを可能にさせるのである。そうすると、だいぶ肩の荷がおり、力が抜けてきて、楽になるだろう。

 箴言に「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」(21:2)という一節がある。これは信仰による認識がどういうものであるかを語っている。人間の目には自分の行動は正しく見えるのである。冷静に、十分に考えてみて、自分の間違えていることがよく分かった、ということにはならない。考えれば考えるほど、言い訳が出てくる。弁解が出てくる。自分を正当化することになる。自分可愛さ、自己保身、これは私たち人間の本性で、言うならばどうにもならないところで、聖書的に言うならばそれが罪。
   
 だからパウロは、自ら省みてやましいことがないとしても、それで義とされているわけではないという。4節で「わたしを裁くのは主なのです」と言う。自分を裁くのは人ではない、自分でもない、主イエスだという。主に裁かれる、主に裁いていただく、それが信仰の確信であり、拠り所である。そこから導かれるのが、だから主に委ねるという信仰。

 しかし、思いがけないことがこれに続いている。「その時、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)。その時、おのおのは神から厳しい裁きを受けるだろう、というのであればよくわかる。けれども、そうではなくて、「おほめにあずかる」というのである。一方、人間は人の罪悪を見出した時、まるでその人間の正体をつかんだかのように思う。醜い部分を見つけたとき、その人間の本質を知ったかのように興奮する。

 聖書のメッセージは、次のように言う。主が人間の隠された闇の秘密を知るということは、そういうことではない。人間の醜さ、罪悪のその奥に隠されている良いものを主は見られる。人間の汚濁のその向こうにあるわずかな良い志を見落とされはしない。そこのところで評価してくださる、というのである。

 むろん、神が私たちを総体として見れば、とても正しいとは言えないだろう。捨てられるべき罪人にすぎない。しかし、主イエスはそのような人間を贖ってくださったのだ。自ら苦難の道をその人間のために歩んでくださったのだ。人間から見ると理解しがたいものがあるだろう。主イエスは私たちの中の否定されるべきものをもはやご覧にならない。汚れた雑巾のように、私たちの中の、わずかの良い志を見ていてくださる。汚れた手の中の小さな業を、主は決して見失われない。これが神の私たちに対する意思、愛である。ある意味で神の愛は一方的で、無条件の愛と言えるだろう。神の愛のなんと奥深いことだろうか。

 そのようなことを思わされるとき、果たすべき課題の大きさと、なしうる業の小ささを思わないではいられない。けれども、私たちはこのことを知っている。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」(一コリント15:58)。

「信仰は苦難を生きる道」 コリントの信徒への手紙二1章3-7節

 3節に「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」とある。新約聖書においては神は「父」と呼ばれている。父という言葉には厳しさが当然あるが、同時にある親近さをも連想させる呼び方である。主イエスも「アッパ、父よ」と親しみを込めて呼んでおられる。救い主イエスを送ってくださった、その神は私たちを守る方であり、私たちを父親のように包む、そういう神だ。ここにはそのような神と私たちとの関係が記されている。

 「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」と書かれている。神が厳しく裁く神として私たちに関わることは否定できない。しかし根本は、「慈愛に満ちた父」であり、「慰めを豊かに」与えてくださる神である。それが私たちと神との根本的な関りである。神は時に怒り、あるいは罪を裁く、あるいは罪を問う、そういう方でもあるが、それは父の慈愛の中でなされることなのである。ひるがえって人間社会には愛のない者が相手を叱り飛ばすことがある。あるいは、裁いて突き放すということもあるだろう。しかし、愛する者は悲しみながら叱る、あるいは泣きながら打つのである。父なる神が打ち、あるいは裁くということは、そういうことを意味している。つまり、裁く方に痛みがあるのである。打つ方に悲しみがあるのである。そういう痛みや悲しみに打たれることによって、人間は変えられるのだと思う。

 さらに4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と書かれている。あらゆる苦難に際して慰めてくださると言われている。信仰の苦難、神を信じて生きる時に苦難がある。この世の現実の中にも苦難がある。信仰を持ったならば、楽な問題のない人生が始まるということではない。信仰は楽になる道ではない。試練や苦難が取り除かれて、バラ色の道を歩いて行ける、そのような道ではない。苦難や試練はある。苦難や試練はあるけれども、そこで受け取るものがある。主イエスも言われている。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。

 「あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので」と書かれている。信仰の苦難は、逃げることも避けることもできる。しかし、もし私たちが苦難をいつも避けていたならば、信仰のことはわからない。信仰の喜び、恵み、感謝が分からない。苦難の中に踏みとどまる時に、そこで神の慰めをいただく。苦難の中で慰めを受け取る。それが信仰者の力となるのである。信仰者は苦難の中に踏みとどまり、神の慰めを受け取ることで、そこで生かされ、そこで育てられていくのである。

 私たちは苦難の中で、そこに踏みとどまって、神の慰めを受け取るから、ほかの人の苦難に際して慰めを与えることができる、というのである。苦難を前向きに生きている人が苦難の中にいる他の人を慰めることができる。苦難の中で鍛錬されて、強くなって、タフになってほかの人を励ます力が与えられるのではない。苦難の中で、弱いから、行き詰るから、そこで慰めを神から受け取って立っている人が、ほかの人を慰めることができるのである。

 苦難というのは、しばしば私たちの持てる力や実力を圧倒する形で迫ってくる。もうギブアップするしかない、もうおしまいだ。そういう事態は誰の人生にも必ずある。つまり自分を手放すしかない事態である。しかしその時にも、人間に残されている可能性がある。それは、「わたしは既に世に勝っている」と言われる主イエス、死者を生き返らせてくださる神に祈るということ。神はその死から、生きづまったところから命を見出される方、生きる力を与えてくださる方。

 私たちの信仰の道、神を信ずる道は、この死に体から繰り返し生かされる、思いがけない形で道が開かれる、そういう形で生きていく道なのである。そしてその道が、永遠の命につながるのである。私たちが自分の持っている、個人的な力や実力で開いていく道なのではない。そんなのは行き詰ってしまう。ギブアップするしかないような状況から、繰り返し新しい命への道を開いていただきながら生きていく道、それが信仰の道。信仰というのは、苦難のない道ではない。苦難を生きる道なのである。私たちがたとえギブアップしても、必ず神は私たちのために、前方に道を開いてくださるお方。私たちは、その道を歩いていく。それが信仰によって生きるということ。

「だれのせいでこうなったのか」 ヨハネによる福音書9章1-12節

 生まれつき目の見えない人が、人通りのある所に座っていた。そこで弟子たちはイエスに質問した。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちはおそらく、この生まれつき目の不自由な人を見た時に、反射的にイエスにこの質問をしたのだと思う。というのは、こういう場面に出くわすと、だれでもが考えることだからである。いったいどうして、誰のせいでこんなことになったのか。本人が悪いのか、両親の罪か、あるいは先祖の誰かが悪かったのか。

 イエスはこの弟子たちの質問にこう答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。本人の罪か、両親の罪か、だれが悪いのか、そんなことは関係ないと、イエスは言われたのである。誰のせいでもない。そんなことはいくら考えても答えはない、とでも解釈できる。因果応報の考えを真っ向から否定する。イエスはここでハッキリ言われる。「神の業がこの人に現れるためである」。神を知らない時に、人はみな問う。どうしてこうなったのか。誰のせいでこうなったのか。しかし、神を信じた時に見方は変わるのである。目の前にあるこの現実は結論ではない。結果としてこうなったというのでもない。ここから神が御業を行ってくださるのだ。この厳しい現実こそ、神の御業が現れる始まりなんだ、とイエスは言われるのである。

 この出来事の最初、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(1節)と書いてある。イエスが来たということ、そして生まれつき目の見えない人に目を留められたということ、ここに聖書のメッセージがある。救い主がこの世界に来られたということ、そして救い主が人間の現実に目を留められたということ、それが大切なメッセージである。人間の苦しんでいる、悲しんでいる現実に目を留められた。もし神の子である救い主が、目を留められたのであるならば、どんな現実にも希望がある。

 さらに、4節にこう書いてある。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことができない夜が来る」。日のあるうち、つまり光のある間、植物も動物も光の照っている中で生きる。光の中で癒される。光の中で成長し、そして実を実らせる。私たちはその昼の中にいる。救い主イエス・キリストのおられる昼の中に私たちがいる、ということなのである。私たちはこの命の光を浴びている存在。神の愛の中にいる存在。神に愛され、支えられ、導かれて生きているのだ。だから、私たちは問わない。なぜこうなったのかなんて問わない。だれのせいで、だれの責任かなどとは問わない。そんなことを問うても何にもならない。そう問うことで先が見えなくなってしまう。しかし、もうそんなふうに問わなくてもいいのである。そういう時が今来ているんだ、ということを聖書は私たちに告げているのである。

 救い主が御業を行ってくださるのである。イエス・キリストが来てくださって、ただそこにおられるというのではない。来てくださったということは、御業を行ってくださっているという意味なのである。だから私たちのこの現実は、結果ではない。救い主の業の始まる場所なのである。神のみ手が働いている現実なのである。だから私たちは待つ。待ち望む。私たちは将来を待ち望む。ここから神がどういう現実を生み出してくださるのかを私たちは待ち望む。この現実を突き抜けて、主の御業の行方を私たちは待ち望む。ここに主にある希望がある。

 そして、この創造の業に、私たちも参与させていただくのである。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」のである。ものをつくり出す業に、人を癒す業に、人を生かす働きに、私たちも用いていただくのである。この命がそのために用いられる。「神の業がこの人に現れるためである」ということはそういうことでもあるのではないか。こんな私でも神の創造の働きに参与するように召されている。そのことの中に人間の命の喜びがある。生きる喜びがある。生かされている、生かされて生きている。この命を用いて主の業に励みたい。

「良い知らせの手紙」 マルコによる福音書 1章1-15節

マルコ福音書1章1節~15節は、マルコ福音書全体の序文にあたる。ここには「福音」という言葉が繰り返し出てくる。「福音」という言葉はもう十分に日本語として通用するようになった。辞書を引くと最初に、心配事や悩みを解決するような、うれしい知らせ、とある。二番目には、キリスト教で、キリストによって、救いようもない深い罪を持つ人間が救われるのだ、という知らせ、とある。簡潔によく書かれている。

 1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、15節には「福音を信じなさい」と繰り返し書かれている。福音書は、まさにその「福音」を伝えようとしている。福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができる。

 「福音」という言葉にはさまれた2節~13節には何が書かれているのか。2節には、旧約聖書の預言イザヤ書に証しされている者として、洗礼者ヨハネが登場する。ヨハネは4節にあるように、人々に、主の道を備えるようにと悔い改めのバプテスマを宣べ伝える。7~8節を見ると、ヨハネは救い主ではなく、自分よりも優れた方を指し示す者として登場している。

 9節から主語がヨハネから主イエスに代わる。バプテスマを受けられたイエスに向かって天からの声が与えられる。「あなたはわたしの愛する子」。荒れ野で叫ぶヨハネの声と、天からの神の声という二つの証言によって、イエスの1節に書いてある「神の子」であることが確かめられる。

 荒れ野の試みを経て、ヨハネの時の終わりと共に、イエスの時が始まる(14節)。そのイエスの時の始まりは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というもの。こうして、この段落全体が、主イエス・キリストによる福音の始まりを告げている。

 さて、さきほど福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができる、と言った。福音書にはひとつには、イエスが話した言葉が書かれている。イエス語録という。二つ目は、ただ単にイエスが語った言葉ということにとどまらず、イエスという人物、行いと言葉のすべて、いうならばイエス自身のすべて、生きざますべてが書かれている。

 例えば、ある人があなたに「私はあなたが大好きです」と言ったとする。まず第一にその言葉はあなたにとっての福音、うれしいだろう。良い知らせであるに違いない。でも、それ以上にそのように語りかけてくれるその人の存在こそがあなたにとって福音、良い知らせではないだろうか。嫌いな人から、同じ「私はあなたが大好きです」と言われても、うれしくはない。それは福音、良い知らせにはならない。怒られるのも同じ。信頼している人から「何やってんだ」と言われても腹は立たない。むしろ、「ほんとだ、私、何やってんだろう」と反省し、気を取り直してしっかりやろうと思うだろう。しかし、信頼できない人から言われると、「あんたには言われたくない」でおしまい。信頼というのは本当に大切だし、信頼をつくり出すには言葉だけではなく、その人の生きざまそのものが大きくかかわってくることが分かる。そういう観点から、この福音書を読んでみてほしい。イエスの言葉となされたこと、イエスの生涯、生きざまを。イエスとはどういう人であったか、人となりをしっかりと読み取ってほしい。そしてその主イエスと出会っていただきたい。

 イエスと出会うとどうなるか。それまでの自分が打ち壊されて、やって来た新しいものにとらえられてしまう。方向転換が起こる。それが改心、悔い改め。主イエスの第一声に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあるが、そこには、イエスの言葉とイエス自身の存在がある。そのイエスという人物がどういうものであるかをこの福音書の冒頭1節に「神の子イエス・キリストの……」と告白されている。「神の子」で、「人の子」イエス、そして「キリスト(救い主)」とあるから、救い主であるといっているわけである。マルコはそのことをこの福音書全体で書き記そうとしたのだ。

 福音書を読むということは、そのイエス・キリストに出会うことである。福音書を通してイエス・キリストの言葉に出会うこと。福音書を通してイエス・キリストという人物と出会うこと。読んでいくとあなたにとってどうしても引っかかる言葉がある。その言葉を発するイエスという人物が気にかかる、不思議に思える。簡単に理解できないかもしれない。グサッと来ることもあるだろう。いろいろな反応があると思う。そのようにイエス・キリストという存在は私たちを巻き込んでいく。神の国、それは神の支配のことだが、「時は満ち、神の国は近づいた」とあるように、イエス・キリストの到来と共に始まった神の国は、近づきつつあるもの、私たちに迫ってくるのである。私たちを巻き込んでいくのである。その迫りの中で、必ず決断が起こされる。その決断が悔い改めへと導いてくれる。方向転換へと導いてくれるのである。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。私たちに求められているのは、そのキリスト信じることだけである。そこからすべてが始まる。

「漕ぎ出してみる」 ルカによる福音書5章1-11節

ペテロはどんな人物だったのだろうか。1,2節を見ると、群衆は皆イエスから神の言葉を聞こうと思って押し寄せているのに、ペテロは一生懸命網を洗っていた。ペテロという人は、神の言葉とか信仰とかいうものに対して、無関心または背を向けていたと思われる。俗物というか、魚一匹とるほうを大事とする態度がうかがえる。みんながイエスに神の言葉を求めている時に、彼は背を向けていた人物であった。

 神の言葉に背を向けていたペテロがどうして信仰に入り、イエスの弟子になったか、それは彼が、一つの事実に出会ったからである。ペテロたちは漁師だった。漁のことは専門家である。この湖で魚を獲ることで生活を立てている。そのペテロたちが一晩中網を打ったのだが、何も取れなかった。みんな不機嫌、黙って網を洗っていた。そこへ突然言われたのだ。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。冗談じゃないよ、見たらわかるだろう。自分たちがどんな思いで網を洗っているか。偉い先生かもしれないが、魚を取ることについて指示を言われたくはない。「夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」、という言葉にその気持ちが表れている。こんな日もある。いい日もあれば悪い日もある。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とペテロは言った。

 ぶつくさ言いながら、ペテロは仲間をうながし立ち上がった。彼らはこの先生を信じたのではない。この偉い先生に思い知らせてやろう、と考えたのかもしれない。おっしゃる通り沖に出て、ご指示に従って網を降ろしてみましょう。その上でカラの網を見せて、こう言ってやりたい。「ほうら、ごらんの通り。わかっていただけましたか、先生」。ペテロたちは信仰のゆえに従ったのではなく、不信仰のゆえに従ったというべきか。

 結果は思いもかけないものだった。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。ペテロたちは何にも期待していなかった。しかし、イエスに言われ、しぶしぶ「やってみた」のである。やってみると思いがけない収穫があった。この出来事はキリストの言葉と弟子たちの関わりを言っている。ペテロは、自分で考え決意して、「やってみた」のではない。キリストの言葉にうながされて「やってみた」のだ。不承不承。仕方なしに。腹を立てて。

 しかし、やってみると現実が動いた。動かないとあきらめていた現実が動いた。網が破れるほどの収穫。長い間漁師をしていた彼には考えられないことであり、人知をはるかに超えたものであった。人間の受け止め切れない祝福が与えられた。その時、彼は今までの意地を張っていた生活、むやみに反発していた生活が、いかに愚かなことであるかがわかった。その時ペテロは、自分の罪を認識した。罪を責められて自分の罪を認識したのではない。祝福を与えられて、自分の罪を知ったのである。「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」(8節)。

 信仰生活は、人知を超えた神の力、働きにふれることがなくては始まらない。そこから信仰は始まってくるのである。私たちが神を必要としているとか、信仰生活をするのが良いとか、そういうことが信仰の原動力ではない。神が私に迫ってきたから信仰せざるを得なくなる、そういうものが、私たちの中に起こされてくるところに信仰の原点がある。

 キリストの言葉は、私たちを祝福する言葉である。私たちの空虚を満たす言葉である。約束の言葉である。キリストの言葉に生きてみるとき、その言葉の威力を知る。その言葉の真実に目を開かれる。キリストの言葉に、魔術的な力があるわけではない。キリストの言葉には、その言葉を語る方が伴っていて下さるのである。キリストの言葉には生きておられるキリストが伴っていてくださるのである。だから言葉には力があるのだ。神の言は、ただそこに、たとえば石ころのように在るのではない。それは、私たちに語りかけられているのだ。キリストの約束の言葉、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」は、私たちに語りかけられている言葉である。

 では、いったいどうすれば、その変革に、また神に出会うことができるか。それは「しかし、お言葉ですから……そのとおりにする」ということに鍵がある。キリスト教はどこまでも約束の宗教であり、その約束を履行することが一番大事である。その通りしてみた時に、はじめて聖書の言葉が本当かうそかがわかる。日常性の諦めの中にとどまらず、やってみなければ始まらない。漕ぎ出してみるのだ。その言葉を聞いた者として生きてみるのだ。

 私たちは神の力を知らず、神の言葉を思想化し、観念化して、キリスト教の教えはこうだ、私たちはこうすべきだと言っているだけではだめである。神は生きておられる。神の約束には間違いはない。その通りにやってみるという信仰の飛躍、み言葉に聴従することによってのみ私たちの信仰は開かれていく。

 やってみる。一切は、そこから始まる。「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」(マタイ24~25)。やってみてはじめて身につくもの。その言葉を生きてみてその味わいの深まってくるもの。それが神の言葉である。

「そこで私に会う」 マタイによる福音書28章1~10節

 暗黒を引き裂くように朝の光が射し込む時、すべてが変えられるように、週の初めの朝早く墓に急いだ女性たちに、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(5-6節)という言葉が告げられる。新しい時が始まったのだ。これが復活の出来事。復活の出来事は天使によって告げられた。それは神からの宣言である。だから、それを私たちが証明したり理解しようとしてもできるものではない。私たちはただそれを聞き、承認して、受け入れるだけである。

 

 2節に「すると、大きな地震が起こった」とある。マグダラのマリヤたちは、誰が墓の石をのけてくれるだろうかと案じながら、イエスの遺体に香料を塗るために墓の所へ来たのだった。その時、石は地震によって転がされた。神は信じる者に対して、天を動かし、地を震わせて道を備えてくださるということをこのところから知ることができる。私たちにはもちろん天を動かすことも地を震わせることもできない。しかし神は、信仰生活をしていく上で妨げとなる石を取り去ってくださるのである。私たちは、何かをしようと思うのだが、あの石があるからできないと言うことが多い。しかし、神がおられる世界なら、心配することはない。私たちは人間の限界の中で物事を考えようとするが、私たちの信仰は、神の支配される世界の中でなされることであることを忘れてはいけない。

 

 10節に「ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう」とある。女性たちに語られた主イエスの言葉である。イエスは弟子たちにガリラヤに行けと言われた。ガリラヤは、弟子たちにとって故郷である。だからガリラヤに帰れというべきではないか。それをなぜ「帰れ」と言わずに「行け」と言われたのか。それはイエスの復活に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや帰る世界はなく、「行く」世界だけであるということではないだろうか。

 

 そしてガリラヤに行った弟子たちは、そこで待っていて下さった主イエスにお会いする。16,17節に「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた」とある。よみがえられた主イエスにお会いしながら、主イエスを礼拝しながら、弟子たちの中に疑いがあったのだ。福音書はそれを隠さず書く。しかし、その疑いを抱いた者たちが排除されたわけではない。その弟子たちに主イエスが近づかれるのである。およそすべての福音書の記述によれば、よみがえられた主イエスに弟子たちの方から近づいた記事はない。すべて主イエスの方から近づいてくださるのである。当惑する弟子たち、疑っている弟子たちに、主が近づいて声をかけてくださるのである。そしてご自身の復活の事実を明らかにしてくださる。このようにして確かな復活の信仰に根ざす教会の歴史が始まった。キリストの教会は、この主イエスの方から近づいてこられることの出来事を宣べ伝えてきた。私たちのところにも主が近づいて来て、疑いを取り去ってくださったのである。

 

 では、私たちにとってガリラヤとはどこか、ガリラヤへ行くとはどういうことだろうか。それは、私たちが復活の主に出会い、礼拝する場である。そして、その礼拝の場からすべての民へと遣わされていくのである。私たちはこの復活の主によって、遣わされる。そして復活された主は、いつも私たちと共にいてくださる。恐れず、喜んで主を証していこう。